あまねく光に頬笑みを

唐突な振る舞いを良しとしない春は予感や気配を前奏として、最初は人目を避けるようにひそやかに、知らぬ間にやってきて顔を覗かせる。その表情は強張った真冬から和らぎ、やっと綻び始めた微笑み程度の印象だけれども。柔らかい風と花の香りが、もうすぐ春の近い事を教えてくれるのだ。

まだまだ寒さが戻ったり、そうかと思えば眠気に誘われるほどの温かさに包まれたり。
冬と春の端境期に揺れる気候と同じように揺れ動く・・・俺の心にも。





「大学卒業おめでとう、香穂子」
「ありがとう、蓮くん。私の卒業式には帰国が間に合わないかもって言ってたから、昨日連絡もらった時にはびっくりしちゃった。でもね、会えて凄くうれしい!」
「向こうでコンサートを終えて直ぐに空港へ向かったんだが、丁度タイミング良くフランクフルトからの最終便が取れたんだ。お陰で昨日の夕方日本に戻れた・・・間に合って良かった」
「大丈夫? 疲れてない? お仕事終わったばかりなんでしょう? 蓮くん大学の課題だってあるのに・・・」
「俺は平気だから。それよりも一刻も早く、君に会いたかったんだ。・・・袴姿、とても良く似合っているよ」



嬉しさを現すように指を絡めてしっかり繋いだ手にきゅっと力を込めつつも、照れくささで頬を染める香穂子に、月森も眼差しに優しい光を湛えながら頬を緩ませる。

春を思わせる桜色の着物に濃紺の袴姿・・・空いている方の手には着物と同色の巾着と、卒業証書の入った筒を持っていて。大学の卒業式とあって今日の香穂子は、時代から抜け出したような艶やかな女学生の装いだ。足元は草履ではなく、丈の短い黒の編みこみ紐のブーツを履いているのが活発な彼女らしい。



卒業式が行われた星奏学院大学の正門で彼女と待ち合わせた後、遠回りをしないかと誘いをかけた。
久しぶりに会えたんだ。このまま家路に着くのはもったいないと・・・もっと一緒にいたいと思うから。
彼女も同じ気持でいてくれたようで、嬉しそうに快く、俺の誘いを承諾してくれた。



俺達が今歩いているのは、交差点を抜けて星奏学院の高校へと向かう通学路。
当ても無く街を散策していると、気付けば高校時代に香穂子と毎日一緒に通ったこの道に出ていた。
驚く俺に対して君は、毎日歩いていたから自然に足が向いちゃうのかなと、無邪気な笑顔を向けてくる。

懐かしい・・・変わっていないと、久しぶりに訪れた懐かしい街並みを共に目に映しながら、鮮やかな記憶に眠るあの頃の思い出話にも花が咲く。身振り手振りを交えて、時を遡ったかのように記憶と同じ再現をする香穂子に、制服姿でヴァイオリンケースを携えた、高校生の彼女の姿が浮かび上がって重なって見える。
という事は、きっと彼女から見れば、音楽科の白い制服に身を包む俺が見えているのかも知れないな。

懐かしく感じると同時に初心に戻るような、どこか新鮮な気持さえ覚えてくるようだ。



大学に在学中の身でありながら、プロのヴァイオリニストとしての地位を得たのは、描いていた二つの夢を叶えたかったから。高校を卒業してから俺は留学の為ドイツへ渡り、香穂子は日本へ残り音楽大学へ進学してヴァイオリンの勉強をと。互いに海を隔て離れていた、長い四年間がもうすぐ終る。


やっと俺たちは、ここまでこれた・・・。
辛かった日々を思い出して見れは分かる、永遠に続く悲しみなんて無い事を。
振り返れば大きな悲しみや離れ離れの寂しさの後には、必ず大切は君という喜びがいた。
深い悲しみの日々の中で見つけた心の中の宝物は、ダイヤや金貨よりも尊い一生の宝物なんだ。



それに・・・きっと導かれているのかも知れない。
彼女に出会ったあの場所に・・・出会うきっかけを作ってくれた、愛すべき音楽の妖精たちに。



香穂子に気付かれないようにスーツのポケットに手を入れ、中に忍ばせてある物へ想いを託すように強く握り締めた。繋いでいない手の側のポケットで良かったと、心で安堵の溜息を吐きながら。



