ガラス越しの温もり

リビングの大きな窓辺を優しく覆っている白いレースのカーテンに手をかけて、一気に駆け出し両方とも勢い良く開いた。シャッとレールを擦る音と共に、溢れた光りの眩しさが押し寄せて一瞬目を細めたけれども、すぐに慣れて自然と頬が緩んでしまう。大きな窓から溢れるように眩しく差し込む太陽が、期待に胸を脹らませた通り、部屋の奥まで光りと温かさを届けてくれたから。


思いっきり窓を開け放ち、爽やかな風の流れと青空に包まれながら、胸いっぱいに新しい空気とお日様を吸い込んで浴びるように。組んだ手の平を真っ直ぐ天に掲げて伸びをするのが気持いいの。軽くなった身体の中に染み込んで、空気と一つに解け合う感じがする。こんな日には、張り切ってお掃除がしたくよね。



「う〜・・・ん! 今日も良い天気。よーし頑張るぞ」


庭へと続く外のテラスに面したガラス窓は、床から天井くらいまである大きなもので、蓮の背丈をも軽く越している。彼でも窓の上に届くのが背伸びをしてやっとなのだから、私にはもちろん届かないから困っちゃう。
透明な壁は高く険しく・・・窓の前に佇み見上げながら小さな溜息が込み上げた。

本当は蓮にも手伝ってもらいたかったけど、今はヴァイオリンの練習中だから一人で頑張らなくちゃ。
窓にぶつかってしまうくらいピカピカに仕上げて、後であっと驚かせるんだもんね。
ダイニングテーブルから運んだ椅子を窓の前に置くと、気合を入れて上着の袖を腕まくり。
用意してあったタオルとクリーナーのスプレーボトルをそれぞれ手に握り締めて、さぁ用意万端だよ。


椅子に乗って立ち上がると足元の高さに驚いてしまうけれど、怖いからなるべく下は見ないようにと心に言い聞かす。足元も不安定ならガラスも透明だから、手を添えているけれども、このまま突き抜け庭へと飛び込んでしまいそう。重心が傾いて椅子が時折カタンと動くたびに心臓が飛び跳ねてしまう・・・怖いから高いところは早く終らせたいって思うけれどもやっぱり届かなくて。もう少し・・・あともうちょとなのと、椅子の上でう〜んと背伸びをしながらタオルを持つ手を伸ばしていた。

それにこんな所を蓮に見られたら、危ないだろうって絶対に怒られちゃうかも。
まだ来ないよね、平気だよねって心の中でドキドキ緊張して焦るから、余計に手元が覚束無くなってしまう。


「香穂子!」


そうそう! ほら、こんな風に張り詰めた声で・・・って、あれ? 今の声は本当に蓮のもの?

どきりと跳ねる鼓動と背中へ伝う冷や汗を感じながら、窓ガラスへ伸ばしていた手をゆっくり下ろす。
まさかね、そんな・・・と恐る恐る振り返り下を見れば、突然下から呼びかけられた声は予想通り彼のもので。
椅子の脇で腕組みをしながら、眉を寄せて睨むように私を見上げている。
ニコリと浮かべた笑みも、彼の真剣な表情と威圧感にあっという間に打ち消されてしまい、縮こまるしかない。


わわっ、やっぱり怖い顔してるよ。どうしよう〜危ないっよて怒ってるのかな? 
それとも実は一緒にやりたかったのに、声をかけなかったから拗ねているとか? まさかね。 


「蓮、怖い顔してどうしたの? ヴァイオリンの練習はもう終わり?」
「あぁ終った、休憩にと思って来たんだが・・・香穂子は何をやっているんだ」
「えっと〜窓拭き。大きくて高いから、椅子に乗っても背伸びしなくちゃ手が届かないんだもの」
「危ないだろう、もしもバランスを崩して落ちたらどうするんだ。頼むから今すぐに降りてくれ。見ているだけで危なっかしくて、俺の心臓が止まりそうだ」


どうせ私は危なっかしいですよ〜だ、そう言って膨れる私に蓮も困った顔をする。
彼にとって私はいつでも目が離せなくて、ドキドキハラハラさせる存在で・・・そんな自分がちょっと悔しいの。
心配な気持も大切に思われているのも分かるよ、彼が同じ事してたらきっと私だって止めると思うから。
降りないもんねと困らせたい訳じゃないけれど、安心して任せてもらえるようになりたいんだもの。
素直じゃないな、私ってば。でもそんな自己嫌悪になりそうな心ごと、いつも丸ごと包んで温めてくれるの。


