Honny Moon

「ねぇ、蓮・・・」
「どうしたんだ、香穂子」


ソファーに並んで座り一緒にTVを見ていた筈なのだが、何か思いついたように突然立ち上がり、香穂子が勢
い良くリビングを飛び出して行ったのは、つい先程だった。

一体彼女に何があったのかと、声をかける間もなく呆然と背中を見送ってから、僅か数分後。
息を切らせて再び駆け戻ってきた彼女が、クイズのように俺に問いかけてきた。
座ったソファーに手を付いて身を乗り出しつつ、ワクワクした気持を顔いっぱいに表しながら。


「入籍もしたし結婚式も無事に済んだし。久しぶりの日本に帰って、蓮と二人っきりで新婚生活を過ごせるの、とっても幸せなんだけど・・・。私達にやり残しというか、まだ足りないもがあると思わない?」
「足りないもの?」


婚姻に関わる諸手続きは、日本も生活の拠点としているドイツも両方全て済んだ筈だし、挙式も披露宴も先日行ったばかりだ。お世話になった人や親しい人への挨拶回りも、君と二人で訪ねたし。
まだ何かあったのだろうか。その他にやり残した事・・・足りないものとは何だろう?
やっと慌しさから解放されて、君とゆっくり過ごせる日が戻ったと、そう思っていたのに。


夜のこと・・・ではないな・・・・。
俺としては、まだ足りないものだけれども・・・。


考え込む俺に対して香穂子は、分からないの?と困った表情を浮かべている。
すまない・・・降参だ。
内心焦りを覚えつつそう言うと、見上げる大きな瞳にねだるような甘さを湛えて、じっと見つめてきた。


「新婚旅行に行きたいな」
「あ・・・新婚旅行! そういえば、まだ決めていなかったな。済まなかった、大切な事を忘れていて」
「うぅん、気にしないで。私も、ついさっき思い出したの」
「今までお互い慌しくて、旅行の事まで考えるどころじゃなかったしな」
「蓮の仕事の休みがゆっくり取れる、夏のバカンスまで待ってもいいんだけど。折角だから、日本でのんびり出来る今のうちにって思ったの。どうかな?」
「いいんじゃないか、俺も君の意見に賛成だ」


やった〜、蓮と一緒に旅行〜!と手を叩きながら、喜びいっぱい嬉しそうにはしゃぐ香穂子を見るうちに、俺も心の底から嬉しさが込み上げてくる。緩む目元と頬を押さえられずに傍らの彼女を見守っていると、背中に隠していた数冊の旅行雑誌やパンフレットを、いそいそと出して俺に差し出した。

慌ててリビングを駆け出していったのは、これを取りに行く為だったのか。


「でね私、温泉に行きたい。温泉! 綺麗な景色が眺められる露天風呂があって、美味しいお料理が食べられるところ! 自然を満喫しながら二人でのんびりするの!」
「は? 温泉!?」
「うん!」


嬉しそうに、力いっぱい頷いて。
どうやら先程一緒に見ていたテレビの影響だろうか、ちょうど見ていたのが旅行番組だったから。
レポータが届ける臨場感溢れる各地の温泉宿の情報を、食い入るように画面に魅入っていた瞳と、今俺に向けているキラキラ輝く彼女の瞳は、まさに同じもの。旅行のパンフレットのページを繰りながら、湯煙上げる露天風呂や、豪華に居並ぶ料理の写真を眺める香穂子の心は、既に彼の地へと飛んでいるようだ。


しかし新婚旅行と言うと、普段行く事が出来ない遠くの外国に、二人でのんびり旅行するイメージがあるのだが・・・。もちろん国内も悪くないし、逆に新鮮な気もしてくる。
それに君と二人で国内を旅行した事は、まだ一度も無かったように思う。
またお互いに高校生たっだから外泊は出来なかったし、卒業したら俺は留学してしまったから。


そんな俺の考えが、どうやら彼女にも伝わったらしい。広げていた雑誌を膝の上に置くと、無邪気にはしゃいでいた表情を、ふわりと柔らかい微笑に変えて見上げてきた。


「音楽にまつわるところがいいかなって思ったけど、イタリアとかスペインとかは、蓮がゆっくり休める夏のバカンスに取って起きたいし。ドイツはいつも暮らしているから、すぐに行けるでしょう? その他にも一緒に暮らしていた間に、コンサートや蓮のお仕事とかで、ヨーロッパはいろんな所に連れて行ってくれたじゃない」
「今は帰国しているけれども、普段俺達が生活している場所が既に外国だからな」
「そう。だからね、逆に普段なかなか行けない所ってどこだろう?って考えたら、自分の生まれた国だったの。しばらくずっと行って無かったし、つい懐かしくなっちゃってね」


