誰にでも向ける優しさ



「もう〜金澤先生! いい加減に諦めて、大人しくポケットの中にある物を私に渡して下さい!」
「日野、勘弁してくれよ・・・おっ、月森が来たぞ」
「話を逸らしても駄目ですって・・・あ、月森くん!」


昼休みの音楽室へ一歩脚を踏み入れると、元気の良い香穂子の声が賑やかに聞こえてきた。教壇の近くで困った顔で佇む金澤先生へ必死に食らい付き、胸の前に掲げた小さな紙切れと一緒に拳を握っている。 何をやっているんだ、全く・・・。少し離れたところで溜息を吐く俺に気付いたのか、金澤先生が肩越しにひょいと顔を覗かせてると、頬を赤く膨らませて振り仰ぐ香穂子も、つられて後ろを振り向く。


むっと顰めた香穂子の顔が、俺と視線が交わった途端に変わった柔らかい笑顔。素直な君は、嬉しさを包み隠さず表してくれるから、真っ直ぐ届けられるとちょっぴり照れ臭い。だが俺だけに向けられる笑顔に心は弾み、波紋のように広がり伝わる笑顔が、頬を緩ませてくれるんだ。


香穂子だけしか見えなかった視界の後ろで、にやりと悪戯な笑みを含ませ口角を上げる金澤先生に気付き、慌てて表情を引き締めた。・・・が、もう遅いのだろうな。熱さの昇る顔は、きっと赤く染まっているに違いない。諦めて小さく咳払いをすると、俺を待つ二人の元へ歩み寄った。


「ちょうど良かった月森、日野を何とかしてくれ。で、どうしたんだ?」
「練習室の予約を取りに職員室へ行った時、金澤先生にと渡す物を頼まれました。いくら俺がアンサンブルのメンバーだからと言って、毎日のように先生と顔を合わす訳では無いのですが・・・最近多くて困ります」
「律儀だな〜お前さん、探させてすまなかったな。まぁ練習室とは正反対の方向まで来たお陰で、日野に会えたから良いじゃないか」
「・・・・・・・・・・・・・・」


意味ありげな笑みに負けるものかと、睨み据えながら持っている書類を渡せば、怖い怖いと肩をすくめて交わされるだけ。香穂子に会えた嬉しさは本当の事だけに反論が出来ないが、素直に気持ちを表せるほど器用では無い。
一人火花を散らす空気をいとも簡単に変えてくれる君が、掴んだ俺の腕を軽く揺さぶり、必死に訴えかけてきた。


「ねぇ月森くん、月森くんからも金澤先生に言ってあげて? 禁煙しましょうって」
「・・・は、禁煙?」
「煙草は身体や喉に良くないの、だって先生が心配なんだもん。今からなら、まだ遅くはないって思うの」
「喫煙や禁煙は本人の意志だろう、俺たちが言うことでも無いと思うんだが」
「それにね、煙は周りの人や環境にも良くないらしいの。月森くんが元気無くなったら、私・・・困るし・・・。だからね、禁煙の封印札を作ったんだよ。これを煙草に貼らせて欲しいってお願いしたのに、素直に出してくれないんだもん。リリにも魔法をかけてもらったら、御利益ありなのに」


ぷうと頬を膨らましながらも、持っていたいた小さな紙切れの両端を持ち、目を丸くする俺の前に披露してくれた。
自慢げに胸を張るのは、赤いペンで「禁煙・ひの」と大きく書かれていたノートの切れ端。これで煙草の開封口を封じるつもりらしい。大人ならば人目が無いところでこっそり札を剥がすのだろうが、子供騙しと安堵出来ないのは、ファータが魔法をかけたという事だろうか。何が起きるのか、想像しただけでも溜息が止まらない。


俺の為を想ってくれる気持ちは嬉しい。だが香穂子の必死な気持ちは分かるけれども、出来ればファータ絡みの悪戯騒ぎや面倒は避けたいのが本音だ。眉を寄せて押し黙り、じっと見つめる俺を、大きな瞳に映していた香穂子の頬が赤く染りだす。顔の前に掲げていた腕を胸の前までするりと降ろすと、もじもじと照れ臭そうに持っていた紙を弄り始めた。


「お〜い、月森、日野。こう見えても俺は忙しいんだ・・・さ、後は若い二人に任せて退散するとしようか」
「ちょっと待って下さい金澤先生、まだ話は終わってませんよ! それにほら・・・大切な時に、女性が嫌がるかも知れないじゃないですか。これはとってもデリケートで、大切なことでもあるんですっ」
「大切なとき?」
「えっとですね先生、唇と唇を・・・こうチュッとするときです。知ってました? 甘くて良い香りに包まれたら素敵だって、女性なみんな思うだろうし、ふわふわになれるんですよ。ね、月森くん?」
「・・・俺に答えを振らないでくれ。どう返したらいいか、困ってしまう・・・それこそ俺たちが心配する事ではないだろう」
「あのなぁ、お前さんたち・・・」


