Happy ever aftre
俺の腕の中で雛鳥のように包まれている君のあどけない寝顔に、啄む唇を降らせてゆく。
穏やかな笑みを湛える安らぎをずっと守っていたいけど、じっとしているだけでは我慢が出来ず、つい悪戯をしたくなる。うん・・・と小さく身動ぎ出すのが愛らしくて、頬に額に鼻先に・・・そして唇へと次々に。
一つ啄み降らせては目覚めたかどうか君の反応を伺い、「朝だ、起きてくれ」と唇で囁くんだ。
朝起きて一番最初に映すのは俺であって欲しいから、ゆっくり開かれた瞳に溢れる微笑みを注ぎ込むと、やがて君の頬にもふわりと朝日が昇る。体重をかけないようにと気をつけながら、そっと覆い被さり唇を重ねてキスをして・・・。くすぐったさに甘い吐息で笑いを漏らす君を優しく抱きしめながら、互いに求めるように摺り合わせる額や鼻先、そして絡んだ前髪で交わすのは「おはよう」の挨拶。
着替えて身支度を整え終わり、シャワーを使ったり顔を洗いに行くのは、支度に時間がかかる香穂子が先の事が多い。俺は後から追いかけるのだが、もうそろそろ良いだろうかと洗面所に降りるこの時間が、とても好きだったりする。心が躍り浮き立つのは、いつも素敵なものが出迎えてくれるからなんだ。
それは洗面所のコップに立てかけられた、二本の歯ブラシ。
どちらも同じ色だから互いが間違わないようにと、一つは先端にリボンが結んであるのが香穂子のもの。歯ブラシは歯を磨く為だけの道具なのに、俺と君のが一緒に並んでいるだけで、とても幸せな気分になるんだ。
ほら、今も・・・。
洗面所に脚を踏み入れると、シンクの前にある鏡に向かい背を向けていた香穂子が、鏡越しに俺に気付いて振り返った。手に持ったフェイスタオル頬を拭いながら、どうぞと言って脇に譲る笑顔が瑞々しくて眩しいのは、顔を洗い終わったばかりなのだろう。まるで朝露に濡れて光輝く花のようだと思う。
脇にどいた彼女が傍らに並んで寄り添い、胸の前でタオルを握りしめながら、じっと俺を伺っている。隣を向かなくても正面にある鏡に映っているし、伝わる気配で分かるんだ。ワクワクと目を輝かせているのは、仕掛けた悪戯の行方を見守っているのだろうか・・・。そう思って期待に頬を緩ませながら、鏡越しに楽しげな香穂子と瞳を交わした。
歯ブラシを取ろうとして鏡の前にある棚へ手を伸ばし、あっと気付いてそのまま止めた。
そうか、君が仕掛けた悪戯はこれだったんだな。
無邪気で可愛らしい彼女の悪戯は、どこか心が温かくなり自然と笑みが浮かんでしまう。
「歯ブラシが新しくなっているな」
「そうなの! 蓮が使ってたのは毛先が開いちゃったから、さっき二本とも新しい歯ブラシに交換したんだよ。この前はブルーだったから、今度は白い色の歯ブラシなの!」
「香穂子のは、まだ使えただろう? 俺に合わせてしまって、すまなかったな」
「うん、確かに後もうちょっと使えたんだけどね。でも蓮と一緒のスタートラインに立ちたかったの。ほら、朝って大事でしょう? 新しい物を使うと気分も引き締まるっていうか・・・心機一転気持ちを切り替えて、お互い頑張ろうね。それよりも、ねぇ・・・ほらっ、もっと他に何か気づかない?」
そう言った香穂子は、両手でキュッと握りしめたフェイスタオルをじれったそうに揺さぶりながら、どこか甘えて拗ねるように見上げてくる。ほんのり頬を染めつつ落ち着かない様子でそわそわしているから、向ける視線の先で答えを教えてくれている。君が仕掛けた可愛らしい悪戯、いや・・・密かな願いを。
だが焦らしてみたかったと言ったら、君は真っ赤になって拗ねてしまうだろうから、胸に閉じ込め黙っておこう。
