甘やかす

帰宅して部屋着に着替える俺を手伝う香穂子は、満面の笑みを湛えて足取りも軽く弾み、蝶のように部屋の中を跳ね回っていた。嬉しそうな彼女に、脱いだジャケットを渡しながらどうしたのかと聞けば、今日は天気が良いからなのだと手を差し出しつつ笑顔を返してくる。


天気が良いと喜び、雨が降れば窓から手を伸ばして雫が綺麗だとはしゃぎまわる君。
君が笑顔だとそれだけで、俺の心はいつでも雲ひとつ無い晴天だ。




「ここの所ずっと天気が悪かったでしょう? 今日はね、溜まっていたシーツを全部お洗濯したの。お布団も枕も背もたれ用のクッションも天日に干したし、夜寝る時にはふかふかで気持いいと思うよ」
「そうか・・・ありがとう、香穂子。俺達のベッドは大きいから大変だろう?」
「平気だよ。今日なんて、いつも5分位かかるところを3分で出来たんだから。しかも上手く綺麗にベッドメイク出来たの!」


指で作った3の数字をVサインのように自信たっぷり俺の目の前へと掲げて、日々挑戦なのだと満面の笑顔で見上げる香穂子。彼女が立てた3本のしなやかな指を、そっと握り締めて微笑みながら身を屈める。お疲れ様と言葉を乗せて頬に軽くキスを贈れば、眩しい笑顔にほんのり赤みが加わってはにかみに変わった。



どんなに君がきれいに整えてくれても、翌朝になれば必ず乱れてしまう寝室のシーツ。
俺達のベッドはWサイズよりも大きめのキングサイズなだけに、毎日のように交換するのはそれだけでかなりの重労働な筈だ。俺なら根を上げているかもしれないが、何時も一生懸命で前向きな彼女に感謝と同時に尊敬の念すら覚える。そう思っていても結局夜になれば、柔らかい君の身体ごと一緒に掻き抱いてしまうのだから。


太陽の光と香りをたっぷり吸い込んだ真っ白いシーツは、まるで足跡のついていない雪野原のようで。
この手で乱さずにいられないのは、自分が最初に一歩を踏みしめ、俺だけの足跡で埋め尽くしたくなるのと同じなのだと思う。ベッドに広がる雪明りを受けて白く輝き、腕の中で甘い吐息を零す身体へと、俺だけの花を咲かせて染め上げていくように・・・・・。



「それに、その・・・。いつもすまないな」
「急にどうしたの?」
「いや・・・せっかく綺麗にしてもらったのに、その・・・朝になれば、また乱してしまうから・・・・・・」
「それはお互い言いっこ無しだよって、いつも言ってるでしょ? 蓮だけのせいじゃないもの。私だって蓮と一緒に・・・って。もう・・・言わせないでよっ、恥ずかしい!」


俺が口篭って言い淀めば、小首を傾げきょとんと見つめていた香穂子も察したのか次第に口篭っていき。
真っ赤に顔を染めると恥ずかしそうに僅かに俯いて、受け取った俺のジャケットをキュッと胸元で抱き締めた。頬を膨らませてプイと背中を向けてしまい、そのまま一目散にクローゼットへ駆け出していく彼女を、思わず緩んだ瞳で見つめてしまう。






だがそれにしては・・・・・・。
ふとベッドへ視線を向けると、いつも背もたれに使っている筈の大きな二つのクッションが、何故かベッドの中央に並べられていた。配置換えだろうか、それとも片付け忘れだろうか?
不思議に思ったが別に気にする事でも無いかと、首元のネクタイを緩めながらベッドに歩み寄り、クッションを一つ持ち上げた。


皺・・・? いや、何かの跡だろうか?


