僕の手のひらに降りてきたもの


君に会いたい・・・香穂さんは今、どこにいるんだろうって、音色を重ねるように想いを馳せながらやってきたのは、海の見える公園だった。そうここは、僕がヴァイオリンを奏でる君に出会った場所だよ。僕の中には香穂さんを見つける事のできる、特別なアンテナがあると思うんだ。どんなに遠くでも心奮わす音色を感じるし、居場所が分からなくても心のコンパスが導いてくれる。最新式のGPSよりも、感度が良好だって自信があるんだって言ったら、目を丸くして驚いていたっけ。


ふふっ、信じていないのかな? その証拠にほら、心に響く煌めきに耳を澄ませると・・・。遠く微かに響いていた香穂さんのヴァイオリンが、だんだんはっきり聞こえてきたでしょう? これは君が僕のすぐ近くにいる証なんだよ。


振り仰ぐ空はどこまでも青く澄み渡り、海と一つに解け合っていた。時には強く気まぐれに吹く海辺の風に身を任せていると、ざっと音を立てて騒ぐ海風が髪と頬を悪戯になぶってゆく。僕を呼ぶ香穂さんの声が聞こえた気がしてm見上げた空を照らす太陽の眩しさに目を細めると、赤い風船が青空へと羽ばたいてゆくのが見えた。誰かの手を離れてしまったのかな? 

風船は風の船と書くんだよね、それとも自由を求めて冒険の旅に出たかも知れない。風に任せて気ままな旅なんて羨ましいな。手を伸ばせば届きそうなのに、あとちょっとのところですり抜けてしまい、ひらりふわりと大空を駆け回る赤い風船。一際目を引く赤い風船がまるで、無邪気で自由な香穂さんみたいだよね。


赤い風船の君を捕まえたくて、空へ伸ばした手のひらに、彼女の笑顔ような温もりがそっと舞い降りた。柔らかな羽を纏う可憐な小鳥のようでもあり、輝く光の玉にも見える・・・透明に煌めく滴は恋する気持ちへ染み込み、心の風船を大きく膨らませてくれた。さぁ僕も、赤い風船となって君の元へ飛び立とうかな。


「加地くーん!」
「香穂さん!?」


僕の名前を呼ぶ声に浮き立ち、期待で鼓動を高鳴らせながら振り向けば、予想通りに君がいた。嬉しそうに声の響きそのものに満面の笑顔を浮かべて大きく手を振り、元気な子犬のように真っ直ぐ駆け寄ってくる。軽やかに駆け抜ける振動が、白く柔らかいワンピースの裾をふわふわ靡かせてくれるから、風に乗ってくるタンポポの綿毛みたいに可愛いな。

ぽんと飛びつきそうな勢いまま駆け寄り、手を伸ばせば抱き締められる目の前で立ち止まると、肩で切れた息を整えながら。嬉しさをいっぱいに溢れさせた大きな瞳で、香穂さんは僕を真っ直ぐ振り仰いだ。


「加地くんに会いたいなって気持のままに歩いてきたら、本当にいるんだもん。もう嬉しくてびっくりしちゃったよ。ほら加地くん、僕には香穂さんアンテナがあるって言ってたでしょう? 初めはとっても不思議だったんだけど、きっと私にも加地くんアンテナがあったんだよね」
「ここで会えるなんて偶然だね・・・いや、これは出会うべくして出会った必然かな。でもお互いに会いたいと願って探し合い、運命の場所で巡り会えたんだから奇跡かも知れないね。僕も嬉しいよ、会えない時間は想いを募らせるって本当だったんだね」


にっこりと浮かべた笑顔に香穂さんは、でも私たち昨日も学校で会ったけどね・・・と悪戯な光を宿した瞳で受け止め返してくれた。僕を想って一生懸命走ってくれたのが嬉しくて、それだけで舞い上がってしまいそうだよ。だって君の中に僕がたくさんいて、溢れてしまった証でしょう? 僕と君のアンテナが互いに引き寄せ合ったから、約束していない休日に巡り会えたから。。


