はじめて

「すまない、待たせてしまったか」
「うぅん平気、今来たところ」
「じゃぁ、帰ろうか」


放課後は正門前で待ち合わせ。
自然に当たり前のように互いに手を差し出して、しっかりと手を繋ぎ合う。優しく微笑んでくれる瞳に、気付くと私も笑顔を返している。他愛もない会話を交わしながらの学校からの帰り道は、心の中がほんの少しくすぐったくて、どこか暖かい。ようやく二人になれたね、って安堵感があるのかな。


コンクールが終わり、蓮くんと付き合うようになってから数ヶ月が経った。
お互いの進展はのんびり、マイペースに。
照れくさかったけど、最近やっと人前でも、自然に手を繋げるようになったんだよ。
でも、当然キスはまだなわけで・・・。


一緒に日々過ごすうちに、あなたの「大好き」がどんどん増えていく。
あなたの事を考えたり側にいるだけで、心の中が暖かくなって、浮かんでるみたいにフワフワしてくるの。
それだけで満たされていた筈なのに、最近ちょっと違うんだよね。


蓮くんが大好きだって想うたびに、私の中から想いが溢れ出しそうで、どうしたらいいか分からない。呼吸が止まってしまう程に、胸が苦しくなってギュッと締め付けられる。


見つめる視線はとても甘いのに、繋いだ手のひらから伝わる温もりはこんなにも暖かいのに、体温を感じる程しっかり寄り添ってくれているのに、なぜかもどかしい思いばかりが積もっていく。
物足りないかな・・・って時折思ってしまうの。
私、欲張りになっちゃったのかな?


香穂子は隣の月森をチラリと見上げた。
長い睫毛、端正な目鼻立ち、サラサラの髪の毛、間近でみるとドキドキしてしまう。
穏やかに笑みを浮かべる月森の形の良い柔らかそうな唇に、視線が止まった。吸い寄せられるように目を離すことが出来ないでいる。
きっと触れたら熱いんだろうな・・・。


一歩近づくともう一歩、もっともっとあなたに近づきたくなる。繋いだてのひらから伝わる、優しく暖かい温もりだけでは足りなくて、熱く確かな繋がりが欲しいと願わずにいられない。
触れるか触れないか互いの距離が凄く縮まっている時。吐息がかかりそうな程の近さで、甘い雰囲気のまま引き寄せられるように・・・ってニアミスは何度かあるけど、いつもそこまで。直前で我に返ったように止めるのはいつも蓮くんの方。
私、気付いているんだよ。そんな時決まって蓮くん、思い詰めたように切なそうな表情を見せるの。


やさしい彼の事だから、私の事を考えてくれているんだと思う。傷つけないように、怖がらせないようにと・・・。
きっと心を強い理性でねじ伏せて、思い留まっているに違いない。
もっと、強く求めて欲しいのに・・・。


待っているだけでは駄目だ、自分からも一歩踏み出さなければ。
互いの間にある、見えない境界線のようなものを越えなければ、二人ともこの先へは進めない。どちがかが、自分の意思で越えなければいけないのなら、私が越えてみせる。
もうぐ交差点にさしかかってしまう・・・迷っている時間は無い。



「香穂子、どうした?」
「ねえ蓮くん、借りてたCD今日返してもいい?」
「あぁ。かまわないが」
「ずっとかりててゴメンね、もうすっごく良かったよ。それとね・・・聴きたい曲があって、また借りたいCDあるんだけど・・・いいかな?」


琥珀色の瞳に自分が映っている。彼の視界には私しかいないことの証に、ざわざわと心が疼き出す。
じっと見つめられる視線に
彼は言葉の裏に隠した、私のサインを読みとってくれるだろうか。


「・・・・・・じゃぁ。これから俺の家に来るか?」
「・・・うん」


繋いだ手に込められた力が、さっきよりも強くなった気がした。
期待して、いいの?
もう少し蓮君と一緒にいられ.る。
遠ざかる交差点を横目で振り返り、後戻りはできないんだと、心に強く言い聞かせた。




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月森家のリビングにある膨大な数のCDを前に、香穂子は感嘆の溜息を漏らして、しげしげと眺めた。


「いつ見てもやっぱり凄いな〜羨ましいよ。でもこれだけあると、どのCDがあるのか分からなくならない?」
「そんな事はない。たいていのものは、ちゃんと記憶してある。それより、香穂子の捜し物はどれだ?」
「ハイフェッツの復刻版。この間来た時に確かこの辺りで見たんだけど・・・う〜ん、おかしいなぁ」
「俺も好きだな。ハイフェッツの曲は良く聞くんだ。そういえばそのCD、先日聴いて別の場所に戻した記憶が
あるんだが・・・」


