ハロウィンにヴァンパイヤのKissを
部屋の隅にある小さな黒い影・・・背を向けながら丸くなる黒猫に衛藤が歩み寄れば、ピクリと肩を震わせ身を固く警戒心をむき出しにしてしまう。胸に刺さる小さな痛みは、すぐにでも抱き締めたい震える背中と、漏れ聞こえる吐息が、声を殺して泣いているのだと分かったから。首に付けた鈴の音色がチリンと響けば、伏せた顔を上げて肩越しにちょっとだけ振り向くけれど。潤んだ眼差しのまま必死に強がりながら、黒い子猫は再びフイと顔を背けてしまった。
「・・・私、信じてたのに・・・」
「香穂子、驚かせて悪かった。だから、もう泣くなよ。こっち向いてくれないか?」
この状況だけ見ると、無理強いして泣かせたみたいなんだろうなと、溢れる溜息が苦笑に変わる。ハロウィンだからカボチャのケーキを焼いたのだと、自信作を俺の家まで届けてくれた香穂子を玄関先で驚かせてしまい、ついさっきまで同じようなセリフと光景を、家族の前で繰り広げたばかりだっていうのに。
香穂子の悲鳴を聞いた母親と弟の幹生が駆けつけ、「お兄ちゃんが泣かした!」と頬を膨らませながら俺を諫め、香穂ちゃん大丈夫?と一緒にしゃがみ込んで慰めていたり。今ではすっかり母親のお気に入りとなった香穂子を背に庇いながら、「桐也、あなた香穂子ちゃんに何をしたの!?」と二人に責められて・・・。
落ち着きを取り戻した香穂子の腕を強引に掴むと、家族に攫われる前に自分の部屋に連れて行き、やっと一息ついたと思ったら部屋の隅に隠れてしまった。家族の誤解を解く自分は、ものすごく必死だった違いない。今思いだしても恥ずかしさで顔が熱くなる。きっと親父が仕事から帰ってきたら、夕食の席でこれをネタにされるんだろうな。溢れる溜息が、苦虫をかみつぶしたような眉間の皺へと変わった。
「香穂子・・・」
「意地悪する桐也は、嫌いだもん」
「俺は、あんたが好きだぜ」
「せっかく作ったカボチャのケーキも、桐也にはあげないんだもんね」
「いいよ、ケーキの代わりに俺はあんたを食べるから」
数歩進んでは立ち止まり、また進んでを繰り返しながら距離を詰めてゆき、片膝を折って傍に座る。ようやく届いた手でそっと髪に触れてみると、いつもなら気持ち良さそうに甘えてくるのに、顔を伏せたまま嫌いやと横に振るばかりだ。
行き場を失った手をゆっくり引き戻すと背後で強く握り締めて。伏せた顔の中から聞こえるすすり泣きを、じっと見守りながら、代わりに心の手であんたを抱き締めさせてくれ。
「ハロウィンにはカボチャとコウモリさんなの。みんなで可愛い仮装パーティーをしたり、お菓子をもらえる楽しい日だって信じてたのに・・・」
「それは日本のハロウィンだろ、仮装は驚かすものじゃん。本場アメリカのハロウィンって言ったら、グロイ・キモイ・ヤバイの三拍子なんだぜ。なんたって、死人が蘇る日だからな。やっぱハロウィンには、ホラーがつきものだろ」
「えぇっ、そうなの! ハロウィンって怖い日なの!?」
「日本は8月のお盆に、ホラー映画や怪奇特殊番組をテレビでやるけど、アメリカはハロウィンにやるんだぜ」
原色緑なゾンビクッキーとか、目玉の形をした肉団子スープ。千切れた手足の形をしたマッシュポテトに、ケチャップをかけて食べる料理もあるんだぜ。アメリカって凄いよな、もちろんあんたが喜びそうなカボチャやチョコもあるけどね。記憶を探りながら指折り数えると、泣きはらした目でじっと見つめていた香穂子の、大きな瞳から見る間に滴が溢れ出した。
