始まりの合図のキス

光りの雨のように降り注ぐシャワーと立ち込める湯気、君の楽しげな歌声に乗って宙を舞うシャボン玉。雲のように真っ白い泡は、僅かの身動きや吐息に吹かれ風花となる。近くにいる君が遠くにいるように思えるほど、シャワーの飛沫や白い湯気に包まれて。互いの声は、二人だけの小さな空間に木霊し、柔らかく響き渡っていた。

入浴剤や石鹸、シャンプーなど・・・お気に入りなものたちに囲まれる入浴は、香穂子が一番好きな時間だ。




白く泡立ったスポンジが俺の背中へ絵を描くように、緩急付けて滑ってゆくのは君の言葉。伝わる楽しさの波動は、シャワーのお湯と同じように心を芯から温めてくれる。だが華奢な君は俺の背中を流すために隠れてしまい、どんな表情をしているのか見えないのが残念だ。つられて自然に浮かぶ微笑のまま肩越しに振り返ると、僅かに頬を染めて手の動きを止めてしまった。


「楽しそうだな」
「やっ・・・こっち見ちゃ駄目! 私が蓮の背中を流している間は、ちゃんと前向いてて欲しいの」
「すまない。香穂子の顔が見れないのが、我慢できなかったんだ。香穂子だって、俺が君の髪を洗ったり背中を流している間は、じっとしていないじゃないか」
「そ、そうれはそうだけど・・・。だってじっとしてると気持ち良くって、寝ちゃいそうなんだもん」
「俺も香穂子に背中を流してもらったり、シャンプーをしてもらうのは好きだ。自分でやるよりも心地がいいから気持ちは分かる。だが眠ってしまっては、この先困るんだ」
「お風呂じゃ寝ないもん・・・寝たくないのに、いつも私を動けなくするのは蓮じゃない。だから見ちゃ駄目!」


泡立ったスポンジを胸の前で握り締めながら頬を膨らませ、めっと諌めるように睨んでくる。顔を真っ赤に染めて肩を掴み、方向を変えようと必死に急き立ててくるのは恥しさからなのだろう。風呂に入っているのだから、俺も君も生まれたままの姿な訳で・・・・そう思うと、忘れていた熱さが込み上げるようだ。些細なやり取りが、浴室内へ漂うシャボン玉のように心を浮かび上がらせる。


白さの中で互いに肌を晒すのはベット上でも同じなのに、浴室では無邪気に振舞う君が俺の心を激しく揺さぶる。
好きなものに囲まれる楽しさが勝つに余裕が生まれるのか、それとも互いの状況が気にならなくなる程夢中になってしまうのか。音楽以外には、風呂と食事と寝る時がこの上なく幸せを感じる瞬間らしい。本能のままだなと苦笑が込み上げるが、だからこそ彼女の魅力がいっそう引き出され、手に入れたいと願うのだろう。浴室は、彼女の聖域だと思わずに居られない。



グレープフルーツとミントが混ざった、夏向けの爽やかな香りを胸いっぱいに吸う香穂子は、新しく手に入れた石鹸の泡立ちと香りにご機嫌だ。身体を正面に戻すと俺の背中からひょいと小脇に顔を覗かせ、頬を綻ばせながら鏡越しに泡立つスポンジを披露してくる。桜色に染まった頬が膨らみ、愛らしくすぼめられた唇から吐息が吹きかけられると、良く室内へ真っ白い羽根が無数に飛び立った。


洗い立ての長い髪が邪魔にならないように、ヘアバンドのように細く丸めたタオルで一つに束ね上げている。先ほど俺が洗ったばかりの赤い髪・・・指先が今でも感触を鮮明に思い出し熱く疼いてしまいそうだ。惜しげもなく晒される白い首筋が艶めかしくて、視線が引寄せられずにはいられない。




