新しいルール



柔らかなお湯と肌触りの良いバスタオルに包まれる幸せは、ずっと続いて欲しい・・・。そう願う香穂子はいつまでも真っ白いバスタオルを胸の中に抱き締めて離さず、俺はそんな君ごと包み込んでしまうんだ。そして俺たちのバスタイムを完成させるには、風呂上がりの冷たい一杯は欠かせない。喉の渇きを癒し解放的な気分にしてくれる、冷えたミネラルウォーターのグラスを両手で包み持ちながら、美味しそうに飲み干す君の姿は水を吸う花のようだと思う。

ほんのり桃色に染まる頬のまま、どうぞと手渡された透明なグラスを受け取りキッチンで乾杯も良いけれど。たまには気分を変えて湯上がりの火照りを冷まそうか。リビングのテーブルに並べた二つのシャンパングラスには、琥珀色の液体が注がれ、宝石の気泡がいくつも浮かんでいた。

少し背伸びをしてシャンパンで・・・と言いたいが、アルコールに弱い香穂子は、グラスに漂う香りと一口だけでご機嫌になってしまうからノンアルコールで。甘えてじゃれる子猫は俺の熱を高めるから、抱き締めようと手を伸ばした時に限って、心地良さにくってり眠ってしまうんだ。寝顔を眺めるのも幸せだが、やはり一人で起きているのは寂しい。夜は長いだろう? もう少し君と一緒にいたいから、眠るまではもう少し待っていて欲しい。


せめて雰囲気だけでもシャンパンを味わえるようにと、琥珀色の中身はジンジャーエールだ。例えジュースの炭酸水でもシャンパングラスに注げば、雰囲気だけでもちょっぴり贅沢で優雅な気分になれたらいいと思うから。ほんのり甘めな炭酸水には酸味のある果実が似合うと思うから、付け合わせは小さなガラスのボウルにブルーベリーを。そして甘いものが好きな香穂子の為にチョコレートも忘れずに用意して、キャンドルに火を灯しておこう。

いつもの日常が、特別に変わる。さぁ、後は髪を乾かしている香穂子が、リビングへやって来るのを待つだけだ。



リビングのテーブルにグラスを整え終わると、髪を乾かし終わった香穂子がパジャマ姿でやってきた。小走りにソファーへ駆け寄り、いいお湯だったよねと微笑み振り仰ぐ桃色が、俺の中にも優しい温もりを灯してくれる。テーブルに気付くと嬉しさを湛えた瞳が大きく煌めきを放ち、ほぅっと感嘆の吐息を零しながら、素敵だねと満面の笑顔の花が咲いた。喜びの笑顔が波動となって、俺の心を優しい温もりで振るわせる・・・。癒しであり力の源である君の笑顔の為に、俺はどんな時でも頑張れるのだと、そう思った。


「香穂子、風呂上がりで喉が渇いただろう? 冷たい飲み物を用意したんだ、少し寛がないか?」 
「うわ〜素敵! シャンパングラスとチョコにフルーツまで、まるで夜景の綺麗なラウンジみたいだね。私が髪を乾かす間に、飲み物を用意しておくって言ってたでしょう? てっきり冷たいお水だと思っていたから、びっくりしちゃった」
「シャンパンで乾杯といきたいが、色や形が似ているジンジャーエールで我慢してくれ。香穂子はアルコールに弱いから、長い夜の始まりに、すぐ眠ってしまっては困る。いつもならすぐ寝室に行くことが多いが、こうして共に火照りを冷ます時間を後に作れば・・・その。君をのぼせさせてしまうことも無いかと・・・思ったんだ」
「あっ、そうだよね・・・のぼせちゃって、ごめんね。蓮とお湯と二つの熱さに溶けちゃうから、一息つく時間は嬉しいな」


頬に熱さを募らせながら真っ直ぐ告げれば、香穂子の顔が見る間に真っ赤な茹でだこに染まってゆく。少し前の熱さを思いだしたのか、恥ずかしそうにごにょごにょと口籠もりながら小さく俯き、組んだ両手を弄る君。いや、君のせいじゃないんだ。くすぐったい沈黙の中で、吐息に乗った言葉が視線と交われば、どちらともなく微笑みが生まれた。

