雨宿り

白い入道雲が浮かぶ青空が、たちまち墨を流したような鉛色に変化していった。
辺りが闇に包まれ始めると、綿菓子みたいだねと喜んでいた君の表情も、空と同じく雲に覆われてしまう。
灼熱の太陽を覆い隠し、どんより広がる雲行きを見上げて月森は眉を潜めた。


「雲行きが怪しくなってきたな・・・」
「本当だ、一雨来そうだね。どうしよう、私たち傘持ってないよ」


しかし予想は見事に的中し、一粒二粒・・・痛いほど大粒の雨が、乾いた地面に濃い色の染みを残してゆく。
土誇りを巻き上げながら染みはどんどん広がって。今のうちなら・・・そう思った矢先に突然降り出したのはバケツをひっくり返したような雨だった。速い雨脚はたちまちに水溜りを作り出し、一瞬の躊躇いも感じさせない。


「きゃーっ! 蓮くん、雨降ってきたよ。凄い大粒ー!」
「夕立だ。香穂子、走るぞ」
「う、うん!」


突然降り出した雨を避ける為に俺は香穂子の腕を掴むと、目の前に見えた店の軒先目指して駆け出した。
どこか店の中へ駆け込めれば良かったのだが、探しているうちに濡れるよりも、今は一刻も早く雨を避けるのが先だ。俺はどうなっても構わないが香穂子だけは、この土砂降りの雨で濡らす訳にはいかないから。

店は休業日らしく、シャッターの降りた入口前に張り出した屋根の下に辿り着けば、ホッと安堵の溜息が零れてくる。小さい場所だけれども二人で肩を寄せ合えば、充分に吹き込む雨も避け凌げるだろう。

これは当分止みそうに無いな・・・。
更に勢いを増す雨に圧倒されていると、隣に寄り添う香穂子が、おずおずと俺に声をかけてきた。


「蓮くん・・・・・・」
「香穂子、大丈夫か?」
「うん、平気。でもね・・・あの、腕・・・ちょっと痛いかも・・・」
「腕?」


香穂子は困ったように笑みを浮べて言い淀むと、掴まれたままの腕に視線を注ぐ。
彼女の視線を追って見下ろした俺は、ハッと我に返り、強く握り締めたままだった腕を慌てて離した。

急いでいたとはいえ、彼女の大切な腕にもしもの事があったら・・・。
赤い跡が残る手首を見て苦しげに眉を寄せる俺に、心配しないでと小首を傾げつつ、ね?と笑みを向けてくる。


「すまない。急いでいてつい、力を入れすぎてしまった」
「大丈夫だよ、心配しないで。蓮くんのお陰で、ずぶ濡れにならずに済んだんだもの。雨が降り出した時に、私を庇いながら強く引っ張って行ってくれたでしょう? 蓮くんの背中と横顔がね、とっても頼もしかった。惚れ直しちゃったよ」


ありがとう・・・と、俺を見上げてふわりと微笑む香穂子に、甘く胸を締め付けられて。
少し赤く跡が残る腕を取ると、手の平から伝わる温もりで癒すように、そっと両手で包み込んだ。
激しい雨音に互いの声が聞き取りにくいが、君の微笑が直接俺の心に言葉を伝えてくれる。

だが香穂子の頬や額に光る雫を見て、こうしている場合ではないと思い出す。早く雨を拭わなければと包んでいた腕を静かに下ろすと、同じように何か気づいた香穂子も慌しく身動ぎをし出した。


「「あっ・・・!」」


俺はポケットから、香穂子は手持ちの小さなハンドバックから。
互いにハンカチを出して相手へと差し出すのも同時で、思わず目を見張り、額へ伸ばしかけた手を止めた。
俺だけでなく君も一緒のタイミングに驚きつつ、嬉しさと照れ臭さではにかんでしまう。


動きかけた君を封じるように、最初に手を伸ばしたのは俺だった。

厚い雲の向こうにいるであろう青空のようなハンカチで、雨に濡れた香穂子の額や頬を優しく丁寧に拭う。
くすぐったそうに目を瞑り肩を竦めつつも、彼女はクスクスと楽しそうに声を漏らして、ねだるように振り仰いできた。空いた片手で腕の中へ抱き寄せながら、しっとりと水気を帯びた赤い髪をハンカチで撫でてゆく。


