バスルームで鉢合わせ


「香穂子、香穂子・・・どこにいるんだ?」


夕食のテーブルを囲んだ時にはいつもと同じように、香穂子とテーブルを挟み、料理を食べながら笑顔と会話を交わしていた。食後にはキッチンで片付けをしていたのも知っている。リビングで本を読んでいる俺の元へ軽やかに駆け寄り、バスタブにお湯が張れたと風呂の用意が出来たことを告げに来た・・・その時までは何も変わった様子は無かったと思う。だがいざ風呂に入ろうと、声をかけバスルームへ向かうが、家の中どこを探しても香穂子の姿が見あたらなくなってしまった。いつもなら、少しばかりはにかみ照れながら、一緒に入るのだと共に向かう筈なのに。


キッチンにも顔を出し、念のため失礼を承知でトイレもノックして。二階に昇り寝室や客間など全ての部屋を探し歩いたが、気配を消してしまっている。まさか家の外に出たのではと思って確認した玄関のドアは、鍵がかけられたままだし彼女の靴もちゃんとある・・・外に出かけた形跡は無かった。こうまで巧妙に姿を見せないのは、意図的に家のどこかへ隠れているのだと一目で分かる。しかも今日だけではなく、ここ一週間ほど毎日のように続いていた。

また今日もか・・・ひょっとして俺は君に避けられているのだろうか?


留学という数年の別離を経てようやく君と結ばれ、同じ屋根の下で一つになった二人の生活。だが俺と香穂子のやらねばならない仕事や考えている事、悩みや趣味、クセや習慣など全く違う。共に暮らすからには気を使い合う生活の中で、互いに刺激になったり時には些細な言い争いにもなったりする。なぜ伝わらないのか、分かってくれないのかと・・・香穂子は寂しい気持を抱いているのかも知れない。

触れ合わせる事で尖った角が丸くなり、心のピースにぴったり収まる姿に変わってゆく。そう分かっていても、俺は君に甘えすぎていたのだろうか、まさか嫌われたのでは無いだろうな・・・と。心に立ちこめる暗雲を軽く頭を振って追い払い、締め付けられる痛みを耐えるように眉を寄せた。



確かにここ数日、夕食を終えると姿を隠してしまうが、それ以外の日常は何ら今までと変わらない。一人でシャワーを終えて寝室に戻れば、暫くして湯上がりの香穂子がご機嫌な笑顔でベッドに潜ってくる。二人でベッドを共にする夜も・・・その、熱く甘いひとときだと言えるだろう。

だからこそ、この空白の時間が気になってしまうんだ。探し回る俺から身を潜め隠れながら、程良い所で姿を現す君は一体どこにいるのか。家の中に関しては、主婦をしてる香穂子の方がずっと詳しい、秘密の隠れ場所が一つ二つあっても不思議では無いのだから心配無いと思うが・・・。俺が風呂に入る時に限って香穂子が姿をくらますのは、きっと一緒に過ごすバスタイムに関わる事なんだろう。

思い当たる節は・・・あるな、ありすぎる。

思い返せば鼓動が弾け、バスタブのお湯にのぼせたように熱さが募り、身体中を駆け巡りだした。やはりそれが原因なのだろうか、強い想いが身体的肉体的にも負担をかけていたと、そう考える方が自然だ。気遣い合っているのに、どこか互いにずれて寂しくなるように。なぜ上手く伝えられないのだろうかと、自己嫌悪に陥り深い溜息が溢れてくる。家中を探し回って再びリビングに戻り、香穂子が悪戯に隠れそうなソファーの裏を覗き、念の為カーテンも捲ってみた。微かな膨らみに期待してただけに、見えるのは闇に包まれた庭の景色だけ。

忍者か、君は?と、まさに降参の白旗を揚げたい気分だ。俺の行動の裏をかかれているようで思わず眉をしかめるが、次第に不安と焦りが込み上げてくる。毎日この時間になると香穂子を必死に探している俺は・・・後から姿を現すと分かっていながら、なぜこんなにも君を求めているのだろうか。傍にいる温かさを知ってしまったから、もう君のいない日には戻りたくないと節に求める心と。君の身に何かあったのではという不安。

そして・・・やはり、香穂子と一緒に風呂へ入りたいのだと・・・思う。
君と過ごし、心を溶け合わせる貴重な時間が突然無くなるのは、身体の一部をもぎ取られるように辛いから。

日本と違い、音楽の活動と生活の拠点を置くヨーロッパでは水道代がもの凄く高い。建物によっては熱いお湯も10分以上続けて出せない所もあるから、ホームステイ先ではバスタブにお湯をはったり、シャワーの回数を限られる所もあるようだ。さすがにそこまではしないものの、少ない回数で済むようにとの意味も込めて「風呂は一緒に」という夫婦の約束が俺たちの中であったりする。もちろん俺にとっては、共に過ごすための建前なのだが。

