劇場に棲まうもの
夏の音楽祭の一つに参加する為、ドイツ国内でも屈指の古都を訪れていた。
大きな川を中心に近代的な新市街と歴史ある旧市街に分かれていて、旧市街では荘厳なバロック様式の街並みが美しい。街並みだけでなくこの地で生まれた芸術たちは、かつて王国の首都として栄えた歴史を物語っているようだ。
音楽祭の会場は、栄華を極めた宮殿間広場に面しているギリシャ神殿風の荘厳な劇場。毎夜のようにコンサートやオペラが催されるこの劇場前では、演奏の練習やパフォーマンスをする人たちなども集っている。外観や内部の装飾もさる事ながら音響効果が素晴らしく、ミラノのスカラ座やパリのオペラ座に勝るとも劣らない。
プロになり俺と香穂子が生活の拠点としているドイツでは、9月〜翌年6月までのオンシーズン以外にも夏の音楽祭やフェスティバルなど、年間を通して音楽を楽しむ事が出来る。今回の催しはヴァイオリンで参加する俺以外にも、世界で活躍する音楽家たちが集まり、それぞれの音楽を披露するものだ。
夏のイベントという事もあり、堅苦しくなく誰でも気軽に楽しめるもので。
だが音楽祭に参加するのと同じくらいに喜びで胸が湧き上がるのは、君と一緒に過ごせるからだろう。
普段は家で留守番をしてくれる香穂子も、今回は同行してくれる事になったんだ。ずっと楽しみにしていたのだと、街に降り立つなり待ちきれない嬉しさで笑顔を弾けさせた君を思い出し、自然と緩む頬が止められない。
この国人暮らす人々にとってクラシック音楽は生活の一部になっているが、それは俺たちにとっても同じ。
滅多に訪れない街を君と散策し、ゆとりある日程で開かれる夏の音楽祭を共に楽しめればいいと思うから。
ステージも生き物だから、とかくハプニングがつきものだ。
夜からの本番に備えてゲネプロの最中だったのだが、ステージ上の照明などに不具合があったとかでリハーサルが中断されてしまった。それまでは順調に進んでいたのに、最後に残った俺の番になったら突然照明が音を立てて火花を吹き、真っ暗に消え落ちたのだ。怪我も無く、本番でなかっただけ幸運だったと思う。
復旧するまでは楽屋で待機してくれとステージマネージャーに言われて、今俺はこうして楽屋にいる。
どんな時にも慌てず素早いスタッフに感心しつつも、一歩位置を間違えば俺自身が危なかったというのに。
舞台袖にいた香穂子は目を見開いて慌てていたが、あまり驚いていなかった自分自身も後から思えば、そうとうなものだと思う。舞台に慣れたのか、それとも演奏に集中していて意識が向かなかったのか。
楽屋の隅にあるテレビモニターに目をやると、高所対応の梯子やらリフターが出動して、懸命な復旧作業が行われていた。時間が押さずに、本番が間に合えば良いのだが・・・。
リハーサルの時間が削られて、充分な調整が出来ないまま本番を迎えるのも心残りだが、どんな状況でも満足いく演奏で挑むまでだ。ステージのコンディションは、裏から支えてくれる彼らを信じて任すしかないのだから。俺がここでやきもきしていても、仕方が無いな。
それにしても・・・・。
ちらりと背後を振り返って誰もいない楽屋を見渡し、壁に掛かった時計を見て、俺は眉を潜めた。
そういえば先程から姿を見せない香穂子は、一体何処へいったのだろうか?
様子を見てくるねと楽屋を出たまま、なかなか戻らない彼女が舞台の復旧よりも気になってしまい・・・。
俺は腕を組んで椅子に背を預けながら、何度目かの溜息を吐いた。
コンコン・・・。
楽屋の扉がノックされて返事をすると、そっと僅かに開いた隙間からひょっこり顔を覗かせたのは、香穂子だった。無事に戻った事に心の底から安堵していると、彼女は隙間から身体を滑り込ませ、再びドアの外へ顔を出してきょろきょろと周囲を伺っていた。素早く扉を閉めて背を預けると、瞳を閉じて胸に手を当て、大きく深呼吸をしている。
まるで追われる身を隠しているようだが、何かあったのだろうか?