「あ、あの・・・蓮?」
「もちろん気づいていた。答えはこれだろう?」
「・・・んっ!」
隣にいる香穂子の背を攫い腕の中へ閉じ込めると、驚きに見開く瞳を真っ直ぐ射抜き、熱い吐息で囁いた。
彼女が、何か口を開こうとするよりも早く顎を捕らえ、上から覆い被さるように唇を重ねて・・・。
柔らかさと甘さを味わい感触を確かめるように、呼吸の続く限りしっかりと長い間キスを交わしてゆく。
名残惜しげにゆっくり唇と身体を離し、蕩ける眼差しを向ける頬を手の平で包み込めば、我に返り頬を膨らませて睨んでくる。答えを求めたのは君だろう?と、自分の欲を棚に上げて悪戯っぽく笑みを向けると、火を噴き出さんばかりに顔が真っ赤に染まっていった。そんな君が可愛らしいから、俺はいつでも求めたくなると気づいているのかいないのか・・・。
「もう〜! 昨日の夜も朝起きた時も、溶けちゃうくらいにいっぱいしたじゃない。答えを知ってるのに、絶対わざとやってるでしょう〜蓮のエッチ!」
「君の唇は何度求めても足りないんだ・・・・次から次へと欲しくなる。例えばくっついている俺と君の歯ブラシのように、ずっと触れ合っていたいな。毛先と毛先が正面に向き合って重なり、キスをしているみたいだ。これは香穂子がやったんだろう?」
「う、うん・・・・・・。あのね私、蓮とくっついていた歯ブラシで歯を磨くのが大好きなの。口の中だけじゃなくて心まで磨けて綺麗になれちゃうし、キスをしているみたいに温かくて気持ちが良いんだよ。歯磨き粉の白い泡に溶けて、私までふわふわになっちゃいそうなの」
毛先が器用に触れ合う歯ブラシは、キスをしようと・・・もっと欲しいのだというメッセージにも読み取れるから。
コップに立てかけられた歯ブラシは、上にあるブラシ部分の重さで互いに離れたり、時には同じ方向に倒れていていたりする。それがキスをしているように見えると、最初に気づいて香穂子に言ったのは確か俺だった。
もじもじと恥ずかしそうに両手をいじりながら一生懸命語る君に、今更ながら俺の方が照れてしまう。
結婚して一緒に暮らし始めた頃は、歯ブラシがくっついている度に茹で蛸になって照れていた彼女も、今では楽しそうにわざとくっつけてくるんだ。二本とも手に取り、リボンが付いている方を香穂子へ渡すと、毛先を掲げて向ける。すると嬉しそうに笑みを咲かせた香穂子が、乾杯をするように触れ合わせてきた・・・口で鳴らすチュッという愛らしいキスの音と共に。
こんな朝のひと時が胸一杯になる程幸せで、溢れる温かさに心が熱く震えてくる。
「ねぇ、私が初めて蓮の家にお泊まりした時の事、覚えてる?」
「あぁ・・・お互いにまだ高校生だったな。俺の家も君の家も家族が不在で、まだ未成年だから外泊はいけないと分かっていながらも、君を返さずにすむと・・・想う心が止められなかったのを覚えている」
「いつも遊びに来ているのに、初めてのお泊まりで凄く緊張してたの。私ったら落ち着かなくてソワソワして、蓮に笑われちゃったよね。私の為に蓮が歯ブラシを用意しておいてくれたでしょう?」
「買い置きであった予備だったから、俺と同じ物だったな。間違わないようにリボンをつけたのも、それがきっかけで今も続いている・・・」
「私の歯ブラシが蓮の家の洗面所にある・・・泣きたいほど温かい気持ちになれて、幸せだった。歯ブラシ見るとね、いつもあの時感じたときめきを思い出すんだよ」
一緒に生活しているみたいで、夢が叶ったみたいで凄く嬉しかったのだと。手に持っていた歯ブラシを、隣で愛おしそうにじっと見つめる香穂子の穏やかな眼差しは、鏡に映る俺と同じ光や色をしていた。甘く締め付けられる胸の疼きは、あの当時も今も変わらない・・・これからもずっと。