最初は真っ赤に照れて反発した香穂子も、不審そうな眼差しを向けつつ、最もな意見に渋々ながら口を噤み了承してくれて。今までは、二人のバスタイムを楽しく満喫していたと・・・そう思っていたのに。


だがもう遅い時間になってしまったから、今夜も一人で入るとしようか。周りからは呆れられるかも知れないが、俺にとっては音楽と同じくらい切実な問題だ。それにもしかしたら、もう君は俺と入れ違いで先に済ませていて、寝室のベッドに潜っているかも知れないから。リビングの壁に掛けられた時計を見て深く溜息を吐き、重い足取りでバスルームへと向かった。





「キャッ・・・! れ、蓮!?」
「・・・香穂子!? 今までどこにいたんだ、探したんだぞ」
「やだっ、もしかしてシャワーまだだったの? てっきり先に終わったと思って、こっそり出てきたのに〜。蓮のエッチ、こっち見ちゃ駄目っ!」

何気なくバスルームのドアを開けると、脱衣所にいたのはずっと探していた香穂子だった。予想に反してこれからシャワーを浴びようとしていたらしく服は脱ぎ、生まれたままの一糸まとわぬ姿で、驚きに目を見開いている。白く輝く肢体や胸の膨らみに魅入っていると、我に返った香穂子がぼんっと真っ赤に火を噴き、慌てて傍にあったタオルを掻き寄せ前を隠してしまった。

潤みかける視線に真っ直ぐ睨まれるが、可愛らしさだけが強調されて威嚇の効果は全くない。すぐに背を向け、脱衣所を出なくてはと頭の中では思うのに理性と欲望は正反対で。勝手な思い込みだと分かっているが、抱き締めてくれと言われているような気がしてならないんだ。

頬に燃えるような熱さを感じがらも、一歩一歩、ゆっくりと距離を詰めてゆく。見据える視線を反らせぬまま、じりじりと後ずさる香穂子が、トンと軽い音を立ててバスルームの扉に背を打ち付けた。胸の前でタオルを押さえながら手を握り締め、困ったように眉を寄せながら肩越しに背後を振り返り、彼女にとっては万事休す。だが俺には、ようやく君をこの腕の中へ捕らえるまで後少し・・・そう思った所で悪戯な光が瞳に灯り、するりとバスルームの中へ身を滑り込ませてしまった。

「・・・・・っ香穂子、開けてくれ」
「嫌〜っ、開けないんだから。蓮のお風呂は私が出た後なの。一緒って約束したけど、やっぱりお風呂は別!」
「今までだって、一緒に入っていたじゃないか。どうして俺を避けるんだ、教えてくれ。いや・・・言いたい事は分かる、その・・・すまない。だが、欲しいと思う気持ちは止められなかった。君と過ごす時間は、何よりも大切なんだ」

すりガラスのドアの向こうで、ドアノブを押さえながら、バスルームへの進入を拒んでいるのが見える。拒まれている事に少なからず心が痛むが、ずっと求めていたから、君へと向かう溢れた想いはもう止められなくて。一つ呼吸をするとドアから下がり、衣服を全て脱ぎ落とした。香穂子が押さえているバスルームへのドアノブを、外側からそっと手にかけた。力で押すのではなく、あくまでも手は添えるだけ・・・天の岩戸に隠れた女神を待つように、ドアを開けるのは君だから。


「・・・俺は、家のどこを探しても香穂子の姿が見えなかったとき、心臓が握り潰される思いだった。君の身に何か合ったのではないかと心配で不安で。海を隔てていた時のように、また一人になってしまうのかと暗闇に飲み込まれそうになりながら。誰よりも大切で愛しい君の存在を確かなものとして、この腕の中に感じたくて必死に探していた」
「蓮・・・あの、心配かけてごめんね。ちょっと、隠れん坊の気分だったの」
「呆れられたのかと、嫌いになったのかと自分を責めていた・・・香穂子の気持が、知りたい」
「・・・嫌いになるなんて、絶対にあるわけ無いじゃない。蓮は、大好きだよ。私こそ、言い過ぎちゃった・・・ごめんね」
「香穂子、では・・・」
「でもっ、それとこれとは別なの・・・蓮の気持は嬉しいよ。私が・・・その・・・」

