ごちそうさま



「ユキも如月も、麦茶が冷えてると言っていたが・・・しかしここの寮の連中は、揃いも揃って麦茶が好きだな」
「千秋さん、冷蔵庫を覗き込んでどうしたんですか? キッチンに来るなんて珍しいですね」


背中へ小さく寄りかかる重みと肌に馴染む温もりは、振り返らなくてもお前だと分かるんだぜ。以前にそう言ったら、凄いと目を丸くして驚いていたが・・・心と身体の全てに刻んだ存在が教えてくれるんだ。屈めた身体を起こして肩越しに振り返れば、心に浮かんだ同じ笑顔で、小日向かなでが一緒に冷蔵庫の中を覗き込んでいた。

例え心の準備をしていても、視界いっぱいに大きな瞳が映り、キスができる近さで互いの吐息が絡まれば、高まる期待に鼓動が大きく跳ね上がる。それをを知ってか知らずかお前は、「麦茶、美味しいですよ?」と、無邪気な笑顔で頬を寄せてくるんだ。


「あ! そういえばもうすぐ、千秋さんたちがお茶を飲む時間でしたよね。いつも用意している芹沢くんが、千秋さんのお使いに出ていたから、すっかり忘れてました・・・ごめんなさい。今すぐ支度しますね」
「俺の事は気にするな、たまには自分で淹れるさ。それよりお前は料理に集中してろ、弁当楽しみにしてるぜ」


作業台の上に用意されてあるのは、大きめの弁当箱が一つと、小さな赤い弁当箱が一つ。昼食を一緒に取る約束をしているから、恐らくあれは俺とかなでの弁当箱なのだろう。恥ずかしそうに照れた桃色の頬を綻ばせたかなでが、中身は食べるときのお楽しみだと困ったように振り仰ぐ。

だがそれ以上の言葉は驚きにかき消され、今すぐお茶を淹れますねと、小日向かなでが慌てて食器棚へと走り出した。乾いた喉を潤すために菩提樹寮のキッチンへ来たんだが、それを忘れてしまうほど、今まで見たことのないかなでの姿を見ることが楽しくて。やんわりと制止するが、聞くよりも先に透明なグラスへ麦茶を注ぎ、はいどうぞと差し出してきた。


心に沸き上がるのは、嬉しさと愛しさと、言葉に出来ないくすぐったさ。今ちょっと手が離せないので、紅茶はあとでゆっくり淹れますねと、すまなそうに見上げる頬に身を屈めて。サンキュ、そう耳元で囁き、微笑むままの唇を頬に押し当る・・・溺れちまいそうな想いごと、キスでお前に届けよう。


「ははっ、顔が真っ赤だな。どちらが先に食べ頃か・・・鍋の中身よりも、かなでが先に茹で上がりそうだな」
「もう〜千秋さん、からかわないで下さいっ」
「可愛く拗ねる暇があるなら、後を見てみろ。鍋が噴きこぼれそうだぜ」
「あっ、いっけない〜!」
「まぁ、今のは俺が悪いか・・・って、聞いてねぇな」


ぷぅと頬を膨らました可愛い拗ね顔で睨んでいたが、急かす鍋の音にに呼ばれ肩越しに振り返ると、血相変えてパタパタと駆け出してゆく。今にも吹きこぼれそうな鍋の蓋を取り上げ、ほっと胸を撫で下ろし一安心。かなでが今作っているのは、昼食に食べる俺の弁当だと忘れていたぜ。

包丁がまな板の上で食材を刻む音が、リズム良く響く菩提樹寮のキッチン。コンロでは穏やかさを取り戻した鍋の蓋が、カタカタと踊りながら、クライマックスへ向けたクレッシェンドを奏でている。フライパンの炒めもので賑やかなシンバルを鳴らす小日向は、くるくると忙しなくキッチンを動き回っていた。楽器で音楽を奏でるように、料理という魅惑の音楽を作り出すんだ。


「そういえば、お前の手料理はよく食べるが、料理をしている姿を見るのは初めてだったな。手料理を食べる度に、楽しそうに料理をするかなでの笑顔が浮かぶんだが、その通りだったな」
「私ね、お料理が前よりもっと大好きになったんですよ。音楽は聴衆がいて初めて成り立つけど、お料理は食べてくれる人がいてこそ美味しくなるんですよね。千秋さんに美味しいって言ってもらえるのが嬉ししいから、頑張ろうって思うんです」
「かなでの料理が旨いのは、ただ美味いだけじゃなくて、心へ温かい余韻が残るからだ。技術だけじゃなく相手を感動させる心は、ヴァイオリンと似ているな」
「ふふっ、ありがとうございます」


手慣れた包丁さばきと効率良い作業は、一朝一夕のものではなく、長い経験が培ったのだとすぐに分かった。
美味しくなぁれ、美味しくなぁれと、楽しげな笑顔で料理に語りかけながら、鍋の中身をお玉で掻き回す・・・。
そんな可愛い様子をそっと見守る自分の頬が、いつの間にか緩んでいることに気付き、小さな咳払いで慌てて引き締める。


「あの・・・千秋さん、少しだけお時間ありますか? お願いがあるんです」
「なんだ、かなで。可愛いお前の願いなら、聞いてやっても良いぜ」
「その、一緒にお料理がしたいんです。私のお手伝い程度でいいんです。本当は、千秋さんの手料理が食べたいんですけど」
「は? 俺の手料理が食べたいのか? 残念だが料理は得意じゃねぇ、お前の方が美味いに決まってる。インスタントラーメンなら、作ってやってるがな。それに手伝いと言っても、出来ることは味見くらいだぜ」
「ありがとうございます、嬉しいです。一度、千秋さんと一緒にキッチンへ立ってみたかったんですよ」