「最初は凄く恥しかったけど、もう毎日こうしているからだいぶ慣れたかなって思うの。私ね、蓮と背中流し合いっこしたり、シャンプーするの大好き。特にシャンプーが気持ち良くて寝ちゃいそう。ヴァイオリン弾いてるから頭皮のマッサージも絶妙な力加減があるっていうか、まるで美容師さんみたいだよ」
「香穂子に喜んでもらえて嬉しい。面と向かって話せない事も、背中越しなら心から自然に溢れ伝えられる。スポンジから生まれる泡のように・・・そんな気がする」
「蓮の背中ってずっと見ていたいし、安心するの。流しながら抱きつきたくなっちゃうのを、ぐっと我慢してるんだよ」
「背中から抱きつかれるのも好きだが、俺は正面から香穂子を抱き締めたい」
「・・・・・・・前側は恥しいから、私も蓮も自分でやるの。流すのは背中だけ、そこまで出来ないよ・・・」


強く押し付けるようにゴシゴシと力を入れて背を擦るのは、きっと羞恥心を堪えて拗ねる言葉の代わりだろう。
首だけを巡らせ振り仰ぎ、膝立ちで背後にいる香穂子を見つめれば、予想通りに真っ赤な頬を膨らませ唇を尖らせている。香穂子と優しく名を呼び微笑めば、やがて少しずつはにかんだ笑顔を取り戻し、小さく笑いながら瞳を上から覗き込む。後ろ向きのまま片手で頭を抱きこむと、ゆっくりと彼女の唇を自分のそれへと導いてゆく。





肩を掴む指先に込められた、言葉にならない求める力。
唇に触れる柔らかな温もりが、髪から滴り頬を伝う水滴のように、熱い雫となって心へ静かに降り注いだ。
鼻先の触れ合う近さでかかる甘い吐息が、グレープフルーツミントのシャボンと一つに溶け合ってゆく。


「んっ・・・・・・・」


互いに熱さが募りもっとと求めてしまうのは、深く絡み合うキスが生む水音や吐息が、浴室という空間でやけに大きく響くから。ならばこのまま泡と一緒に俺たちも、全てを重ねて溶け合ってしまおうか。
絡まる瞳を離せないままでいると、我に返った香穂子が慌てて後ずさり、両手で胸を押さえながら床へペタリと座り込んでしまった。お湯でのぼせたのかと心配になったほど火を噴き、浅く早く肩で呼吸を整えている。


「香穂子・・・?」
「あっ、あの・・・突然ごめんね、心臓張り裂けるかと思っちゃって・・・・そうだ! 今から蓮の背中にメッセージを書くから、私が何を書いたのか当ててね」
「メッセージ?」
「うん! しかも蓮のキスが嬉しかったから、泡を二倍に増量だよ」


そう言って焦りを隠す満面の笑みを浮かべた香穂子は、落としたスポンジをいそいそ拾うと、石鹸を更に泡立てた。
何を始めるのだろうかと眉を寄せる俺に、ね?と促す愛らしい小首を傾ける。ワクワクしている手の動きが滑るスポンジから伝わり、先程よりも背中の感触が妙にくすぐっく感じるのは何故だろう。

渦を描いた動きと真っ直ぐな縦の直線、僅かなカーブや小さな丸・・・ひょとしてこれは。


「今のはト音記号だろうか?」
「ピンポーン大正解! じゃぁ次は何かな〜どんどん行くからね」


正解にはしゃぐ香穂子の様子に、いつもの彼女だと安堵の溜息が一つ零れる。俺の背をキャンバスに見立てた質問は、音符や短い単語たちと続いてゆく。“かほこ”という三文字の名前、そして俺の“れん”という二文字の名前・・・。
全問正解に気分も高鳴るところへ、どうやら君から最後の質問が来たようだ。最後はちょっと長いぞとイラズラっぽく聞こえた響きが溶け込む湯気。どんな質問だろうと答えてみせる、背をすべるスポンジの動きに身を任せるまでだ。

全問正解の御褒美は君だと、信じていいのだろう?