「すまない・・・雨で濡れてしまったな」
「蓮くんにこうして拭いてもらえるなら、もっと濡れても良かったかな。とってもくすぐったくて、温かいの」
「これ以上雨に濡れるのは、勘弁してくれ。俺のハンカチで拭ききれなくなってしまうから。そうだな・・・もしも雨に濡れたいのなら、君を丸ごと包み込める大きなタオルがあれば別だが。もちろん冷えないように、一緒に温まった後で」


水に濡れて僅かに透けるTシャツから覗く肌の色や、浮き上がる彼女の下着の線に、反らしていても視線が引寄せられてしまう。気づいてくれ・・・いや、気づかないでくれと心は戸惑い揺れて、熱く鼓動が高まるばかりだ。
お願いだから、これ以上雨に濡れたいなどと言わないで欲しい。


首元の雫を拭っていたハンカチの手を止めると、君はきょとんと不思議そうに大きな瞳で見上げてきたけれど。
我慢が出来なくなる・・・と、遠まわしに言った俺の言葉は届いただろうか。
じっと見つめれば香穂子の頬がほんのり赤みを帯び、そわそわと落ち着かなさ気に身動ぎ出す。


「わ・・・私も蓮くんも、ずぶ濡れにならないで良かったね!」


君が望むならば、俺は今すぐ一緒に雨の中へ駆け出しても構わない。
だが、誤魔化したように満面の笑みを向けてくる君に、そうだな・・・と微笑みつつも心の中で苦笑を漏らした。


「えっと・・・じゃぁ私も。蓮くん、少し屈んでくれると嬉しいな」
「こうか?」
「うん、ありがとう」


背伸びをしてハンカチを持っていた腕を伸ばしていた香穂子は、身長差があるから届かないのだと、困ったように小首を傾けた。これなら届くだろうかと身を屈めて君に寄せれば、嬉しそうに顔を綻ばせて俺にハンカチを当ててきた。額を拭い、頬や首筋や髪・・・時折じゃれ付くように鼻先へとハンカチが軽やかに舞い降りる。

彼女のハンカチから伝わる香りと、手の平の温かさ。かいがいしく世話を焼いてくれる姿に愛しさが募って込み上げ、心の場所を教えてくれるように熱く疼くようだ。もっと・・・と甘えてねだった香穂子の気持がわかる。
俺も、何もかもが緩んでしまいそうなこの温かさと心地良さに、ずっと浸っていたいから。

ありがとう・・・そう言って身体を起こすと、互いの視線が甘く絡み合った。




雨宿りをした軒先は壁となった雨に切り取られて、俺たちだけの小さな空間となった。

雨で白く煙る街は窓越しの景色のようで。人々は慌てて逃げ惑うが、夏の暑さに根を上げていた草は生き返ったように緑を濃くして、花や葉は雨に揺れながら踊っている。まさに草花にとっては乾いた夏に潤いをもたらす恵みの雨だ。

肩を寄せ合う狭さだけど、触れ合う君の腕の温もりと呼吸を感じながら、こんな日もたまには悪くないと思う。
俺たちにとっても、恵みの雨になればいい。


「あっ・・・・」
「・・・・っ!」


肩越しに隣を何度も伺ってしまうのは、君をもっ近くに感じたいから。
激しく叩きつけるように強く降る音は交わす声だけでなく、存在さえもかき消してしまうようで、不安にならずにはいられないからだろう。隣を伺う視線が先程から何度も絡むのは、香穂子も俺と同じ想いだからなのか。
照れ臭さと同時に安心感に包まれるが、その度に俺も君も言葉無く微笑を交し合う始末だ。


「えっと・・・凄い雨だねー」
「夕立なら、すぐに止むと思うんだが。ずっと立ったままで、辛くは無いか?」
「ありがとう、蓮くん優しいねって・・・あっ!」
「どうした、香穂子?」
「ねぇ今見えた!? 光ったの・・・空がピカッって!」


遥か前方の空を見据えて、香穂子がピクリと身体を振るわせた。
その瞬間---------。

ピカッと光る稲妻・・・空を裂き貫く閃き。
一瞬にして脳裏を掠める刹那の輝きに目を奪われた数秒後に、ドーンと大きな音が轟き渡った。
音に隠れて小さな悲鳴が聞こえたのを、もちろん俺は聞き逃さなかったけれども。


「雷だ・・・。光りの直後に鳴った音の速さからみて、落ちた場所はかなり近いな。これは下手に動かない方が良さそうだ。・・・香穂子、大丈夫か?」


室内はともかく屋外で遭遇するのは滅多に無いから、室内でなく軒先でも安全だろうかと不安が過ぎる。
遠雷が雲間に閃く空模様に眉を潜めつつも、心配なのは先程から何の反応も見せない香穂子の事で。
どうしたのだろうかと隣を見ると、彼女は肩に力を込めて身を竦ませながら、ぎゅっと両目を閉じていた。


