「ありがとう」を何度でも
交差点の信号が青に変わるなり隣にいた日野が、待っていたとばかりにポンと弾けて飛び出した。
呆気に取られて見守る俺を残したまま、彼女は流れる人々の先陣を切って風のように駆け抜けていく。大きな横断歩道が交わる真ん中辺りで立ち止まり、くるりと振り返った。
「月森くーん、早く! こっちこっちー!」
「あっ・・・おい、日野!」
周囲の注目も全く気に止めた様子も無く、月森くんと、俺の名前を呼びながら眩しい笑顔で手招いている。
日野が真っ直ぐ俺を見て言うものだから、興味深げに振り返って注がれる通行人の視線が痛くて照れくさい。
すぐに駆け寄って腕を摘みざま駆け去るか、あるいは口を覆ってしまいたいのだが・・・無論出来る筈も無く。
今行くからと言葉の代わりに笑みを浮べて、心の中で無邪気な彼女に語りかけた。
しかし・・・・・・。
眩しいのは君が背負う太陽の光りなのか、それとも俺に真っ直ぐ向けられている笑顔なのか。
嬉しそうに飛び跳ねてはしゃぐ彼女は、普段学校で見せる姿とは、どこか違って見えるようだ。
可愛い・・・と素直に思える自分が誇らしく、少し照れくさくて。
このくすぐったさが、君を好きだという気持なのだろうかと、込み上げる想いに頬を緩めずにはいられない。
「日野、横断歩道で立ち止まっていては、危ないぞ」
「平気平気、大丈夫だよー」
満面の笑みで応えると更に先へ駆け出してしまい、彼女は横断歩道の向こう側に渡ってしまう。
どうやら待ちきれないらしく、小さく飛び跳ねながら俺を待つ日野に笑みを向けると、瞳で彼女を捕らえて見守るように、ゆっくり歩み寄っていく。
これではまるで、君と俺との追いかけっこだな。
見ていると非常に危なっかしいのだが、どうか君はそのままでいて欲しいとも思う。
「すまない、待たせたな」
「月森くん、遅いぞぅ〜」
ようやく日野の元に辿り着いて微笑めば、手を後ろに組みながら悪戯っぽくにやりと俺を見上げてくる。
こう来るだろうとは予想はしていたので、彼女の大きな瞳を微笑みで受け止めた。
「日野こそ、あまり急いでは人にぶつかってしまうぞ。もしも何あったら、君の身が心配だ」
「ご、ごめんね・・・つい嬉しくて、はしゃぎすぎちゃった。これじゃぁ私、まるで子供だね。月森くん、呆れた?」
「いや・・・そんな事は無い。君を追いかけるのも楽しいが、せっかく一緒に休日を過ごせるんだ。たまには急がずに、ゆっくり行かないか」
「だ、だって・・・何だかソワソワするというか、落ち着かなくてジッとしていられないんだもの。学校では平気なのに・・・どうしてだろうね?」
「君もなのか・・・。いや、その・・・実は俺もそうなんだ」
「制服じゃなくて、今日はお互いに私服だからかな? 月森くんがいつもと違って見えて、凄くドキドキするの。本当は隣を歩きたいんだけど、私の心臓が壊れちゃいそうなんだよ」
そう言った日野の頬が、瞬く間に顔く赤く染まってゆく。
恥ずかしさに耐え切れなくなり俯いてしまうが、やがて様子を伺うようにちらりと俺を仰ぎ見た。
「そ、そうだったのか・・・。いや、その・・・ありがとう」
何と君に返したらよいのか分からなくて、心に浮かんだそのままを、やっとの思いで呟くように言葉にした。
鼓動が急に早鐘を打ち、俺の顔も一気に熱くなるのが分かる。
きっと君だけでなく俺も負けないくらいに真っ赤になっているのだろうな。
どこかへ出かけないか? そう声を掛けて休日を君と一緒に過ごす事が少しずつ多くなってきた。
だが服装や場所が違うだけで、互いの雰囲気までも変わって見えるのは何故なのだろう。
俺たちは、いつもと同じな筈なのに・・・普段はこんなではないのにと。戸惑い慣れないのは、俺も同じだから。
「立ち止まっているのも、何だし・・・行こうか」
「う、うん・・・」
再び肩を並べて街中を一緒に歩き出すが、何となく照れくささが気まずくてお互いに黙ったまま。
聞こえてくるのは自分の心臓の音と、隣にいる君の気配。
ちらりと隣の日野をみれば、頬をほんのり染めたまま僅かに俯いていた。
君とこうして街を歩いている今の俺たちは、周りから見たら恋人同士のデートに見えるのだろうか。
視界の端に道行くカップルが流れていく度に、訳も無く甘い考えが浮かび、君が気になって落ち着かない。
呼吸が苦しいほどに高鳴るこの胸の鼓動が、君に届けばいいのに・・・。
「日野・・・」
