惚れた欲目を差し引いても



世界中から音楽家を集め、数年に一度行われるという音楽祭へ招待され、香穂子と共にヨーロッパのある都市を訪れていた。器楽だけでなく室内楽、声楽にオペラやオーケストラまで・・・一週間に及ぶ音楽祭の期間、街の至る所でコンサートが連日行われる。

ヴァイオリンのコンサートをする事になった俺の出番は、週の中頃と最終日。リハーサルや出番の無い日は、香穂子と一緒に他のコンサートを堪能したり、中世の面影を色濃く残す街を散策する旅の時間だ。宿泊先のホテルへ荷物を置き散策に出れば、溢れる熱気と音楽に包まれ、隣を歩く香穂子が目を輝かせた。

景色の中へ溶けみ、敷き詰められた石畳を歩けば、街角で奏でる辻音楽師のヴァイオリンが楽しげに響いてきた。石畳にコツコツとヒールの音を鳴らす君が、笑顔で奏でるハーモニー。心が躍り、俺も早く奏でたい・・・そう思えてくる。パンフレットやコンサートスケジュールを片手に、嬉しさを押さえきれずきょろきょろと周囲を見渡す君に、自然と頬が綻んでくるのが分かるんだ。


どこへ行こうか? コンサートも良いけれど、景色の綺麗な公園で君と二人、ヴァイオリンを奏でるのもいいかも知れないな。


街のどこへ行っても音楽があり、誰もが音楽を愛し、日々の暮らしが音色と共にある・・・。
良い街だな・・・そう香穂子に微笑めば、「私たちの家と同じだね」と振り仰ぐ笑顔が優しく染み込み、俺を包み込む。心地良く満ち足りたものに感じるのは、隣に大切な君がいるからだろう。
俺たち二人で歩む暮らしに温かさを感じるから・・・何よりも、俺の音楽は君無しでは語れないから。



*  *  *  *



「ん〜っ、朝ご飯がとっても美味しいね。家でも美味しいけど、旅先のご飯はやっぱり特別なの。お部屋が素敵なホテルはレストランも素敵! しかもブッフェだから、どれを食べようか迷っちゃう」
「香穂子の皿は宝箱みたいだな。いろいろな料理が一つの皿に盛られ、彩り豊かに輝いている・・・君の音色みたいに」
「私ね、ブッフェの料理を食べるときは、まずどんな料理が並んでいるか、ぐるっと回って下見をするの。お皿にどう盛りつけようか・・・どんなコースを組もうかって考えながら選ぶのが楽しいよね」
「ヴァイオリンで曲を弾くときに、曲想を練るのに似ているな」
「蓮もそう思う? 音楽祭で賑わう街で素敵な音楽に触れると、自分の中にある音の世界が、どんどん広がっていくのが楽しくてワクワクするの。それだけじゃなくてね、美味しい料理を食べるのも私には勉強なんだよ。もっと美味しい料理を蓮に毎日作りたいから」


真っ白いテーブルクロスの上には、ブッフェ台から取り置いた料理の皿が並んでいる。俺の分はシリアルとヨーグルトだけだが、香穂子はサラダから卵料理、ハムにベーコン、ポテトにパンなど。冷たい物から温かい料理まで実に綺麗に盛りつけられていた。


朝食には遅い時間だったこともあり、混み具合が去った店内は人もまばらで落ち着いている。品の良いヨーロッパ家具のインテリアと洗練されたサービス。そして大きく開放的な窓から差し込む光と、窓の外には緑溢れる庭の景色が広がっていた。料理だけでなく、景色や空間も一緒に味わえるのは最高のご馳走だねと・・・。頬を綻ばせる君の笑顔が、俺にとっては最高のご馳走だ。


「どれも美味しそうだから、あれもこれもとつい手が伸びちゃうの。食いしん坊って言わないでね。だって朝から・・・うぅん、昨夜からたくさん蓮と一緒に動いたし、とってもお腹が減ったんだもの。ねぇ蓮、見てみて。フワフワのオムレツを目の前で焼いてくれたんだよ。チーズがたっぷり入ってトロトロなの〜!」


家に帰ったら作ってみようかなとそう言って、香穂子は旅番組のレポーターのように、焼きたてのオムレツから蕩け出すチーズを嬉しそうに披露してくれる。数時間前までは君も俺も蕩けていたな・・・熱さに包まれ同じように。ふいに思い出してしまう自分を戒め、紅茶のカップを手に取る自分の頬が熱い。


気付かれないようにカップの隙間から伺う君は、美味しいねと満面の笑みで卵料理を頬張っていて。熱い夜の名残で少し遅く目覚めた朝にも関わらず、美味しい料理を前にご機嫌だ。すっかり目覚めた君は、絞りたてのオレンジジュースのように太陽の輝きを灯している。


