平気じゃないのはたぶん俺

長いようで短かった一学期が終わり、夏休みが始まった。

夏至を過ぎると太陽は冬への道を歩み始めるのに、夏の暑さはこれからが本番だ。
空に浮かぶ太陽は、周囲を照らす光りの線がきらきらと輝いて、まばゆくて。
見上げる額に手を翳して目を細めながら、まるで君の瞳のようだと思う。


しかしここ暫くは温度と湿度が高く、たまにそよぐ風も熱風となって頬を焼く、炎天のうだるような日々が続いている。玄関や店先で打ち水をする姿を見かけるが、焼け石に水とはまさにこの事だろう。
朝から夜中まで・・・いや、翌朝までこう暑くては、気持ちだけでなく身体もだるくなってしまう。

夏が好きだという香穂子も、さすがに暑さで弱っているのか、どこか元気が無いように見えた。俺の隣を歩きながら振り仰ぎ、嬉しそうな笑みを絶やす事はないのだが、いつものはしゃぎぶりが影を潜めているようだ。



「その後がね・・・って、ちょっと待って蓮くん。また、くしゃみが出そう・・・・・・」


会話を続けようと口を開きかけたところで、ちょっと待ってとそう言って、香穂子は顔を俺と反対側に背けた。
口元を手で覆った瞬間に聞こえてきたのは、くしゅっという小さなくしゃみの音。立ち止まり見守る俺の傍らで、ハンドバックからハンカチを取り出し鼻を押さえて、眉根を寄せながら啜っている。

君はくしゃみの音まで可愛らしいと思うのは、惚れた欲目なのだろうか。


「話の途中だったのに、ごめんね」
「いや、俺は構わないから。それよりも、大丈夫か?」
「う〜・・・・っ。きっと誰かが、私たちの噂をしているんだよ」
「香穂子、風邪を引いたんじゃないのか?」
「そう思いたくないんだけど、やっぱり風邪かなぁ・・・。今朝起きた時から、くしゃみと鼻水が止まらないの」


香穂子が風邪を引くなど珍しいなと思う。
しかも夏に風邪とは・・・ひょっとして疲れが溜まっているのだろうか?

今日一日で何回彼女のくしゃみを聞いただろうか・・・一度や二度ではないのだ。
もしも風邪ならば、こうして一緒に出かけている場合ではない。
君と過ごせないのは残念だが、こじらせないように、早めに戻ってゆっくり休ませなければ。


心配そうにじっと見つめる月森の心の声が香穂子に伝わったのか。
ハンドバックにハンカチをしまうと、ぷぅっと頬を膨らせ、上目遣いで睨むように詰め寄ってくる。
気迫に押されて月森が一歩たじろぐと、ふわりと彼女の瞳が緩み、困ったように小さく微笑んだ。


「蓮くん、お出かけ辞めて帰ろうとしているでしょう。駄目だからね。そんな事したら私、逆に悲しくて寝込んじゃうんだからっ」
「だが・・・・・・・」
「熱はないし喉も痛くないし、他はいたって健康だから心配しないで」
「本当に、何とも無いんだな? どこか辛いところは無いか」


ちょっとだけ、身体が冷たくて重い気がするかな・・・と。嘘の吐けない彼女は肩を竦めながらそう言って。
でも大丈夫だからねと、真っ直ぐ俺を振り仰ぎながら、気合の握りこぶしを作ってみせる。
そこまで言うのなら・・・と頬を緩ませ手を差し伸べれば、嬉しそうに頬を綻ばす香穂子の手が重なった。

しっかりと握り締め合い、微笑む瞳が絡まれば、再び陽射しの中を一緒に歩き出す。




「ほら、毎日蒸し暑くて寝苦しいでしょう? 夜眠れないから、寝る時もクーラーつけてるの。いつもはタイマーをかけているんだけど、切れると目が覚めてまたつけての繰り返し。結局タイマー切り忘れて、朝までずっとお部屋が冷えていたんだよ」
「身体を冷やさないように、ちゃんと布団を掛けていたのか?」
「掛けてた筈のお布団も、寝ている間にどこかへ飛んで行っちゃった。それがいけなかったんだよね、きっと」
「きっとではなく、原因はクーラーだと俺も思う。毎晩の寝苦しさは俺にも分かるが、冷やしすぎは身体に良くない。女性は特に、大切にしなければいけないんだろう?」
「うん・・・でもね、夏は好きだけど蒸し暑っいのは苦手なの。息も出来ないし落ち着かないし、このまま眠れなかったら私がバテちゃうよ。蓮くんどうしよう〜」