「ほら・・・こちらへおいで」


微笑みながら優しく差し伸べられた両手。抱き止めると信じている広い胸。
飛び込む私をしっかり受け止めた腕に、優しい香りと温もりに包まれながらそっ宙を舞うように抱き下ろされた。ごめんなさいと謝りしゅんと項垂れる私に、もう怒ってないからとそう微笑みを注ぐ彼の優しい琥珀の眼差し。
曇っていた私の心も、磨かれたガラスみたいに綺麗な輝きを取り戻していくのが分かる・・・。


「俺も手伝おう、一緒にやらせてくれ。君が届かない高い所は俺が拭こう。もし一人で無理そうなら、遠慮はせずに声をかけてくれないか。足りないところは補い支え合うのが、夫婦の役目だろう?」


じっと諭すように見つめられる瞳から、真摯な言葉と想いが注ぎ込まれ心を熱く震わせる。込み上げる想いに胸を詰まらせ、ぎゅっとタオルを握り締める私の頬を手の平で包み、感触を確かめるように指先の一本一本で優しく撫でてくれた。窓を拭く為のタオルはこれだろうかとそう言って、椅子の傍らに用意してあった数枚のタオルから一枚を取り、袖を腕まくりしている。

本当は蓮と一緒に窓が拭けたらいいなって思っていた、私の願いを知っているのかな?
何も言わなくても、いつもさり気なく叶えてくれるんだもの。


「ありがとう・・・あの、心配かけてごめんね。練習の邪魔しちゃいけないって思って、声をかけなかったの」
「いや、気にしないでくれ、俺も君と一緒に窓拭きをするのは好きなんだ。気を使ってくれる気持は嬉しいし、頑張る君が俺は好きだ」
「本当!? 一緒だね、嬉しいな。掃除にはいろいろあるけれど私ね、窓拭きが大好き。ガラスが綺麗になってお部屋が明るくなると、気分まですっきりするの。でも蓮はどうして?」
「そうだな・・・結果が目に見えて分かるから、やりがいがある。部屋の乱れは心の乱れというからな」
「ふふっ、目標に向かって真っ直ぐ突き進む蓮らしいね。やりだすと、とことん懲りそうな感じがする」
「一人よりも二人で一緒にやれば、もっと楽しくなる・・・そうだろう?」


うん!と力いっぱい頷く私の頬も、彼の緩んだ頬と瞳につられて、いつの間にか笑みを浮かべていた。大きな窓の前で隣同士肩を並べながら視線を交し合い、私は手が届きやすい下の方へ、背の高い蓮は上の方へとガラスへを手を伸ばしてくれる。窓ガラスの向こうに広がる青空を背景にプカリと浮かぶ二つの白いタオル。
蓮は私が届かないところも軽々と届いてしまうし、手が大きいから私の数倍も力強く綺麗に拭けてしまう・・・。


やっぱり男の人なんだな〜。


小さな自分の手と届く高さを見比べて、彼の横顔を振り仰ぎながらつい嬉しくて頬が緩んでしまうの。はしゃぐ私を見て楽しそうだなと笑う彼も、いつになく楽しそうに見えるから、二人で一つ分って何だかちょっと嬉しいかも。
窓拭きって他の掃除よりもずっとくっついていられるし、甘えてじゃれ合えるから好きなの。そのままでは照れ臭い事も、ガラス越しになると平気で出来たりしちゃうんだよ、不思議だよね。


そう言った直後に照れ臭さが込み上げてしまい、照れ隠しにへへっと笑って誤魔化すと、蓮もはにかんだ笑みを浮かべてこんな風にか・・・と。耳元で甘く囁いて頬に触れるだけなんだけど、チュッと音を立てて吸い付くような甘いキスをくれた。恥ずかしくて視線を上げられないけれども、ガラスに映る琥珀の瞳は極上の果実みたいに甘く優しく私に注がれていて・・・・。一気に溢れ出した熱さの渦に飲み込まれてしまい、緩んだ頬を止められないまま、もの凄い勢いで同じ場所だけを一心不乱に拭き続けた。

こんな事しても真っ赤に染まった熱はすぐに収まらないのに、思いっきり蕩けて潤んだ私の顔の場所を。


「温かさに、このまままどろんでしまいたくなるな・・・」
「お日様の光りがとっても気持良いよね。でも、寝ちゃだめだよ?」


ふわりと浮き上がる意識に身を任せかけた蓮の手は、そう呟いたまま止まってしまう。気持は分かるけど寝ないでねと脇からひょっこり顔を覗き込み、視界を遮るようにササッと手を数度動かし彼の目の前を拭いてみた。


