左側のポジション



待ち合わせをしていた海岸通りに衛藤が着くと、人混みの中できょろきょろと周囲を伺い、誰かを捜している香穂子の姿があった。明らかに自分を探しているのが分かるから、俺はここにいるとすぐ教えたいけれど。必死な姿が愛しくて、悪戯心が沸き上がってしまうんだ。もう少しだけ眺めていても、いいだろう? 

あ!と気付いて嬉しそうな笑顔を咲かせ、駆けだしたと思えばしゅんと肩を落とし、再び戻ってしまう・・・の繰り返し。何だ人違いだったのか、俺はここにいるのに間違えるなよ・・・全く。 

逸る気持ちを抑えながら、ゆっくりとした歩みで衛藤が香穂子の背後へ近付くが、相手が来たことを心が教えてくれるようだ。雑踏に紛れまだ少し距離はあるけれど、弾かれたようにパッと振り向いた視線と吸い寄せられるように絡まり合った。無邪気にはしゃぐ香穂子は、周りの注目を集めるのも気にせず、元気いっぱいな笑顔で大きく手を振りながら、真っ直ぐ見つめる視線の先に待つ衛藤の名前を呼ぶ。


「あ! 見つけた〜衛藤くん、こっちこっち! 早く!」
「香穂子、そんなに大声で俺の名前を呼ぶな。恥ずかしいだろう!」
「衛藤くんだって、遠くから大きな声で私の名前を呼んだじゃない〜!」


君が衛藤くん?と問いたげな視線が集まる中心で、急速に顔へ募ってゆく熱。見えない湯気を噴き出す衛藤が、足早に歩きながら強く言い返せば、嬉しかったんだもんと頬を膨らます香穂子も、負けてはいられないとばかりに言い返す。そうして互いに睨み合うこと数秒・・・どちらとも無く堪えきれずに吹き出してしまい、心に灯る温もりが一歩を踏み出す力になるのはいつものことだ。


この前は後から抱きつかれてびっくりしたから、今度は自分が驚かそうと思ったのだと、上目遣いですまなそうに謝る想いが愛おしい。俺はもう充分驚いてるよ、って言ったらあんたは嬉しい? 香穂子と過ごすようになってから、毎日が新鮮な驚きの連続だって知ってるか? 信じないのなら、ほら・・・俺の胸に手を当ててみろよ、鼓動は嘘をつかないからさ。

あんたって子供みたいだよな、真っ赤になったり無邪気に喜んだり、子供みたいに可愛いってこと。そう言うといつも「どうせお子様ですよ」ってむくれるけど、俺は好きだ。大人ぶっている女よりも、感じる心のまま自然体でいる香穂子の方が、素直で可愛いって言ってるんだぜ。


「ほら・・・手」
「へ? 衛藤くんの手がどうしたの? うわ〜良く見ると大きいね、やっぱり男の人の手だって思うの」
「・・・そうじゃなくて。あんた目を離すと、すぐにどこかへ駆け出すから危なっかしいんだ。俺がしっかり繋いでてやる」
「う、うん・・・ごめんね。でも手を繋げるのは、とっても嬉しいな」
「すぐに見つかるから良いけど、迷子になったと心配する俺の身にもなってくれよな。心臓壊れそうだ」
「ふふっ、衛藤くんも一人で迷子になったら、心細くて寂しかったんだね。大丈夫、私がすぐ見つけるからね」
「誰が迷子だ、俺じゃなくてあんたの話だろ。いいからほら、俺の傍から離れるなよ。せっかく二人で歩いてるんだから、一緒に並んで歩きたい。あんたの気配や温もりを、その・・・ずっと隣に感じていたんだ」


だから一人で駆け出すなよ・・・と、真っ直ぐ前を見ながら呟く言葉は、ちゃんと隣に聞こえただろうか。

気恥ずかしさにふいと顔を逸らした左手に、柔らかい彼女手が重なり、きゅっと強く握り締めてくる。手を握り締められただけなのに、心の中まで包まれたような甘い痺れが駆け上るのはなぜだろう。お互いに前を見ながら、優しく繋ぐ俺の左手とあんたの右手が、同じくらい熱い。大好きだ・・・大切だと、音楽や言葉以外にも伝えられる方法があるんだと、初めて知った。


「ねぇ衛藤くん。私ね、すごい大発見しちゃったの!」
「何を見つけたんだ?」
「海岸通りを歩いている、カップルさん達を見て? ほら・・・私たちと同じだよ。男の人が右側にいて、女の人は左側に並んでいる人が多いの。みんな幸せそうな笑顔だよね。そこでふと思ったの、衛藤くんは、いつも私の右側を歩いているよね」
「香穂子は、面白いところに気付くんだな」
「二人並んで歩くとき、右か左、どっちを歩くなんてあまり深く考えたことは無かった。でもいつの間にか衛藤くんと並ぶときは、右側を空けるのが自然になっていたなって思ったの」


衛藤くんが右側にいると安心するし、身も心も委ねられるくらい気持ちが良いんだよ・・・と歩く左側から聞こえる囁き声。正面を見つめていた横顔が、ふわりと優しい微笑みと共にふり仰ぎ、甘えるようにコツンと肩を寄せてくる。あんたって、ときどき反則だよな。視線が交わったのは偶然じゃなくて、俺がずっとこっそり横顔を見つめていたって、本当は気付いてるんだろう?