ポツリと吐息に乗った呟きがドア越しに聞こえ、力が緩んだ隙にぐっとドアを押せば、きゃっと小さな悲鳴を上げた香穂子が両手で胸を押さえながら背を向けた。後ろ手でバスルームのドアを閉めるとゆっくり歩み寄り、柔らかな身体を背後から抱き包むように腕の中へ閉じ込めた。

ピクリと肩を大きく震わせ、身を固くする振動が触れ合う胸を通して直接伝わり、俺の心を痛いほど締め付ける。
香穂子・・・と、耳朶を甘く噛みながら優しく名前を囁きかけ、震える身体を強く引き寄せる。

「本当は、私だって一緒にお風呂に入りたいんだよ。蓮と使ってみたい入浴剤や石けんがたくさんあるんだもの。でも・・・ただお風呂に入るだけじゃないんだもん。お風呂の湯船と蓮にのぼせちゃうの」
「その・・・いろいろ気をつけてはいるんだが・・・」
「動けなくなるからバスタオルにくるまれて、蓮にベッドへ運ばれてからも・・・えっと。つまりね、長い時間お風呂に入るのは大好きだけど、さすがに毎日湯あたりしてのぼせるのは困るのっ!」
「・・・香穂子、俺との風呂を避けていたのはその為だったのか? ならば言ってくれたら良かったのに」
「いつでも私を気遣ってくれる、優しい蓮を我慢させちゃうのは辛いし。それに例え言ってもお願い事は、その場になったらうやむやになっちゃいそうだしって思ったの。あの・・・ね、蓮と一つになるのは気持良いし幸せだよ。でも私の体力が持たないし、お風呂場は明るくて声が響くから恥ずかしいんだもの・・・・」
「香穂子・・・・」


込み上げる愛しさと押し寄せる君からの想いに、息が止まりそうになった。白く霞む湯煙に包まれた声が、微かに反響してバスルームの中に響き渡る。抱き締める腕の戒めを解くと、ほっと安堵の溜息を吐いて緊張を緩めてくれた。長いようで短い沈黙の後で、真っ赤に染めた頬で恥じらいながら振り返り、正面に向き合った。タオルは抱き締めた時に床へ落ちたまま、両手で自分を抱き締めるように胸を隠しながら、真っ直ぐ俺を振り仰ぐ。

ようやく向き合った、俺と君の気持ち。
あの・・・あのねと、上目遣いに必死に紡ぐ言葉を、緩めた瞳で微笑みで真摯に受け止めた。


「いつもみたいにお風呂の中で悪戯しないって、約束してくれる? 三回駄目って言ったら本当に止めてくれるのなら、一緒にお風呂に入ってもいいよ」
「・・・もう入っているんだが、三回でいいのか?」
「だって、蓮は一度言っただけじゃ聞かないじゃない」
「それは君も望んでくれると、伝わるから。本当の拒絶と、甘い誘いの違いは分かる」
「もう〜蓮のイジワル! 情熱を見せた熱い蓮には蕩けて敵わなくなるって、知っててそういう事するんだもん。じゃぁシャンプーしてくれたら、許してあげる」


ぷうっと頬を膨らませてる睨んだ顔が、ふわりと緩んで温かい微笑みに変わる。俺も君も、どちらともなく顔を見合わせ笑みを零していた。木霊して響く笑い声が、バスルームの中へ水滴と一緒に優しく溶け込み、心へも潤いとなって染み渡ってゆく。乾いた心が、君によって潤ってゆく。


「分かった、約束しよう・・・出来る限り」
「じゃさっそく仲直りの印に・・・」


そう言ってにっこりと悪戯な笑みを浮かべ、小さく赤い舌を出した香穂子がくるりと背を向けた。壁に掛かっていたシャワーのノズルを取り、手の中へ握り締めると、銃口を俺に向けながら後ろ手で栓に手をかけ・・・。まさかと息を呑み一歩後ずさったが既に遅く、それよりも彼女の攻撃が早かった。

シャワーのノズルから吹きだされた強い水流が、痛いほど真っ直ぐ襲いかかってくる。目を瞑り顔を背ける俺を執拗に追い、ノズルをあちこちに振り回す香穂子は、無邪気な水遊びをするように楽しげに笑い声をたてている。だが不快ではなく、どこかくすぐったくて心地良い・・・そんな気分に自然と頬が緩んでしまうんだ。


「・・・・っ、香穂子!」
「蓮にお返しだよ〜っ! くらえ〜シャワー攻撃!」
「シャワーが強すぎる・・・痛いじゃないか。こら香穂子、いい加減にしてくれ」
「・・っきゃっ!」


だが、遊びもそろそろお終いだ。腕を掴み、正面からしっかり抱き締めると、戸惑う瞳を熱く射抜いた。音を立てて床に転がったシャワーのノズルが上を向き、噴水のように吹き上がる。互いに心地良い湯を浴びながら、身体も心も一つに溶け合おう。