「香穂子、お帰り。何処へ行ってたんだ?」
「蓮、ただいま! ステマネさんの所へ行って、この後の予定を確認してきたんだよ」
「ありがとう。本来ならば俺がやらなくてはいけないのに、すまないな」
「蓮は演奏だけに集中して欲しいの。だから細かいところは私にやらせて?」
楽屋で大人しく待つというのは、彼女の性分に合わないのだろう。
生き生きと輝いている様子は、家の中でとはまた少し違っていて。水槽にいた魚が故郷の大洋に戻り、自由に泳ぎまわっている・・・そんなふうに思えた。久しぶりに生の音楽が溢れる場に触れて、香穂子が嬉しそうなのが伝わってくるから、一緒に来て良かったと心から愛しさが込み上げてくる。
頬と瞳を緩めれば、君も大きな瞳に笑みを咲かせて頬を綻ばせ、赤い髪を揺らして俺の元に駆け寄り、隣の椅子へちょこんと腰を降ろした。
「それにね、とっても嬉しいの。だって長い間一人で家にお留守番しないで一緒にいられるし、お手伝いしながら演奏まで聞けちゃうんだもの。今日の私は蓮のマネージャーさんだから、頑張るね」
「香穂子がいれくれて、俺も嬉しい。今日は最高の演奏が出来そうだ。音楽でも人生でも、君は俺の大切なパートナーだ」
「壊れた舞台上の照明は、もうすぐ新しいのに交換したり配線が直るみたい。もう一度照明や音響を全部立ち上げてステージチェックをしたら、中断した蓮のリハを再開するって言ってた。ディレートスタート(時間押しスタート)だけど、他で巻くから削らずにちゃんと時間を取ってくれるって、良かったね!」
「本番に影響が出なくて良かった。思わぬところで、君と一息つける時間が出来たな」
「用意が出来たら呼びに行くから、楽屋で待機していて下さいって言ってたよ」
スーツのポケットから取り出して小さなメモ帳を開いて読み上げると、あと一時間位かな?と考え込むように首を傾けた。時間まで何をするの?と質問してくる香穂子に、そうだな・・・と呟くと、目の前に座る香穂子の手を取り、立ち上がらせる。そのまま正面に引寄せると、開いた俺の片足脚の上へ、向かい合うように座らせた。
落ちないようにとそっと首に絡められるしなやかな腕に、頭を軽く擦り付けて愛撫すると、彼女の瞳が心地良さそうに緩む。合図のように腰に絡めた腕を俺の身体へ引寄せ抱き締めると、少し上から覆い見つめる瞳に視線を絡めた。
「ところで香穂子、楽屋に戻るまでの間に何かあったのか? 随分慌てていたようだったが」
距離が近まれば自然と声も穏やかで密やかなものとなるけれど、漂いかけた甘さはハッと我に返った香穂子によって現に引き戻されてしまう。首に絡めていた腕を解き、忘れていたとばかりにポンと手を叩くと、食い入るように身を乗り出してきた。
「蓮はこの劇場で演奏するの、初めて?」
「あぁ・・・今回のコンサートが初めてだ。音響も素晴らしいし、由緒あるホールだ。いつかは舞台で演奏したいと思っていた場所の一つだ。それがどうかしたのか?」
髪を撫でてそのまま頬を包むと、上から柔らかく温かい手が重ねられた・・・きゅっと俺の手を握り締め。
だが瞳は甘く緩むどころか、神妙に眉を顰めて俺に詰め寄ってくる。
きょろきょろと楽屋の周囲を見渡すと、あのね・・・と誰にも聞かれてはいけない内緒話をするように。
間近に揺れる大きな瞳の奥に見えるのは、どこか不安そうに・・・怯えるような光り。囁きよりも小さな声を聞き取ろうと頬を包んだまま俺も顔を寄せ、互いに鼻先を触れ合わす近さでくすぐったい吐息を感じていた。
「私ね・・・聞いちゃったの」
「何をだ?」
「この劇場には怪人が棲んでいるらしいの。さっきの照明や音響トラブルも、怪人の仕業に違いないって・・・」
「は!? ・・・・・・オペラ座の怪人か?」
そう言うと香穂子は、至極真面目な表情で俺を真っ直ぐ見つめたまま力いっぱい頷く。
突然、何を言い出すかと思えば。
「・・・・・・ぷっ!」
「あーっ! 蓮ってば笑ってる。酷ーい、私本気なのに!」
「すまない、本気だったんだな」
きょとんと丸く見開いた瞳を緩めると、込み上げる笑いが押さえきれずに漏れてしまい・・・。
声を殺して笑う俺を、香穂子が顔を真っ赤に染めて睨んでいる。頬をぷうっと膨らませて拗ね出し、肩を揺さぶる彼女は怒っているのに可愛らしくて。直接伝わる笑いの振動が、更に彼女の癇癪を煽っているようだ。
握った拳が肩や胸を羽根のように軽く掠る心地良く感じながら、じたばたと身じろぐ身体を離さないように強く引寄せ抱き締めた。