一緒にいられるのが嬉しいと、純粋に喜ぶ様子に柄にも無く緊張が増し、手に汗までかいて鼓動が高鳴るばかり。罪悪感さえ覚えるのは、俺が散策へ誘った本当の理由が別にあるからなのだ。

何も知らない君にぎりぎりまで悟らせないように、そしてどう切り出そうかと・・・・・・。
いや、それ以上に彼女がどんな返事を返してくるか・・・。


俺達を包む春の日差しのように綻ぶ彼女の横顔を眺めながら、頭の中ではそればかりを考えていて。
蓮くん・・・と呼びかけられた事にも気付かず、上の空だったようだ。
繋いだ手を強く揺さぶられてハッと我に返ると、心配そうに見上げる大きな瞳があった。


「蓮くん、やっぱり疲れてるんじゃない? ちょっと、ぼーっとしてる感じがするよ」
「し、心配かけて・・・すまない。それより、どうしだんだ」
「ねぇ、高校の正門前に着いちゃったよ。あ・・蓮くん見てみて! 奥にあるのファー像だよ! 懐かしいね〜」


日曜日という事もあり、生徒の人影も殆ど見られない。門の奥に見えるファータ像に悪戯好きの彼らの姿が脳裏に蘇り、一瞬苦味を覚えて眉を潜めたが、香穂子の笑顔が春風のように心を凪いで吹き飛ばしてくれる。

もう姿は見えないけれども、きっと学園にいるファータ達も、音楽を学ぶ道に進んだ彼女の大学卒業を祝ってくれている事だろう。何よりもファータのお陰で、香穂子に出会う事が出来たのだ。彼らに直接言うのは照れくさいが、感謝というたった一言でこの気持を語れるものではない。


「ここから始まったんだよね、私たち」
「そうだな・・・かけがえの無い君との出会い。音楽を競い合い共に奏で、想いを育んできた大切な場所。音楽をはじめ君との事・・・この学院生活で手に入れたものは、俺の大切な宝物だ」
「私もこの高校で過ごせて良かった、幸せだったよ。だって蓮くんとヴァイオリン・・・。私の全てをかけてこの先もずっと大切にしたいって、心から思うものに出会えたんだもの」


ここが原点と言うべき、君と俺との始まりの場所。
遠くにあるファータ像と懐かしい校舎に想いを馳せながら、香穂子と共に暫し高校の正門前に佇んでいた。

コンクールを通して君と出会い、想いを交わしてから高校卒業に至るまで。
彼女と交わした言葉の一言や、向ける仕草の一つ一つがその時感じた想いも乗せて走馬灯のように蘇り、脳裏と身体を熱となって駆け巡ってゆく。






「日野さん」
「えっ? どうしたの蓮くん、急に!?」


思わず口についた一言に、香穂子がきょとんと俺を見上げた。
俺からの懐かしい呼ばれ方に一瞬驚き、何かあったのかと不思議そうに目を瞬かせている。


「いや・・・。最初は君の事をそう呼んでいたなと思い出したら、つい言ってみたくて。だが、何だかよそよそしいな。香穂子を呼んでいる気がしないというか・・・」
「新鮮だったけど、私も自分の事呼ばれているんじゃない感じ。それにね、蓮くんが遠くて寂しいかも。え〜っとね、どれくらい遠いかっていうと・・・・・・・」
「あっ、香穂子!」


俺の腕をするりと振り解くと、見上げた瞳と頬で言葉は無くニコリと語りかけてくる。彼女が何か企んでいる時の顔だ・・・と気付いたけれども既に遅く、引き止める間もなく、あっという間に駆け出していった。
赤い髪とピンク色の着物の袖が軽やかに靡き、まるでひらりと風に舞う蝶のように。





遠くもなければ、近くもない・・・だが彼女に手は届かなくて、決して触れることは出来ない。
そんな数メートル先で香穂子が立ち止まると、くるりと振り返った。


「さっきの距離は、これくらいかな」
「ずいぶん開いたな。開いたら、再び縮めるまでだ」


一歩前に足を踏み出せば、今度は香穂子が俺を呼んだ。
離れた所にいる俺に届けるように、大きな声で。


「月森くん!」


彼女からは久しく呼ばれていなかった懐かしい呼び名に、ピタリと身体の動きが止まり、心が飛び跳ねる。
耳の中にするりと入り込んだ響きのカプセルが身体の中で弾け、瞬く間に詰め込まれた記憶と想い出がが満ち広がってゆく。彼女にそう呼ばれていた時に感じていた、想いの記憶も乗せながら。


