あなたは誰のもの?

玄関でヴァイオリンケースを抱えなおすと、見送りに来てくれた香穂子から、両手で重そうに抱えていた大きな鞄を受け取った。ありがとう、重かっただろう? そう言って片手で軽そうにひょいと鞄を持ち上げた俺を、目を丸くして驚いている。やっぱり男の人って力持ちなんだね、と。
しみじみと感心している、そんな君の表情が可笑しくて、つい頬が緩んでしまう。

力持ち・・・そういうものなのだろうか。
でもこれは君を守り、共に為暮らしていく為に、男として必要なものだから。




「蓮、忘れ物は無い?」
「あぁ、これで全部だ。昨夜君も一緒に荷造りを手伝ってくれたから、忘れ物は無いはずだ」
「帰りは一週間後だっけ?」
「一週間も香穂子に会えないなんて、寂しくてどうにかなってしまいそうだ。以前は数ヶ月会えない事も当たり前だったのに、今では一日だって耐えられないのだから」


これから一瞬間ほど、新しく出すアルバムのレコーディングの為に、スタジオへ籠もらなければならないのだ。
場所が離れているから、ここから通うわけにもいかず・・・。コンサートならば俺の身の回りの世話と称して、一緒に君を連れて行けるのに。CDのレコーディングなら、そうもいかない。


こんな時ばかりは、自宅の中や近くにスタジオがある人々が羨ましい・・・。
切なさが込み上げて溜息を付くと、香穂子が小首を傾げて、困ったように小さく微笑んだ。一歩近づいてしなやかな手をそっと伸ばすと、スーツのネクタイを直しつつ、胸の中から上目使いで見上げてくる。


「そんなに寂しそうな顔すると、せっかく我慢してるのに私まで寂しくなっちゃう」
「あ、すまない・・・」
「コンサートに来たくても来れない世界中人たちが、蓮の新しいCDを待っているんだよ。もちろん一番楽しみにしてるのは私だけどね」
「出来上がったら、君に一番最初に聞いて欲しい。喜んでもらえる様な、素敵な作品を作ってくるよ」
「嬉しい! どんなCDか楽しみだな〜。蓮が留守の間、私もしっかりお家を守るから、蓮もお仕事頑張ってね」


はいOK、とポンと胸を軽く叩かれて見上げる満開の笑顔に、俺も心のままに浮かんだ笑顔で君に返す。
じゃあ行ってくるから・・・そう言って背を向けようとすると、きゅっと腕を掴まれた。





何事かと振り向くと先程の笑顔とは違い、顔を真っ赤に染めて恥ずかしそうに俯いている。
あの・・・あのね・・・と、必死に何かを言おうと口篭りながら。


「香穂子?」
「・・・忘れ物・・・私は、あるんだけどな・・・・・・」
「忘れ物?」


頬を赤く染めた香穂子が照れくさそうに手をいじりながら、甘くねだるように上目使いで見上げてくる。その愛らしい仕草に、思わず心が大きく飛び跳ねた。忘れ物というより、何か俺にねだりたい物があるのだろう・・・そう思えて、ヴァイオリンケースと鞄を一度足元に置いた。


「あのね蓮に・・・ぎゅーって、して欲しいの」
「ぎゅーっ?」
「うん! ぎゅ------って!」
「別に、構わないが・・・」


ぎゅーっという言葉と共に、まるで差出すかのようにすぼめられる唇。
俺の心と瞳を釘付けにする艶めいた唇は、そのままこの腕に閉じ込めて、吸い付いてしまいたくなる。
駄目?と小首を傾げて実に可愛らしくおねだりをしてくるが、駄目な訳がないだろう。君のお願いなら、何でも叶えたいと思うから。



だが君の言う、ぎゅーっとは?

抱きしめて欲しいという事だろうか。
しかも言葉を強調しているところを見ると、強く抱き締めて欲しいと言っているのだろう。
彼女の背に腕を回して引き寄せると、細く華奢な身体を、言葉通りにぎゅっと強く抱き締めた。


「こう・・・か?」
「う〜ん、もっとかな。もっと、ぎゅーっと!」
「これ以上強く抱き締めたら、君が俺の腕の中で折れてしまう」
「大丈夫、この位じゃ折れないよ」


今でさえかなりの強さなのに、一体どれ程の力を込めればいいのだろうか?
彼女の意味を図りかねてしまい、一度力を緩めると、胸に身体を預けていた香穂子の腕が俺の背に回されて、縋りつくようにじっと見つめてくる。溶かされそうな甘さを称えて・・・。