床に座り込んでCDを探す香穂子の隣に、月森も腰を下ろした。記憶を遡りながら棚の一列、CDの一枚を一緒に探していく。互いに反対の側から順に見ていくと、やがて中程にある一枚のCDに目がとまった。


『あった!』


二人同時に手を伸ばし、CDを前に手が触れ合った。
ハッと気付くと息も掛かりそうなくらい近い距離に、月森の顔があった。
CDを探すことだけに神経を集中していたせいか、突然私の世界に現れた彼に、体中の全神経が集中する。
それは月森も同じようで・・・。


瞳の奥まで絡み合う視線。
呼吸が、空気が、時を止めたように静まりかえった。
何も考えられない・・・考えていないのに少しずつ、吸い寄せられるように互いの顔が近づいて行く。鼻先が触れそうな程になる所で、香穂子は瞳を閉じた。


「・・・すまないっ」


月森は慌てて身体を離すと、顔を逸らして立ち上がった。
・・・また同じだ・・・・・・。
どうして触れてくれないのと、喉の先まで出かかった言葉を喉の手前で呑み込んだ。
子供みたいな駄々をこねてるみたいだって分かっているけど、もう耐えることが出来なかった。
頭を冷やすためなのか、その場を離れようとする彼を、香穂子は引き留めた。


「蓮くん、待って!」


月森の両肩に手を添えて、縋り付くように背伸びをすると、そっとキスをした。包み込むように、優しく。
蓮くんの唇、やっぱり熱くて・・・柔らかい・・・・。
ゆっくりと唇を離し、驚きで目を見張る月森の腕をぎゅっと掴んで、俯いた。


「っつ・・・香穂子」
「蓮くんの・・・・・・いくじなし・・・・・・」


俺たちの初めてのキスを、まさか香穂子の方からしてくるとは!?
香穂子からのキスという予想外の展開に、月森は顔を朱に染めて動揺した。
しかし聞き逃してしまいそうな小さな囁きであったが、確かに耳に届いてきた言葉を聞くなり、すっと瞳の色を変化させた。瞳の奥に、揺らめきだした炎を灯して。


「いいのか、そんな事言って。触れてしまったら、もう止まらないかも知れない。どうなってしまうか、自分でも分からないんだ」
「我慢、しないで・・・。蓮くんだけじゃないんだよ、私だって!好きって想うたびに苦しくて切なくて、これ以上溜め込んでいたら、壊れちゃいそうだよ!」
「香穂子・・・」


香穂子の少し潤んだ縋り付く瞳と、紅潮した顔が醸し出す艶やかさに、痺れにも似た感覚が頭の先からつま先までを走り抜けるのを感じた。もう、何も考えられない・・・。
月森はかすかに残っていた、最後の理性を振り捨てた。
あごに指を添えてそっと上向かせると、香穂子は静かに瞳を閉じた。
背を抱き寄せて、覆い被さるように唇を重ねた。


始めはほんの一瞬、優しく触れるだけ。


一呼吸置いた後、後頭部に手を掛けて頭を支えられ、再び唇に覆い被さってきた。
ぎこちないながらも、少しずつ位置を変えながら押し当てられる唇が、熱を持ち始める。乾いていた互いの唇は、すっかり潤んでしまっていた。先程とは打って変わって情熱的な口付けが、香穂子を翻弄する。
息をするのも苦しくて、一瞬離れた隙に空気を吸い込むと、開いた唇から下を差し入れてきた。
探るように口内をまさぐられて、甘い電流が体中を駆けめぐり、頭の中まで真っ白になる。


初めてだから、キスの仕方なんてもちろん分からない。
もっと軽いものなのかと思っていたけど、溜めていた想いが深かった分、口付けも情熱的になるのだろうか。
でも本能なのか身体と唇は、自然に相手を求めて、そして答えていく。
蓮くんの口吻に答えるうちに、夢中になってしまう。
甘い痺れのせいで、背と後頭部を彼に支えられていなければ、きっと立っていられない。そう思って、残る力の全てで縋り付いた。


いつも優しい微笑みの陰で、今までこんなにも熱い想いを心に溜めていたんだね。
一気に溢れだした熱は私の中に流れ込み、心の中のわだかまりごと焼き尽くしていく。
強く求められるのがこんなにも、「愛されてる」って実感できるとは思わなかった。



初めてのキスは熱く情熱的で、吐息をも奪うほど長いものだった。