新婚旅行にしては、ささやかだけど。
そう言って小さくはにかむ香穂子に、返事の変わりに想いを込めて微笑みかけた。
日本が懐かしくなる・・・大切にしたいと、遠く故郷を離れて初めて感じるその気持は、俺も良く分かるから。


「俺は君となら、どこでも構わない。大切なのは、訪れる場所よりも、君と一緒にいられることだから」
「嬉しい・・・。何かくすぐったいけれども、温かくって幸せだな・・・心がポカポカする。私もね、それ思ったの」


頬を赤く染めながら照れくささを隠すように俯くと、座る距離を詰めてピタリと身体を寄せ、甘えるように肩へと擦り寄ってくる。香穂子が纏う優しい春のような香りがふわりと漂い、俺を包み込んだ。柔らかさと温かさがもたらす安らぎと心地良さに満たされながら、彼女の華奢な腰に腕を回してそっと引き寄せた。
君が俺を包んでくれるように、俺も君を包み込めたらいいと想いながら・・・。







大人しく身体を預けてくる彼女の髪に、顔を埋めるように頭をもたれかけさせ、耳元で優しく語りかけると、くすっぐたさに身を捩りつつ、小さく笑った。膝の上に置いていた雑誌をパラパラと捲り、付箋を付けていたページを差し出してくる。受け取ると、見開きいっぱいの写真と共に掲載されていたのは、一軒の温泉旅館だった。


「香穂子は、どこか行きたい場所があるのか?」
「うん! あのね、ずっと前から気になっていた素敵なお宿があって・・・ここ、このページ。ほら見て、女の人だけじゃなくて男の人も浴衣が選べるんだよ。タオルとか歯ブラシも4色の中から選べて。この小さい藤の籠に入った一人分のお風呂セットが、すごく可愛いの〜!」
「・・・アメニティーが充実しているんだな」


客室には香穂子の好きなアロマキャンドルまで備えてあり、持ち帰りもできるようだ。差し出された雑誌を受け取って写真や文章を見れば、他にも女性を意識した細かいサービスが書かれている。彼女が目を輝かせるのも無理は無いと、楽しそうな横顔を微笑ましく見つめてしまう。


「温泉行ったら、3回は入らなきゃだよね」
「そんなに入るのか?」
「えっ!? だって着いたら夕御飯前に入るでしょう、寝る前にも入るでしょう? 朝の露天風呂も外せないし。いっぱい入れば心も身体も、温泉できれいになれるよ」


指折り数えて、ほら3回と、可愛らしい指を向けてくる。
とういう事はまさか俺も3回入るのだろうか・・・と眉を少しだけ潜めれば、私は入るけど蓮は朝弱いから無理しなくていいからね、と言いながら。
そう言われたら、俺も早起きしない訳にはいかないじゃないか。


「あ、でも。やっぱり温泉は駄目かも・・・・」
「どうして?」
「カップル向けじゃ無い気がするもの。だって温泉は男女別々だし、一緒にいられるのはお部屋の中だけじゃない。私いつもお風呂は長いから、宿にいられる半分の時間は一人ぼっちだよ」


嬉しそうにはしゃいでいたのに、う〜ん残念と悲しそうに呟いて項垂れ、急にしゅんとしてしまう。
半分とは大げさな気もするが・・・確かに。君を待つ間に一人は、俺も寂しい。
それよりも悲しそうな君を見るのが辛くて、何とかならないものかと思えてしまう。
でも肝心な事を忘れていると言うか、他に良い方法がある気もするが。

ふと手元の雑誌に目を落として次のページを捲ると、今まで見落としていた部屋の設備や宿の全体図が掲載されていた。香穂子に連られてアメニティーや料理しか見ていなかったが、なる程・・・そういう事だったのか。






「香穂子は、俺と一緒に温泉に入れればいいのか?」
「もう〜蓮ってば、何もストレートに言わなくても! あの、別にそんなんじゃ・・・えっと・・・」
「この旅館、一棟一棟が独立した純和風の離れになっているんだな。手入れの行き届いた日本庭園が、離れの周りを囲んでいる。ちゃんと各棟ごとに、露天風呂もついているぞ」
「えっ!? あ、本当だ! やだ私ったら、次のページまで見逃してた。だったら尚更!・・・えっと、あの・・・・」