僕にとってはたった一晩でも、君と離れるのは身を引き裂かれるように辛いんだ。そう真面目に言ったらごにょごにょと語尾を濁らせてしまい、ほんのり頬をピンク色に染めてそわそわ肩を揺らしている。
ふふっ僕には分かるよ、香穂さんが照れているんだって事をね。


強い日差しを避けて木陰に入るとポケットからハンカチを出し、うっすら汗をかいている香穂さんの額を抑えて、優しく丁寧に拭ってゆく。くすぐったくてもぞもぞと身じろいでしまうから、じっとして・・・そう耳元に囁くと耳朶と微笑みが赤く染まり、ありがとうと零れた吐息が甘い花びらに変わった。零れた吐息の花びらが僕の中に降り積もり、鮮やかな花を作り出す・・・まるで春を待つ幸せな気持に似ているよね。


「ねぇ香穂さん、喉乾かない? 走ってきたから熱いでしょう? 何か冷たい飲み物を買ってくるね」
「あの・・・ね加地くん、私ジュースよりもソフトクリームが食べたいな」
「そういえばこの公園にアイスクリームのワゴンがあったよね。あそこは種類が多くて美味しいんだよ。じゃぁ少し君が落ち着いたら、そこへ食べに行こうか。涼しい木陰のベンチに座って海を眺めながらって、美味しいよね」
「やったー! ねぇ加地くんほら、空を見て? 綺麗な青空に浮かぶ真っ白な雲が、ソフトクリームみたいに美味しそうでしょう? 雲のソフトクリームも美味しいんだよ。雲を眺めていたら、ぺろって舐めたくなったの」
「ふふっ、雲のソフトクリームだなんて香穂さんらしいね。でもどうやって食べるの?」
「まずはこう・・・指で三角形のコーンカップを青空に描くの。それを手に持って空へ掲げると、雲が乗っているみたいでしょう? 空に浮かぶ雲をぺっろっと舐めるんだよ。どんな味かをイメージしながら食べるのが、とっても楽しいの」


無邪気な子供のように遊ぶ楽しそうな香穂さんが、遊びましょう?と僕の心を捕らえて放さない。見えないコーンカップを両手に持ち、高い空に浮かぶソフトクリームを舐めようと背伸びをして、ちょっと上を向きながら。わくわくと期待を膨らませる赤い舌が、ぺろりと宙を舐めた。

君の目には浮かぶ雲のようにとびきり大きくて、クリーミーなソフトクリームが映っているんだろうね。ぺろっと舐める仕草は、どうしてこんなに可愛いんだろう。鼓動が大きく跳ねたのは、まるで僕が君にぺろっと舐められているみたいだから。香穂さんが食べたいのはソフトクリームなの? それとも・・・僕?



いつも僕の事をたくさん笑わせてくれるよね。くるくる変わる表情で面白い話をしてくれたり、びっくりするような喜びそうな事してくれたり。大好きなヴァイオリンの音色で、僕にたくさんの元気をくれるよね。笑っているときは幸せに満たされるから、心の中を覗くとほら・・・君の瞳みたいにきらきら輝いているのが見えるでしょう?


「香穂さん、美味しい?」
「うん! とっても美味しいよ。ミルクがとっても優しい甘さなの。こうね、加地くんと一緒にいるときみたいにふんわり幸せなんだよ。ねぇねぇ、加地くんも食べてみる? 一緒に食べたら、もっと美味しいって思うの」
「本当!? ありがとう。じゃぁ一口だけ、頂こうかな」


ハイどうぞと満面の笑みを浮かべながら、雲を浮かべた見えないソフトクリームを差し出す君に、微笑みを返して顔を寄せた。君の肩越しに見える雲がを形を変えてゆくのは、可愛らしい舌に舐められて蕩けたに違いないよね。僕ならきっとそうなるから分かるんだ、実はちょっとだけ羨ましかったりするんだよ。

警戒心が無いのか無邪気なのか、香穂さんは話をしたり聞くときに、いつもぴったり身体を寄せてきたり、吐息が触れ合う近さにまでぐっと迫ってくる。その度ごとに行動は激しく高鳴っているのも、僕だけの秘密。
美味しいよ?と握り合わせた手の平と一緒に、嬉しそうな君まで近付いたら、一緒に食べてしまうけどいいの?


