Dear America



世界の首都、ニューヨーク。あらゆる舞台の芸術が集まる殿堂として愛されているリンカーンセンターには、オペラやバレー、音楽のためなど5つの劇場が揃っている。100年以上の歴史を持つ、10階建ての大理石建造物メトロポリタン・オペラハウス。そしてNY州立劇場や、NY交響楽団の本拠地であるエイブリッシャーホールなど・・・。

音楽の名門といわれ、世界中から学生が集うジュリアード音楽院があるのも、このリ場所だ。ジュリアードは例えニューヨークに実家があっても全寮制だから、敷地内にルームシェアで暮らす寮があるんだぜ。住所がリンカーンセンターってのも、凄いよな。


「ねぇ桐也、 ここがリンカーンセンターなんだね。クリスマスに大きなクリスマスツリーの点灯式をやる場所でしょう? 冬に桐也が送ってくれた写真には、オーナメントも楽器の電飾をして楽しそうだったなぁ」
「プラザ中央に噴水があるだろ、その向こうに飾られるツリー点灯式は、地元の人たちが待ち焦がれるイベントなんだぜ。このプラザいっぱいに、音楽や大道芸の催しが盛り上がるんだ。ちなみに大晦日にNYフィルがコンサートをする、エイブリッシャーホールは噴水に向かって右側」
「噴水を基準に探せばいいんだね。そうすると左側がニューヨーク州立劇場で、奥がメトロポリタン・オペラハウス!」


白い石造りの建物に囲まれた広場の中央にある、噴水の敷石に腰掛けながら、ニューヨークのガイドブックを広げる香穂子が、マップと照らし合わせながら建物を指さし示している。左奥にはグッデンハイム野外音楽堂もあるんだ。ニューヨークで音楽を楽しむなら、ここに殆どが集約されてるんだぜ、けっこう広いだろ?

隣に腰掛けた衛藤が香穂子の指先を追って肩越しに振り返れば、夏の日差しを浴びて輝く噴水の眩しさに思わず目を細めた。リンカーンセンターの噴水広場では、コンサートの催し物が無くとも、無料のコンサートが多く催されている。音楽が溢れている素敵な空間だねと、噴水の煌めきを映す香穂子の瞳が、感嘆の吐息を零しながら周囲をゆっくり見渡した。


星奏学院を卒業した後、俺が音楽を極める為にニューヨークへ渡ってから数年が経った。海を隔てた国際間では連絡を頻繁に取り合いたくとも、時差の関係だったり、メールや電話の料金が膨大になったりとお互いに悩みは多い。会えるのも年に数度だけど、お互いを信じる心と音楽と、大好きな想いを糧に行き来を繰り返しながら絆を深め合ってきたと思う。今ではその絆が、何よりも大切な宝物だ。


「スケジュール帳にね、大好きな色のペンで桐也との予定を書き込むのが、一番の楽しみなんだよ。桐也と過ごす時間を想うと、自然と笑顔になっているの。この夏にはニューヨークへ行くんだって・・・この日を想うと辛いことや寂しさとか、どんなことだって乗り越えられたの。ふふっ・・・私ってば、遠足が楽しみで待ちきれない子供みたいだよね」
「本当、香穂子って幾つになっても無邪気でさ、子供みたい。なんてさ、俺もあんたに会えるのが、すっげぇ待ち遠しかったんだぜ。毎晩眠る前に、あと何日・・・って心の中でカウントダウンしてた」


ニューヨークでは音楽スクールと練習と、ヴァイオリニストとしての仕事を繰り返す日々。全てを終えて帰宅すると、たいてい夜中だっだり、日付を超すことが多い。帰宅してからもすぐ眠るわけにはいかず、課題や譜読みが控えていて、常に時間に追われている状態が続いている。一生のうちでこんなにも勉強して音楽に打ち込めるのは、留学している今だけだと思うし、周囲の同級生が刺激になっているから、自分の音楽を磨くことを辛いと感じたことはない。


だけど香穂子に会えない寂しさだけは、一人ではどうすることも出来なくて。そんな日々の癒しは、日本にいる香穂子からのメールや手紙、時差を考慮して電話をしてくれる声を聞くことだった。

今では一緒に過ごした時間よりも、離れている年月の方が長くなった。先が見えない中で不安にさせているかも知れない・・・でもあんたは、ひたむきに俺を信じ続け、励ましてくれるんだ。確かな結びつきを感じる度に、沸き上がる強い力と愛しさがヴァイオリンの音色に変わるんだぜ。


「桐也にとって、アメリカってどんな国?」
「そうだな・・・感謝とリスペクト。アメリカは、俺をヴァイオリニストとして鍛え上げてくれた、父親みたいな国かな」
「アメリカが、大好きなんだね。気付いてる? 音楽とアメリカを語るときの桐也、すっごく生き生きしてるの。桐也にはニューヨークの生活が合ってるんだね、ニューヨーカーだなんて格好いいなぁ」