「・・・・・・・・・・・・!?」
「さぁ、答えは何かな〜」


ふふっと楽しげに綻ぶ小さな小鳥のさえずりが耳を掠める・・・これは参ったな。
そう思うのは書かれた言葉は「だいすきv」という平仮名四文字と、背中いっぱいに描かれた大きなハートマークだったから。手の動きと撫でる優しさで分かった、香穂子が背中越しに伝えた愛の言葉。


何を書いたと思う?と俺の肩に手を置きながら寄りかかり、首を巡らせ顔を覗いてくる香穂子。大きな瞳を期待で輝かせどこか甘える君に嬉しさを隠しきれず、緩んだ口元のまま肩越しに振り返り、頬を触れ合わせた。


「答えはこれだろう?」
「んっ・・・・・・!」
「だいすき。そして君のキスの代わりとなる、ハートマークつきだ」


片手をまわして頭を後ろから抱え込み引寄せると、再び触れるだけのキスを送った。今度は軽く・・・でも唇の奥に眠りかける種火を呼び覚ますように。不意打ちのキスに驚き一瞬目を見開いた香穂子だが、すぐに頬を綻ばせ喜びを全身で表現してきた。おめでとうと拍手を送ると素早く立ち上がり、クス玉の代わりにとそう言ってシャワーの栓を思いっきり捻ってくる。

真上から勢い良く降り注ぐ水流に痛さを感じて顔を背け、濡れた髪を掻き揚げていると、軽い衝撃を背中に感じて前にのめりそうになってしまう。何とか堪えながら抱きつかれたのだと察すると、柔らかい二つの温もりがぴったりと押し付けられてきた。


「凄い〜! 蓮ってば全問正解だよ!」
「うわっぷ・・・・・こらっ、香穂子。シャワーのお湯を全開にしたまま、抱きつかないでくれ」
「何か言ったー? 水流の音で、蓮の声がよく聞こえないのー!」


素肌の背中で直接触れ合う肌と肌が、お湯に包まれしっとりと吸い付いてゆく。お互いが元は一つだったのだと伝えるように心地良く、眩暈が起きそうだ。駄目だ・・・このままでは俺の理性が持たないかも知れない。
身の内から溢れる熱さに焼かれ鼓動が高鳴り、浅く早く息が上がりかけるのは湯にあたったのか。それともまたいつものように、君にのぼせてしまったのか。




抱きつく香穂子を半ば背負ったまま手探りで、何とかシャワーの栓を探り当てると素早くお湯を止めた。
静寂の戻った浴室にほっと溜息を吐き、脱力感さえ覚える俺を、きょとんと不思議そうに見上げる香穂子の無邪気さが少しだけ恨めしい。俺の気持ちを察しているのかいないのか、ならばどう君に伝えたら良いのだろう。


背中を流してくれた泡は、先ほどのシャワーで綺麗さっぱり洗い流されていた。終ったよと何事も無かったような笑顔で振り仰ぐ香穂子が、俺の手にスポンジを託していそいそと前に回り込んでくる。床へペタリと座り、しなやかなラインを描く背を向けると、期待溢れる満面の笑顔が肩越しに振り返った。


「今度は蓮が私の背中を流す番だよ。私にも何か書いて欲しいな〜」
「・・・・・・・・香穂子、本当に良いのか?」
「うん?もちろんだよ。蓮はどんな言葉をくれるのか、凄く楽しみなの。ねっねっ、早く早く!」


大粒の水滴が滴る前髪を掻き揚げつつ、手の中に託されたボディー用スポンジと、目の間に晒された白い背中をじっと見つめる。スポンジが生み出す石鹸の泡でなく、俺は自分自身で想いの言葉を伝えたい・・・刻み付けたいんだ。
白い泡はお湯に流され消えてしまうけれど、簡単には消えない赤い花たちをくっきりと深く。


これはもう要らないな・・・・・・・君の期待に答えられずにすまないが、もう限界だ。


スポンジは洗い場の隅へ投げ置き、華奢な背中を抱き寄せる。ピクリと跳ねる身体を両脚と腕で鋏むように閉じ込めながら、泡よりも白く芳しい首筋に顔を埋め、音を立てて強く吸い付いた。前に抱き締める手は素肌を彷徨い、片手は胸の膨らみを包み込み、もう片手は下の茂みへと滑り込ませて。


仰け反る首筋。
赤く熟れた唇から甘い吐息が零れ落ち、まずは小さな赤い花が一つ・・・白さの中で鮮やかに花開く。



そう浴室で交わされるキスは、始まりのキスだ。
俺たちの想いを、心と身体で語り合う時間の。
そして長く熱い夜の始まりを告げる為の-------------。









※直接的な表現はありませんがちょっぴり大人仕様なので、苦手な方はそのままお戻り下さいませ。