いくらポテトだと知ってても手や足は食べられないよ!と、強気で噛みつく香穂子の頬を手で包み、止まらない目尻の涙を拭う。頬を伝うその跡を指先でなぞり唇まで辿り着いたら、ごめんの気持ちを込めて優しくキスを。あぁもう泣くなよ、あんたを怖がらせた俺が悪かったから。
「桐也がドラキュラになってくれるっていうから、格好いいんだろうなって、すごく楽しみにしてたんだよ。それなのに・・・」
「なっ、良く出来てただろ。ゾンビのマスクを取ったら、香穂子が希望してたドラキュラの登場ってわけ。牙は仮装用のゴム製だし、血糊は学院の演劇部から借りたんだ。どう? 首筋に噛みつくとこまでサマになってただろ」
「絶対に、タキシードにマントだと期待してたのに〜。でね、翻したマントの中へふわっと抱き締めてくれるの!」
「映画の見過ぎだろ、それ」
「私が怖いの嫌いって知ってるのに、玄関開けたらいきなり驚かすんだもん、酷いよ桐也。怖いマスクで壁に迫るだけでもびっくりだったのに、マスク取ったらドラキュラの牙と血だらけメイクだなんて、心臓止まるかと思ったんだからね!」
真っ赤に染まった頬で唇をきゅっと引き結び、ポスポスと俺の胸を叩くあんたは、駄々を捏ねる子供みたいだぜ。まぁ、そうさせたのは、俺だけど・・・。どれだけ驚いて怖かったのか、上手く言葉に出来ない想いを真っ直ぐ伝える香穂子を抱き締めて、穏やかな呼吸を導くように背中を優しく叩いてあやす。
痛みよりもくすぐったさを堪えるのに必死だなんて、今伝えたらもっと拗ねそうだから、黙ってた方が良さそうだよな。甘い疼きが熱に変わって、愛しく思えてくる。泣き顔も拗ねた顔も可愛いのは、俺だけにしか見せない特別な顔だからなんだよな。
「可愛い格好しちゃって、それ黒猫だろ。あんたに似合ってる、マジで可愛い」
「うん! そうなの。黒いミニスカートのワンピースにね、小さな尻尾を付けてみたんだよ。さすがに猫耳は恥ずかしかったから、大きな黒いリボンを髪の後に結わえたの。ね、こうするとリボンのとんがりが猫の耳みたいでしょ?」
「あんまり可愛いと、ハロウィンの夜に蘇るゴーストに、攫われちまうぞ」
ジャケットを羽織っている時には分からなかったけど、ワンピースは肩とデコルテを大胆に出したチューブトップタイプ。太腿を惜しげも無く晒した黒いミニスカートのワンピースに、膝より少し上丈黒のニーハイ。動く度にちりちりと涼やかになる音色は、レースのついた首の黒チョーカーにある金の鈴。
くるりと後を向いて披露するスカートには、黒猫のこだわりである、お手製の黒い尻尾が縫いつけられていた。似合うかなと小首を傾げる度に、さらりと流れる髪の隙間から覗く、白い肌に吸い付きたい衝動を必死に押さえているなんて、あんたは知らないだろうな。機嫌を取り戻した香穂子が満面の笑みで頭のリボンに触れると、猫の仕草に見えてくる。
「ねぇ桐也。ゴーストに攫われたら、食べられちゃうの? 痛いの・・・かな」
「・・・っ! ゴーストに奪われる前に俺があんたを攫うけどね。可愛く言われたら、本当にこのままあんたを食べたくなるじゃん。俺に、食べられてみる?」
「へ? あの、えっと・・・」
「何でもない。言ってる俺の方が恥ずかしくなってきた」
