キャンドルナイト




上質なビロードのように艶めく濃紺の海、茜色の埠頭。港を巡るクルーズ船から眺める神戸の夜景は、限りなく透明で熱い地上の星たちが漆黒の海に浮かぶ空のように見える。デッキテラスに出てこの大きな宝石箱を手にすると、まるで自分が空へ浮遊する感覚をもたらしてくれるんだ。この夜景は、まさに王者の風格に相応しい。

夜気で冷えた海風は船が走るスピードと重なり、身体に感じる感温はぐっと下がるが不思議と心地良い。そう・・・生ぬるい風など気持ちが悪いぜ。冷たい夜風は自分の道を振り返り、戒めるのにもちょうど良い。

優雅に港を駆けるクルーズ船が、神戸の街に輝く夜景を流星に変える。光の先には、俺たち二人だけの夜・・・パーティーの第二楽章が待っているからな。おい、澄み切った海と空の色ばかりをその瞳に閉じ込めているようだが・・・夜景に魅入っている場合じゃ無いぜ? お前は俺だけを見つめていろ、今夜は最高に甘い蜜を、お前に食べさせてやるぜ。





全室が海側を望む大きな窓を備えた開放感、そして一流ホテルそのままの落ち着いた雰囲気の空間が、上質な船旅を演出する。そのまま外洋へ出て横浜へ行くことも可能な、8層デッキの大きな純白の客船がゆっくりと入港すると、船を貸し切っての盛大な誕生日パーティーも、そろそろお開きの時間だ。

メインダイニングでのパーティーを終えると、主催者である東金千秋と一緒に、エスコートを受ける小日向かなでも、吹き抜けになっているエントランスロビーでゲスト達を見送る・・・。その挨拶を終えて控え室に使っている客室に戻れば、ようやく二人だけの時間だ。


「はぁ〜緊張した・・・やっぱりお部屋は寛ぐなぁ。ん〜と、ヒールの高いこの靴、脱いじゃおうかな・・・千秋さんに怒られるかな? でもお部屋の中だから、いいよね」


慣れないパーティーと、大勢のゲストに対応した緊張感から解放されたかなでは、リビングスペースのソファーに身を埋めながらほっと肩を撫で下ろす。ドレスの裾をちょこんと持ち上げて靴を眺めていたが、子供の悪戯みたいな閃きを瞳に浮かべると、ドレスに合わせた踵の高い靴を脱ぎ捨ててしまう。両足をソファーに乗せると、肌触りの良いクッションを抱き締めながら丸くなり、ころころと頬刷りをする可愛らしさは格別だ。


「おいおい、寛ぐのもいいが、せっかくのドレスが皺になるぞ」
「あの・・・すみません、千秋さんにもらったドレスだから気をつけなくちゃ。解放感を味わいたくて、つい靴を脱いじゃいました。すぐに履きますね」
「そのままでも構わないぜ、俺は。何なら靴だけじゃなく、ドレスも一緒に脱いでもいいんだぞ、今ここで。この部屋はリビングスペースの隣に、ベッドルームもあるからな」
「やっ・・・恥ずかしいこと言わないで下さいっ!」


足元に転がった靴を拾い上げ慌てて履き直し、上目遣いに見つめる問いたげな眼差しが、甘さを帯びた色に変わる。心の底ではお前が欲しいと望んでいる・・・羞恥に染まると知っててからかうが、言葉に込めた想いに嘘はない。お前だって二人きりの時間をずっと待ち望んでいたんだろう? ニヤリと笑みを向ければ、真っ赤に火を噴き出すのも予想通りだ。その熱さでキャンドルに火が着きそうだぜ・・・俺の心にも。


透かし彫りのあるガラステーブルの上には、かなでが淹れてくれた紅茶が琥珀色の水面を湛える二つのティーカップ。そして小さめの箱から出された、二人で食べるのにちょうど良いサイズの、直径10pほどの小さな丸いケーキが置かれていた。白い生クリームのTOPに飾られたプレートには、「Hppy Birthday Chiaki」の手書きチョコメッセージ。

演奏やゲストへの挨拶回りでろくに食事を取っていなかった事を思いだし、急に空腹感を覚えたところに差し出されたのがこのバースデーケーキだった。別宅に帰るまで待ちきれない、二人きりでお祝いがしたかったのだと・・・羞恥で頬を染めながら真っ直ぐ告げた想いを受け止め、嬉しさを堪えきれずたっぷりとキスで返したばかりだ。