真っ赤な茹で蛸に染まる香穂子が小さく俯き、伸ばした両手の人差し指同士を、キスをするように触れ合わせた。熱さと照れ臭さで火を吹き出しそうになったのは、むしろ俺の方だ。ささやかな仕草やくるくる変わる表情に心捕らわれ、先に折れるのはいつも俺の方だ。君の力になりたい・・・喜ぶ笑顔が見たいから、これも惚れた弱みなのだろう。

いたたまれずにフイと逸らしたした顔を戻し、呆れたように目を丸くする金澤先生を、真っ直ぐ見据えながら手を差し出した。


「金澤先生、香穂・・・いえ、日野の言う通りです。持っている煙草を、大人しくこちらに渡して下さい」
「月森、お前さんさっき喫煙や禁煙は本人の意志だって言ったじゃないか。俺は全くその通りだと、感心したんだぞ」
「その考えに変わりはありません・・・が、大切なときに女性が女性が嫌がる事をしようとは思いません。配慮するのも男性の役目だと、そう思いますが」
「熱いねぇ、若者は・・・ほらよ降参だ。と言っても残りはもう一本だけどな」
「また新しいのを買うんでしょう、大人ってずるい〜。リリが悪戯しても、知りませんからね!」


差し出された煙草を受け取り香穂子へ渡すと、ノートの切れ端で作った手書きの禁煙札を、嬉しそうに貼り付けている。紙が貼られたその一瞬だけ、金色の光が箱を包んだように見えたのは気のせい・・・でなないな。満足そうな香穂子が金澤先生に煙草の箱を返すと、苦笑しながら手の平できらきら光りを放つ箱を眺めていた。


「用事は済んだだろう。香穂子、いくぞ」
「あ、待ってよ月森くん。 じゃぁね金澤先生、今日から禁煙ですよ。それ絶対剥がしちゃ駄目ですからね」


行くぞと短く告げると、軽やかに駆け寄る香穂子が隣に並び、笑顔で真っ直ぐ俺を振り仰いだ。光のような眩しさと愛しさに目を細めると、胸を焦がす炎に押されるまま、音楽室を出たところで手を捕らえた。繋ぐというよりも強く握り締め、決して離しはしないと想う意志を伝えるように。







「・・・んっ・・・ふぅっ・・・・・・」


残り少なくなった昼休みを共に香穂子と過ごすべく、やってきたのは予約していた練習室だった。
ヴァイオリンをケースから出すよりも先に、ドアにはめ込まれたガラスから死角になる壁際で香穂子を腕の中へ閉じ込めた。柔らかな身体の温もりと、吸い付き重なる唇がもたらす秘密のひとときに、焦がされかけていた心が甘く癒されるのを感じる。


「・・・んっ、蓮・・・くん・・・どうしたの? 怒ってるの?」
「香穂子の無防備さには、いつも冷や汗が止まらない・・・。禁煙を勧めるのは良いが、キスまで持ち出されたときに、俺がどれだけ焦ったか、君は知らないだろうな。まるで香穂子が他の誰かのキスをねだっているように思えて、平静でいられなかった・・・」
「ごめん・・・ね。だって、蓮くんがくれるキスがとっても素敵な香りだから、嬉しくて幸せだったんだもん。ふふっ・・・ほら今も大好きな良い香りが・・・んっ。包まれる吐息が、透き通るミントの香りがするの・・・っ・・・・・・」
「香穂子は、甘い花の香りがする・・・蜜を吸う蝶の気分だ」


君は優しいからどんなに自分が大変な時でも、他の誰かの為に必死になる。純粋なひたむきさに惹かれ、危なっかしい君を放っておけず、一緒に手伝った事はこれまで数え切れない。 いや、それよりも・・・上手く言葉に出来ないもやもやした気持ちが、心の底に沸き上がるのは何故だろう。他の異性に余所見をしないで欲しいという、我が儘なのだろうか。


いつもは軽く触れたり啄む小鳥のキスを交わすのに、まるでベッドのなかで過ごすときのような深いキスを交わすのは、堪えていた熱さが溢れてしまったからだ。息継ぎの為に唇を離す僅かの合間に、言葉を交わし更に強く抱き寄せれば腕の中で背を仰け反らせ、きゅっとしがみついてくる。


君が好きだと言ってくれる透き通る爽やかなミントは、愛用しているタブレットの香り。
注ぐ想いは身を焦がすほど熱い炎だけれど、唇を包む吐息は対照的に透明で爽やかに・・・。