俺に呼びかけた香穂子は、ぴょこんぴょこんと飛び跳ねつつ袖を翻し、二歩程近づいてきた。
再び立ち止まると、真っ直ぐ俺を見つめて笑顔を向けてくる様は、何かの遊びのようにも思える。
後ろ手に組みつつ小首を可愛らしく傾げ、一緒に遊ぼうよと瞳が俺を誘っている。


そうか! この距離は、お互いをそう呼び合っていた頃の心と身体の距離でもあるのだ。
ならば、俺も君の誘いに喜んで乗ろう。


「日野!」


日野さんから日野へと。
俺の中に彼女の占める割合が増えるごとに想いは深まり、近まる距離を表すように呼び名も変わった。
彼女に呼びかけると、大またで同じように二歩前に進んで距離を縮める。すると俺が気付いて誘いに乗ったのが嬉しかったのか、香穂子の瞳に輝きが増し、ほんのり色づいた頬がパッと花開くのが分かった。


彼女は目の前にいる。後もう少しなのに・・・でもまだ遠い。
手が届きそうで届かない、もどかしい距離。
それは互いが片想いだと思っていて、あと一歩を踏み出す勇気が出せなかった、あの頃の俺達。


「蓮くん!」


香穂子の呼びかけが、月森くんから今の呼び名である蓮くんへと変わった。
更に一歩み寄る香穂子と距離が縮まって、想いを通わせ合った頃と同じように、手を伸ばせばすぐに君を腕の中に捕らえる事が出来る。今度は、俺から一歩前に出る番だけれども・・・。


「香穂子」


初めて君を名前で呼んだ時の甘酸っぱいような照れくささが、心の中に蘇る。
想いを込めて優しく呼びかけ、温かく湧き上がる心のままに頬と瞳を緩ませると、大きく両腕を広げた。
隣にいる距離は変わらないのに、前よりもずっと近くなったような気がしてたのは、きっとその分心の距離が近くなったからなんだなと、改めて思った。

物理的な距離には限界があるけれども、寄り添う心の距離には限界が無いのだと。


嬉しそうに頬を綻ばせた香穂子が駆け寄ってくるのを堪えきれずに、俺からも駆け寄って。
俺の胸に飛び込む柔らかい身体を受け止めると、愛しい想いごと強く抱き締める。




「あともう一歩だな・・・。俺も君も、互いにまだ近づける」
「え!? どういう事?」
「俺の名前・・・“くん”はいらない」


蓮と、そう呼んで欲しい。
腕の中から見上げる大きな瞳を真っ直ぐ見つめ返すと、頬だけでなく耳や首筋まで火を噴出しそうなくらいに真っ赤に染め上げていく。やがて恥ずかしさに耐えられなくなったのか、小さく俯いた。


僅かな沈黙の後おずおずと口を開いた香穂子は、言い出そうとしては口を閉じてを数回繰り返す。
辛抱強く待っていると、ふと顔を上げた彼女が、聞き逃してしまいそうな声で囁いた。


「れ・・・・蓮」
「ありがとう、香穂子。ではこれからは、それで頼む」
「初めて“蓮くん”って呼んだの以上に、もの凄く恥ずかしかったよ〜。私これからどうしよう〜」


微笑みながらそっと腕を解いて彼女を解放すると、赤みの残した頬に手を添えながら、慣れるかな・・・大丈夫かなとそう呟いて。れん・・・蓮・・・と何度も口に出し、時には俺に向かって可愛らしく呼びかけてくる。


しかし・・・その・・。何度も呼ばれると、俺の方が照れくさくなってしまうではないか。
俺こそこの先大丈夫なのかと、顔に集まる熱を隠すように口元に手を当てて、ふと視線をそらした。