ソファーの上で猫のように丸くなりながらも、テーブルの上にある手作りケーキを気にする視線が、そわそわ落ち着く無く注がれる。その様子を楽しげに眺めていた東金千秋が、タキシードのタイと襟元を寛げながらソファーに歩みり、かなでの隣へ腰を下ろす。キチリと小さな音を響かせて軋んだスプリングに気付き、千秋さん?と嬉しそうに振り仰ぐのと同時に、クッションを抱き締めたかなでごと腕の中へ抱き寄せた。


「お前が抱き締めるのは、ソファーにあるクッションじゃねぇ。俺だろう?」
「あの・・・千秋、さん」


耳元に囁きながら敏感な耳朶へキスをすると、んっ・・・と吐息を零して身体が跳ねる。鼻先が触れ合う近さにある、顔を真っ赤に染めたまま潤む瞳にじっと見つめられると、鼓動が静かにざわめきだした。身動き取れずに固まる腕の中から抱き締めていたクッションを抜き去り、隔てていたものが無くなれば、二つの呼吸と体温がゆっくりと一つに溶け合ってゆくのを感じる。

大事な温もりが、腕の中にある喜びと心地良さ。そう思うのは俺だけじゃないと感じるのは。緊張に固まっていたかなでの身体から少しずつ力が抜けて柔らかくなり、おずおずと控えめだが背中に手が回されたから。ささやかでも、指先に込められる力は理性を砕くのに充分すぎるほどだ。


「慣れないパーティーでお前も疲れただろう、だが良く頑張ったな。エスコートの応じ方や乾杯、パーティーでの仕草や振る舞いを、俺が直々に特訓してやった甲斐があったじゃねぇか」
「千秋さんのお陰です、たくさん練習したとはいえ、私なんかずっと緊張しっぱなしでしたから。パーティーでは、カップルでどう見られるかが大事だって聞いたから、千秋さんが素敵に見えるように、私が足を引っ張らないように頑張らなくちゃと思ったんです。あの・・・私、ちゃんと教えられた通りに、優雅に振る舞えてましたか?」
「あぁ、ヴァイオリンの音色もお前自身も、今夜は最高にイイ女だった。皆が羨む視線が、心地良かったぜ」


千秋さんの家でやるクリスマスのパーティーでも、千秋さんの隣にふさわしい女性なれるようにもっと頑張りますねと。ほっと安堵の笑顔を満面に綻ばせたかなでが、無邪気に腕の中から振り仰ぐ。心ごと引き寄せられ深く抱き締め直すと、鼻先を傾け覆い被さるように唇を重ねた。


軽く触れて一度離れ、名残惜しいと無意識に求める瞳に微笑みかけると、今度はしっとり時間をかけてキスを味わう。唇から零れる甘い吐息とすがりつく指先の力、たどたどしくも返そうとするキス・・・ささやかな仕草の一つ一つが俺の情熱を煽り、止まらなくなる。それでも理性のギリギリでキスを離し、「頑張った褒美だ」と蕩ける眼差しを見つめながら告げて、最後にもう一度軽く啄んだ。


「パーティー楽しかったですね〜。お料理も美味しかったし、千秋さんとデュエットも出来たし。デッキテラスから眺めた海の広さや、綺麗な夜景と空に広がる星が一つに繋がって見えて・・・とても感動しました。」
「360度の海が広がる景色の素晴らしさは、実際に海へ出かけて体験しないと実感できないものだ。船が大海原へ出航する高揚感、陸地に近づいていくときの感動もな。昼は昼の、夜は夜の楽しみがあるんだぜ」
「お祝いをしなくちゃいけない私の方が、心の中へたくさんの贈り物を、千秋さんからもらっちゃいました。」


抱き締めていた腕を解くと、長ソファーに背を預けるように座り直す。ぽんと手を叩いて何かを想いだしたかなでが、お祝いしましょと笑みを咲かせ、用意していたライターでケーキのキャンドルに火を付ける。隣に座る距離をいそいそと詰めると、控えめに・・・ちょっぴり甘えるようにもたれかかり、身体を触れ合わせてきた。