俯いていた顔をぱっと上げたものの、急に火を噴いたように真っ赤に染めて、言葉を詰まらせ口篭りながらうろたえた。意識しないようにすればする程、彼女の熱が俺にまで移って顔に熱さを感じ、困った事に鼓動が高鳴ってくる。


旅館の離れの構造はベットを使用した寝室が一部屋と、リビングを兼ねた和室が二部屋。檜作りの内風呂の他に、自然と一体となった日本庭園が望める、黒い御影石で作られた部屋付きの大きな露天風呂。食事は別棟の料亭へという事らしい。プライベート感を重視しており、まさに二人で過ごすには丁度良く。 密かに人気がある・・・というのも頷ける。

温泉に行くならこの旅館と言っていた香穂子は、きっとそこまで深く意識していなかっただろうが、これは果たして偶然なのだろうか。



俺としては正直その方がいい・・・というか願ったりなんだが。

恥ずかしがる気持も分かるし、君の初々しさが堪らなく愛しいのだけれど。
今更・・・というか、俺達はもう夫婦なんだし。
君がなんと言おうが、俺はもう決めたから。



想いを馳せて雑誌を読みふけっていると、手元から突然読んでいた筈の雑誌がパッと消え去った。
ふと視線をやれば、勢い良く俺の手から奪い去った香穂子が、真っ赤に染めた顔のまま息を弾ませている。


「香穂子・・・。俺が読んでいたのに、いきなり取り上げるなんて酷いじゃないか」
「蓮、ごめんね。やっぱり、温泉は却下!」
「どうして?」
「旅行は夏のバカンスまで待つよ。それでねイタリア行こう、イタリア。私たちヴァイオリニストだから、例えばパガニーニの故郷と足跡を辿る旅とか。素敵じゃない? うん、そうしようよ!」
「待ってくれ、香穂子」
「・・・・・・っきゃっ!」



俺の気を逸らそうとする君の努力と、プランは魅力的だけれども・・・。

慌てて立ち上がり、立ち去ろうとする彼女の腕を掴んで強く引き戻す。反動でよろけた身体を受け止めつつ、俺の膝の間へ座らせると、身体全体で閉じ込めるように背後から抱きすくめた。

放して〜!と、首まで赤く染めて身動ぎする香穂子を、両膝と片腕で難無く封じ込めると、非難を向ける大きな瞳にニコリと笑みを向けて、奪われた雑誌を取り戻す。彼女の手が届かないようにソファーの傍らに置き、付箋の貼られたページを開くと、ポケットから携帯電話を取り出した。


「ちょっと、蓮! 携帯取り出して、何する気って・・・まさか!」


肩越しに振り返ると、驚きに大きく目を見開き、俺の携帯を奪おうと必死にもがいて手を伸ばそうとする。
そう、そのまさか。さすが香穂子、俺の考えが分かったようだ。


「この先いつ日本に戻ってこれるか分からないんだ。もちろんイタリアは、香穂子の言うように、夏のバカンスに休みを取るから待っていてくれ」
「うん、だから今はお家でのんびりしよう?」
「香穂子は、温泉に行きたかったんだろう? 俺も行きたいと思っていたから、君の気が変わらないうちに、予約をしようと思って」
「この宿、たっ・・・高そうだから、普通の温泉でいい」
「気にしないでくれ、新婚旅行なんだから」


交わされる会話の合間に繰り広げられるのは、携帯電話の奪い合い。
君も必死だが、俺も必死。
腕の中でもがく香穂子を強く片腕で抱き締めつつ、電話を奪われないように顔を背けて腕を遠ざけながら、片手で雑誌に書かれた旅館の番号を押していく。


今は羞恥心が勝っているが、本当は心の底では行きたいと願っているはずだ。
さっきまでの嬉しそうな笑顔が、俺に君の想いを伝えてきた。
それにドイツにいる間から、寒くなるたびに懐かしそうに目を細め、時折ふと言葉を漏らしていたのだから。
こんな事で、君に後悔はさせたくない。