隠されるように下から現れたのは、ピンと張ったシーツへそこだけ押し当てられたように残った跡。
念の為もう一つのクッションも退ければ、控えめな大きさだが、どことなく人の形にも見えるようだ。
寝転がっただけでは、こうもくっきり付かないだろう。上から強く物を落とすか、勢い良く飛び込まなければ・・・。

消えずにベッドに残る跡を見つめて思案していると背後から突然、香穂子の悲鳴が空間を切り裂いた。



「きゃ〜っ! 蓮、見ちゃ駄目っ〜!!」


悲鳴に驚いて振り返ると血相変えた香穂子がクローゼットから駆け戻り、半ば呆然とする俺の手から勢い良くクッションを奪い取った。ベッドの上に放り投げると俺の前に立ちはだかり両手を広げ、細く華奢な身体で大きなベッドを必死に隠そうとしている。かといって隠しきれるものではなく、しっかり見えているけれども・・・。



もしかして・・・そう思いながら香穂子と背後に見えるシーツの跡を交互に見れば、みるみるうちに彼女の顔が火を噴出しそうなほど真っ赤に染まってゆく。

なるほど、そういう事だったのか・・・と。
声に出したい笑いを堪えながら含みを込めた笑みを向けると、香穂子は気まずそうに頬を引きつらせて一生懸命作った笑顔を返してくる。嘘をつけない真っ直ぐな彼女は隠そうとする程に、自分がやりましたと言葉無く俺の考えを肯定してくれるのだ。




「ベッドメイクが、上手く出来たのではかったのか?」
「もちろん出来たよ、皺も無くピンと張って折り目もきっちり! 本当に久しぶりの会心作だったもの。それでね、コインを投げたら弾みそうだな〜って思ってたら・・・・・・」
「コインの代りに、香穂子が弾んでしまった・・・という事なんだな」
「そ、そうなの!・・・・・・ごめんなさい・・・」


気力を振り絞って俺を見上げていたものの恥ずかしさも限界で力尽きてしまったのか、申し訳なさそうにしゅんと力なく俯いてしまう。やがて前に組んだ手の指をもじもじといじりながら、俺を伺うように上目遣いでそっと見上げてきた。


「恥ずかしいから、後でこっそりやり直そうと思ったの。それに・・・」
「それに?」
「蓮がお仕事頑張っているのに、私だけがごろごろしたり遊んでるって思われたく無かったんだもん」


ぽそぽそと吐息と共にやっと吐き出しながらそう言うと、悲しそうに瞳を瞳を歪ませて、耐えるように唇を強くかみ締めた。前でもて遊んでいた手を、白くなる程きつく握り合わせながら。
予定が変わって急に早く帰ってきてくれたのは凄く嬉しかったけど、同じくらいにビックリして焦ったのだと彼女は言う。出迎えてくれた時から、驚くにしてはいつもと様子が違うと思っていたのだが、そういう事だったのか。



このシーツの跡の付き方は休息を取っていたというよりも、正面から思いっきり飛び込んだというのが、一目で手に取るように分かる。だが、分かるのはそれだけではない。せっかく頑張ったのにと葛藤しながらも、ピンと張った皺の無いベッドを前に、早く飛び込みたくてウズウズしている、無邪気な君の様子まで目に浮かぶようだ。
いつも一生懸命な君に対して、俺が呆れるとか怒るとか・・・そんな事する筈がないだろう?



申し訳ないと思うが抑え切れない笑いが込み上げてしまい、堪えようとするあまり肩が小さく震え出してしまう。見られないようにと顔を逸らして口元を覆い、漏れそうになる笑い声を必死に抑える俺を見た香穂子が、肩を震わす程怒っていると思ってしまったようで、視界に怯えた子犬のような彼女の瞳が映った。


「蓮・・・やっぱり怒っているんだね。そうだよね・・・嘘付いて隠してごめんなさい。すぐにシーツ張り替えるから」
「いや・・・違うんだ香穂子。安心してくれ、怒っている訳では無いんだ」
「えっ、だって・・・・・」


