日頃の感謝を込めて

リビングから庭へと続く窓は大きく開け放たれ、白いレースのカーテンが羽のように舞い、緩やかな弧を描いている。穏やかな緑の風が通り抜ける、心地良い午後の昼下がり。
ソファーで寛ぎながら本を読んでいた月森が、ページを捲る手を止めて壁に掛かった時計を眺めた。


静かだな・・・香穂子はもうそろそろ帰って来るだろうか。


香穂子は近所に住む婦人宅にお茶会へ呼ばれていて、今ここにいるのは自分ひとりだけ。
留守だと分かっていても無意識に、彼女の姿を探し追い求めている自分に苦笑しつつも、どこかくすぐったい不思議な気分になってくる。いつもは彼女の楽しげな笑い声や、パタパタと忙しなく家の中を駆け回る足音や音楽など。常に音や温かさに包まれているから、君がいないだけでこんなにも静かだと・・・久しぶりに一人きりの寂しさを思い知らされた。





俺の留学先にだったヨーロッパに、卒業後もプロとしての活動拠点を置き、香穂子と結婚生活を送っている。
明るく素直で前向きな彼女は、渡欧して間もないながらも、言葉や生活文化の違いといった壁を越えて周囲に溶け込んでいる。空き時間には常にドイツ語の勉強を続けるなど、悩みながらも見えない苦労を重ね、俺の数年間にあっという間に追いついた彼女がとても誇らしく思えた。


今ではドイツ語やこの街の事、本来は母親から伝えられるような料理や文化風習など細かいところまで、仲良くなった婦人達から教えを受けている。そして香穂子も日本の事を教え、ヴァイオリンを披露しているのだ。
ドイツ人は誰もが気軽に人を招き、手作りの菓子でもてなしてくれる。最近では焼き菓子とヴァイオリンケースを持ち、お茶へ招待されたと嬉しそうに出かける君を見送る事が多くなったと思う。



テーブルの上には自分で入れた紅茶と、俺の分にと小皿に取り分けられた香穂子の手焼きクッキーが、ほんのり甘い香りを放っていた。本を閉じてソファーの側に置き、焼き菓子を一枚摘んで口へと運べば、甘さを控えた懐かしく素朴な味わいについ後を引いてしまう。

甘いものは苦手だが、香穂子の手作りならばいくらでも平気に食べられる・・・だが。
ふんわり優しく語りかける焼き菓子に、香穂子の笑顔が脳裏に浮かんで離れない。


本当ならば今頃はこの手作りの菓子も紅茶も、君と一緒に楽しめたのに・・・と。
僅かばかりの寂しさが浮かぶのは、それだけいつもの日々が温かいものだからだろうな。
もう何度見たか分からない時計に視線をやるが、数分も進んでいなかった事に小さく溜息が溢れてくる。


ソファーに身を沈めながら、静けさの中で香穂子の帰りを待つ・・・俺の帰りを一人この家で待ってくれる君の気持ちも、このような感じなのだろうか。静けさが嫌ではなくむしろ好ましく思う筈なのに、なぜか落ち着かなくて。紅茶が入ったカップを手に取り、口元へ運べば、琥珀の水面に映った自分が揺らめき、胸が甘い切なさで締め付けられた。




『お呼ばれしたお茶会のお土産にしたクッキーです。蓮の分は、とびっきり上手く出来たものを選びました。
お腹が空いたり、私が恋しくなったら食べてね。お留守番よろしくお願いします。     香穂子よりv』


皿の傍らに置かれた手の平サイズのメモ用紙を手に取れば、香穂子が出かける時に残してくれた書置きが記されていた。一番最後に手書きで大きなハートのマークが添えられた、彼女の小さな手紙に頬が綻ぶ。

コンサートツアーなどで長期間家を空ける時に、俺の荷物の中へこっそり忍ばせてくる手紙には、鮮やかなルージュで本物のキスマークが付いて来るけれど。
短くさり気ない言葉の中に、君らしさや優しさがたくさん詰まっていて、俺を温かな気持ちにさせてくれるんだ。