「朝は部屋でゆっくり過ごそう・・・そう話していたからルームサービスを頼む予定だっが、起きてきて良かったな。嬉しそうな君の笑顔を見ることが出来たから」
「もう〜蓮ってば、忘れてるでしょう? お部屋が散らかって恥ずかしかったら、ルームサービスをやめてレストランに来たんだからね」


サラダボウルをつついていた香穂子が、ぷぅっと頬を膨らませ、向かい側に座る俺を睨んでくる。フォークの先に刺さっている、ミニトマトのように赤くて愛らしい頬で。愛しさが募れど威嚇の効果は全くない・・・拗ねる君も可愛いと思うんだ。だが言葉にしたらもっと拗ねてしまうだろうから、真摯に謝り胸の奥へしまい込もう。


フォークを口に運び、ぱくりとミニトマトを頬張る君は、口の中に広がる瑞々しさに頬を緩めるが、慌てて引き締め俺を睨むことを忘れない。乱れていたのは部屋というより、ベッドの上なんだが・・・まぁどちらも同じ意味だろう。波打つ白いシーツの海と熱い空気が満ちる部屋・・・。リビングとベッドルームが別になっていれば、隠せるけれど一般の客室ならそうもいかないから。


ルームサービス運んでくるホテルのボーイに、乱れた部屋を一瞬でも見られるのは照れ臭い。それにシーツに埋もれたまま蕩ける君を、誰の目にも晒したくなくて。結局頼んでいたルームサービスはキャンセルし、シャワーを浴びた後に身支度を調えレストランへ降りてきたんだ。


「・・・すまない。演奏会とはいえ、香穂子と二人で旅をするのは久しぶりだから・・・その、気分が高まってしまったのだろうか」
「・・・蓮は、お家でも情熱的だよ・・・・・」
「・・・・・・・」


きょろきょろ周りを伺い誰もいない事を確認すると、口元に手を添えながら、内緒話をするように身を乗り出してきた。囁き声を求めて耳を寄せれば、熱い吐息に鼓動が早まり、蘇る熱いひとときに頬が火照り出すのを感じる。

火を噴き出しそうになっている今の俺ば、きっとそわそわ肩を揺らす君と同じように、赤くなっているのだろうな。共に暮らし過ごす時間を重ねても、変わらないのは君を求め恋する心。もどかしいような甘酸っぱさが、俺と俺と君を震わせるんだ。


収まった筈なのに、身体が熱くなってしまう・・・とにかく落ち着かなければ。小さなボウルに残ったヨーグルトをスプーンですくえば、チリンと涼しげな音色が響く。口の中に広がる心地良い冷たさと酸味が熱を沈め、ミルクの優しさが穏やかな空気を運んでくれる・・・そんな気がする。






チリチリと食器たちの囁きだけが聞こえる沈黙の中で、ふと交わる視線が照れ臭い。どちらともなく自然に頬や瞳が緩み、はにかんだくすぐったい微笑みが浮かぶ。皿が空になった所で紅茶のカップへ手を伸ばすと、興味津々に瞳を輝かせた香穂子が身を乗り出してきた。


「ねっねっ、美味しかった?」
「・・・は?」
「私ね、蓮が美味しかったって言ってくれたら、もっと食べたいなって思うの」
「・・・・・・・」


美味しい・・・とは、君の事だろうか? もちろん美味しかった。
だから何度でも食べたいと思うんだ。

美味しいと言ったら、また君を食べても良いのなら、俺の答えはただ一つ。
甘い誘いに理性の壁は脆くも揺らぎ始め、握り締めて耐える拳の中にじんわり汗が滲み始めた。
だが言葉には出来ずにいると、勘良く察したらしい香穂子が、頬を膨らませ再び真っ赤に染まり出す。


「あっ。蓮ってば、ほっぺ赤くなった! もしかして、エッチな事考えてたんでしょう?」
「なっ!? ち、違う・・・俺はただ香穂子の事を・・・」
「ほ〜らやっぱり! 私は、蓮が食べているヨーグルトの味を知りたかったのに」
「すまない・・・勘違いした。香穂子は凄いな、俺が何も言わずに分かるなんて」
「そりゃ〜夫婦だもん、蓮の事大好きだから分かるの。蓮だって私の事、私以上に理解してくれるのが凄いなって思うの。言葉だけじゃなく音楽とかキスとか、心でたくさんお話し出来るって素敵だよね。蓮は嘘付けないから、表情でも言葉を語っているんだよ。気付いてた?」


ね?と愛らしく小首を傾け、ふふっと悪戯な笑みを零した君も、真っ直ぐで嘘がつけないのだと気付いているだろうか。白いテーブルクロスたちが、窓から差し込む光を受けて輝いてる・・・まるで君の笑顔のように。


