――良かったら一緒に出かけないか? 明日、十時に公園の時計台の下で待っている。
::たった一つの伝えたい言葉::
お風呂に入っている間に入った着信は、留守番電話に残されていた。携帯電話を耳に当てて、声を聞く。
誰も見ていないのに自然と顔に体温が集まり、口元が緩む。
「……月森くんの声だ」
無機質な携帯が、彼の声を録音しているというだけで、今まで以上に愛着がわいてくる。包み込むように手のひらの中に収めると、香穂子はにっこりと微笑んだ。そうして、側にあったぬいぐるみにぎゅっと顔を埋める。
まだ、夢の中にいるみたいだ。
コンクールが終わり月森に告白をされてから、まだ幾日も経っていない。突然の告白に香穂子は頷き、二人で照れながら帰途についたのはつい最近のこと。
だけど、まだ実感が持てない。
ずっと、ふわふわと気持ちが弾んでいて、まだ夢の中をさまよっているような気がしてならない。
そんなふわふわ気分のときに受け取った誘いを断る理由などなくて、香穂子はメールで返事を返す。すると、数分後月森から了解との短い返事が届いた。
「……これって、デートかな」
二人っきりで出かける――それって、デートだよね。
出かけるという単語ならそんなに意識しないのに、デートと気づいた途端、顔が赤くなった。
二人で出かける――そうしたら、今度こそあの言葉を云えるだろうか。
意識してしまったせいか、その日、香穂子はなかなか眠ることができなかった。
***
からりと晴れた晴天とさわさわと揺れる新緑の下、香穂子は必死に走っていた。
最悪、本当に最悪。
昨日、なかなか眠れなかった香穂子は寝坊してしまい、目覚ましを見て悲鳴を上げて飛び起きた。時刻は九時半。何の冗談だろうと思う間もなく、慌てて準備をはじめる。
香穂子は寝癖の残る髪のままで公園に向かうことにした。
本当なら余裕を持って、髪型もちゃんとして、着ていく服だって可愛い服を選びたかったのに――そのどれも達成できていない。
昨日の自分がいたら目覚まし時計のセットだけは絶対にするのに、と思いながら香穂子は走った。
約束の時間の五分前。まだ、彼は来ていないと思っていたのだが、香穂子の予想むなしく、彼は時計台の下に立っていた。
走ってくる香穂子に気づいたのか、月森は顔を上げて、ほんの少し目を丸くした。
「お、おはようっ…」
「走ってきたのか?」
「う、うん。遅れるかもって、思って……」
肩で息をする香穂子に、月森から小さな溜息が零れる。その溜息が聞こえた香穂子の胸に不安が過ぎる。
もしかして、呆れられちゃったかな。
時間に遅れそうになって髪も跳ねているし、と考えれば考えるだけ不安が増していく。
「まだ、時間になっていない。そんなに息を切らせて必死で走らなくて大丈夫だろう」
だけど、そんな香穂子の予想には反して、優しい声色が頭の上から降ってきた。
「君が必死に走ってきたから、何かあったのかと思った」
「う、うん。ごめん」
「謝らなくていい。行こうか」
月森の手が差し出されるが、香穂子が大きく首を振ると月森の表情が怪訝なものになった。
「俺と手を繋ぐのは嫌なのか?」
「ううん、そういう意味じゃなくて、走ってきたから手に汗かいちゃっているし…」
さすがに手に汗をかいているのに手を繋いだら、きっと気持ち悪い。
けれど、そんな香穂子の気持ちを見透かしたように、月森は香穂子の手を取る。そうして、指と指の間に自分の指を入り込ませ、しっかりと握った。
「俺は気にしないから」
大丈夫、と微かに微笑みを浮かべて月森が歩き出す。それに引きずられるように香穂子も足を踏み出して。
「私は気にするの!」
と反論するけれど、月森は全く取り合ってくれない。
むぅ、と頬を膨らませて、香穂子は自分の複雑な乙女心を宥めた。
「ところで、どこにいくの?」
香穂子が問うと、月森は小さく笑って言った。
「行けばわかる」
「わかるだろうけど……」
「行き先を考えるのも楽しいだろう?」
いつもならこんな言い方をしない月森を見上げると、彼は悪戯が成功した子供のような無邪気な笑みを浮かべていた。
「今日は、俺に付き合ってくれ」
そう言った後、繋いだ手に力が込められ、香穂子は頬に熱が集まるのを感じた。
少しだけ強く握られた手をどうしても意識してしまう。
意識しないようにしてもそれは、どうしても難しくて。
