密かに交わしたキス




「ねっねっ、桐也。私ね、すごい大発見をしちゃったの!」
「何だよ、大発見って。おいこら・・・興奮するのは分かるけど、ジャケットの裾引っ張るなって」


香穂子と電車を待つ駅のホームには、指さし確認をしている鉄道員。構内放送が響き渡ると、売店の売り子も負けないように威勢良く声を張り上げている。いつも利用する駅から少し放れた大きなターミナル駅には、出迎えや見送りの人、旅行に出かける家族連れや友人のグループが多く見受けられた。中には花束を抱えて大きなスーツケースを持つ若いカップルもいて、「きっと新婚旅行の旅立ちなんだよ」と、目を輝かせる香穂子が嬉しそうだ。


「あのね、駅のホームのことをプラットホームって言うでしょ? 電車に乗っていると、こう・・・途中の駅でぷらっと降りてみたくなるよね。だから私、プラットホームって言うんだと思ったの。この言葉を考えた人は凄いなって、感動しちゃった。ね、桐也もそう思うでしょ?」
「・・・・・・・・・ぷっ! あんたらしい発想だよな」
「桐也ってば、笑った。ひど〜い、私真剣だったのに」
「プラットホームは、英語だよ。辞書にも載ってんじゃん」
「え? ふらり途中下車の旅、みたいな意味じゃ・・・ないの?」


本人が真剣だから笑ってはいけないと思うのに、堪えきれずに吹き出す笑いが止まらない。悪かったと謝る声も、笑い余韻で微かに震えているのは許して欲しい。だけど暫くして気付いたのか、香穂子があっと声を上げて見る間に茹だってしまう。「ギャグじゃないからね」と、真っ赤に染まった顔で慌てて修正しなくても、ちゃんと分かってるよ。


これ以上笑わないように難しく寄せた眉をすぐに緩めれば、無邪気な子供みたいに瞳を輝かせながら、耳元へ声を届けようと小さく背伸びをしてくる。今度は何を見つけたんだ? 子供みたいだなと微笑めば、再びぷうと頬を膨らませてしまうけれど、そうじゃなくて。嬉しい発見したときのあんたって、小さな子犬が勢いよく駆け寄るみたいだよな。胸に飛び込むあんたごと、思わず抱き返したくなるじゃん。


何か素敵な景色を心のシャッターで切り取る度に、澄み渡る瞳を緩ませ、自分のことのように頬を綻ばせていた。俺だけを見つめていて欲しい・・・横顔をすぐ隣で見守りながらそう思うのに、好奇心旺盛な瞳はくるくると周囲を見渡して落ち着きが無い。そんな可愛い顔、無防備に晒しちゃって・・・さ。

だけど繋ぐ手が俺の心を伝えるのか、ふいうちのように真っ直ぐ見上げて微笑むんだ。ホント、あんたには敵わない。
まぁ駅だけじゃなく空港も同じだけど、こういう人情景色って、自然と目に入っちまうもんだよな。今このひとときが嬉しくて幸せだから、周りにいる人たちまで楽しげに映ってしまう、その気持ちは俺にも分かるぜ。


「・・・香穂子、さっきから何をニヤニヤしてるんだ?」
「ニヤけてないもん。桐也と一緒に電車で遠くへのお出かけが嬉しくて、ついほっぺが緩んじゃうの」
「この遠出の理由が、綺麗な花が咲いている青空の下で俺と手が繋ぎたい・・・ってのがな・・・」
「え!?駄目かな? 私ね、早起きしてお弁当も作ってきたんだよ。早咲きの綺麗な桜が咲いるって、テレビで見たの」
「それ、俺も見た。まぁ、たまには気分転換も必要だよな。いい天気のこんな日は、どこか遠くへ行きたくなるし。あんたの希望通り、今日はずっと手を繋いでいてやるよ」


ありがとう、と真っ直ぐふり仰ぐ満面の笑顔に、自然と顔が熱くなるのを感じる。今日はいつもより温かくなるって言ってからだよな・・・そう自分に言い聞かせるのも、そろそろ限界みたいだぜ。朝から鼓動の駆け足が止まらないのは、一緒の遠出が嬉しいだけじゃなくて、春らしい柔らかなシフォンのスカートを揺らす香穂子が可愛いからだ。

女ってズルイよな、服装一つでこんなにも雰囲気変わるなんて。いつもはカジュアルで動きやすい服装なのに、ふわふわの春みたいな服装に、唇のルージュなんて反則だっての。イイよな、春って・・・そう呟いた声が届いてしまったらしく、きょとんと小首を傾げた香穂子もすぐに笑顔を浮かべて、そうだよねと嬉しそうに頷き返してくれる。