「蓮にぎゅっと抱き締めてもらうとね、心に印を付けてもらった感じになるの。私は蓮のものだよって。だからお仕事で家にいない間に寂しく無いように、私の心まで抱き締めて印をつけて欲しかったの」
「ぎゅっと、というのはそういう意味だったのか」
「上手く言えなくて、ごめんね」
「いや、そういう事なら喜んで」


ただ闇雲に強く抱き締めても、駄目な筈だ。君の心を抱き締めて尚且つ印を付けるのなら、腕の力だけで君が満足する訳がないのだ。身体には身体で・・・心には心で触れなければ。
ならば・・・・・・。


「香穂子・・・・」


微笑みと共に柔らかく呼びかけて、そっと優しく引き寄せる。最初は大切な宝物を、真っ白い大きな羽根で包むように。そして、柔らかさと温もりを確かめるように。君を放さない・・・君は俺のものだと、腕だけでなく俺の身体全体で抱き締めるように、しっかりと強く。胸に宿る想いの欠片を言葉に託して、耳元で熱く囁きながら。
少しずつ高まる想いと共に腕にも熱と力が込められてゆき、俺だけが触れる事のできる心の手も、この腕と同じように大切な君の心を抱き締める。


「すごく、気持良い〜」


腕の中から声が聞こえてきて見下ろすと、くすくすと楽しそうに笑う君が、心地良さそうに穏やか表情で目を閉じ身を任せている。時折甘えるように胸に頭を擦り付ける仕草に、堪らなく愛らしさとすぐったさを感じながら。
このままでは君が折れてしまうと、さっきはそう言ったばかりなのに、でも止められなくて。
君の心に俺の印が付いただろうか・・・そう思いながら、ますます愛しい存在を抱き締める力は強まるばかり。


「ついたよ、私の心に蓮の印がしっかりと。私も蓮に、印を付けてあげるね」


そう言って背中に回された彼女の腕に力が込められ、縋りつくように抱きついてきた。香穂子の想いを乗せてきゅっと込められる力と胸の中で囁かれる言葉が、君の心の手となって俺の中に染み込んで。
俺の心は、君に捕らえられた。


私は蓮もの、蓮は私のもの。


甘く囁かれる呪文のように染み込む言葉が、熱さとなって身動きどころか呼吸さえも出来ない身体中を駆け巡り、心に熱い雫となって降り注ぐ。
甘く痺れる様な感覚が頭の先から爪先までを走り抜け、身体が浮き立つような、力が抜けるような。
包まれる温もりと柔らかさにを感じながらも、想いの炎で焼き焦がされる熱さに、一瞬息を詰めて目を細めた。






「私の印、付いたかな? もう少し強い方がいい?」
「そうだな、もっと強く・・・」
「蓮?」


無邪気な笑みを称える君を、真っ直ぐに見つめると、大きな瞳がキョトンと丸くなり、不思議そうな視線を向けてくる。僅かに身体を屈めて、耳元に熱く囁きながら吐息を吹き込んだ。


「俺は、心だけなく君自身にも、印を付けたい・・・。だがそれは、帰って来てからだな」
「・・・・・・・・一緒につけた心の印が消えないうちに、早く帰ってきてね」


火を噴くほどに顔を真っ赤に染めて恥ずかしがりながらも、潤みかけた瞳でポツリと言葉を漏らす。


行ってらっしゃい・・・。


そう言って少し背伸びをすると、君の唇が俺の唇ににふわりと重なった。いつもなら挨拶のキスだからと、君からの行ってらっしゃいのキスは、ほんの触れるだけなのに、今日は、すぐ離れる事がなかった。


柔らかく・・・熱く・・・少しずつ深まって・・・。
夜の営みの最中でさえ、滅多に無い彼女からの情熱的なキスを受け止めて、同じように返していく。
吐息を奪い合い、深く重なるに連れて君が俺に付けた心の印が、熱く疼くのを感ながら。


俺の心に君が付いたのも、君の心に俺が付けたのも。
それは炎よりも熱く、身体を流れる血よりも赤い・・・溢れる愛しい想いと所有の印。
身体に咲かせた花は一晩立てば散ってしまうけれども、心に付けた花は消えることなく互いの心と繋がって、ずっと咲き続けてくれるから・・・・。


だが想いの拠り所となって散らない代わりに、側に居ない君を求めて時には深く心を穿つ楔となり、熱さは炎となって俺の身だけでなく、君の身も心も焼き尽くしてしまうだろう。
互いに心につけた印・・・咲かせた想いの花は、まさに諸刃の剣だ。


「行ってくる・・・早く君の元へ戻ってこよう」


そうならない内に、早く・・・・。
重なった唇の隙間から囁いて、俺の印をしっかり付けなおす為に、再び強く抱き締めた。