ほんのささやかな口付けを




港沿いにある大きなショッピングモールに併設されたシネマコンプレックスは、この地区最多のスクリーンと座席数を誇る映画館だ。話題の大作から単館上映でやるような、個性的なミニシアターまでたくさんの作品を上映している。上映が始まる前の映画館の薄明るい館内は、人の出入りも多く、少しだけざわめいていて。誰もがこれから始まる作品への期待を、隣同士だけで聞こえる密やかなざわめきに変えていた。


「香穂子、お待たせ。オレンジジュースで良かったよな」
「うん、ありがとう! えっと、お財布出さなくちゃ・・・」
「いいって、今日は俺のおごり。キャラメルポップコーンも買ってきたから、一緒に食おうぜ」
「ありがとう、桐也。う〜ん、甘くて香ばしい香りがするね。美味しそう!」
「あんた、食べたがってただろ。映画見ようって決めたときにさ、何がいい?って俺が聞いたら香穂子ってば、キャラメルポップコーンが食べたいって、真っ先に言うんだもんな。俺は、どの映画がみたいのかって、聞いたつもりだったのに」
「もう、笑わないで!どうせ食いしん坊ですよーだ」


ぷうと頬を膨らました香穂子の隣に座った衛藤が、機嫌直せよと困ったように微笑みながら、身を乗り出すように顔を覗き込む。ドリンクを肘掛けのホルダーに入れると、ポップコーンの大きなカップから摘んだ一粒を、香穂子の口元へそっと運んだ。ほら、あ〜ん・・・と、鼻先が触れ合う近さで囁きかけられたら、指先とキャラメルの甘い香りに誘われ、大人しく素直に口を開けてしまう。でもあと少しのところで止まっったあんたは、本当はすぐ欲しいのに、上目遣いで。


「でも、恥ずかしいよ」
「このシネコン、どの席からも見やすいように傾斜があるし、椅子の背もたれは頭の高さまである。前の席からは振り向けないし、この列に座っているのは俺達だけだから、安心していいよ。ほら、食べないの?」
「じゃぁ、素早くそっとね。んっ・・・おいしい!」
「だろ? 良かった、いつもの香穂子に戻って。あんたが美味しい物食べてる顔、可愛いから好きだぜ」


初めはきょろきょろと周りを見渡していた香穂子もひな鳥のように小さく口を開けて、ぱくりと食いついたポップコーンを、カリカリ食べる音が楽しげに心へ響く。 シネコンの中でも小さめの部屋だから、見やすさを考慮して座席は一番後ろ。

ここで良かったの?と小首を傾げる香穂子に、後を気にしなくていいだろ・・・と衛藤が笑みを向ければ、暗い中で悪戯しちゃ駄目だからね!と香穂子が釘をさすのも忘れない。一番後の席だから、こうして食べさせあえるんだぜ? 


「真ん中に置いたけど、肘掛け小さめだから安定悪いな。食べるときひっくり返さないように、気をつけろよ」
「ふふっ・・・私ね、桐也が売店行ってる間に、凄い発見しちゃったの」
「何を見つけたんだ? ずいぶんと嬉しそうじゃん」
「桐也は知ってた? ここの映画館、肘掛けを後に倒すことができるんだよ。何度か来ていたけど、初めて気付いたの。ドリンクは手に持てば平気だから、桐也との真ん中をこうして後に起こせば・・・ほら! カップルシートのできあがり」
「へぇ〜気が利くじゃん、この映画館」


ホルダーに差し込んでいたドリンクを取り出した香穂子が、片手でいそいそと肘掛けを背後に倒し、仕切りを取り払う。桐也が近くなったと無邪気に喜ぶ満面の笑顔が、先程よりもぐっと近づき、肩先へ甘えるようにコツンと寄りかかった。
受け止める小さな重みと温もり・・・ずっと触れていたい俺の大切な宝物。肘掛け一つ分の境目さえもどかしいと感じていた、自分の心があんたにそのまま伝わったのかと思ったぜ。