「な、なぁに、月森くん」
「服・・・良く似合っている。制服の君を見慣れているから、私服姿は新鮮だな。その・・・俺は、好きだ」
「本当!? このワンピース、私のお気に入りなの。実はギリギリまで何を着て行こうか迷ってたんだけど・・・やっぱりこれを選んで良かった。ありがとう、月森くん」
パッと笑みを咲かせて頬を綻ばせながら、スカートの両端を広げるように披露してみせる。留まっていた空気が流れ出した事にホッと安堵しつつ、緩む瞳のまま見つめていると、日野の視線が俺の襟元に止まった。
「月森くんも・・・あれ? シャツの襟が曲がってるよ。ちょっと待っててね、今直してあげる!」
「え、いや・・・自分で出来る」
「鏡ないし、見えないでしょ? 気にしないで、すぐ終るから!」
勢い良く手を引かれるまま道の脇で立ち止まると、ジッとしててねと間近に振り仰いでそう言って、しなやかな彼女の両手がすっと伸びてきた。襟元を丁寧に直す手がふとした拍子に首元に触れて指先が熱さを生み、埋めてしまえる程側にある髪から漂う甘い花の香りに酔わされそうだ。
俺の彼女に吸い寄せられていると、胸をポンと軽く叩かれて我に返った。
「はい、OKだよ」
「ありがとう」
「ふふっ、どういたしまして」
嬉しそうな日野の笑顔と口に出した言葉が俺の中にスッと染み込んで、湧き上がる温かさが心のある場所を教えてくれる。そこで俺はやっと気が付いたんだ。
ありがとう------日野に出会ってからこの言葉をどれ程多く心に感じ、君に伝えただろうか。
今日一日だけで何度も味わったその感覚は、ありがとうと君に対して思ったり伝えた時のものだと。
何かの為にあえてするのではなく、ただそうしたいからそうするだけ。本当の優しさは自由な心の中にある。
だから伝えたいんだ・・・心から君に“ありがとう”と。
それは君がくれた贈り物が俺に届いた証であり、真っ直ぐな言葉の力。
君がくれた贈り物は、すぐにきっと君の心にも返ってくる・・・俺の想いを乗せて何倍にも大きくなって。
素直になるのは勇気がいるれども、とても心地が良い。
分かって気になって狭くていた世界・・・自分の殻を壊せば、広くなった分だけ沢山の幸せで満たす事が出来るんだ。ならば心の窓を開けよう、新しい風を入れて。
「・・・ありがとう、日野」
「どうしたの、月森くん?」
じっと見つめたまま黙っていた俺がポツリと呟くと、日野は不思議そうに目を丸くしながら小首を傾げた。
いけない。想いを伝えようと先走って、これではあまりにも突然だったか。
今度は何がありがとうなのかと、きょとんと俺の言葉を待っている彼女に、瞳を緩めて微笑みを向けた。
「突然すまない。その・・・いい言葉だなと思ったんだ。君に対してありがとうと思ったり言葉にして伝えると、俺の心が温かくなるから」
「ありがとうって、温かいよね。きっと感謝の気持だけじゃなくて、優しさに気づくことが出来た自分へのご褒美なのかもしれない。私も月森くんの優しさを、もっと感じていきたいな。心を幸せでいっぱいにするの」
「こうして休日を一緒に過ごせるようになって、共有する時間が増えて・・・俺も嬉しい。幸せな気持になれるのは日野のお陰だ、ありがとう」
「月森くんだけじゃないよ。私からも・・・ありがとう」
ありがとうと交し合う言葉と同じように、自然に繋がった俺と君の手と手。
見詰め合う微笑んだ瞳と手の平から伝わる温かさが、どんな言葉よりも確かに君と繋がれた気がした。
楽しい時間、君から貰った贈り物、温かい言葉、君の優しさ。
ありがとうと言いたいものはたくさんあるけれど、その一つ一つに感謝する事がきっと一番大切なんだと思う。
いつもさり気なく俺の為にしてくれる、一つ一つの事。
君に出会えた偶然やこうして側に一緒に居られる事・・・君の全てに対して“ありがとう”と思う。
だから何度でも言いたい、何度でも伝えたい。
ありがとうの他にもう一つ、心の中で思ったり口に出すと温かくなる、想いの言葉があるのを君は知っているだろうか? 君と出会ってから、俺の心の中に生まれた言葉なんだ。
君が、好きだよ。
今はまだ心の中だけだけれども、いつか君に伝えよう。俺の口で・・・確かな言葉で。
ありがとうという言葉と同じくらい自然に何度も、君に伝えられたらいい。
だが今は、全ての想いを今口に出来る言葉に乗せて、君に伝えよう・・・何度も何度も。
ありがとう---------。