かといって、笑っていたとも言い出せないけれども。

俺から数歩後ずさり、くるりと背を向けてさっそくシーツをはがそうとする香穂子の手を掴むと、驚いて肩越しに見上げてくる瞳と手の温もりごとしっかり握り締めた。不安そうな瞳で立ち竦む彼女を背後から優しく包むように抱きすくめ、腕と温もりで彼女の全てを包んで強張りが解けるのをじっと待つ。
やがて力が抜け始めた頃を見計らい、肩越しに指先で顎を捉えて僅かに上向かせると、首を回して上から覆い被さるように唇を重ねた。

唇よ・・・どうか俺の想いを彼女に伝えてくれと願いを乗せて。






「別にやり直す事はない。俺はこのままでも構わないから」
「そういう訳にもいかないよ。どうせ朝には・・・て言う蓮の気持も嬉しいけど、皺や跡があるよりも最初は綺麗な方が気持良く眠れるでしょう? 蓮には家の中で、気持ちよく過ごしてもらいたいもの」
「俺は本当にこのままで良いと思うんだが。だが、香穂子がそこまで気にするのなら・・・・」


身体を前に屈め重みを預けて腕の中に深く閉じ込めながら、髪に顔を埋めるように離した唇を耳元に寄せた。熱い吐息で囁きかける。そう言うと抱き締める腕に力を込め、彼女がもがき身じろがないようにしっかり捕らえて。抱き締めたままくるりと向きを変えて今度は俺がベットを背にして立つと、何をするのかと驚き目を丸くして振り仰ぐ香穂子に、ニコリと微笑を向けた。

抱き締め合った身体は二人で一つに・・・。
その心地良い一体感がもたらす温かさかにふわりと意識が浮かび上がるのを合図に、大きく息を吸い込むと腕に抱いた彼女ごと一緒に、背中から勢い良く白いシーツの海へと身を躍らせた。





きゃっ・・・という香穂子の驚いた小さな悲鳴が、寝室の空間に吸い込まれてゆく。

くるりと視界が回り天上が映ったと思った瞬間に、背中へ強く感じた衝撃。
前に抱いている香穂子へ衝撃がかからないようにと背中からベッドへ飛び込んだ俺を、ピンと張ったシーツが勢い良く跳ね返し、スプリングがぎしりと音をたてて一斉に騒ぎ出す。その荒ぶる波に揉まれれば俺を守るようにシーツから漂う太陽の香りと、君の甘く優しい香りが俺を包み込んでくれるのを感じた。

大波から小波へ、更に静まり波紋へとその姿を変えていくスプリングの波に二人で身を任せれば、心も一緒に浮き立ち羽ね踊るようだ。ピンと張ったベッドのシーツへ飛び込みたかった香穂子の気持が、俺にも分かる。
いや・・・君と一緒だかこそ、こんなにも楽しいのかもしれない。






「もう〜びっくりしたじゃない。いきなり何するのっ!」
「これで、俺も君と一緒。香穂子だけがシーツに飛び込んだ跡を残したと気に病むのなら、俺のも一緒に付けておこう。そうすれば構わないだろうか?」


ベッドの揺れが落ち着いた頃、抱き締められた腕を振り解いた香穂子が、飛び込んだまま仰向けに横たわる俺の胸の上へ、押さえ込むように圧し掛かってきた。頬を膨らませながら大きな瞳で、非難を浴びせるように真上から真っ直ぐ見下ろしてくるが・・・。俺を睨んでいるのだろうけれどもその意力は皆無で、逆に可愛らしい彼女への愛しさと、心の中にある熱い想いの炎を煽るばかりだ。




「香穂子が頑張っているのは、このベッド全体を見れば分かる。手を抜いたとは思えないし、もし疲れているのなら気にせず休んでくれ。君の身体が一番大事だから」
「蓮・・・・・・」
「本当は、もっと思いっきりベッドに飛び込みたかったのだろう?」
「やっ・・・やだ蓮ってば・・・、どうして分かっちゃったの!?」
「香穂子の事は何でもわかる。君が飛び込んだにしては、随分と控えめな跡だったから。俺に気を使ってくれる気持が、とても嬉しかった・・・」
「蓮ってば音楽に関しては凄く厳しいのに、それ以外はいつもそうやって私を甘やかすんだから。甘えたくなっちゃうでしょう? 目玉焼きを焦がした時だって、アイロンがけに失敗した時だって・・・それからえ〜っと・・・」