差し伸べた手に香穂子の手が重ねられ、さぁソファーへ・・・その時、あっと小さく声を上げた香穂子がするりと手を解いてしまう。どうしたのだろうかと眉を寄せれば、困った微笑みで小首を傾げ、自分のパジャマを見下ろしていた。


「香穂子、どうしたんだ?」
「ん〜せっかく蓮が素敵にテーブルを整えてくれたのに、パジャマは似合わないかなって思ったの。そうだ! 私、ちょっと着替えてくるね」
「着替え? おい、香穂子!?」


何かを思いついたらしく好奇心旺盛な瞳を輝かせ、ポンと手を叩く音が響き渡った。伸ばした手からすり抜け、ひらりと舞う蝶のようにリビングを抜けると、寝室へと駆け戻ってしまった。後は眠るだけなのだから、パジャマのままでも良いと思うのだが、着替えとは何なのだろうか。だが去り際に残した満面の笑顔が俺の心へ残した、楽しみにしててねという言葉が大きく膨らんでゆく。

何が待っているのかは分からないが、楽しく幸せなことに違いない・・・そう心が伝えてくれる。俺だけでなく君も、この特別なひとときを一緒に楽しんでくれるのが、何よりも嬉しいんだ。


ソファーに身を埋めて待つこと数分、パタパタと賑やかな足音を聞くだけで緩んでしまう自分の頬に苦笑していると、お待たせとリビングのドアから声が聞こえた。いつものようにソファーへ駆け寄るかと思ったが、足音は少し離れた所から一向に近付く気配がない、一体どうしたのだろうか? ソファーから立ち上がり声の方を向けば、こっそり顔だけを覗かせ開けたドアの淵を握り締めながら、恥ずかしそうに身を隠す香穂子がいる。


「どうしたんだ、香穂子。ドアの裏に隠れていないで、こちらへ来ないか?」
「う、うん・・・あのね、蓮が素敵に用意してくれたのが嬉しかったの。だから雰囲気に合わせてちょこっとお洒落をしたんだけど・・・その、私も初めてで。似合わなくても笑わないって、約束してくれる?」
「香穂子を笑うなどあり得ない、心配しなくていい。どうか俺に、姿を見せて欲しい」


心配そうに念を押す香穂子に微笑み、確かな約束を真摯に告げると、頬を染めて恥じらいながら姿を現した。俺がどれだけ驚いたか、君は知らないだろうな。香穂子は無防備な心へ、ふいに熱い爆弾を落とし驚かせてくれるけど、今日は久しぶりに威力が大きすぎる。俺のためにという純粋な気持が瞳から伝わるだけに、自分の欲深さを知らされるようで苦笑するしかないのだが・・・これは夢だろうか。それとも俺の願望が浮かんだ幻なのかと、こっそりつねった手の甲が痛いから、これは間違いなく現実なのだろう。


一番最初に目に飛び込んだのはピンク色、そして柔らかなミルクの白。パジャマではなく、ミニ纏っていたのは丈の短いスリップドレス・・・Aラインのベビードルだったのだから。胸元を飾るのは優しいレースと刺繍、アンダーバストの切り返しには視線を引き寄せる白のレースが飾られており、中心にはアクセントのリボンが蝶のように揺れていた。艶めく生地はサテンだろうか、肌が透けないのがせめてもの救いだ・・・。


寝室で寛ぐ時だって、香穂子はいつもキャミソールに短パンなのだから、肌の露出加減はあまり変わらないじゃないか。苦しいほどに早く走る鼓動を宥めようと心に言い聞かせるが、ベビードールとでは比較にならないらしい。背中に汗が伝い脳裏は霞み、理性の導火線がものすごい早さで短くなるのを感じる。

惜しげもなく晒された腕や、浮き出る鎖骨。まろやかなヒップがやっと隠れるくらいの裾から、すらりと伸びる白い脚に視線は引き寄せられ、溢れる唾液を飲み込むのがやっとだ。その・・・裾がはだけてしまうから、無邪気に駆け寄らないでくれないか。出来ることならそっと、ゆっくり歩いてきて欲しい。そんな俺の心を知ってか知らずか、どうかなと小首を傾げ、無邪気にくるりと回ってくれるんだ。