「透明なガラスの上を真っ白いふわふわのタオルが行ったり来たり・・・まるで青空に浮かぶ雲みたいだね」
「そうだな・・・元気の良さから言えば、香穂子と同じく空を駆け回る、白いウサギにも見える」 
「タオルのウサギさん!可愛いね〜。じゃぁ香穂子うさぎさんは、蓮うさぎさんを追いかけなくちゃ」


ぴょんと高く飛び跳ねて、手の先にあった蓮のタオルにタッチ。どう?と悪戯っぽく見上げると驚いたように目を見開いたけれども、すぐに意味ありげな笑みを浮かべて更に高く遠い場所に手を掲げてしまう。
ずるいよ、そんなに背伸びそしたら届かないじゃない。負けないもんねと闘志を燃やして、今度は勢い良くジャンプ。身体とガラスの隙間にするりと割り込んで、もう一度タオルにタッチしてみた。

いつしか追いかけるのが楽しくなってしまい、高い場所を漂う白いタオルを追いかけて、一緒に右へ左へ飛び跳ね行ったり来たり。肩で息を切らす私に、元気の良いウサギだなと呆れているけど気にしないもんね。
さぁ次は何処へ行くのかな?


「香穂子、俺を追いかけるのもいいが、ちゃんと掃除しなくては駄目だろう?」
「へっ!?  ・・・・っきゃっ!」


手の動きをじっと見つめて身構えていると、あっという間に近付いた影に包まれ、ガラスに押し付けられてしまった。お互いに反対側の窓を拭く時は良いけれど、同じ場所の時には蓮が私の背後に立ち、すっぽり背中から覆い隠してしまうの。透明がガラスに私を押し付ける彼が微かに映り、感じる熱さに火を噴出してしまいそう。
激しい音をたてて駆け出す心臓に、お願い止まってと必死に宥めながら、押し付けられる身体から逃れようと身じろいだ。だって、自分の姿が映っているなんて、照れ臭くて恥ずかしすぎるもの。

しっかり腕の中に捕らえられてしまった、青空を駆け回る真っ白いタオルのウサギと私。


私を閉じ込めたまま、すました顔で高い場所の窓拭きをしているけれど、絶対に知っててやっているに違いなんだから。目の前にあるガラスにも、恥ずかしさに困っている自分が映っているんだもの。どうしよう、ドキドキして頬が凄く熱いの・・・見つめられる瞳に蕩けてしまいそう。


早く抜け出したくて必死に身じろぐ程にぎゅっと彼に押し付けられ、背中からクスクスと小さな笑い声と振動が伝わってきた。降りかかる吐息に甘く首をくすぐられ、崩れ落ちないように必死に踏みとどませるのが精一杯。もう〜そんなに笑わないで、蓮の意地悪! このままじゃ私もあなたも、掃除どころじゃ無くなっちゃうよ!?


「あの・・・ちゃんと窓拭きするから、ちょっとだけ離して欲しいな。ギュ〜ッと押し付けられているとね、拭きにくいし恥ずかしいの。ねぇ、駄目?」
「本当か?」
「う、うん・・・約束する! だから蓮も、お掃除の途中でイラズラしないって約束してくれる?」
「・・・・・・なるべく君の期待に沿えるように、努力しよう」
「あっじゃぁ今度は、私が外側から拭くね。お話できなくなるのは寂しいけど、蓮と向かい合わせて拭くのも楽しいよね」


緩んだ身体の隙間を見計らって素早く抜け出すと、足元に置いてあったクリーナーとタオルを握り締める。窓を少し開けて滑り込ませると、返事を待たないまま蓮のいる窓と反対側・・・リビングの外に続く庭へ飛び出した。




テラスへ用意してあったサンダルを履き後ろ手に窓を閉めると、蓮に背を向けたまま胸に手を当てつつホッと一安心の溜息。頬を触ればもの凄く熱いし、鼓動がまだドキドキしている。
くっつくのは好きだし嬉しいけれども、ずっとなのは私の心臓が壊れちゃいそうなの。


気持を落ち着かせようと大きく深呼吸をしたら、気を取り直して窓拭きしなくちゃね。
くるりと振り返るとガラスの向こうには、ちょっと拗ねている感じの彼が眉を寄せて難しい顔をしながら、黙々とガラスを磨き続けていた。逃げるように外側へとやってきた私に、ちょっと拗ねている感じがする。


ごめんね、意地悪じゃないんだよ。
あなたが好きすぎて我慢が出来なかったの。だから、ねぇ笑って?