握り締めている両手が僅かに震えている。ひょっとして、この雷が怖いのだろうか?
心配になってそっと彼女の顔を覗き込むと、おずおずと瞳を開いた香穂子が目の前の俺に驚いて、顔を見る間に顔を真っ赤に染めてしまった。


「・・・香穂子?」
「ご、ごめんね・・・つい目を瞑っちゃって。でも平気なの! すごい雷だったよね。あ〜ビックリしたー」
「突然振り出す強い雨と雷・・・夏は多いな。余りの暑さに空も根を上げた咆哮なのか、それとも夏を名残惜しむ嘆きの声なのか。いずれにせよ、この蒸し暑さが和らげばいいと思う」
「心配しないで蓮くん、私がついてるからね」
「は!?」
「雷なんて怖くないからね。二人一緒なら減っちゃらだよ!」
「・・・・・・」


私が雷を追い払って、守ってあげるから・・・と。
胸の前で気合の握り拳を作って身を乗り出すけれども、どう見ても香穂子の笑顔が強張り引きつっている。
再び閃く稲妻に大きく目を見開き、咄嗟に俺のシャツの裾を掴むと、ドーンと轟く大きな音に身を竦ませた。


雷は天を裂く稲妻よりも腹の底に轟く音で、存在を俺たちに知らしめる。
香穂子はきっと、この大きな音が怖いのだろう。

俺では無く、怖いのを我慢しているのは君だというのに・・・・。


どんな時も挫けず真っ直ぐで、笑顔を絶やさない君。
けれども強がる裏では、とても繊細な心を持っているのを、俺だけが知っているんだ。
本当は困っているのにいつも俺に合わせて、心配させないようにと気遣ってくれる・・・。
もっと甘えて欲しいと思うけれど、そんな君も俺は大好きだよ。


強く俺の裾を握り締めながら目を瞑って耐える香穂子に、優しく瞳を緩めて微笑みかける。
そっと頭ごと包むように彼女の華奢な背を抱き寄せると、腕の中に閉じ込めた。


「そうだな・・・香穂子が一緒なら、怖いものは何も無い。俺は君の為に強くなれるんだ。二人一緒なら、怖くは無いだろう?」
「蓮くん・・・・・・」
「ん? どうした?」
「・・・じゃぁちょっとだけ、甘えてもいいかな?」


腕の中から俺を振り仰ぐ瞳が、涙で潤んでいた。
まるで置いていかれた子犬のように縋り、首筋に降りかかる泣き出しそうに囁く吐息は、どこまでも甘く・・・。

俺の方が直ぐにでも掻き抱きたい衝動に駆られていると、おずおずと背に回された腕にきゅっと力が込められ、強くしがみ付いてきた。胸に擦り寄る香穂子が伝えてくるのは、離さない・・・離したくない、側にいてくれと。

受け止めた想いを返すように深く彼女を懐に閉じ込めて、腕の温もりと抱き締める強さで確かな存在を伝えた。


「あぁ、もちろんだ。少しと言わずに、俺はもっと君に甘えて欲しいんだ」
「本当はね、雷・・・大の苦手なの。こんなに大きいの外で聞くのは久しぶりだから・・・驚いちゃって、怖くて」
「大丈夫、俺がいるから。二人一緒なら、怖くないだろう?」
「うん・・・蓮くんとなら、怖くない・・・。蓮くんがいてくれて、良かった・・・」


雷鳴が轟くたびに飛び跳ねて小刻みに震える身体を、髪を撫で背を撫でて、君を抱き締めながら顔を埋めた耳元に優しく吐息で語りかける。俺がいる・・・二人一緒なら、怖くないだろう?と。

震えと硬い強張りが溶けるまで・・・激しい雷雨が止むまで。
どうかもう少しこのままでと願いながら、向ける微笑と声音はどこまでも優しく、怯える君を癒すように包む。


だが・・・・・・。


やがて縋りつく君の愛しさと、肌で感じる柔らかさと温もりが俺の中で熱さとなり、押さえ切れない想いが君を求める咆哮となるんだ。乾いた大地を潤し、夏の空に咆える激しい雷雨のように。

この激しい雨も君が怯える雷も、俺の心・・・俺そのものなのかも知れない。