「あんたが右側にいると、落ち着かないんだ。ちょこちょこ駆け回る香穂子に腕を引かれたり、ゆっくり並んだかと思えば、いつの間にいなくなっている。慌てて見渡すと少し後にしゃがみ込んで、道端の花を熱心に携帯に写メしてるだろう? だから、なんとなく左側の方が落ち着くって訳。しっかり手綱握ってる感があるから」
「・・・そ、そうなんだ。嬉しくてちっとも気付かなかったよ・・・ごめんね。だって衛藤くんが隣にいると、安心するんだもの」
「謝らなくていいよ、楽しそうなあんたの顔見るのは、俺も楽しいから。それに、その・・・右側から見る香穂子の横顔の方が、可愛いと思う・・・なんでだろうな」


並んで歩くときには香穂子の為に左を空けるのが当たり前になっていて、気付くといつも俺の左にあんたがいる。歩く街の景色がどんなに変わっても、変わらない温もりと愛しさが、すぐ隣にあるのは何て幸せなんだろう。右手の温もりを感じなら、同じ歩幅で一緒に歩く、呼吸も鼓動も笑顔も・・・全部知っているあんたの右側は、俺だけの大切な場所なんだぜ。

そういえば、どこへ行こうかまだ決めてなかったな。え?一緒に歩くこの時間を、もっと楽しみたいから、気の向くままに歩いてみたいって? あんたって本当に・・・いや、何でもない。何も言わなくても俺が欲しいこと、ちゃんと知ってるんだなって嬉しくなっただけ。そう言うと、大好きな衛藤くんの事はいつも考えているからねと、自信たっぷりに桃色に染まった頬でふり仰ぐ。全く、これ以上俺を惚れさせてどうしろっての? 後で覚悟しなよ。


「左側って、特別なんだぞ。人間って左に心臓があるから、本能的に左を庇うようになっているんだ。荷物を持ったり並んだり・・・左を無防備にしないように、無意識に行動するらしい。実際に人とすれ違う時って、左側に除けることが多いだろう?」
「へ〜知らなかった。衛藤くん、アメリカ生活長いから詳しいね。だから人の多い所では常に左側通行なんだね」
「今まで気付かなかったのなら、大通りで意識してみなよ。ただし俺がいるときにしろよ。あんたそそっかしいから、一人だと絶対に怪我しそうで危ないんだ」
「う〜っ、反論できないのが辛いなぁ。でも分かったよ、左側って大切なんだね。衛藤くんの左側に私がいてもいいのは、信じてくれているってことだよね。私も衛藤くんを守れるように強くならなくちゃ。それにね、心がぽかぽか温かくなるの」
「そう・・・俺は、あんたになら左側を預けられる」


男性が女性をエスコートするときも、お嫁さんと花婿さんが並ぶときも右側左側・・・と。考えながら独り言のように呟く香穂子は、仲がよい人たちの並び方なんだねと無邪気に嬉しそうだ。他人の事はどうでも良いけれど、そろそろ自分たちに置き換えて考えてくれ。なぜ俺が香穂子の右側にいつもいるのか、あんたは俺の左側にいるのかを。

俺の事は鋭いくらい気付くのに、自分に関する肝心なところは鈍いんだもんな。遠回しに言っても気付かないのなら、ストレートに言うまでだけど、愛の言葉であるほどに俺は相当恥ずかしいってこと、そろそろ気付いてくれよ。


「男の左側に立つ意味って、知ってる?」
「うん? 右と左に意味があるの?」
「俺の左側は香穂子だけの居場所だ。一般的に左側は、恋人のポジションって言われているらしいぜ」
「え、衛藤くん! それってつまり私は、あの・・・」
「あんたは俺の彼女だと、大切な恋人なんだと何度も言わせるなよ。言ってる俺だって照れ臭いんだぜ」


本能的に左を庇うって、言っただろう? 守りたい大切な存在だから左にあるんだ、だからこの手は離さない・・・。
誓う想いを繋ぐ手と眼差しに力を込めれば、あっという間に茹で蛸になった香穂子の熱が、握った手の平からも俺に伝わり心と身体を熱くする。そうして左の耳朶をくすぐったのは、俺だけに聞こえた甘く熱い吐息の囁き。
ずっと変わらず隣にいるよ、衛藤くんの左側は私だけの場所だから。真っ直ぐふり仰ぐ微笑みに可愛さは愛しさへと変わる。


トクンと跳ねた鼓動にそっと背中を押されるまま、繋いだ腕を懐へと引き寄せたら今度は右から囁いて、一瞬触れるだけの小さなキスを交わそう。香穂子の右側を歩くのは俺だけの特権だから、今も、これからもずっと。他の奴をヤツを歩かせたら、承知しないからな。