ふわりと優しい柔らかな風が吹き抜け、火照った気持と顔を落ち着かせてくれるようだ。
春を乗せた風は俺達を包むように、そっと背中を押すように。
風に乗って聞こえるのは俺達を春へと誘う声か、ファータ像の周りに集う妖精たちの声なのか。


どうか、俺に力をくれ。
大きく深呼吸して風を身体に吸い込むと拳を強く握り締め、意を決して彼女へと向き直る。

あと一歩ではないか。
自分を信じよう・・・ここまで一緒に寄り添ってくれた香穂子を信じよう。
今まで彼女がくれた沢山の想いに、応えるのだ。



「香穂子」
「なぁに、蓮」
「今度は、君の呼び名が変わる番だ」
「私? これ以上どう呼ばれ方が変わるの?」
「日野香穂子から、月森香穂子へと」
「・・・!!」
「帰国したのは、香穂子の大学卒業を見届けたかったというのもある。だが一番の目的は、君に正式にプロポーズする為だ。君が卒業するのを待ってご両親に挨拶しようと、ずっと前から、俺はこの日を待っていた」


そう言って熱さを湛えた瞳で真っ直ぐ見つめる月森を、香穂子は驚きに目を見開いたまま凝視している。
驚きと、嬉しさと、混乱と・・・。様々な感情が一気に押し寄せて、言葉や身体どころか、上手く思考も働かないでいた。彼が語りかけた言葉をゆっくり反芻して、噛み砕くのが精一杯で。


「春だな・・・」
「えっ?」
「君の足元・・・道の端に小さな花が咲いている」
「本当だ・・・全然気が付かなかった。名前も知らないけれど、可愛いね」


固まったままの香穂子の心を和らげようと、視線で足元を示せば、アスファルトを割って僅かな土の上に咲く、小さな一輪の白い花。光の変化をいち早く受け止め、太陽の恵みに頬笑みで応えるかのように、土の香りを振りまきながら。冬の寒さを耐え、力強く地を割って花を咲かせる姿には、むしろ逞しささえ感じるようだ。
地面に見える小さな春を優しい眼差しで見つめる香穂子の表情も、雪解けのように自然と頬が緩んでいく。


「花は生命力に溢れているな。見るものに温かさと優しさを与え、どこまでも無邪気で・・・生きる強さを教えてくれる。まるで、君のように」
「蓮・・・・・・」
「俺たちも、冬を終わらせないか? 君も俺も、充分すぎるほど待った。もう春が来てもいい筈だ」


優しく穏やかに、ゆっくりと。
心に直接語りかけるように、俺をじっと見つめる香穂子瞳を受け止める。

落ち着きを取り戻したようだから平気だろうかと思い、スーツのポケットにしまっていた小さな箱を取り出た。
手の平サイズの黒いビロード張りの箱をそっと開けると、箱の台座に収まっていたのは、プラチナのリングの中心に一粒のダイヤモンドが煌く指輪。両手で包んで彼女に差し出すと、息を飲む気配が伝わった。


「香穂子、俺と一緒にドイツへ来てくれ・・・結婚しよう」
「!! これって・・・もしかして、婚約指輪!?」
「そうだ・・・香穂子の為の婚約指輪。俺の想いと決意の証。君に受け取って欲しい」


おずおずと少し震える彼女の手が伸ばされ、指輪の収まった黒い箱を包み込むと、指輪を見つめたまま自分の胸へと引き寄せる。


「とは言っても、俺の大学卒業まであと半年。その後に専門課程が2〜3年かかる。実際は香穂子にもう少し待ってもらう事になるが、俺はもう限界だ。確かな約束と、今すぐに君が欲しい」
「い、一緒に行っても・・・いいの? でも私、何もできないよ」
「まだ身分は学生だが、プロのヴァイオリニストとしての地位を手に入れたし、収入もある。誰にも頼らず、君を養い守っていける。俺の側にいてくれ」
「・・・夢、じゃないよね。どうしよう・・・嬉しくて、涙が出そうだよ」


