ひとりじゃ眠れない

夏が終わり秋になると、ヨーロッパではコンサートのシーズンが始まる。オペラやオーケストラ、室内楽に個人の演奏家のリサイタルまで。実に様々な音楽が各地の劇場やホールで連日行われるんだ。
長いバカンスの反動のように、帰宅してもすぐに出かけなくてはならなくて。想い描いていたヴァイオリニストとしての生活は充実しているが、追い求めるべき物はまだ多い。


国外での演奏会を終えたのは、夜も更けた頃だった。コンサートは夜に行われる事が多く、本来ならば一晩ホテルへ泊まり、翌日ゆっくり帰宅するのだろうが・・・。戻れるなら例え僅かな間であっても、愛しい君が待つ我が家へ・・・心の底から休める香穂子の元へ帰りたいと思う。

努めて冷静に隠していても、早く香穂子に会いたい気持や、例え電話越しでも声を交わした嬉しさは、落ち着かない行動や音色に表れるようだ。周囲のスタッフから冷やかされるのは、もはや日常の光景になりつつある。
だがそのお陰で、愛しい人の元へ早く帰れるようにと皆が手配してくれるのは、嬉しいが少しばかり照れ臭い。

地続きのヨーロッパは、一時間も飛行機に乗れば隣国へゆける。
日本で暮らしていたらそうも行かないが、共に生活の拠点を移した今では、僅かな時間で辿り着けるから。
コンサート会場からタクシーを飛ばし、空港へ到着すると搭乗手続きを済ませ、足早に出発ロビーへと向かう。




出発ロビーは遅い時間にも関わらず旅立つ人出溢れ、ざわめきが満ちていた。
これから旅立つ人、俺と同じように戻る人も・・・。

出発時間まで余裕がある事に一安心すると、ジャケットの右袖をずらして腕時計を確認し、ポケットから携帯電話を取り出した。出来るだけ静かな場所を探そうと周囲を見渡し、人混みから離れた壁際に歩み寄る。
高まる期待を押さえながら番号を表示させ、通話ボタンを押すと、ほんの1コールだけで香穂子が電話に出た。
もしもしっ、蓮!?と食いつく素早さに驚いたが、久しぶりに聞く声に嬉しさが隠せず頬が緩んでしまう。


「香穂子、変わりはないか? これから最終便の飛行機で戻る。帰宅は日付を超えてしまうだろうから、無理せず先に休んでいてくれ」
『大丈夫、ちゃんと起きて待っているからね。玄関で一番最初にお帰りなさいの挨拶がしたいの。そっと静かに入って来ちゃ駄目だよ。ただいまって、私に知らせてね』
「せっかく風邪が治ったばかりなのに、またぶり返したらどうする。リビングは冷えるから、ベッドに入って温かくしていていくれ。何よりも香穂子が大切だから・・・俺も早く君に会いたい」
『・・・・・・うん。ベッドも私も、ポカポカにして待っているね』


身体を気遣うつもりで言ったのに、恥ずかしそうに照れている気配を感じるのは何故だろう。
甘く蕩ける吐息に囁かれ、胸の鼓動が熱く高鳴り出す。もっと声を交わしていたい・・・だがそう思ったところで登場を知らせるアナウンスが響き渡った。これからすぐ会えるのに、束の間の分かれは切なさを隠しきれなくて。
じゃぁ・・・また、と一言に微笑みとキスを込めて携帯電話を切った。


音楽と共に、ずっと求め続けていた香穂子と夫婦として添い遂げられれば、狂おしいほどの熱さが穏やかになると思っていた・・・。だが収まるどころか、君への想いは深まるばかりだ。結婚した今でも恋する心は変わらずあって、止まらずに君へと向かっている。胸に沸く温かさにゆっくり溶けた僅かな不安も、こうして幸せの一部になってゆくのだろう。