「そうだな・・・俺にはちょうど良いが、甘い物が好きな君には少し酸味が強いかもしれないな。ジャムやフルーツを添えたら良いと思う」
「本当!? じゃぁ食後のデザート用に、お代わりしてこようかな。私も同じ物が食べたくなったの。ねぇ、蓮はシリアルとヨーグルトだけで平気? でも久しぶりに見る、蓮の朝ご飯って感じがするね」
「あぁ、君を食べて心もお腹もいっぱいだから。それに、美味しそうに食べている君を眺めているのも楽しいんだ。並ぶ料理たちは確かに美味しそうだと思うんだが、あまり興味が無いというか・・・。俺は香穂子の手料理が一番好きだ。どんなシェフにも敵わないと思う。旅先では食べられないのが残念だなと、そう思っていたんだ」
「蓮・・・褒めすぎだよ。ここのレストラン、ヨーロッパでも屈指の三つ星なんだよ?」
「そうだったのか? ・・・知らなかった。俺は、香穂子の方が数倍も美味しいと思う」


ここが三つ星なら、香穂子は宇宙の星を集めても足りない・・・。至極真面目にそう言ったら、組んだ手をもじもじと弄りながら、照れ臭そうに俯いてしまう。

美味しいと思うのは惚れた欲目でもなく、本当にそう思うから。温かい料理に込められた君の想いが、更に心の底から温めてくれる。俺の事を考えて手間をかけてくれる心遣いが嬉しくて、美味しい料理に会話も笑顔も弾む。君と海を離れ一人で過ごしていた時には、必要なものとしか思えなかったけれど。食事が俺にとって大切な時間になったのは、大切な人と一緒に食事を囲める幸せを君が教えてくれたからだ。


「ありがとう、蓮の気持ちがすごく嬉しい。ヴァイオリンだけじゃなくて、お料理も頑張るよ。ヴァイオリンの演奏は優雅な見た目よりも体力使うし、激しい全身運動でしょう? 良い演奏する為にもしっかりバランス良く栄養付けて欲しいなって想いながら作ってるんだよ」
「今は香穂子が作ってくれるから、いろいろと食べるようになったな。大切な人が心を込めて作ってくれた温かい食事を、一緒に食べる・・・。他の人には当たり前でも、俺にはとても大切で幸せだ・・・ありがとう」
「今日はこれから蓮のコンサートがあるから、ハートだけじゃなくてお腹もしっかり食べて欲しいのになぁ。じゃぁフルーツ取ってくるから一緒に食べよう? あ、そうだ! 私が料理をしてあげるよ」
「料理? どうやって?」


ブッフェ台に料理が並んでいるレストランで、どう料理をするのだろうか。まさか厨房を借りる訳にはいかないし・・・想像が付かない。眉を寄せつつ考えを巡らせていると、椅子から立ち上がった君は、軽やかに俺の隣へ駆け寄ってくる。テーブルの上に組んだ手に重ね、ふわりと包む柔らかな温もりに振り仰ぐと、真っ直ぐに煌めく瞳が俺を映していた。一瞬で捕らわれ、吸い込まれそうになる・・・この身も心も。


「ここに並んでいるお料理を使って、私が蓮の為にお料理をするの。サラダとふわふわのパンと卵と・・・あとカリカリのベーコンでサンドイッチが出来そうだよね。ちょっと待っててね、私取ってくる!」
「・・・香穂子、待ってくれ」
「蓮、どうしたの? やっぱりお腹いっぱい?」
「いや・・・その、俺も一緒に行こう」
「うん! 蓮が好きなのを選んでくれたら、きっと美味しいものが出来るよね」


包んだ手をきゅっと握り締め、元気に駆け出してゆく。慌てて立ち上がり香穂子の背中に声をかけると、立ち止まった君がきょとんと不思議そうに振り返った。俺も行こう、君と共に・・・受けとめた想いを胸に抱きながら見つめ返すと、満開の笑顔が花開いた。君だけでなく、隣に並んで歩き出す俺の心にも鮮やかに。



世界で一番美味しい料理を作るのはと問われたら、間違いなく君だと俺は答えるだろう。
心の栄養、そして君の手料理。だが君自身が甘いご馳走だという事は、後でゆっくり腕の中で語ることにしようか。今日は最高の演奏が出来そうだな。


君の事を大好きだと想う度に、胸いっぱい愛しさが広がってゆく。
水面に綺麗な波紋が広がるように、あっという間に俺は、嬉しさと幸せに包まれるんだ。
真っ直ぐな言葉や行動で想いを届けてくれる君に、俺も届けたい・・・この胸に沸く溢れる想いを音色に込めて。