日だまりの香り



「ねぇねぇ月森くん、私ね、すごい発見をしたの。水も形を作るんだね、雨の雫は宝石になるんだよ。指先に乗せるとまん丸に膨らむ透明が水晶みたいに綺麗なの。花も樹も、みんなキラキラしているんだよ!」
「まったく君は、雨が降っているのになぜ傘をささずに歩いていたんだ? 俺が正門前で偶然君に会ったから良かったものの、風邪を引いたらどうする。弱い雨でも長い間濡れたら身体が冷えてしまうんだぞ」

真摯に瞳の奥を見つめて静かに語ると、リビングのソファーに座る香穂子の頬がほんのり赤く染まってゆく。瞳を輝かせながら見た光景を伝えてくれる・・・それは嬉しいのだが、濡れた制服や髪を拭くために俺が手渡したバスタオルを、嬉しそうに抱きしめたままだ。


いい匂いだねと頬を綻ばせる幸せそうな笑顔に、諌めるつもりが何も言えなくなってしまう。まっ白いバスタオルにぱふっと顔を埋めると、胸一杯に香りを吸い込み、抱きしめながら頬を擦り寄せた。ただそれだけなのに、熱さで落ち着かないのはなぜだろう。

照れ隠しに視線を向けた窓の外には、弱く優しい雨が降り続き、しとしとと音もなく霧のように包んでいる。天気予報では雨が降るとは言っていなかったが、空模様というのは実に気まぐれだ。だがそのお陰で香穂子が俺の家に来てくれたのだから、鞄に忍ばせていた折り畳み傘に感謝をしなくてはいけないな。


いや・・・来てくれたというよりも。
傘を持たず雨に濡れた君を帰り道に招き入れ、そのまま連れて帰ってしまったのだが。


確かに霧雨に近い弱い雨なら必要無いかもしれないが、君はいつまで経っても外にいそうな気がしたんだ。空を振り仰ぎながら甘滴を手のひらで受け止めたり、道端に咲く花や葉が宿す露を、楽しげに触れていたのだから。


「朝学校行くときにはとってもいいお天気だったから、傘を持っていかなかったの。でもほら、絹糸みたいに細くてさらさらした雨でしょう? こんな日は水のヴェールに包まれるのも気持ち良いかなって。あ、でもヴァイオリンケースだけはしっかりビニールに包んだから安心してね」
「ヴァイオリンも大切だが、俺は君が心配なんだ・・・君の変わりは誰もいないのだから」


君が嬉しいと俺まで嬉しくなる。香穂子の仕草や表情、奏でるヴァイオリンの音色には、いつも明るく弾ませている心の笑顔が表れると思う。だから俺や周りの心も開き、温かく柔らかな空気を生み出すのかもしれない。

だがいつまでたっても濡れた髪を乾かさないもどかしさと、香穂子を独占するバスタオルに、少しばかり羨ましさが込み上げてくる。俺だって君の心地良い存在でありたいのに・・・。
渦巻くもどかしさや葛藤を鎮めようと小さく溜息を吐くと、持っていた自分のバスタオルを香穂子の頭に被せた。


「・・・わわっ、ちょっと月森くん」
「ほら、香穂子。雨に濡れたのだから、早く拭かないと風邪を引いてしまうぞ」


他人の髪を、ましてや愛しく想う彼女の髪を拭くなど初めてだと我に返り、急に熱さが込み上げ指先が緊張で硬くなるのを感じた。ソファーに座った君と向かい合い、腕の中へ閉じ込めるように髪を拭く近さは、抱きしめているのと変わりはない。だが自分でからは動かずにじっとしているのは、俺を待ってくれているのだろう・・・後には引けないな。
美容師のように心地良くとはいかないけれど、多少の不器用さは許してほしい。


