どうか俺にだけ




探していた楽譜を借りるために放課後、香穂子は俺の部屋へやってきた。だがいそいそと鞄に詰め込み、帰ろうとした君をすぐに帰したくはなくて。ソファー代わりに腰を降ろしたベッドに、ただ何もせず二人並んで座りながら、くすぐったい時が過ぎていた。君と二人きりになりたい・・・そう願っていたのに、いざ二人きりになると、途端に意識が白紙に戻ってしまう時がある。あれもこれもと思い描いていた筈なのに、一気に溢れた熱さが火花となり、パンと弾けてしまったような感覚に近い。


気配を感じながら横目で伺っていた視線がふいに絡めば、どちらともなく頬に朱を昇らせたまま見つめ合い、我に返ってふいと逸らしてしまうの繰り返しだ。深呼吸で心を沈めながらゆっくり落ち着いて、二人で出来る事は無いか考えてみよう。
ゆっくりヴァイオリンを奏でたり、他愛のない会話をしたり。手を繋ぎ、抱き締めてキスをして温もりを伝え合う・・・考えるほどに照れ臭さが募る沈黙に耐えきれなくなる。このまま溢れてしまえば、更に大きな炎となってしまいそうだ。

耐えきなくなりかけたその時、ぽんと手を叩いた香穂子が瞳を輝かせ身を乗り出した。


「ねぇ蓮くん、内緒話をしようよ。二人きりだからこそ、お互いの心にある大切な事を教え合うの」
「内緒話? この部屋には君と俺しかいないだろう?」
「声を大きくしたら内緒話じゃないじゃない。声を潜めて、そっと届ける緊張感が楽しんだよ。ほら、本当は言いたくてたまらないけど、でも大きな声では言えないから秘密ねっていうのが内緒話なの。蓮くんの秘密、私だけにこっそり教えて?」
「俺の・・・秘密?」


満面の笑みで大きく頷くと、頬を桃色に染め照れながら、腰掛けるシーツの上をいそいそと横に移動して、座る距離を詰めてきた。俺の部屋には二人っきりしかいないし防音だし、あえてわざわざ声を潜めて内緒話をする必要も無いと思うんだが。不思議そうに眉を潜める俺などお見通しの香穂子は、甘えるように座る脚を触れ合わせ、肩先へぴったり寄り添いコツンと重みを預けてくる。

それは人前ではどんな時でも強気に振る舞う君が、俺だけに見せてくれる恋人としてのささやかな仕草。ふわりと漂うような心地良い温度は炎に変わり、熱く高鳴り出す鼓動がこの身を焦がす。特に二人きりになった君と俺は、互いに引き寄せ合う磁石なのではと思えてならない。ある程度の距離を取っていても、いつの間にか手の届き合う範囲へ近づき、やがて互いを求め体温を伝え合ってしまうんだ。


子犬のようにぐっと鼻先を寄せながら振り仰ぐ、澄んだ大きな瞳が示すのは、無邪気で煌めく好奇心。内緒話には多少の疑問が残るものの、自然に受け止められるのは、見つめる笑顔の力なのか惚れた弱みなのか。だが声を潜めて届けるならば、香穂子の吐息をすぐ耳元で感じられるから嬉しい。きっと彼女らしい、何か素敵な遊びを閃いたのだろうな。


「いきなり秘密を話せと言われても、困ってしまう。例えばどんな事を話したら良いんだ?」
「音楽の事や思い出話とか、夢や将来の話かな。後はえっと・・・そのね、恋の話とかでも、いいよ。ほら、お互いを知るって大事でしょう?」
「そうだな、俺も香穂子の事が知りたい。例えば好きなものや興味のあること、香穂子が描く音楽についてや・・・その。君が俺を、どう思っているかなど・・・いや、何でもいいんだ」
「大切なことって、特別な人にしか話せないよね。大好きな蓮くんと、もっと親密になれるみたいで嬉しいな。二人で分かち合えば、心の距離が近くなるって思うの」


制服のスカートの上に組んだ手を照れ隠しにきゅっと握り締め、ピンクから赤へと色を増した頬に可憐な花が咲く。脳裏へしっかりと刻まれた「特別な人」という言葉が火照りを生み、込められた意味を深く考える程に、媚薬となって俺を襲う。純粋で無邪気な君はなぜ、俺の心を甘く捕らえて放さないのだろう。