恥ずかしがり屋のかなでが羞恥を堪え、精一杯甘えてくる仕草に瞳も頬も自然と緩むのを感じる。トクンと小さく跳ねた鼓動が、やがて少しずつアレグロへとテンポを変えて早まり、全身が熱くなってゆくかなでの熱が、服越しに触れ合う肌から伝わるからだろう。俺らしくねぇなと心の中で苦笑しながらも、照れている自覚は嫌いじゃない。


さすがに18本は立てられないからと困った顔のかなでが、選んだのは数字の1と8をかたどった二つのキャンドルだった。今はこんなのもあるのかと驚きに目を丸くすると、いっぱい差してケーキに穴が空くと寂しいからと、金色の数字キャンドルを見つめていた。だが「子供みたいって、怒らないで下さいね」と、泣きそうに振り仰ぐ唇へ微笑みを刻む唇のままキスを届けると、綻ばせた笑顔が背伸びをして啄み返してくれる。


「ねぇ千秋さん、知ってます? バースディケーキのキャンドルの灯火を吹き消す行為には、キャンドルに願いを封じ込める、という意味が込められているんですよ。ケーキとキャンドルを用意した私の想いも、詰まっているんです。千秋さんがこの日に生まれから、出会うことが出来たんですよね。生まれてきてくれてありがとう、出会ってくれてありがとう・・・って」
「へぇ、知らなかったな。ならばキャンドルの灯火に、俺の願いを込めるとしよう。俺の願いはお前が神南に来ること、そして神戸に暮らして永住することだ・・・俺と一緒に。もちろんヴァイオリンも続けろよ?」
「お・・・お嫁に行くって事ですか!? 確かに18才になったら男の人は法律で結婚が可能ですけど・・・挨拶で千秋さんがみんなに俺の未来の嫁だって、言ってましたけど・・・」


静かに揺れ動くキャンドルの灯は、夕日に照らされたさざ波のように、心に安らぎを与えてくれる。膝の上で組んだ手をもじもじと弄りながら口籠もっていたが、フイに黙ったあとに光を湛えた瞳が真っ直ぐ振り仰ぎ俺を射貫いた。来年も、その次の年もずっとずっと、一緒にお誕生日をお祝いしましょうね・・・と、眼差しだけでなくそっと握り包んだ手に心を重ねながら。

「今夜はやけに積極的じゃねぇか」
「千秋さんの誕生日だし、久しぶりに一緒に過ごせるから、嬉しい気持ちが抑えきれないだけです」
「拗ねてむくれるな、嬉しいって言ってるんだよ。ありがとう、かなで・・・お前の願い通り、俺はずっと離さない、覚悟しろよ」
「えっ!? それはどういう・・・」
「まるでプロポーズだぜ、お前がキャンドルに込めた言葉。かなでからもらった大きな贈り物も、家に帰ったら開けようかと思ったが気が変わった。今ここで包みとリボンを解くとしようか・・・プレゼンはお前自身だなんて、粋なことしてくれるじゃねぇじゃねぇか」
「え、もう包みを解いちゃうんですか!? いくら広いスイートルームのお部屋でも、まだクルーズ船だし・・・千秋さん家の別邸へ帰らなくちゃいけないし・・・」



ソワソワと身動ぐかなでを腕の中に閉じ込めながら、ソファーから身を乗り出し、温かな優しさで揺れるキャンドルの灯火を、一気に吹き消した。込められた沢山の願を、吐息が触れ合う近さで見つめ合いながら、二人でキャンドルに込めて。「お誕生日、おめでとうございます」と甘く見つめる笑顔と眼差しが近付くと、小さく背伸びをした身体がきゅっと抱きつき、白い腕が首に絡められる。

リボンとドレスの包み紙は、そっと優しく解いて下さいね?と、耳まで真っ赤に湯立つ頬で囁く吐息が熱い。
さぁ、キャンドルの灯火と、窓の外へ広がる港の夜景に導かれて、俺達だけの第二楽章が始まりだ


まだ時間は充分にある。動けなくなっても心配するな、俺が抱きかかえて運んでやる。なに、パーティーで酒の香りに酔って具合が悪くなったと言えば、腕の中でぐったりしていても皆が納得するだろうからさ。