特別に用意した歯ブラシは香穂子専用になって、その後もこっそり泊まる度に使っていた。
普段は見つからないように俺の部屋へ隠しておいたが、いつかは隠すことなくずっと置いておきたいと・・・。
目覚めた時に君がいて、食事も生活も共に暮らせた一時をこの先の人生かけて永遠の物にしたいと。
俺と君の歯ブラシを並べて眺めながら、どれだけ想いを巡らせただろうか。
肩先に温もりと柔らかさを感じると、隣に佇んでいた香穂子が甘えるように身体を預けてきた。
小さな重みを受け止める俺からは君の横顔しか見えないけれども、目の前にある鏡には心地良さに満ちた微笑みが映し出されている。普段見られない表情に緩む瞳と頬で愛しい想いを伝えれば、鏡の中で互いの視線が甘く蕩け合った。
「蓮・・・」
「どうした、香穂子」
「学内コンクールの時に初めて蓮に会った時、今こうしてお揃いの歯ブラシを使う日が来るって思ってた?」
「そうだな・・・君に出会って心の奥で予感のようなものはあった・・・何かが大きく変わると」
「一緒の歯ブラシを使ったあの日は?」
「未来の姿が見えたんだ、俺が目指す先がはっきりしたと言っても良いな。夢のようなひと時で終わらせたくなかったから、必ず光の先を俺の手で掴みたかった」
「私もね、心の中にピタッて何かの欠片がはまったの。きっと私たちの大切な始まりだったんだね。お客様用じゃなく家の一部として、いつでもずっと置いてあったらいいなって思ってた。蓮と一緒に使った歯ブラシの数だけ・・・今は幸せい〜っぱいだよ」
肩先で振り仰ぐ泣きそうに潤む大きな瞳に微笑みを注ぎ、僅かに身を屈めて触れ合う額で愛撫をする。
そう言えば初めて君と一緒に迎えた朝も、同じ歯ブラシに出迎えられ、こうしてお互い肩を並べて歯を磨いていたな。歯を磨きながら触れ合う肩先に鼓動が跳ねたり、鏡に映る自分たちが照れ臭さで直視出来ないほど、熱く赤くなっていたけれど。二人の心の距離が、ぐっと近くになれたあの時を、俺も忘れない。
二人で一緒に暮らし始め、それぞれの生活が一つになった日に、歯ブラシも新しくなって。
君に渡した合い鍵と同じように、光り輝き眩しかった俺と君。
こうして君と一緒に暮らすようになってから、何本目の歯ブラシになるだろうか?
すぐには数え切れないくらい、一緒に日々を重ねているという事だろうな。
共に暮らす象徴だから、俺のだけでなく君のも大切にしたいと思う。
今は俺と君の二本だけだが、いつかはもう一本二本とここに加わるのだろう。
コップに立てかけられた同じ色の小さな歯ブラシに、一瞬驚いて瞬きをしたけれども何も見えず・・・幻だったのかと眺めても空のコップがあるだけ。
僅かに開いた未来の扉に想いを馳せて、棚から取り出した歯磨き粉をブラシに乗せた。
私にもと笑顔で横から並べて差し出す、君の歯ブラシにも一緒に・・・・。
サイト8万Hitsのキリ番申告がいらっしゃらなかったのでリクエスト権を募った所、朱夏さんから素敵なリクエストを頂きました。最初は恋文だったのですが、UP予定のお題と重なってしまう事からご無理をいってリクを変えて貰いまして・・・(汗)。結婚後の二人が高校生の時の話をしているところで、香穂子が「初めて会ったときにこうなるって思った?」と月森に聞いている所・・・でした。
あれあれ??
書き終わってみると、同じ初めてでもちょっと違う初めてになってしまいました〜すみません!
こんなもので恐縮ですが、朱夏さんに日頃の感謝を込めて贈ります。ありがとうございました。