そう、いつも俺に火を点けるのは君なんだ。
ここは耐えて我慢しようにも、いとも簡単に心の鍵を開き、理性を崩す引き金を引くから。


「んっ・・・・」
「君が、悪い・・・」
「んっ、どうして・・・私がっ・・・」


素肌のまま深く抱き締め、覆い被さるように唇へキスを重ねながら、バスルームの壁に香穂子を押しつける。戸惑い揺れる大きく澄んだ瞳に映る俺が、せっぱ詰まった顔をしていて。やはり今日も駄目かも知れないなと、心の中で真摯に詫びた。声にならない言葉が伝わったのか、赤く熟れた唇が「蓮の嘘つき」と、水流にかき消された声の形を辿るのを、吸い込むように再び重ねてゆく。







「もう〜だから言ったのにー。蓮とお風呂入ると、いつもこうなるんだもん!」
「すまない、具合はどうだ?」
「頭痛い〜ちょっとくらくらするよぅ・・・、蓮の手と冷たいタオルが気持いいの」
「湯あたり・・・だな、冷たい水でも飲むといい」
「どうして蓮は長い間お湯を浴びても平気なの? 私を庇って多くシャワーを受け止めていたでしょう?」
「俺まで湯あたりしてしまったら、こうして香穂子を運べないし看病できない」
「む〜ん、何か分かったようなそうでないような」

大きなバスタオルにくるまれ、全身が真っ赤に茹で上がっていた香穂子が、くってり力なくベッドに横たわっていた。シーツもタオルも白いだけに、火照った赤みが際だっているのが痛々しい。長時間シャワーのお湯を浴び、をバスタブに浸かっていたせいでもあり、俺を受け止め身の内から溢れ出た熱のせいでもある。

頬を膨らませ拗ねながら枕元に座って見守る俺を見上げ、頭痛い気持ち悪いと力なく呟くたびに焦り、心配のあまり動揺が止まらない。最初は機嫌を損ねていたけれど、そんな俺がおかしく思ったのか、いつのまにか甘えて拗ねるような仕草を見せていた。冷やした濡れタオルを額に乗せ、もう一枚は火照りを冷ますように首筋や腕に当てなぞるのを、瞳を閉じて心地良さそうに受け止めてくれている。

香穂子の枕元に座り込み、うちわで扇ぎ風を送れば、ころりと寝返りを打って近づき、もっと・・・とそう言って甘くねだってきた。大きなバスタオルを巻いただけの姿は充分に魅力的なのだから、その・・・あまり姿勢を崩さないで欲しいのだが。これ以上はと想い留める為にも、覆い隠した素肌の奥が見えてしまいそうで、身動ぐ度に行動がドキリと高鳴ってしまう。


「でもね、かいがいしくお世話してくれる優しい蓮が嬉しくて、心がふんわり柔らかくなってくるみたい。お湯にのぼせるのは困るけど、このひとときは大好きだなって思うの。ちょっぴりお姫様気分だから、もっと甘えたくなっちゃう。もう怒ってないから、悲しそうなしないで笑って欲しいな。ね?」
「許してくれるのか?」
「うん。それよりも、蓮は具合平気? 気持ち悪かったりクラクラしてない?」
「心配いらない、俺は平気だから。ではまた明日から、一緒だな。何か欲しい物はあるか?」
「ねぇ、もっと扇いで欲しいな〜後ね、喉乾いたからお水飲みたい」


頬を膨らませ、拗ねた瞳で俺を見上げていたが、すっかり機嫌を直してくれた君の心の広さと優しさが、じんわり染み渡ってくるようだ。唇を差し出しながら喉が渇いたとねだるのは、直接口移しでという事なのだろう・・・もちろん喜んで。

香穂子の頬を包み瞳を緩めると、ベッドサイトに置いてあった、ミネラルウォーターのボトルを一口含んだ。そっと抱き上げ、頭を支えながら覆い被さりキスをすると、触れ合った唇の中へゆっくり水を流し込んでゆく。冷たい水が二人の熱で火照るように、重なり合った後は蕩けるだけ。俺も湯上がりだから、上半身は素肌のままだ。


「・・・・・んっ」





バスルームの床に放り投げられたシャワーの音が、響く君の声をも吸い取ってしまうから・・・どうか共に歌い奏でて欲しい。崩れそうな身体を支えすがりながら、強くしがみつく指先の力が俺を熱く疼かせる。湯を浴びて濡れた身体が滑らないように、しっかりと抱き締め合おう。煌めきと共に降り注ぐ、想いのシャワーの中で。