* * * 



「すっかり遅くなってしまったな。香穂子はもう眠っているだろうか?」


真っ暗な闇と静けさに包まれたリビングに香穂子がいないことを確認し、安堵感と寂しさが複雑に混ざった想いを抱きながら寝室へと向かった。秋の気配が深まり、朝晩は冷え込んできたせいもあるのだろう。薄着でうたた寝しながら俺を待っていた香穂子は、風邪を引いてしまったのだ。いや・・・夜中の汗が冷えた生もあるのだろうが・・・。

例え起きていたとしても寝室ならば温かいし、そのまま眠ってしまっても安心だ。押さえきれずにソファーで君を抱く、という事も避けられるだろうし。ベッドで温かくしていろと言った俺の言葉に香穂子が照れたのは、君を抱くから・・・と言ったのも同じだと後から気づいて、自分の恥ずかしさに今更熱さが募ってくる。


どんなに俺の帰宅が遅くなっても先に休まず、待っていてくれる君。

玄関のチャイムを聞いて、子犬のように駆け出したと一目で分かる弾む息。ドアを開けた勢いそのままで胸に飛び込んできたり。時にはソファーにうずくまり、背もたれのクッションを抱きながらうたた寝をしていたり・・・。
幼い頃から家族が不在がちだったから、待っていて迎えてくれる存在がいるのは、こんなにも温かで幸せに満ちたものだったんだな。


大きな舞台でなくても良い、大切な人のためだけに、ずっと側でヴァイオリンを奏でたい・・・。
ささやかだけど、良い音楽を作りたいからその為の努力は惜しまないのだと。
香穂子がプロとしてヴァイオリニストの道を歩めたら・・・かつてはそう願っていたが、今は俺の側にいてくれる事に心から感謝したいと思う。俺一人でもすれ違う毎日なのに、二人ともプロのヴァイオリニストになっていたら、俺たちは一体どうなっていただろうか。考えるだけで、寂しさと失う事の恐怖に胸が締め付けられそうだ。




「・・・・・・・・・・・」

もし眠っていたら起こしてしまうなと、寝室の扉に触れる寸前でそう思いとどまり、ノックしかけた手を止めて静かにドアを開けた。だが真っ暗だと思っていた寝室は、煌々とした灯りが点いたままだったのは、驚いたというか予想通りというか。暗闇やほのかな間接照明の明かりだけでは、睡魔に負けてしまうからなのだろう。
ベッドの上に広げられた読みかけの本や雑誌たちは、俺を待つためにずっと起きてたんだな。
香穂子らしい・・・包まれる温かさに、瞳と頬が緩んでゆくのを感じる。
布団にくるまる膨らみが動かないのは、やはり待ちきれず眠ってしまったのだろうか。


荷ほどきや片付けは明日の朝にしよう。ヴァイオリンケースと大きなキャリーケースを部屋の隅へ置くと、スーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めつつベッドへ歩み寄った。大きなキングサイズのWベッドの真ん中で布団を被って埋もれているのは、たった一人の愛しい存在。離れた場所からでは気づかなかったが、香穂子は自分の枕ではなく、いつも俺が寝ている場所で枕を抱くように眠っていた。

寂しさを抱えた心に詫びながらも、求められている愛しさに胸が甘く締め付けられ、君に包まれるような幸福感に包まれる。今は寝顔を眺めながら、起こさないように隣へ枕を並べよう・・・君を腕に抱きながら。
ただいまの挨拶は、おはようと一緒にすればいいのだから。


まずはベッドの枕元へ手を突き、きちりとスプリングが軋みながら沈んだところへ、振動を与えないようそっと腰を下ろした。上半身を乗りだし頬を包めば、手の平へなめらかな肌がしっとり吸い付く。無意識に擦り寄り優しく微笑んだのは、俺を求めてくれているのだろうかと・・・可愛らしさにそう思えてくる。