クリーナーフォームのボトルを勢い良く振ってガラスにハートを描くと、真っ白い泡のフレームの真ん中に佇む蓮の姿があった。彼からは同じく、ハートのフレームに収まる私が見えるだろうか? 照れ臭そうに頬を染めて眉を潜めていたけれども、蓮の方からはどうする事も出来ないもんね。ふふっ、さっきのお返しだよ。

泡を拭き取り次第に綺麗になってゆくガラスは透明すぎて、向こう側にいるあなたへ思わず手を伸ばしてみたくなるの。すぐ目の前にいる・・・でも行く手を阻まれ届かないのだと気付いて、触れたくても触れられない距離に少しだけもどかしさを感じてしまう。私が添える手に彼の手が向こう側から重ねれば、ちゃんと温もりが伝わってくるし、はぁっと吹きかける吐息の熱さだって感じるの。だからきっと、唇が重なっても温かいに違いない。


そう思うのは、ガラスに唇を寄せて吐息を吹きかけ丁寧に拭き取っている表情が、とても色っぽくて私はずっと見とれてばかりいたから。ちゃんと窓拭きするって言ったのに、キスしたいなんて思っているなんて彼には言えないよ・・・どうしよう。お願いだから、私をこれ以上ドキドキさせないで。


拭きやすいようにと窓を閉めているから、互いの姿が見えても声は微かにしか届かない。
じっと熱く視線を注ぐ私とガラス越しに絡まり剃らせられないまま・・・今の想いを伝えたくて「す・き」と唇で言ってみた。 瞳を閉じて唇を差し出すようにガラスへ口付け、彼を待つ・・・どうかな、伝わるかな?
するとちゃんと感じた彼の唇と手の平の柔らかな温もり。
見えない壁をも心で溶かそうと、熱く交わすガラス越しのキス・・・嬉しい、届いたんだね。

浮かべた微笑の返事も唇の形で分かる・・・そんな気がした。




「・・・・・・・・!」


また、やっちゃった・・・。


蓮と一緒にリビングの窓ガラス拭きすると、いつもこうなるんだもん。綺麗に掃除するどころか最後はいろんなところに跡を残してしまうの、ガラスと心に両方ともね。だから一人で頑張ろうって思ったのも、本当の理由。
ゆっくり唇を離せば、綺麗に磨かれたガラス窓の中央にぽつんと一つだけ残る小さな跡。
よ〜く見るとそれは、表と裏側から着けられた同じ位置へ重なるキスマーク・・・脇には互いに引寄せられていった名残の手の跡までも、しっかり刻まれて。


くっきり残るキスマークを前に、タオルを握り締めて耐えながら真っ赤になっているであろう私の元へ、部屋から出てきた蓮がテラスにやってきた。カラリと窓が開く音にもピクリと鼓動が飛び跳ね、頬に熱さが昇ってしまう。
隣に肩を並べた蓮もガラスを眺めて同じように頬を染めると、形に残ると恥ずかしいものだな・・・と呟いた。
でしょう? 私もそう思うの。僅かな迷いを抱えたままタオルで拭き取ろうとしたけれど、直前で危うく踏み留まり
私には出来ないよと振り切って、切なげに縋る眼差しを向けて振り仰いだ。


キスの跡を消したら、想いまで消えてしまいそうで怖くなってしまったから。
そんな事は絶対に無いって頭では分かっているのに、不安が理屈を覆うから意思に反して手は動てくれない。


「どうしよう・・・跡が残っちゃった。でも拭いて消すのももったいない気がするの」
「じゃぁこのままにしておこうか」
「やだ・・・もっと恥ずかしい! 私のルージュ落ちにくいから、時間が経ったら本当に消えなくなるんだよ」
「では消えない印を、君の本物の唇に刻み込もう」


甘く蕩けた琥珀の瞳に吸い込まれ、腰を強く攫われればあっという間に彼の広い胸の中。
背を抱き締め返しながら胸に頬を擦り寄せれば、包まれる香りと柔らかさに、やっぱりガラス越しよりも本物の温もりが一番素敵だなって思う。手を伸ばせは触れられるし、こうして抱き締めてくれるんだもの。


もう一度・・・キスが欲しいな。
優しさのように柔らかく、秘めた情熱のように熱く。
私を心ごと溶かし痺れさすあなたの唇で、直接私に触れて欲しいの。



腕の中からちょこんと振り仰いで瞳を閉じると、指先がゆっくり私の唇をなぞり両手で頬を包まれて・・・・・・。
今度はガラスに隔たれる事無くしっとりと覆い重なる唇に、少し背伸びをして押し付けるように応えてゆく。


透明な窓ガラスと重なる二つの心に、消えないキスマークを残し、お互いに刻み合いながら。