理性で止めよう思うよりも身体が動いてしまい、伸ばした腕が香穂さんの背中を捕らえかける・・・その瞬間に我に返って慌てて手を引き戻した。頬に熱さを募らせながらゴメンととっさに謝る僕に、初めは驚いて目を丸くしていた香穂さんが、切なげに訴えるようにじっと見つめてくる。ひたむきな瞳が映す願いを、僕は知っているのに。


「加地くん・・・どうしてやめちゃうの? 私ね、全然嫌じゃなかったよ。一瞬だけ触れたところが熱くて、火を噴いちゃいそうなの。蕩けちゃいそうなのは青空のソフトクリームじゃなくて、私の方だよ。好きなら触れたいって思うのは自然だし、スキンシップって大切だと思うの。言葉じゃ伝わらない気持も・・・伝えたい気持もあるでしょう? 私は加地くんに伝えたいの」
「香穂さん・・・」


君のためとそう心に言い聞かせていたけれど、僕はどうして触れることを怖がっていたんだろうか。
楽しそうな笑顔は心に染みこむ潤いであり、僕を照らす太陽・・・人にとって太陽や水が必要なように、僕には香穂さんが必要なんだ。君は露や日だまりのように消えたりしない、触れたら温かくて命の鼓動が脈打っている。
どんな時にもくじけない、しなやかな強さに守られて来たのは、見守っていた僕の方なんだ。


「真っ白いワンピースに、赤いリボンだね。微笑みの日差しが溶け込む柔らかいシフォンを重ねたスカートが、ふわりと靡いている感じ。甘酸っぱさの中に、新しい君と僕を感じる」
「加地くん、詩の世界は難しくて良く分からないの、ねぇ、それってどういう意味なの? 教えて?」
「香穂さん知りたい? ふふっ、それはね・・・」
「んっ・・・・・」


吐息が熱く触れ合う近さに懐からぐっと背伸びをして、分からないよと困ったように頬を膨らませながら、可愛らしく小首を傾げる・・・ささやかな仕草さえも鼓動が走り出しそうになる。止められない・・・いや、好きなら触れても良いんだよねって、心の中で君に語りかけた。触れたら上質のシルクみたいに滑らかな頬は、ほんのりピンク色に染まり、ぽってり潤んだ唇は食べ頃な果実みたいに熟している。白い肌に赤い唇、キスの味だって気付いたかな?


答えを教えてとせがむ香穂さんの顔を寄せると、赤く熟れた唇にそっと触れるだけのキスを重ねよう。君が作った白い雲のソフトクリームを舐めるように、僕だけの唇というスイーツをぺろりと舐めれば、抱き締めた腕の中から小さく声を零して身じろいだ。

どんな味がするだろうって思い浮かべたら・・・本当だ、優しいホットミルクの味がするね。香穂さんの微笑みや、純粋で真っ直ぐな優しさに似ている。抱き締めた身体から伝わる温もりが、紅茶に溶けるミルクみたいに穏やかな気持にしてくれるから。確かめ合うって、こんなに幸せで心地が良いものだったんだね。そう思わない?




大人になるに連れて心をときめかす事が少なくなるというけれど、そんな事は全然無いって思うんだ。
君と一緒にいると僕は、無邪気な子供のような心を取り戻したり、幸せや喜びを全身で奏でる事ができるから。

僕の手の平に舞い降りた音楽の女神、たった一つの太陽。
教えてくれたのは君だよ、音楽というのは楽器だけが奏でるものじゃないんだって。