俺の胸の上に乗ったまま、記憶の糸を手繰り自分の失敗の数々を指折り数えていく彼女に小さく笑うと、背中へ手を回してそっと胸に押し付けるように抱き寄せた。すぐ目の前に迫る大きな瞳は僅かに驚きを見せて見開かれ、頬の赤みが少しずつ増すごとに、重なり合う胸から急速に高鳴る鼓動と熱を伝えてくる。
感じるのは彼女のものか、それとも俺のものなのか・・・・・・。




ヴェールのようにさらりと肩から流れ落ちる赤い髪を、君の顔を見せてくれと吐息で囁きながら片手で掻き揚げる。彼女の耳にかけるとそのまま手を滑らし、頬を包んだ。


「毎日ならさすがに俺も言うけれど、同じ失敗を二度繰り返した事は今まで無いだろう? 音楽と同じくいつも前向きで一生懸命な香穂子が、俺は大好きだよ。それに、君がなかなか俺に甘えてくれないから、これで丁度良いと思う」
「ありがとう、蓮は優しいね。厳しいものだったり温かかったり、いろんな優しさがある。だから私は、蓮の為に頑張ろう〜って思えるの。子供みたいって笑うかもしれないけど、すごく凄〜く悩んだんだんだから。自信作のベットメイクを蓮にも見てもらいたいし、こんな機会滅多に無いから思いっきり飛び込んでみたかったし・・・」
「笑わないよ、俺も楽しかったから」
「でね、我慢出来なくて私が飛び込んだ直後に、蓮が帰ってきたの・・・」
「いろいろと驚かせて、すまなかったな」



瞳と頬を緩ませふわりと優しく微笑むと、力を抜いて擦り寄るように俺の胸に柔らかなその身を預けてきた。
一人よりも蓮と一緒に飛び込んだ方が楽しかったよと、香穂子は俺の唇に直接触れる吐息でそう言って・・・彼女の両手が俺の頬に伸ばされる。お互いに指の一本一本で感触を確かめ撫でるように相手の頬を包み合いながら、視線を甘く絡ませた瞳と一緒に自然と引寄せ合っていく。漏れる甘い吐息ごと奪うように、笑みを湛えたままの唇が重なった。







時間にすればほんの一瞬だけれども、時が止まったかのように長く感じた口付け。
潤みと熱を持ち始めた唇がゆっくり離れると、頬を包んでいた手を彼女の背に滑らせて柔らかい温もりを、胸に押し付けるように閉じ込めた。


「シーツを張り替えるのなら、俺も手伝うが・・・どうする?」
「・・・綺麗に張り替え直そうって思ってたけど、蓮がいいのなら私もこのままがいいな」


後ろを見て・・・と頬を染めて小さく笑う彼女にそう言われて、抱き締めたままそっと上半身を起こした。
肩越しに振り返れば、俺が横たわっていた真っ白いシーツの上にくっきと浮かんだ跡と、そして最初に君が付けた跡。ピンと張ったシーツの上に、二つの跡がぴたりと寄り添い合う浮かんでいた。

ねっ素敵でしょ?と俺の背に手を回しながら楽しげに振り仰ぐ声に視線を向け、ずっと眺めていたいなと答えれば、向けられる笑みが嬉しそうに一層深いものになる。




俺の残したものと、君が残したもの。
いつまでも眺めていたい・・・残しておきたいと思うのは、まるで心と身体を重ね合わせる俺達を写した影のように見えるからなのだろう。気持と同じように、きっと弛んでいたり乱れたままなら、跡を残さなかったと思うから。


ならば今夜は、このまま乱さずにいようか。
想いを写した影ごと取り込んで、君を抱き締めてしまおうか・・・・。
いや・・・それよりも今しばらくは、腕に抱いた君と一緒にこのまま眺めていよう。
温もりと同じように、消える事ない想いの跡を。