君が恋しくなったから、さっそく焼き菓子を頂いた。
君の帰りを待っている・・・そう語りかけ君に微笑み口付けるように、手紙に唇を寄せてキスをした。






膝に乗せた本が床へと落ちる音で目が覚めて、浮かび上がった意識が急速に引き戻された。どうやら静けさと温かな陽射しにまどろんでいたらしい。身を屈めて落ちた本を拾いテーブルに置くと、パタパ駆ける賑やかな足音が聞こえてくる。どんなに遠く微かなものでも直ぐにわかる・・・香穂子だ。


首を巡らせリビングの入口を見ると、息を切らせて駆け込んだ香穂子がきょろきょろと部屋の中を見渡している。俺を探しているのかと思い名前を呼ぶと、笑顔を咲かせて駆け寄ってきた。


「蓮、ただいまー! 一人でお留守番させちゃってごめんね」
「お帰り香穂子、迎えに出れなくてすまなかったな。・・・走ってきたのか?」
「え・・・うん、そうだよ。だって早く家に帰って、蓮に会いたかったんだもん」


ソファーへと駆け寄った香穂子は足元にヴァイオリンケースを置き、俺の隣へ腰を下ろした。切れた息を肩で整えており、乱れかけた髪に手を伸ばして整えながら、いつもの俺と逆だなと思わずにいられない。
怪我をしたら危ないから急がなくてもいいと、そう微笑みかければ頬を染める君に愛しさが込み上げる。


「玄関のチャイムを鳴らしたんだけど、出なかったから自分で鍵を開けたの。ひょっとして蓮が寝ているところを起こしちゃったかな・・・ごめんね。疲れているならゆっくり休んでね」
「香穂子が帰って来た嬉しさで、すっかり眠気も吹き飛んでしまったようだ。焼き菓子も美味しかった、ありがとう。婦人達とのお茶会は楽しかったか?」
「うん、凄く楽しかった! まだまだドイツ語が上手く話せないんだけど、みんな優しいから分かりやすいようにって、私に合わせてくれるの。でも甘えてちゃ駄目だよね。ヴァイオリンも楽しんでもらえたんだよ」
「そうか・・・良かった、俺も君の音色を聞きたかった。香穂子の出張演奏会は、今日も成功だな」
「ドイツの家庭料理をまた一つ教えてもらったから、お夕飯に作ってみるね。私もお茶とかお花とか、日本の事をもっと勉強しとくんだったって、こんな時に強く思うの。私に出来る事は何かなって蓮に相談したら、折り紙はどうかって教えてくれたでしょう? 披露したら評判良かったみたい、ありがとう」


そう言うといそいそと座る距離を詰めて、隙間なくぴったり身体を寄せてきた。身体の重みを預けながら肩先へと頭を乗せ、甘えるように俺を呼ぶ。香穂子が何かをねだる時の仕草だ、しかも難しい事が圧倒的に多い。
どうしたのかと緊張して身構えつつ聞けば、ちょこんと俺を振り仰ぐ。


「ねっねっ、今度私たちの家でもパーティーやろうよ」
「パーティー!?」
「お向かいにも両隣にもそのまた隣にも、後ろの家からもご招待されたじゃない。私はお茶会にも呼ばれているけど、そういえば私たちの家には、蓮のお友達以外まだ誰も招待していなかったなって思ったの」
「親しくなるには自分達を知ってもらう必要があるし、招待されたからにはこちらからも返すのが礼儀だと俺は思う。だが俺は、パーティーについては賛成しかねる」
「えっ、どうして駄目なの!」


寄りかかった身体を慌てて起こした香穂子が、眉を潜める俺に挑むように真っ直ぐ見つめてくる。
澄んだ輝きを放つ彼女の瞳は真剣で、ふとした思い付きでは無く、譲れない想いがあるのが伝わってきた。
だが俺にだってどうしても一歩を踏み出し切れない理由があるのを、君も何度も経験しているから知っていると思うんだが・・・。