「ねぇ桐也、本当に良かったの?」
「良かったって、何が?」
「桐也は他に観たい映画があったのに、私の希望に合わせてくれたから・・・。前にも言ってたじゃない、趣味が合うなら一緒に映画でも行こうぜって。桐也が観たいホラー映画と、私が観たいほのぼの映画は違うもん。興味ないと、つまらないでしょ」
「なんだ、そんなこと気にしてたのか。あんた怖いの苦手だろ、泣かしたくないし、無理して欲しくないんだ。駄目なら駄目って、ちゃんと最初に言えよな。この前一緒にホラー映画観たとき、俺そうとう焦ってたんだぜ。家に帰ってからも、ちゃんと眠れたか心配だったし」


あんたに泣かれると、どうしたらいいか分かんなくて・・・困る。俺だけにしか見せない特別な顔、あんたの綺麗な涙にそうとう弱いらしいぜ。傍にいたら、すぐにでも抱き締めたくなるんだ。肩先でふり仰ぐ香穂子を真っ直ぐ見つめながら、肩をそっと抱き寄せそう告げると、香穂子はふと視線を逸らし俯いてしまう。

桃色に染まった頬。照れ臭さを誤魔化すように、キャラメルポップコーンを指で弄り始めた。カサカサ・・・カップの中で響くのは、小さな囁き声で交わす、心を託した指先と甘いポップコーンの会話。


あの時は確か、学院の理事長を務める従兄弟から「私には必要ない物だ、お前にやろう」とそう譲り受けたのは、映画のチケットが二枚。封切り前から俺が注目していた映画だった嬉しさに、香穂子も誘って観たのは良いけれど、怖さに耐えきれず目を瞑ったり耳を塞いだり。それでも耐えられなかったのか、最後には泣き出してしまったんだ。

相当怖かったのか映画を見終わった後も暫く泣きやまず、握り締めたハンカチを口元に押し当てながら嗚咽を堪えていた。あんたには黙っていたけど、その光景を偶然目撃したクラスメイトからは、喧嘩してた・・・俺が泣かしたと翌日に攻められたんだぜ。


「俺も一緒に観たいんだ。あんたが好きなものを、もっとたくさん知りたいって思う。香穂子なら恋愛ものとか、可愛い動物ものが好きだろうって、予想付いてたから別に驚かなかったし。ちゃんと上映時間も、リサーチ済みだったろ?」
「ありがとう、桐也。この間は心配かけてごめんね。私も頑張って、桐也が好きなホラー映画とかを一緒に観られるようになりたいな。アクションものは大丈夫そうなんだけど・・・」
「サンキュ、香穂子。気持ちだけですごく嬉しい、無理しなくてイイよ。あんたが夜に眠れなくなったら困るし、俺もあんたが心配で眠れなくなりそうだからさ」


家まで送り届ける間もピッタリ傍を離れず、手をぎゅっと握り締めていて。眠る前に交わした電話に聞こえたのは「耳を塞いでも悲鳴が耳に残っているの、一人になったら思い出しちゃったよ・・・」と涙を零しているのが明らかに分かる、鼻をすする声。俺が付いてるから安心しな、そう何度も電話越しに励ましたけれど、俺の方も激しく心乱れていたよ。
本当はすぐにでも、この腕の中へ抱き締めたかったんだ。


「私ね、この映画が観たかったの。牧場を抜け出した子豚さんと、迷子の子犬が力を合わせてニューヨークを大冒険するお話しなんだよ。この子たちがね、お互いに好き合っているんだけど勇気が出せないでいる、不器用な恋人達を結びつけてくれるらしいの。最後は感動のラストシーンが待っているんだって!」
「へ〜、NYが舞台なんだ。懐かしいな」
「でしょ? 桐也も子豚さんと子犬さんが気になるよね?」
「てか、ちっこいヤツらがうろちょろしてたら、あっという間に捕獲されて保健所行きだぜ」
「もう〜桐也ってば、夢が無いんだから。予告編だけでも私、感動して泣きそうになっちゃった・・・あっ。その、えっと・・・」
「ほら、ハンカチ。俺の貸してやるよ、それ持ってて」