ほら・・・ただでさえ短い裾が、ふわりと広がってしまうじゃないか。


「か、香穂子・・・その格好はどうしたんだ?」
「パジャマだといつもの夜でしょう? でもシャンパングラスにキャミソールっていうのも雰囲気じゃないし、ベビードールを着てみたの。ねぇ、蓮は知ってた? ヨーロッパの女性たちはね、お部屋で寛ぐためにベビードールを着るんだって。素敵な習慣は、さっそく取り入れなくちゃって思ったの。でもちょっと恥ずかしいの・・・ねぇ似合うかな?」
「あ、あぁ・・・良く似合っている」
「良かった! 蓮と結婚した今でも、大好きな人のためにいつでも可愛くいたいなって思うの。それに、ほら・・・新婚さんだだし。さすがにエプロンとかは恥ずかしいけど、ちょっぴり冒険してもいいかなって・・・あの、何でもないの!」
「・・・・・・・・・・・・・・っ!」


今の無し、聞かなかったことにしてと慌てだし、真っ赤に火を噴いた顔の前で手をばたつかせるが、しっかり耳に届いてしまった一言を記憶から消すのは不可能だ。顔から火を噴き出してしまいそうなのは、俺の方だというのに・・・口元を手の平で押さえつつ小さく溜息を吐くと、心配そうに振り仰ぐ潤む瞳に捕らえられた。

いくら二人きりとはいえ、なぜ君はこんなにも無防備なのだろう。俺のため、そして二人の幸せのためにという気持は何よりも嬉しいのに、ひどく理性を試される苦しさが襲うんだ。風呂上がりの熱を落ち着かせるどころか、これでは余計に熱が灯ってしまうな。一瞬で俺の心は君で満ち溢れてしまう、他には何も考えられなくなる程に。


「蓮、黙っちゃってどうしたの? もしかして怒ってる? 私やっぱり、パジャマに着替え直した方がいいのかな・・・」
「すまない、違うんだ。香穂子があまりにも魅力的だから、自分を落ち着かせるのに必死だった。さぁ、立ち話もなんだから、ソファーに座ろう。俺も、少し喉が渇いた・・・香穂子も早く喉を潤したいだろう?」
「うん! シャンパンみたいなジンジャーエールだけど、私たちには最高の一杯になるって思うの。二人の夜に乾杯しようね」


嬉しさを弾けさせて飛びつく香穂子が俺の手を両手で包み込み、きゅっと握り締める・・・柔らかさと温もりに心まで掴まれて、俺は君に捕らえられてしまうんだ。繋いだ手を揺らしながら早くと急かす君に微笑み、ソファーへ身を沈めれば互いに琥珀色のグラスを持って乾杯だ。カチンと触れ合う音は、大人の夜の始まりを告げる甘い音色。


白い小皿に盛られている、口溶けの良い丸いトリュフチョコは、甘い菓子が好きな香穂子の物。指で摘み、手を添えながら口元へと運ぶと、雛鳥のように口を開けて身を乗り出してくる。ちょこんと差し出した赤い舌の上に乗せれば、ぱくりと食いつき満面の笑みを浮かべた。落ちそうな頬を押さえ、ジタバタ脚を鳴らす幸せそうな君に、頬も瞳も心も・・・何もかもが柔らかく解けてしまいそうだ。


「・・・・っ、香穂子!?」
「ふふっ、美味しいね、蕩けちゃうね。チョコだけじゃなくて、蓮の指も凄く甘いの」


だが香穂子は口に含んだトリュフチョコだけでは足りず、俺の手をふいに掴むと、チョコレートの付いた指先をもぱくりと口に含んでしまう。ごちそうさまと無邪気に俺を食べた君を、今度は俺が食べてもいいのだろうか・・・食べて欲しいと心の声に聞こえるのは、理性が我慢の限界を訴えている証に違いない。とにかく落ち着かなけれと、深呼吸をする俺の脚をポスポス叩く香穂子を見れば、薄い板状のチョコレートを差し出していた。


甘いものが得意ではない俺用には、カカオの含有量が高い、苦めのチョコレートを用意しておいたんだったな。漆黒の夜空みたいなブラックチョコレートを、あ〜して?と愛らしく差し出す指先には敵わなくて。考えるよりも先に身を寄せれば、洗い立てのシャンプーの香りと、ベビードールからむき出しの素肌から香る、揃いのボディーソープの香りがふわりと包み込んだ。