泣きそうに瞳を潤ませながら俺を振り仰ぎ、暑くて眠れないんだものと縋るように訴えかけてくる。
君の安らぎを守りたいし何とかしてやりたいが、かといって俺はどうすればいいんだ。

困り果てて気づかれないように溜息を付くと、いつの間にか香穂子はくすくす笑い出していて。
瞳を緩めながらこら・・・と優しく諌め、繋いだ手を身体ごと引寄せれば、甘えるように肩先へピタリと腕を触れ合わせてきた。


「こうして蓮くんとピッタリくっついたり、ぎゅっと抱き締めてもらう時は、どんなに暑くても平気だし気にならんだけどな〜不思議だよね。もっと熱くてもいいって、思っちゃうの」
「・・・もっと、熱く?」
「そうだ! 熱帯夜で凄〜く熱くても、クーラーがキンキンに冷えてても。ぐっすり眠れる方法を思いついたよ!」
「どんな方法なんだ?」
「私が寝る時も、蓮くんに抱き締めてもらえはいいんだよね。お布団が飛んでいっても、放さずにいてくれる蓮くんが温かいから、クーラーつけてても冷たくならないし。例えクーラーが無くたって、一緒だったら私はどんな熱さも我慢できちゃうよ。ふふっ・・・溶けちゃうかもね」


嬉しそうに笑みを見せた香穂子は握っていた手を解くと、代りにぎゅっと俺の腕にしがみ付き、子猫のように頭と頬をすり寄せて来る。ところで、彼女は自分の言っている意味に、気づいているのだろうか。

もちろん俺は構わないのだが・・・というより、願ったりなのだが。
顔に溜まる熱を感じながら続く言葉を紡げずにいると、俺の視線にハッと気づいた彼女が振り仰ぎ、心配そうに見つめてくる。今度は何なのだろうかと無意識に身構えてしまい、溜まる唾液をごくりと飲み込んだ。


「あっ・・・ごめんね。もしかして蓮くんは、暑いの苦手?」
「その、俺は・・・・・・」
「良かった。じゃぁ、このまま腕を組んでくっついていてもいいかな?」
「は!? 腕? あ、いや・・・すまない。こちらの事だ」


何だ・・・突然話が変わるから、俺はてっきり・・・。


香穂子はしがみ付く俺の腕を軽く揺さぶりながら、駄目かな?と小首を傾げて聞いてくる。
表面上では穏やかに了承の笑みを返すものの、心臓が張り裂けそうな程緊張しているんだ。
どうか今だけは、そんなにくっつかないで欲しいと思ってしまう・・・俺の鼓動と熱さが伝わってしまうから。


安心したような、少し残念なような・・・複雑な気持が込み上げてくる。
紛らわしい質問する彼女を責めたい気持でいっぱいだが、勘違いしたと思われるのが恥ずかしい。
小首を傾げてきょとん不思議そうな顔をしている香穂子は、どこまでも無邪気だから余計に手に負えないんだ。
俺がどう思っているかなんて、君は知らないんだろうな。


「・・・蓮くん?」
「あぁ、もちろん構わない。俺も香穂子と一緒ならば、どんな熱さも平気だ。君ともっと熱くなりたいと、求める心の熱さに焦がされそうになるんだ」
「蓮くんも一緒で嬉しい。ほら、暑い日に熱いお茶を飲むと良いって言うでしょう? きっと私たちも同じだって思ったの。だから暑くなったら離れて熱を冷ますんじゃなくて、もっと一緒にくっついていようよ!」
「・・・・・・っ!」
「今日は蓮くんが暑いって言っても、この腕を離さないからね」


いい汗をかこうと・・・そう言いたいのだろうか?

お茶と一緒に考えるとは強引な・・・いや、一理あるような無いような。
しかし大きな瞳を期待に輝かせる香穂子のいう「くっつく」は、一体何処までの事を指すのかと・・・。


俺は半袖、君はノースリーブだから、僅かに汗ばむ肌と肌が絡み合う腕にしっとりと吸い付く。
強くしがみ付くほどに押し付けられ、想いを巡らすほどに感じる柔らかさと温かさが、の中に新たな熱を生み出していった。強い日差しの気だるさなど一瞬で吹き飛ばす灼熱の炎は、俺の心を焦がし、甘く溶かしながら。




君の望むとおりに俺が夜を守ったら、 確かにぐっすり眠れそうだな。
いや、別の意味で間違いなく眠れなくなるだろう・・・俺も、君も。


本当は平気な訳が無いのだと言葉に出せない代わりに、無邪気な君の心の中へ語りかけた。