ポケットから取り出したハンカチを、無造作に香穂子へ託せば、桐也?と小さな驚きの声が上がった。私ハンカチ持ってるよ、と押し返す香穂子の手にそっと重ねてその手の中へ握らせる。あんた動物ものの映画は、絶対に感動して泣くだろ。一枚じゃ足りないだろうから、持っててイイよ。それでも足りなかったら俺の胸を貸してやるからさ。

怖いと肩を震わせて泣くよりも、ずっといい・・・。ジュースを握り締めて肩にもたれたまま、心配そうにふり仰ぐ香穂子の唇へ、緩めたままの唇を角度を変えて近づけキスを重ねるる。するとポンと弾けるように、真っ赤な茹で蛸に染まる顔。恥ずかしさで潤む瞳で、あんたに真っ直ぐ見つめられと弱いんだ。いつもは強気なあんたが素直に甘えてくると、こっちが照れるじゃん。


「きっ、桐也!」
「席の間に肘掛けが無いって、イイよな。あんたの手を握っていられるし、抱き締めていられる。きょろきょろ周りを気にしなくても、俺達のキスは誰も観てないから安心しなよ」


ほら、照明も落ちて暗くなってきたじゃん。スクリーンに予告編が始まったから、二人の内緒話は少しお休みだぜ。

お互いに正面のスクリーンを見つめたまま、暗闇の中で真ん中に置いたキャラメルポップコーンの大きめなカップへ手を伸ばす。指先が摘むのは香ばしい甘さを放つキャラメル味ではなく、ふいにどちらともなく摘むのはお互いの指先。最初は慌てて離した指先も、いつしか目的は変わって求め合う・・・ホップコーンよりも指先が欲しくなるんだ。
意識したわけでも無いのに、どうして何度もこうタイミングが合うんだろう。


スクリーンの中にいる恋人達がキスを交わしたら、俺達も・・・いいだろ?
そう思ったのはきっと同じ願い。二人だけの秘密、物語よりも甘く幸せな小さなキスをそっと交わそう。

ちらりと横目で伺う香穂子と衛藤の視線が互いに絡み合えば、どちらともなく肩を寄せ合い、指先でなく今度はしっかりと手を繋ぎ合う。触れ合う肩先だけではもどかしいと、沸き上がる熱が唇に灯り、首を巡らすように首を傾け唇を重ねた。
な? 音響も悪くないし、大画面を観ても疲れない。この席なら後も前も気にしなくていいだろ? 



ヴァイオリン中心の俺達は、休日でもデートらしいデートって、あんまりしたこと無いよな。まずお互いヴァイオリンの練習があって、その後に時間があったら二人でどこかに出かける・・・ってのが普通だったし。俺はあんたの顔が見られるだけで嬉しいし、あんたと一緒にいるだけで楽しい気持ちになれるんだ。

海岸通りにある行きつけのドーナツショップに行って、ゲーセンで思いっきり遊んで・・・それでもいいけど。仲間たちには色気無いって言われるし、香穂子も本当はもっと甘いデート・・・したいんだろ? いつも俺のやりたいことや趣味に合わせてくれるけどさ、たまにはあんたの希望も聞かせてくれよ。え?ゲーセンにはプリクラがあるから、楽しい? 


ま・・・小さな空間で二人っきり、顔くっつけて写真撮るのは、恋人同士じゃないとできないよな。携帯に写真が転送できるのも、ありがたいぜ。どうしてシールじゃ嫌なのかって? あんたって、本当にニブイな。

拗ねるなよ、一度しか言わないからな。照れ臭いからに決まってるじゃん、二人の写真は大切にしたいから、さ。携帯に納めた画像なら、俺とあんただけの秘密・・・つまり、誰にも見られないだろ。あぁもう、話ずれたじゃん! 
プリクラじゃなくてつまりさ、今日は恋人らしいデート、しようぜ。ショッピングとか映画とかさ、とことんあんたのやりたいことに付き合うよ。