そう言った香穂子の瞳に、キラリと光るものが見えた。
小箱をぎゅっと胸に押し付けて、瞳を閉じる。溢れる想いと涙を、閉じ込めるように・・・。


香穂子・・・とそう呼びかければ、人差し指で滲んだ涙を拭って瞳を開き、雨上がりの空のような爽やかな笑顔を向けてくる。


「一緒に暮らしても、正式に一緒になるのにはまだ数年も先になってしまう。時には音楽家としての仕事で家を空けて君と離れ、寂しい思いをさせてしまうかもしれない。それでもいいだろうか」
「うぅん、心配しないで。だってここまでずっと待ったんだもの、あとちょっとじゃない。離れてるんじゃなくて側にいられるのなら、何年でも私は平気だよ」
「ヴァイオリンの事も心配しないでくれ、君が師事すべき人も見つけてある」


後は・・・。
この流れなら大丈夫かもしれないが、彼女の口からきちんと返事が聞きたい。
動揺させている・・・急かしているかも知れない・・・心の中では激しく渦巻くけれども、君を求める気持には敵わないのだと。そう思ってゆっくりと歩み寄り、箱を持つ両手に俺の手を重ねて包み込んだ。

焦らせないように・・・落ち着いて欲しくて、心と理性の限りを尽くして穏やかに、けれども真摯に問いかける。


「香穂子の、返事が聞きたい」


緊張と激しく高鳴る動悸のあまりに、気が遠くなってしまいそうだ。
彼女の心そのもののような真っ直ぐな輝きが射抜き、呼吸ごと俺の全てを捕らえて離さない。
時間にすればほんの一瞬、けれども長く感じた沈黙の後、香穂子が深々と頭を下げた。


「よろしく・・・お願いします」






いくら日曜日で生徒がいないとは言えここが学校の正門前で、しかも一般の道路という意識は、すっかり俺の頭から消え去っていたようだった。香穂子の背と腰に手を回して引き寄せると、懐深くに香穂子を閉じ込める。


「ありがとう・・・香穂子」
「れ、蓮ってば! 何も正門前のこんなところで抱きつかなくても! 嬉しいの分かるけど、恥ずかしいよ〜」
「君との出会いをくれた、この学園に住まうおせっかいな妖精たちにも、感謝を込めたかったんだ。きっと俺達を見ているに違いないさ」
「も〜っ、ファータもいいけど通りがかりの人とか、そっちも気にしないと。恥ずかしくて余計に困るってば!!」


真っ赤になってジタバタと暴れる香穂子を、腕の力を込めて身動きを封じると、唇に触れるだけのキスを贈る。
すると観念したのか、途端に身動ぎを止めて大人しく身を任せてきた。


「俺たちにも、ようやく春が来たな。ここにある、小さな白い花のように」
「長かったね・・・でもまだ春爛漫って訳じゃなくて、早春って感じかな。冬があるから、春の暖かさとありがたさが分かるんだよ」
「今までの俺たちも、きっと無駄じゃない。感じた事や経験したこと、きっとこの先の未来に花を咲かせる為のものだったんだ」


温かく麗らかな春の初々しい日差しは、まばゆいものでなく。柔らかく何処までも優しい光加減で、周りの景色も俺達の心も春色に淡く染め上げてゆく。色彩的に無愛想だった冬が終われば、やがて愛と想いの彩りに溢れた春の時を迎えるのだ。


「俺の心に咲いた花。俺にとっての春は、香穂子・・・君だけだ」


腕を解いて香穂子を解放すると彼女が持った宝石箱から指輪を摘み、左手をそっと手に取ると目の前に掲げて、まずは胸に湧く想いを込めながら薬指の甲に口付ける。ゆっくりと唇を離した後に、うっすらと赤い花の咲いた指へ、指輪を静かにはめていった。





地を割って芽吹いた花が太陽の恵みに、可憐な花姿の頬笑みで応えるように。
俺も君という春、俺だけの太陽に頬笑みを注ぐ。


「私の春も、蓮だから・・・。これからは二人で私たちの春に咲く、想いの花をいっぱいに咲かせようね」


昔、春は東から吹く柔らかな風に乗って訪れると考えられてきた。
海を隔てて遠く西の地と、東の地に離れていた俺達にとってまさに君は、春をもたらす風そのもの。
頬笑み返しの眩しい笑顔が、春をもたらすといわれる一陣の風のように、俺達の長く暗い冬を心ごとなぎ払い、
温かさをもたらしてくれる。





この春を、温かさをずっと守っていこう。
俺の全てをかけて・・・・。