「ただいま、香穂子。待たせてすまなかったな・・・」


枕に横たわる頭の両脇へ肘をつき半身で覆い被さると、じっと見つめながら夢の中にいる君へ吐息で囁いた。
ゆっくりと顔を近づけ唇を重ね・・・ただ触れるだけだがしっかりと。このまま離したくない、蕩ける唇ごと君を食べてしまいたい。久しぶりの柔らかさに熱は止まらなくて、眠っているのだからと必死に自分を押さえるしかない。

耐えるように息を詰めて唇を離し、身体を起こしかけると首に腕が絡められた。慌てて身体を起こそうとしたが、離さないと伝える腕に引き寄せられると、眠っていた筈の香穂子がぱっちりと大きな瞳を開く。俺を魅了してやまない、瞳に宿る輝きと真っ直ぐな光は、寝起きでなく完全に覚醒したもの。つまりずっと起きていたのだ。


「蓮! お帰りなさ〜い! お仕事お疲れ様」
「・・・! か、香穂子・・・起きてたのか!?」
「うん! 蓮がお部屋に入ってくる時から気づいてたよ。本を読んでいたんだけど、慌てて眠ったふりをしたの。眠ったふりって結構難しいんだね。声を出したいのを我慢していると、むずむずくすぐったくて、じっとしているのが大変だったよ。キスをしてくれた時なんて心臓壊れちゃいそうだった、まだドキドキしているの」


はしゃぐ嬉しさそのままに飛びついて、唇に触れたのは香穂子からのキス。再び触れ合った互いの唇は、俺たちにとっての大切な、ただいまのキスとなった。いつもは玄関だが、今日はベッドの中でというのが違うところだが、たまにはこんなのもの良いと思う。身体を離して起き上がると、香穂子も布団を跳ね飛ばして起き上がり、シーツの上をいそいそ膝建ちで移動してくる。向かい合わせにぴったり寄り添い、シーツの上腰を降ろした。

声を聞くのは明日の朝だと思っていたから、驚きと嬉しさに声を紡げずにいる俺に、びっくりした?と。悪戯が成功した子供のようにはしゃぎ、満面の笑みを浮かべている。これは見事、君の悪戯にはめられたな。


「ただいま、香穂子。休んでいるところを起こしてすまなかったな・・・少し驚いた」
「もう〜蓮ってば、やっぱり黙ってお家に入ってきた! 驚いたのはこれでおあいこだよ」
「眠っているところを起こしては悪いと思ったんだ。悪気は無かった、すまない」
「コンサートで暫く出かけていた蓮が、やっと帰ってくるんだもん。嬉しくて待ち遠しいのに、先に眠るなんて出来ないよ。玄関でお出迎えしたいの我慢して、ちゃんと約束通りベッドで待ってたの。私もポカポカ、蓮の枕と眠る場所も温めたから、いつでもポカポカに眠れるよ。でもね、蓮が一番温かい」


待っていたのとそう言ってぴょんと胸に飛び込む香穂子を抱き留めれば、洗い立ての髪がふわりと靡き、花の香りが鼻孔をくすぐった。押さえきれない嬉しさに、ポンと弾けたボールとなった彼女の勢いに押され、そのままシーツの海へ倒れ込む。柔らかさを腕へ閉じ込めたままスプリングの波に身を委れば、視線が甘く絡み合い弾む心も弾み音楽を奏でるように。くすくす零す笑みと吐息を唇で塞ぎ吸い取れば、嬉しさと愛しさと喜びなどが心に響き合い、二人だけのハーモニーになるんだ。

俺と君が側にいる・・・当たり前のような素敵な奇跡に感謝しよう。


「荷ほどきするなら私も手伝うよ。あっ、それともお腹減った? もう夜遅いから、フルーツを添えてお腹に優しいヨーグルトがいいかな?」
「いや・・・もう寝ようと思う、片付けは明日にしよう。今は君と過ごす時間の方が大切だ。一分一秒たりとも無駄にしたくはない。香穂子に会うこの瞬間のために、俺は帰ってきたのだから」
「嬉しい、寝るときは一緒だよ。先に休んでろって言わないでね。蓮が帰ってくるって分かってても、一人で眠るのは寂しかった。もう一人の時間は充分だよ。私の中で半分何かが無くなったように心にポッカリ穴が空いた感じで・・・寒いの。寒くて震えそうで・・・早く温めて欲しかった」
「香穂子・・・」
「蓮が留学して離れていた頃も寂しかったけど、耐えられたのに。今はね、一緒に眠る幸せを知ってしまったら、もう一人で寝られなくなっちゃったみたいなの・・・変かな? 私、弱くなっちゃったのかな?」