チョコレートを摘む指先ごと口に含みたいが、距離が遠いのが残念だ。舌の上に乗せれば、薄い四角のタイルチョコがゆっくりう蕩け、ほろ苦さが広がってゆく。蕩ける感触というのは、なぜこんなにも甘く痺れるのだろうか。シャンパンは恋の媚薬だというけれど、チョコレートにも同じく本能をや熱さを掻き立てる恋の媚薬が入っているのではと・・・そう思えてならない。


口の中でチョコレートを溶かしているのに、俺が溶かされている感覚になる。きっと君が食べさせてくれたから、ほろ苦さも甘美な甘さになるのだろう。眼差しを反らせることができない、視界一杯に映るベビードールのピンク色は、ラズベリーのように甘酸っぱい君にぴったりだ。このまま君を食べてしまいたいと、火照る熱を冷そうとグラスを手に持ち、口に含んだ琥珀色が甘く脳裏を霞ませた。


「蓮、大丈夫? 顔が赤いよ?」
「・・・すまない、少し酔ったみたいだ」
「え? そうなの? この琥珀色は確かにただのジンジャーエールだったんだけど。ひょっとして蓮のだけは、本物のシャンパンだったのかな? ん〜でもアルコールの香りはしないし、不思議だね」


ぴったり肩を寄せながら手元のグラスに顔を近づけた香穂子が、俺のグラから漂う香りを嗅いでいた。しっとり触れ合う肌の温もりが、離れがたい想いを乗せて互いに吸い付き合い、熱さへ変わる。抱き締めようと肩へ伸ばした手がが空を掴んだのは、俺にもたれ掛かってていた身体を起こしてしまったから。空を掴んだ手を苦笑と共に握り締めれば、ブルーベリーをグラスの中に浮かべた香穂子が、うっとりと琥珀色を目の前にかざし眺めていた。

温かく優しいヴァイオリンの音色を奏でる君の周りに、ファータが集まるように、小さな気泡たちがブルーベリーを包んでいる。だが俺は、大人っぽい色香の中に漂う可愛らしさが、小悪魔の誘惑にも思えて甘い痺れに酔いそうだ。
意識が熱く桃色に霞んでゆく・・・君の色に。さっきまで共に過ごしたバスルームと、同じ心地良さで。


「グラスだけは本物だから、見た目はシャンパンと同じだね。ほら、ブルーベリーを浮かべると、くるくる踊ってとっても可愛いの。」
「楽しそうな姿は香穂子みたいだな。ブルーベリーを眺めていると、不思議と落ち着いた気分になってくる。夜の色に似ているからだろうか」
「本当だね、月が浮かぶ夜空の色だよ。眠りを誘う穏やかで優しい夜の色、蓮と一緒に眺める夜空の色みたい。それに琥珀色がとっても綺麗、蓮の瞳みたいだなって思うの。私も夜色のブルーベリーになって、月の海に蕩けたいな」
「俺も瞳に君を閉じ込めたい。この腕に抱き締め、ずっと見つめていたいんだ」
「・・・・蓮。そうだ! これから毎日お風呂上がりは、特別な二人の時間を楽しもうね。私たちの新しい約束だよ。蓮がセッティングしてくれたテーブルに、私はとびきりお洒落をするの。どう、素敵でしょう?」


そう言ってガラスの小鉢からブルーベリーを一粒摘むと、俺の口元へ運んでくる。口を寄せようと近づけかけた顔を直前で止め、指先で摘みとると食べずに唇へ挟んだ。一体どうするのかと、不思議そうにじっと見つめる香穂子へ瞳で微笑むと、腰を捕らえ引き寄せて・・・腕の中で抱き締めよう、しっかりと。これから始まる夜の予感に、甘く蕩ける瞳の潤みに自分を映すと、ゆっくり覆い被さるように唇を重ねキスを交わした。


甘酸っぱいブルーベリーを口移しで味わいながら、蕩けるひととき。君と一緒だから心が躍り、一緒だからこんなにも安心する。だがこれから毎日、君の甘い姿が見られるのは嬉しいが、一体自分がどこまで耐えられるかるだろうか。夜に風呂上がりの熱さを沈めるどころか、更に熱さを増してしまった気がするが・・・君となら、それも悪くはない。