嬉しさと興奮を抑えきれずに小さく飛び跳ね、全身で喜ぶ・・・お前は子供か。そう言おうとした言葉を飲み込んだのは、ポスンとしがみつく小さな重みが、懐からつま先立ちの背伸びをして、頬に不意打ちのキスを届けたから。まったく、お前は・・・ちょっと煽っただけで、すぐ顔を真っ赤に照れるくせに、時々俺の方が恥ずかしくなるくらい大胆になるんだな。

踊るようにくるりとスカートを舞広げながら、足取り軽くキッチンを駆け回る、その腕を今すぐ掴み俺の中へ閉じ込めたい。だが攫うよりも早く、無邪気なお前が懐の中へと飛び込んでくるんだ。あまり俺を煽るなよ、後でどうなっても知らねぇぞ。


作業の合間にこっそり、俺の横顔を眺めて惚れ直す気だろう。良いぜ、好きなだけ眺めてろ。ニヤリと悪戯な笑みを浮かべて見下ろせば、「どうして私の言おうとすることが、分かっちゃうのか」と。真っ赤に茹で上がる顔で驚きを露わにする。おいおい本気だったのかよ、俺の方が恥ずかしくなるじゃねぇか。


「ヴァイオリンを一緒に弾いたり、二人でお昼ご飯を食べているとき、出かけたりお茶を飲んだり・・・。二人で何か一つのことをするのが、すごく楽しくて幸せだなぁ〜って最近思うんです。いつまでも心がポカポカするから、お休みなさいのキスをした後も笑顔でいられる・・・。だからその幸せを、もっといろんなところで感じたいなって思ったんです、千秋さんと一緒に」
「同じ場所にいることが大切で、意味があるってことだな。夏が終われば横浜と神戸に離れるからな、貴重なひと時って訳か。いいぜ、付き合ってやる。お前と過ごす時間を、片時も忘れないように、心へ刻み込んでやるぜ」
「自分が作るお料理の味は知っているから、美味しくて楽しいけど、何かが足りない気がしていたんです。でも二人で一緒に作業をすると、楽しみも美味しさもきっと無限に膨らむと思いませんか? 千秋さんと私が合わせる、アンサンブルみたいに」


アツアツ・・・と指先が小さく跳ねながらも、包丁で器用に先端をカットして、白く小さな小皿に盛っている。どうぞと差し出されたのは仄かに漂う温かな甘い香り、焼き立てのふわふわなだし巻き卵。小皿と一緒に差し出された箸だけを、そっと押しやり返せば、お箸使わないんですか?と不思議そうな眼差しで小首を傾げてくる。

俺だけに向けるどんな表情も可愛いと思えてしまうのだから、俺はそうとうお前に溺れてるな。


「味見に必要ねぇだろ。もちろん、お前が手づから食べさせてくれるんだよな」
「えっ! そ、そんな・・・どうして千秋さんは、いつも私が恥ずかしくなることばかり、おねだりするんですか!」
「かなでが好きだからに、決まってるだろう。自分で食べるよりも、お前が食べさせてくれた方が、何倍も美味くなるからな」
「もう〜千秋さん、反則です・・・大好きって私から言いたかったのに。心構えないときに限って、ドキドキさせるんだもん」


唇を少しだけ尖らせ拗ねながらも、最近良く見せるようになった上目遣いで、パウダーシュガーの甘さを添える。
羞恥を脱ぎ捨て心から俺を求める想いが、俺の心を熱く震わす。熟した林檎よりも赤い頬は、まさに食べ頃の果実。

潤み始める瞳の奥では、羞恥と理性と本能の狭間が揺れ動いているんだろう。やがて迷いの泉に真っ直ぐな光が灯り、強く俺を射貫く。しなやかな指先でだし巻き卵のカケラを摘み、もう片方の手の平で添えながらの小さな背伸び。
俺だけにきこえる「あ〜んして?」と囁く小さな声に、唇ごと吸い寄せられたら、度は俺がお前に酔わされちまう番だ。


掴んだ手首を引き寄せたら、先から根元までを口に含む。指先から伝わるお前の熱が俺に伝わり、熱く心を焦がすから。熱さで擦れる吐息のまま、「美味いな」とそう見つめたまま囁き、吐息を絡め奪うキスを性急に重ねた」


「んっ・・・。ふぅっ・・・」
「美味いな、また料理の腕を上げたんじゃないか?」
「ち、千秋さんっ・・・! 私の指じゃなくて、ちゃんとお料理の味見して下さい!」
「料理の最大の味付けは恋のスパイス、大好きな気持ち・・・なんだろう? ならば料理の味を高めるために、お前のこともじっくり味見させて欲しいんだが。いや、味見と言うよりも、料理の下ごしらえか?」
「お弁当の前に、私が千秋さんに食べられちゃう〜。やっ、やっぱり千秋さんはあっち行ってて下さい! お弁当は私一人で作りますから〜」


真っ赤な火を噴き出した頬を隠すように小さく俯き、両手で俺の胸を押しのけて。抱き締めた腕からジタバタと身動ぎ抜け出してしまう。だが、そう簡単には手放さないぜ? 

唇だけじゃなくてその指先や、頬や首筋も・・・。食べずに我慢できていた筈の空腹は、たった一口の味見で、理性を壊すことがある。もしも、啄むだけでは止まらなくなったら、責任は取ってくれるんだろう? 
お前を求めたい、この心と身体の空腹も満たしてくれよな。