二度と味わいたくない状況がまたやってくるのかと、大きく溜息を吐きたいのを堪えるしかない。
渋い顔のまま黙って腕を組み返事を渋る俺に、香穂子が心配そうに表情を曇らせた。


「蓮は賑やかな場所は苦手だったよね・・・ごめんね」
「違うんだ、パーティーが嫌なのではない。お世話になっている人たちへ感謝を込めたい、もっと親しくなりたいと願う香穂子の気持ちは分かる。俺だってこの地で君と生活する為に、同じく望んでいるのだから。だが香穂子こそ、俺たちにとって重大な問題を忘れていないか?」
「大切なことって、一体何だろう?」
「・・・なぜ俺たちがホームパーティーへ呼ばれる度に、毎晩喧嘩をしてしまうのか。招待されて大喧嘩なのだから、主催したらどうなってしまうか分からない。俺にはそれが一番不安で心配だ。君を手放したくないし、誰にも触れさせたくないから」
「あっ・・・! でもほら、喧嘩するほど仲が良いって言うし、雨降って地固まるっていうじゃない。その後すぐにごめんねって謝るし・・・朝になっても、たっぷりベットの中で仲直りするでしょう?」
「・・・・・・・・・・・・それはそうだが、喧嘩はしないに限る」


真っ赤に染めた顔を隠すように俯き、組んだ両手をもじもじと弄る香穂子に、返す言葉が見つからない。
喧嘩の後の仲直りはいつもより互いに熱くなるから、思い出して俺まで火を噴いてしまいそうだ。



招待されると必ず帰宅してから・・・いや、訪問先を失礼して二人だけになってから、どちらとも無く不穏な空気が流れて口を噤んでしまう。原因はお互いへの焼もちだから、想う故に弾けた気持ちは止められない。


親しい人たちのパーティーならば、頬を合わせるキスを全員交わす。欧州での挨拶なのだから仕方ないと思うが、香穂子がやるのを見るのは気持ちの良い物ではない。カップルで招かれたら必ず別行動を取って、違うパートナーと会話を楽しまなくてはならず・・・いそんな意味で精神的に苦痛な事に変わりはないのだ。
俺だけでなく香穂子も一緒だから大きな喧嘩になってしまうのだが、お互いが好きな証拠だからこそ。


皆を招待するホスト役となれば、準備や進行で慌しく動き回るから、男性達に香穂子が取り囲まれる心配は無いと願いたい。男性も女性も自己主張の強いドイツにあって、小柄で素直な日本女性の香穂子は人気の的なのだから。

無邪気に笑顔を振りまく香穂子から、パーティーだけでなくステージ裏でも目が離せずにいるんだ。



ん〜と考え込む香穂子が何かを思いついたらしく、ポンと手を叩く。
隣に座ったまま俺の懐に飛び込む勢いで、目を輝かせながら身を乗り出してきた。


「会話と料理だけだから問題だと思うの。要は私たちやご招待したパートナーが離れずに、一緒にいられればいいんでしょう? 私たちなりのやり方でパーティーを作ろうよ」
「それならば・・・だが、皆が納得するだろうか?」
「例えばこの広いリビングを使って、私と蓮の演奏会はどう? せっかくグランドピアノもあるんだし」
「演奏会か、俺たちらしい良い方法だな。料理や会話は難しいが、ゲストの為に心を込めて奏でよう」
「でもお迎えとお見送りの挨拶だけは、我慢しようね。挨拶だからほっぺとほっぺがくっついても、お互いに焼もちやきっこなし! 私の頬に唇が触れていいのは、蓮だけだから・・・」
「分かった、君に誓おう」


真摯に見つめて頷くと、ありがとう・・・そう言ってはしゃぎ、腕の中へ飛びついてくる。倒れそうになるのを堪えて抱きとめた身体ごと支えれば、頬に触れた柔らかな温もり。目を丸くしていると、はにかんだ笑みを浮かべながら、チュッと音を立ててもう一度振ってきた頬のへキス。堅苦しくならずに、私たちらしく楽しくやろうねと。笑みを零す香穂子に、俺からも返事の代りに唇を軽く啄ばむキスを贈った。