抱きしめ合ってベッドの上に倒れ込んだまま、俺の胸に乗って頬をすり寄せていた香穂子が顔を上げた。切なげに大きな瞳を揺らし、泣きそうな潤みを湛えじっと見つめながら。服越しに触れ合った肌から伝わる、熱さと早鐘を打つ鼓動が二つ重なり、背を駆け巡る甘い痺れとなった。


持ち上げた腕を背中に絡め引き寄せつつ、くるりと身体を反転させて覆い被さった。身体を押しつけるように深く閉じ込め、身体の全てで俺はここにいると存在や想いを伝える。愛撫を擦るように頬や鼻先をすり寄せ合うと、頬を包み緩めた瞳で微笑みを注いだ。数週間離れていた間に、少しやつれただろうか。色香や艶を増したようにも見えて吸い込まれそうになるが、そうさせてしまったのは自分だと思うと胸が痛む。


「・・・ずっと眠れなかったのか?」
「ふふっ、蓮には隠し事できないね。寝てるんだけど、いつもより眠りが浅いみたいですぐ起きちゃうの。心は夜なのに、何でだろうね。蓮もちょっとやつれちゃった・・・かな。向こうでも忙しいのに、無理して早く帰ってきたんでしょう? ごめんね」
「どうして謝るんだ? 俺も眠れなかった・・・香穂子を想うほどに苦しくなり、早く夜が明けないかと願っていた。だがようやく心の底から安らげる。香穂子が弱くなったんじゃない。それは俺たちが求め合う気持が高まり、離れがたい存在になったからだと思う」


夜の闇が穏やかなものだと教えてくれたのも、君。
切なさばかりではなく、君が好きだという想いは心を優しく温めてくれるんだ。

君に寂しい想いをさせないように、自分が寒さに凍えてしまわないように。俺は君と俺のために強くなろう。
ひとりぼっちの時間が、二人の時間をもっと嬉しく幸せなものにしてくれるから。
支えて支え合いながらお互いもっと強い心と絆になれば、寂しくて眠れ無かった分、愛しい君と一緒に過ごす喜びが大きくなる・・・・深い安らぎに包まれる。


「ねぇ。今度蓮がコンサートでお出かけするときに、蓮のパジャマを貸して欲しいの」
「別に構わないが、一体何に使うんだ?」
「えっと〜ね・・・その。枕を抱きしめるだけじゃ物足りなくて、どうしても寂しいときには蓮のパジャマを着て眠りたいなって思ったの。そうすれば、蓮の香りと温もりで抱きしめてもらっている感じがして安心するの」


恥ずかしさを誤魔化すようにへへっと小さく笑い、はにかんで頬を赤く染める姿に理性の糸も限界を告げた。
ゆっくりと唇を寄せて絡め合い・・・そのまま深く重ねて。熱い行為の先へと進もうとする手は、パジャマを割って柔らかな身体を彷徨い出す。しかし口付けながら聞こえた安らかな寝息に身体を離すと、腕の中に抱き寄せ枕へ横たわった。

すぐ目の前にあるのは、今度は本当に眠ってしまった、俺だけの大切な宝物・・・あどけない君の寝顔。



今はこのまま、俺も穏やかな眠りの海へ漂うとしよう。
吐息が触れ合う近さで飽くことなく寝顔を眺め、君を抱き、そして温もりを伝え包まれながら。
互いに眠れなかった日々を取り戻すように・・・・・・・・。