「でもわざわざ何で、デートにヴァイオリンまで持って行くんだ?」
「青空の下で食べるお弁当が美味しいのと、理由は一緒だよ。綺麗な景色と美味しい空気がある場所で一弾くヴァイオリンも、きっと素敵な響きになると思うの」
「ホント、ヴァイオリン好きだよな。香穂子と出張路上ライブってとこか。いいけど、俺の足引っ張るなよ」
「ひ・・・引っ張らないもん、頑張るよ。お花に負けないように、今日は楽しく演奏しようね」


好きだと想う気持がこんなにも甘く苦しいのは、あんたが見えない心の手で、俺の心もしっかりと握り締めてくるからだろう。普通に握り合っていた手を一度解き、指先を一本ずつ絡めるように繋ぎ直して。更に深く繋がったお互いの手が、気持ちまでもっと近く・・・溶け合うほど寄り添わせてくれる気がする。

繋ぐ香穂子の手が頬と同じく次第に熱くなるのを、ただ何も言わず微笑んで優しく握り返すだけ。可愛い顔を近くで見つめていたいのもあるけれど、俺を意識して照れている、それを指摘したら自分まで照れてしまいそうだから。 照れ隠しにあれこれ話題を振る香穂子が、今日のお弁当は卵焼きとウインナーと・・・指折り数えながらふと見上げる瞳に交われば、くすぐったさに、ふいと視線を逸らしてしまうのは俺の方だ。


「おっと、特急電車の通過だ。危ないから少し下がっていようぜ」
「うん。あっ! 私、これテレビで見たよ! 座席が全部海に面しているんだよね、良いなぁ」
「おい香穂子、危ないだろ。俺達は線路に面した一番前で待ってるってこと忘れるなよ。全く、どんな列車がやってくるのかと、興味深そうに首を伸ばすから、いくら手を繋いでいてもヒヤヒヤするぜ」


ホームに響くアナウンスが、特急電車の通過を告げている。繋いだ手が引っ張られる感覚に香穂子を見れば、通過電車の風を心地良さそうに受け止めながら、通り過ぎる電車を視線で追っていた。嬉しくてはしゃぎたい気持ちも分かる、俺だってあんたと出かけるのは嬉しいんだ。でもあんた危なっかしいから、もう少しだけ落ち着いて欲しいし・・・俺のことも見て欲しいんだけどな。


通り過ぎる列車が向かい側のホームを隠す間に、繋ぐ香穂子の手を強く引き寄せて。「危ないぞ・・・」そう耳元に言いながら、反動でよろける身体を抱き止めたその一瞬で、頬にキスを。しっとり吸い付く柔らかな頬から唇を引き離すのに、どれほど理性と戦っているか、あんたには分からないだろうな。


「・・・っ! き、桐也!?」
「大人しくしていなかったら、今度は唇だぜ」
「・・・大人しく、する」
「俺は別に、唇にキスでも良いけど?」


そう悪戯な笑みを浮かべれば、ぷしゅっと湯気の音を立てて、耳まで真っ赤に染まってしまった。あんた、本当に可愛いよな。 ホームを通り過ぎる最後の車両が、隠してくれるから今のうちに・・・繋いだ手をそっと口元に引き寄せ、香穂子の手へ唇を押し当てる。甘く優しく、しっとりと、心を凪ぐ春風のように。あんたが俺の心に春を届けてくれたように、俺もキスであんたに届けるよ。



どこからか花の香りがする・・・そう思って空を見上げれば、香ばしい匂いを運ぶ春風が優しく頬を凪いでゆく。春先の雨を急ぐように吸い込んだ土を踏みしめた時に、靴底から太陽を閉じ込めた柔らかさと、太陽の温もりを感じたように。

冬枯れだった景色が大きく欠伸をしながら目覚めると、急ぐようにその身を春色に変えてゆく。こんな日は青空に輝く太陽を相手に、くるくる飛び回る鳥たちみたく、うららかな日だまりに誘われたくなるよな。


目にも眩しい緑が萌えだし、膨らんだつぼみの花があちらこちらで綻ぶ・・・。冬の眠りから覚めた景色は春色に満ちていて、青空を見上げながら吸い込む空気は、今まで過ごしたどの春よりも爽やかで優しい。それはきっと、隣にあんたがいるからだって思うんだ。繋いだ手の先を視線で辿れば、心に届く確かな言葉と温もりで、きゅっと手を握り返す香穂子が、照れた瞳で微笑んでいた。