愛しく思う女性に、特別で大切な存在だと想いを直接告げられれ、喜ばない男がいるだろうか。


「じゃぁ、まず私からね。蓮くん、これは絶対に他の人へは言っちゃ駄目だよ? 蓮くんと私、二人きりの秘密だからね」
「分かった、約束しよう。君との秘密は、必ず守り抜くと」
「ん〜そこまで堅くならなくても良いんだけどな。えっとね、私の大切な宝物なの・・・ちょっぴり恥ずかしいから一度しか言わないよ。良〜く聞いてね」


公言しては駄目だと言いながらも、香穂子は早く俺に伝えたくてウズウズしているのが分かる。落ち着き無く肩を揺らし、握り締めた両手の拳をじれったそうに、揺さぶっていた。本当は大きな声で皆に言いたいが、大きな声では言えない・・・だから内緒話なのか、なるほど。

上目遣いに念を押す香穂子に見つめられれば・・・ほら。俺の心も次第に焦らされ、早く知りたいと求めているのが分かるだろうか? 知りたい?と可愛らしく小首を傾けた肩から、さらりと流れ落ちた髪に視線を奪われ一瞬時が止まる。瞳を緩めて微笑めば、嬉しさを綻ばせた香穂子が肩先を掴み背伸びをしてきた。

君の秘密を、俺だけに教えてくれないか?


声が届きやすいように俺も上半身を傾けると、柔らかい手の平が耳に押し当てられ、そっと唇が近付いた。触れそうで触れない距離と微かに感じる温もり・・・このもどかしさに、走り出した心臓が苦しさで壊れてしまいそうだ。だが全神経を集中していた耳に、くすぐったい吐息を真っ直ぐ吹き込まれ、ゾクリと甘い痺れが背筋を駆け上った。


「・・・・・・・ふっ」
「--------っ! か、香穂子っ!」
「へへっ、蓮くん驚かせてごめんね。今のはちょっと出来心というか、一度やってみたかったの。蓮くんだって私を抱き締めてくれたたときには、耳にふぅってやるでしょう?」
「・・・・・・・・・・」
「いつも最初はびっくりするけど、だんだん熱くなって蕩けるのが分かるの。ふんわり宙を飛ぶみたいで気持が良いんだよ。蓮くんはどうだった?」


諫めようにも本当だから、反論できないのが辛い。とっさに耳を押さえて驚き、大きく肩を揺らした俺を見つめる香穂子は、悪戯に成功した子供のように嬉しそうだ。君は、本当に内緒話がしたかったのか? それともただ、悪戯がしたかっただけなのだろうか。火を噴き出しそうな熱さが顔へ集まっているから、きっと今の俺は赤い顔をしているのだろう。

いたたまれずフイと顔を逸らすと、急に焦りはじめた香穂子は、泣きそうな瞳で俺の顔を覗き込もうと必死だ。怒ったと勘違いをしたのだろうか、違う・・・君のせいじゃないない。期待していただけに、予想以上に落胆が大きかった自分に苦笑するしかなかったんだ。


「今度こそ本当だよ、悪戯だって怒らないで? ね、蓮くんこっち向いて?」
「また悪戯をしたら、お返しに吐息を吹き込む香穂子の唇を塞ごう。息が出来ないほど、長く・・・」
「えっとね、それは困るの。きっとこのままベッドの後ろに倒れ込んで、蓮くんにぎゅっと抱き締められて溶かされて・・・起き上がれなくなるって分かるもの」
「・・・・・・・・・・・」


視線を戻して真っ直ぐ見つめると、胸の前で組んだ両手をもじもじと弄り始めた。上目遣いで様子を伺いながら、切実に訴える気持は分かるが、このままの空気に身を浸せば確実に、俺の熱さは君を飲み込んでしまうだろう。善処しようと真摯に告げると、ほっと安堵の笑みを浮かべた香穂子が、いそいそと寄り添ってくる。
私の秘密はね・・・と声を潜ませながら再び背伸びをした香穂子は、覆い隠す耳元へ添えた手に唇を寄せてきた。