「もう、信じてないでしょう!? ステージのスタッフさんが皆な言ってたんだよ。照明が壊れるだけじゃなくてインカムにノイズが混じったり。舞台転換の装置が上手く働かなかったり・・・それから、それからっ! 一つ起きると連鎖的にいろいろ起きるらしいよ。そんな時に決まって、舞台や奈落では消えた人影を見たって・・・」
「香穂子、どうか落ち着いてくれ」
「また怪人が悪さをしたなって話してたんだもん。演奏会を邪魔するなんて酷い、どうして蓮はそんなに冷静でいられるの? 蓮のヴァイオリンを聞いて欲しいのに・・・こうしちゃいられないよ、私その怪人とお話してくる!」
座った脚から飛び降りようとした身体を逃げないように抱き締めると、彼女は腕の中で離してとわめきながら激しくもがき出す。手荒ですまないなと心で詫びながら、大人しくさせようと耳朶に唇を寄せて・・・。
輪郭をなぞるようにぺろりと舐め、キスを贈れば、ピクリと身を震わせて力を無くし、俺の胸に背を預けてきた。
香穂子は耳に触れられるのが弱いから、こうすると力が抜けて動けなくなってしまうんだ。
大人しくなっても柔らかさが惜しくて、俺もなかなか唇を離せなくなってしまうのが難点だけれども。
「どうか落ち着いてくれ。この劇場は立てられてから、200年以上の年月が経っているんだ。日々メンテナンスが続けられているが、いつ何があってもおかしくは無いだろう? 俺たちだけでなく、音楽を奏でる場所だって一緒に生きているんだ。だからこそ想いが共鳴し、音色が響かせらられる」
「でも・・・暗転した舞台裏や奈落では、消えた人影を見たって言ってたの。音の集まる場所に何かいるのは、万国共通なのかな・・・」
「照明の明るさと暗転した暗闇の急激な変化で、光りの残像が見えたんじゃないのか? 予測できないアクシデントを、あえて“怪人”と名前をつけているんだと、俺は思う。ステージに携わる者の中では、よくある会話だ」
「私・・・気が動転して早とちりしちゃったのかな。だって本当に人がいるように話すんだもん、ごめんね。もっとしっかり手伝いが出来るように、ドイツ語や舞台の事も勉強しなくちゃ・・・」
瞬く間に顔を赤らめた香穂子は、早とちりをしたと申しわけ無さそうにしゅんと俯いてしまった。
そんな君を見て、俺の方が逆に甘く苦しい熱さで胸が詰まってしまう。伝えたいのに言葉では上手く出来なくて・・・言葉無く赤い髪に指を絡めると頭に手を回し、そっと俺の方へと引寄せた。
どうか、顔を上げて欲しい。俺に伝えてくれたのは、間違いでも早とちりでもないのだから。
自分が怖いと思うよりも、俺の心配をしてくれた君の気持は、しっかりと心に熱く伝わってきたんだ。
「俺を心配してくれた香穂子の気持が、何よりも嬉しい。・・・ありがとう」
「蓮・・・・・・」
「聴衆だけでなく、この劇場に棲まう怪人も魅了してみせよう」
溢れる愛しい想いを微笑みに乗せて優しく名前を呼びかけると、鼻先が触れ合う近さで、おずおずと視線が上げられた。潤みかける大きな瞳を見つめながら指先そっと目尻を拭うと、指の一本一本で愛撫をするように柔らかく頬を包んでゆく。
心地良さそうに綻ぶ香穂子の表情に安堵し、俺の心まで緩み出すのを止められずにいると、彼女の両手が俺の頬に添えられ、温かく柔らかいものが俺の唇に重なった。
・・・・・・っ!
香穂子からのキスだと気づいた瞬間にそれはゆっくり離れてしまったけれども、名残惜しさよりも、温かさが俺の中いっぱいに満ち溢れていた。僅かな驚きに目を見開いたままでいる俺にはにかんだ微笑を浮べて、もう一度鼻先へ軽く触れるだけのキスを贈ってくれる。
「私からの、お守り。いい演奏が出来ますように・・・・そして、劇場に棲む怪人さんに蓮が攫われませんように」
くすくすと笑う香穂子につられて、気づけば俺も一緒に笑みを零していて。
抱きついて首元に顔を埋めながら甘える君へ、返事の代りに頬をすり寄せながら、熱い吐息で囁いた。
「君ではなく、俺がファントム(怪人)に攫われるクリスティーヌか?」
「うん! 蓮のヴァイオリンはそれだけ素敵なんだもの。でも心配しないでね、私が怪人を追い払ってあげる」
「俺が魅了されるのは、いつでも香穂子のヴァイオリンの音色と君自身。想いと音色か向かう先も、ただ一人君だけだ。他の何者にも捕らわれないし、攫われない」
鼻先を触れ合わせたまま、甘く絡む視線が近づいて・・・再び吸い寄せられるように重なった互いの唇。
啄ばむように何度も唇を触れ合わせ、時折じゃれるように頬や鼻先へと不意打ちのキスを反らしながら。
リハーサルの再開を告げに来るノックの音が響くまでは、どうか今少しこのままで・・・。