「ん〜お日さまの香りがするね。月森くんのバスタオル、とってもいい香りがする」
「柔軟剤の香りでは無いのか? まだ日が照っていた、昼間のうちに取り込んだそうだから」
「うぅん、違うよ。ふかふかのお日さまが、たっぷり染み込んだ香りかな。えっとね、月森くんの背中に抱きついた時の香りに似ているの」
「・・・は?」


タオル越しに雨で濡れた彼女の髪を拭いてゆけば、くすぐったいのか楽しげな笑い声が聞こえてくる。もそもそと腕の中から身じろぎ、かき分けたバスタオルの中から顔を覗かせると、顔の前に垂れたバスタオルを指先で摘み、鼻先に押し当ててはタオルの感触や香りを楽しんでいた。もっととねだりながら甘えてすり寄り振り仰ぎ、指先の感触が気持良いというその一言が嬉しくて、心も指先も軽やかに弾む俺がいる。


「お日さまの香りとは、どんな香りなんだ?」
「へ?」
「いや・・・その、さっき香穂子が言っていただろう? 気持ち良さそうにバスタオルへ顔を埋めているから、どのような香りなのかと思ったんだ。いつも使っているが、あまり意識したことは無かったから」
「ん〜とね。香りというより感触に近いかな、ふっわふわで温かくて光に包まれるんだよ。お風呂の湯船に浸かっている時みたいに心も身体も蕩けて、あ〜幸せだなって思うの。お日さまを浴びるってとっても大切なんだよ。気持ち良いだけじゃなくて、身体の中へ栄養をくれたり心にも元気をくれるんだって。だから太陽の光をいっぱい浴びたこの子を抱きしめると、幸せな気分になるのかな」


俺の頬にタオルを押し当てながら、お日さまのお裾分けだと愛らしく小首を傾ける無邪気な笑顔に、髪を拭いていた手も呼吸も一瞬止まる。深く閉じ込め抱きしめたいこの衝動を、一体どうしたら良いだろうか?
バスタオルに染みこむ太陽の香りと、俺の背中が同じ香りだと君は言う。それは日だまり包まれた時に君が思うように、つまり俺の事も幸せで心地良いと・・・大切な存在だと、そう感じていると思って良いのだろうか。


一気に込み上げた熱さが身体を駆け巡り、理性の糸が燃え尽きるまであと僅かだ。
お日さまの香り、太陽の香り・・・か、なるほど。
香穂子の頭を覆っていたバスタオルを取り去ると、きょとんと不思議そうに振り仰ぐ瞳へ、緩めた頬笑みを注いだ。ソファーに座る君を正面に立ったまま抱きしめ、膝を折って身を屈めながら、まだ湿り気の残る髪や首元へ顔を埋める。


「太陽の香り・・・良い香りだな、俺は好きだ」
「あの・・・えっとね、ふかふかで気持ち良いのは、私じゃなくてバスタオルなの」
「太陽の光をたっぷり浴びた君も、同じだろう? 洗い上がりのシーツやバスタオルと同じように、柔らかさや温かい気持ち良さが俺を包み込む・・・幸せを手放せないと、思ってしまう」
「月森くん・・・」


見つめる視線に耐えきれず俯くが、恥ずかしさで耳や首まで真っ赤に染まっているのが分かった。胸に湧く温かな想いのままに香穂子と優しく名前を呼びかけると、おずおず振り仰ぐ君を見つめながら身を屈め顔を近づけて。膝の上に置かれ強く握りしめる手にそっと重ね、まだ使われていないそのバスタオルを抜き取った。


肩越しに俺の背後から広げたげた真っ白いバスタオルを、頭上から覆い被せて君を攫い閉じ込めよう。窓の外で降り続く雨も、まだ帰るには早いと言っているだろう?


柔らかい柔軟剤の香りと眩しい太陽の香りが、優しい二重奏を奏でるバスタオルのように。光が染み込み心も身体も元気になれる俺だけの陽だまり・・・それは太陽の光をたくさん浴びた君。二人で包まれた中で額を合わせ、秘密に触れ合うキスも、光を閉じ込めた太陽の味がした。