「香穂子、電話中なんだ。頼むから少しの間だけ、黙っていてくれ」


耳に熱く吐息を吹き込んで、舌を這わせながら唇で耳朶を甘く噛む。
すると激しくもがいていた動きをピタリと止め、力の抜けた人形のようにくたりと、俺の胸に身体を預けてくる。
多少荒いやり方ですまないな、と言葉の代わりに背中から顔を寄せて、頬に軽くキスをした。







予約の電話を終えて携帯電話を切り、ポケットに仕舞うと、両手で俺の膝の間にすっぽり大人しく収まる香穂子を、優しく抱き締めた。


「もう、決めたから」
「決めたって・・・・・。蓮ってば、勝手に電話しちゃうんだから・・・」
「急なキャンセルが出たとかで、無事に予約が出来た。良かったな、普段は数ヶ月先まで満室が続くらしい。予約係の人も、運がいいと言っていた」


すっかり拗ねてしまったようで、赤く染めた頬を膨らませ、上目遣いで俺を睨みながら肩越しに見上げてくる。
愛しさがより募ればこそで、威嚇している効果は全く無いのだが、言ってしまえば可愛らしい顔が見られなくなるから秘密にしておこう。


「二人きりでのんびりと、そう言ったのは君だろう? ここならずっと一緒にいられる・・・・。朝は苦手だが、香穂子の為だ。頑張って早起きするよ」
「やっ・・・そんな事言って蓮ってば、絶対に私を動けなくさせるんだから! 温泉入れなくなっちゃう!」
「大丈夫、離れには温泉を引いた檜の内風呂も、御影石の大きな露天風呂も両方あるそうだから。部屋から君を運ぶ事くらい、俺には造作もない。安心してくれ」


収まりかけた熱が再び噴出したようで、顔どころが耳や首筋まで真っ赤に染めて。
恥ずかしさの余りか目を見開いたまま言葉を失っていたが、やがて観念したのか、小さく溜息を吐いた。
前に回された俺の腕に自分の腕を重ねて、ふわりと柔らかい微笑を向けてくる。


「蓮、ありがとう・・・。本当はずっと行きたいな〜って思ってたから。いつも素直になれなくて、ごめんね」
「恥ずかしがり屋の君も、拗ねる君も・・・少し強がりなところも。俺は全部含めて、香穂子が大好きだから」
「私も、広くて温かくて、こんな私を許してくれる、優しい蓮が大好きだよ。後ね、予約の名前・・・夫婦ですって言ってたでしょう? 月森蓮と、妻の月森香穂子ですって」
「あぁ・・・」
「側で聞いてて、すごく嬉しかった。ちょっと恥ずかしいけれど、楽しみにしてるね」
「たまには音楽の事を離れて、気晴らしもいいだろう? と言っても、つい考えてしまうんだろうけれど」
「二人っきりで、夫婦水入らず。想い出に残る、素敵な旅にしようね」


すぐ目の前にある彼女の髪に顔を埋め、抱き締める腕に力を込めて引き寄せながら、背後から包む身体を寄りかかるように少しだけ前に傾ける。
君の全てを丸ごと飲み込んで、俺の中に閉じ込めてしまうように・・・・。
クスクスと楽しそうな笑い声が聞こえてきて、風のように耳をくすぐり、心地良く振動が全身に響き渡る。





大切なのは、君と一緒にいられるという事。
何処でも構わない、そう言ったけれども、やはり訪れる場所も大切だなと思う。
一緒にいられるのなら誰にも邪魔されずに、二人っきりでいたいから。

何もかも忘れて、君だけを考えながら。
君を俺だけのものに・・・ずっと腕の中に閉じ込めていられる場所を・・・・・。







●あとがき●
カウンター1万5000打のキリリク創作です。踏んで頂いたmomoさんからのリクエストは「新婚旅行」。
場所は何処でもいいと言う事だったので、温泉です。私が行きたかっただけ、という気もしますが(笑)。忙しくて長期の休みが取れなかった会社の同僚が、実際に新婚旅行でこんな豪華な温泉に行ったそうで、頂いたお土産食べながら書きました。

旅行に行く前に計画だけで終わってしまいましたが、ご希望に添えましたでしょうか・・・(ドキドキ・汗)。外国暮らしが長いと日本のものが、無性に懐かしくなったりしたので。彼らもきっとそうかな・・・と思ったりしました。
二人にとって、一体どんな旅になるのでしょうね〜v

momoさんに限りお持ち帰り可とさせて頂きます。リクエストありがとうございました!