そっと腰に回した手を引き寄せたら、膝の上に座らせるように向かい合わせで抱き締めた。腕の中からちょこんと見上げる頬が、ごにょごにょと口籠もりながら真っ赤な茹で蛸に染まってゆく。抱き締める香穂子と自分の熱さ、二つの炎に焼かれる理性は、いつまで耐えられるだろう。
鼻先が触れ合う近さで互いの吐息を熱く感じながら、一瞬の沈黙の中で鼓動だけが耳から激しく聞こえてくる。
好きだという想いや、一つに溶け合って伝えたい気持ちが溢れた証のように。
「そうだ、えっと・・・まだ言ってなかったよね。ハロウィンの合い言葉、トリック・オア・トリート。私ね、とっておきの甘いお菓子を用意してきたの。まず最初は桐也から言って?」
「何だよ突然、トリック・オア・トリート。これでいいのか」
「うん!」
丸めた手で鼻先を柔らかく撫でながら、膝の上で無邪気にじゃれる甘い眼差しの子猫。悪戯な唇が背伸びをしてキスを啄むと、驚きに目を見開く俺にニャンと鳴く・・・鼓動が高鳴り身体中が熱くなって、あんたを求める血が騒ぎ出すんだ。
美味しい?と、少し照れながらの上目遣いに見つめられたら、何度でも食べたくなるじゃん。
「あのね、私・・・桐也になら食べられても、良いよ」
「香穂子・・・」
「トリック・オア・トリート!」
「は!?」
「桐也からも、私だけの甘いお菓子が欲しいなぁ・・・ダメ?」
長い髪を片方にまとめて、少し頭を傾けながらちょこんと首筋を差し出し、ここにお願いと差し出すのは、ヴァンパイヤが噛みつく首の根本。どうしたんだよ、いつもは恥ずかしがるのに珍しく積極的じゃん。
どんなに強気に出ても、飛び出しそうな心臓と熱を帯びる顔は嘘をつけない。嬉しさと照れ臭さを感じながら、深呼吸で宥める。欲しいと求めながら、いざどうぞと言われるとどうしてこんなに緊張するんだろう。でもあんただって、ものすごく勇気を出して羞恥心と戦っているのは、真っ赤に染まった耳や首筋から分かるから・・・。好きなヤツ思われる嬉しさに、心の底から熱くなる。
「桐也にヴァンパイヤの仮装がいいなって言ったのはね、桐也のしか考えられないくらい、私の中をイッパイにして欲しかったからなの。ほら、ヴァンパイヤに血を吸われた人も、ヴァンパイヤになるでしょ? 一緒になりたいっていうか、溶け合うってどんな感じだろうとか。あんな感じで、チュッと・・・ね」
「香穂子が黒猫なのにも、意味があるのか?」
「猫になったら、桐也のお膝で丸くなれるもの」
「俺に食べられに来たってわけ、珍しく積極的じゃん。キスだけじゃ、すまないかも知れないぜ?」
最後の理性をかき集めて砦を築くけれど、恥じらう桃色の頬がコクンと頷けば、簡単に崩壊してしまうんだ。
香穂子が望んでいた、マントを羽織ったヴァンパイヤみたく、大きく背を浚ってしなるほど強く抱き締めて。覆い被さるように身を屈めると、首筋に唇を寄せてキスをする。最初は軽く触れるだけのキスだから、くすぐったいと笑みを零す香穂子が身動ぐのを、抱き締める腕で封じながらもっと先を求めてしまう。
ヤバイ、マジで可愛い・・・止まらない。
今の俺は、本当にあんたの首筋に噛みつきたいドラキュラだぜ。
押しつけたり強く吸い付けば、小さく身体を震わせ、脳裏が焼き切れそうな甘い吐息がこぼれ落ちた。
首筋に咲いた赤い花は、ハロウィンに咲いたヴァンパイヤのKiss。
吸い付く唇は全てを吸い尽くし、首筋をなぞりながら胸の奥へと。