ソファーから立ち上がった香穂子が、リビングの中央へ駆け出していく。両手を伸ばしてくるりと回れば、スカートが花のようにふわりと広がった。リビングの隅に置かれたグランドピアノに駆け寄り、ここがステージだと楽しげに歌いながら大きく身振りをして。軽やかに身を翻してソファー近くまで戻ると、ここが客席なのだと俺に語りかけてくる。


俺もソファーから立ち上がり、彼女の姿を映しながら自然に緩む頬のまま、ゆっくりと歩み寄っていく。
君と二人でパーティーを作るのは、結婚式の時以来だな。あの時も大変だったが、コンサートとは違う充実感や達成感があって楽しかったし、何よりも二人で一つの事を築き上げる幸せに満ちていたなと。
ふと目に映った棚に飾られたフォトフレームを見て、まだそれ程遠くは無い過去に想いを馳せた。

多少の不安が残るが、君とならばきっと良い物が作れるだろう。


国籍や暮らしてきた文化風習は違えども、いろいろな話は相手を理解し親しさを生むだけでなく、互いに無いものを補い合い高め合う。物の貸し借りや修理を依頼したり、お茶の席やデパーティーに呼ばれたり・・・。
この広い世界の中、偶然近所にすむ事になった人たちとの縁を大切にしたい。

一見硬く冷たく見える扉の先に待っているのは、暖かな部屋。
全身でぶつからなければ硬い扉も開かない。
それを最初に教えてくれたのは香穂子・・・君なんだ。


お互いに助け合いながらこの街で君と二人、より良く暮らしてく為に----------。
いつもありがとうの感謝と、これからもよろしく・・・たくさんの君地を込めてこの街の人たちへ贈ろう。





あれこれ想像を膨らませて駆け回りながら、コンサート会場と化したリビングの中にいる香穂子を、背後からそっと抱き締めた。前に回した腕にしなやかな腕が絡まると、柔らかな温もりと優しい香りが溢れて俺を包み込む。首筋に頬を寄せるとくすぐったそうに小さく身を捩り、肩越しに甘える光りを宿して振り仰いだ。


「ホームパティー・・・小さなコンサートをやりたいなって思ったのはね、私と蓮の二重奏をまた聞きたいって、みんなにリクエストされたからなの。それって嬉しいよね、心に残る何かを届けられたって事だもん。たくさんの人に聞いてもらいたいなって思う。音楽でみんなにありがとうを伝えるの。二人で一緒にステージに立てる機会って、なかなか無いでしょう? だから蓮と一緒に奏でるのは私の夢でもあるんだよ。駄目かな?」
「駄目な訳がないだろう。無事にホームパーティーが成功したら、喧嘩後の仲直りよりも君と深い絆が築けるのだろうな。もちろん招待客との親交も大事だが、楽しみだ。曲目なども考えなくてはいけないな」
「ふふっ・・・ワクワクするね。喧嘩をせずに蓮と仲良くなれるのが一番だって、私もそう思うの。ご近所のみんなにもだけど蓮にも、いつもありがとうって感謝を込めたかった。一人じゃないから違う国でも頑張れたんだもの。だから当日はこの小さなステージで奏でる私の演奏を、蓮に聞いて欲しいな」


俺の腕を抱き締める強さと振り仰ぐ笑顔に、熱さが募り君だけしか見えなくて。
楽しみにしている・・・そう耳元で囁くと、緩めた瞳と口元のまま頬を寄せながら、深く腕の中にどじ込めた。


変化の無い日が続くとつい退屈に感じてしまうが、何かあった時に初めて平穏な毎日のありがたさに気づく。
温かい陽射しや仲間と過ごすひと時、大切な君がくれる大いなる安らぎ・・・君がここにいてくれる事。
ありふれて見える毎日だからこそ、大切な宝物が溢れているのだと思う。



そして誰よりも贈りたいのは大切な君へ。
俺からもありがとうとこれからも宜しくの言葉を、ヴァイオリンの音色に乗せて奏でよう。