持っていたガイドブックを膝の上に置いた香穂子が、瞳に切ない光を灯しながら、ふわりと微笑んだ。湿度は日本とそれほど変わらない夏の青空を振り仰ぎ、太陽の眩しさに細めた瞳を閉じると、ゆっくり深呼吸する。ゆっくりと振り向く瞳の目尻に、微かに煌めく潤みは、ひょっとして涙だろうか。

胸を締め付ける苦しさを、眉根を寄せて耐えながら思う・・・これは香穂子が耐えている寂しさの痛みなんだ。泣いてるのか?と問えば、アメリカの太陽が眩しかったのだと、困った顔で小首を傾けた。何でもないよと、一瞬後にはいつもの元気な笑顔を取り戻したけど、隠し事が下手だからすぐに分かるんだ。


「香穂子? どうしたんだよ、一体。何でも無くないだろ。あんたが無理に笑ってる事くらい、俺にはすぐ分かるんだぜ」
「ニューヨークには・・・世界には、桐也をそこまで夢中にさせる素敵なものがたくさんあるんだね。そう思ったら羨ましくなったというか、ちょっと遠い存在に思えたの。でもね、私も負けないよ。いつか桐也に追いつくんだって、決めたんだもん」
「もう日本には戻らないの?って、そう思って不安になったんだろ。すぐにって訳にはいかないけど、必ず迎えに行く。俺が戻る場所は、いつだって香穂子だ」
「桐也・・・・っ」


息を呑んで驚きに目を見開いた香穂子に、優しく緩めた眼差しで微笑み、膝の上で握り締められた手をそっと握り締めた。俺はここにいる、あんたの手を離さない・・・握る力と温もりでそう伝えながら。


「能力や実力以前に、外国人というだけで不利な部分もたくさんあったよ。悔しさは一度や二度じゃないけど、だからこそ自分らしい音楽を失っちゃいけないって思う。足りないことばかりを考えるんじゃなくて、技術を磨きながら、自分にしかないものどんどん広げて補うんだ。その積み重ねが、音楽に国境がないと証明してくれた・・・香穂子のお陰なんだぜ」
「私の? どうして?」
「俺を一人の人間として育ててくれた母は日本。香穂子と一緒に過ごした時間が、音楽に必要な心を育んでくれた。音楽を愛しむ心、誰かを愛する気持ちを音に乗せること・・・だから俺は今、ヴァイオリニストとして世界の舞台に立ってる。 ありがとう、香穂子・・・」
「・・・っ、桐也ってば、反則。ふいに優しくされると、泣きたくなっちゃうよ」


香穂子の名前を呼びかけると、背後にそびえるホールを肩越しに見つめた。一週間後にはヴァイオリニストの衛藤桐也として、NYフィルとの共演が控えている。雲の上だと思っていた場所で演奏できる嬉しさを、誰よりも真っ先にあんたへ伝えたら、「おめでとう」と自分のこと以上に泣いて喜んでくれたんだ。大学の夏休みを利用して招いたのは、未来の約束をリングへ託すように、最高の音色を直接届けたかったから。


涙の潤んだ瞳を必死に見開きながら、指先で目尻の滴を慌てて拭う香穂子が、雨上がりの青空みたく笑顔を浮かべる。腰掛けていた噴水の敷石から立ち上がると、足元に置いていたヴァイオリンケースから、いそいそと楽器を取り出した。
調弦を始めて音を出すと、調子が良いのだと満足そうに頬を綻ばせて。日だまりのスポットライトを浴びながら、大きなステージに立つ時と同じ真摯さで、広場に向かって恭しくお辞儀をする。


「香穂子、何を始めるんだ? まさかここで演奏するのか?」
「うん! 私も、リンカーンセンターでヴァイオリンを弾こうと思って。桐也みたく伝統あるホールはまだ無理だけど、広場ならいいよね。ねぇ桐也、一緒にストリートライブしよ? きっと楽しいと思うの」
「俺と香穂子のスペシャルステージだな、楽しそうじゃん。海岸通りや駅前とか公園で、よくあんたとストリートライブしたのを思い出す。あれ、最高に気持ち良かったよな」


構えたヴァイオリンの弦に弓を乗せると、温く優しい音色が溢れ出す。さぁ、一緒に奏でましょう? 楽しみましょう? 奏でる姿や表情の全てが、俺を見つめる瞳と心へ響く音楽が、楽しいと・・・ヴァイオリンが大好きだと呼びかけてきた。
いつの間にか周囲へ集う耳の肥えた聴衆へ、「Dear America」と一人一人に音色と眼差しで語りかけている。


どんな大きなステージでも、街角の小さな演奏でも、異国の地であっても。心を込めて120%の力で演奏する姿勢は昔も今も変わらない。一緒にいたらきっと楽しい、そんな魅力が音色になるから、誰もがこんなにも楽しそうに、あんたの音色を聞いているんだろうな。心と眼差しで語りかける音色に、頬を染めて照れる香穂子が応えるんだ、「それは桐也がいるからだよ」・・・と。


奏でる場所がいつでも最高の舞台。笑顔が聴衆の笑顔を誘うのは、心と心が奏でるハーモニー。