自分だけ、自分だけがこんなにドキドキしているのかなと思うと、余裕綽々に見える月森が恨めしくなる。
ちらりと隣の月森を見上げて、その余裕の十分の一でもくれないかな、と途方もないことを考える。
そうすれば、きっとこの気持ちもすとんと、心のどこかに落ち着くはずだから。
***
「イルカショー面白かったね」
「ああ」
喫茶店で一息をついて、二人は帰途についていた。出かけたときよりも確実に日は落ち、夕暮れが近づいていた。
月森が向かったのは、香穂子の予想していたコンサート会場ではなく水族館だった。
水族館を見て、その周辺を散策して、と楽しい時間は過ぎるのが本当に早い。
繋いでいる手から伝わる体温ももうすぐ離さなくちゃいけない、と思うと何だか淋しいと香穂子は思った。朝は、あんなに恥ずかしかったこの行為も慣れると心地よくなってくる。
ずっと、伝えたい言葉がある。
言わなくちゃいけない大事な言葉。
タイミングが見つからなくて、ずるずるとここまで来てしまった。後少しで今日のデートは終わってしまう。
香穂子の家まで後少し、というところで香穂子が足を止めた。
「どうした?」
怪訝そうな表情で、月森が香穂子を見る。香穂子も決意を新たに月森を見上げて、目を合わせる。
「私……」
声がかすれて、香穂子は唇を噛んだ。
どうして声がかすれるんだろう。
たった一言。音にして二音。
なのに、肝心なところでその言葉が出てこない。
ずっと伝えなくちゃと思っている言葉があるのに、口から出てこない言葉に自分でも情けなくなる。
じわり、と視界が曇ってきて泣きそうになる。
その時、頭に温かな手が置かれた。
「焦らなくていい」
君の言葉を待つから、と月森は言った。
驚いた香穂子が見上げると、優しい表情を浮かべた月森が見える。
その優しい表情に即されるように、あれほど出てこなかった言葉がするりと出てくる。
「私、月森くんが好き。大好き、だよ」
その言葉に月森は目を丸くした後で、香穂子の背中に手を伸ばした。
「ありがとう……俺も君のことが好きだ」
ぎゅっと優しく抱き寄せられて、香穂子は月森の体温に安心する。
ずっと言いたくて、言えなかった言葉。
月森に告白されてから、ちゃんと言葉にしないといけない、とずっと引っかかっていた。だけど、いざ、その言葉を口にしようとすると恥ずかしくて、途端に口が回らなくなる。
だから、この言葉を言えたのは、自分一人の力じゃない。
目の前で、優しく待っていてくれた彼のおかげだ。
しずしずと背中に回した手に力を込めると、月森の体温の温かさが伝わってくる。
「こちらこそ、ありがとう。何だか、言葉で言うと……緊張するね」
「ああ」
「え、月森くんも緊張するの?」
あんなに余裕綽々なのに。
ややあって、月森が言った。
「……舞台に上がるより、ずっと緊張する……ほら」
香穂子はぎゅっとさらに抱きしめられ、月森の胸へと頭を押しつけられる。
「わかるだろう?」
トクン、と刻む心臓の音が、早鐘のようになっている。
「…そっか、月森くんも緊張してたんだね」
そう見えなかったのは、月森が表情を押さえていたから。
「おんなじ、だね」
「そうだな」
その言葉の響きが温かくて、香穂子はゆっくり目を閉じて、幸せだと思った。
「また、出かけようね」
「ああ、今度は君が行き先を決めてくれ」
「うん」
満面の笑みで、香穂子は頷いた。
今日という日をいつまでも忘れないようにと、今日という日を反芻する。
風景より、彼の手を握っていたこと。
一緒に同じものを見て、感動したこと。
そして、やっと気持ちを伝えることができたこと。
きっと、ずっと忘れない。
なぜなら、今日この日が本当の意味でのスタート地点なのだから。
mondschein藤崎ひさめさんのサイトでカウンター105555を踏み、素敵な創作を頂いてしまいました! 月森と香穂子の初デートというリクエストを、快く受けて下さった藤崎さんに感謝感激です。初々しい二人の様子に胸をときめかせながら、告白のシーンでは一緒になって手に汗握り、息を潜めてしまいました。拝見するたびに世界観に引き込まれ、「日本語の響きって美しい」って思います。ご許可を頂いたので、このたび展示をさせて頂きました。
嬉しくってPCの前で緩んだ頬が落ちてしまいそうです、素敵な創作をありがとうございました♪