君の秘密は何だろうと、高まる期待が胸を躍らせるから、俺まで自然と身を乗り出してしまうんだ。
そしてくすぐったい吐息に乗って届けられたのは、光のように明るく照らし日だまりのように温かい、俺を包む優しい想い。
俺だけに聞こえる囁きは香穂子からの告白・・・彼女が心で大切に育てていた想いだった。


『蓮くんだけに教える秘密だよ。えっと・・・私ね、蓮くんが世界で一番大好きなの!』
「香穂子!?」
『私の大切な秘密はね、蓮くんに恋をしている事なんだよ』


甘い吐息の吹き込まれた耳朶から伝わるのは、胸の鼓動が脈打つ音。好きという言葉が心の水面に投げ込まれ、波紋のように広がりながら強く刻まれる。特別という言葉の力なのか、それとも密やかに告げられる内緒話だからなのか。小さく繊細ながらも音や世界観の全てが凝縮された、緊張感あるピアニッシュモのように。


「ねぇねぇ、今度は蓮くんの番だよ。蓮くんのとっておきな秘密を、私だけに教えて?」


大きな瞳を興味津々に輝かせる香穂子は、小さな声を聞き漏らさないように、耳に手の平を添えながら顔を寄せてくる。美味しい香りを嗅ぐ時に、嬉しそうな顔でケーキに鼻先を寄せる君に似ているな。君の全ての感覚を耳へ集中しているのだろう。痺れを切らしたのがちらりと横目で振り仰ぎ、今かまだかとじれったそうに俺の言葉を待っていた。


手の平で包み込んだ華奢な肩を引き寄せて、想いのまま走り出しそうな欲を押さえながら、そっと優しく抱き締めた。すっぽり収まった香穂子はそわそわと身動ぎ、押しつけられた胸からちょこんと顔だけ俺を振り仰ぐ。そんなささやかな仕草さえも、今は俺の熱さを募らせてしまうんだ。首元へ鼻先を埋めるように耳朶へ唇を近づけると、先ほどのお返しとばかりに、不意打ちのキスを贈った。


「香穂子、耳を貸してくれないか?」
「ん? なぁに? ・・・っ、ひゃぁっ!」
「これで、おあいこだな」


弱い場所である耳朶へ突然舞い降りたキスに、小さな声を上げた身体がぴくりと飛び跳ねる。真っ赤な顔で頬を膨らませ、悪戯しないでと拗ねる香穂子へ、すまない・・・そう告げる微笑みと共に、尖らせる唇にお詫びのキスを降らせた。頬を滑り再び耳朶へ辿り着くと、触れるか触れない程の近さで、今度こそ心の底から取り出した想いの言葉を吐息に乗せた。


喜びや幸せ、愛しい想いはどんなに隠しても溢れてしまうから、秘密に出来ないかもしれないな。大きな声では言えないけれど、本当は伝えたくて仕方が無い想いや言葉を、二人だけの内緒話で語り合おう。吐息を交わす密やかな囁きは、どこまでも強く、そして甘く溶かしてくれるから。俺の心にある大切なもの、とっておきの秘密を、君だけに伝えよう。


『特別な存在である、君だけに教えよう・・・俺の秘密を。香穂子が好きだ・・・・君を、愛している』
「蓮くん・・・」
『どうか俺だけに、君の全てを教えて欲しい。言葉だけでなく心と身体、触れ合える全てで』


真摯に願いながら、零れる吐息ごと抱き締める腕に力を込めれば、香穂子の背が弓なりに反れて強くすがりつく。沈む俺たちを待っているのは、語り合う秘密を隠してくれるシーツの海だ。潤んだ瞳に自分を映し、引き寄せられるままにゆっくりと唇を重ね、始まりを告げるキスを贈る。先ほどあやしたように、軽く触れるものではなくて熱くしっとりと、直接触れ合う互いの唇だけで交わし合う二人の秘密・・・密やかな内緒話。


特別に大きな事ばかりではなく、喜びで心が満ちているこの状態が幸せなんだと思う。
大好きな君と過ごしている時、それは心が気持ち良い瞬間。生きているこの喜びをたくさん紡いでゆこう・・・二人で共に。