甘い交換条件

「ねぇねぇ蓮くん、これ見て! クローゼットの奥を整理してたら、懐かしいものを見つけたんだよ」


俺の部屋にやってきた香穂子は、ドアが閉まるのを待ち構えたように目を輝かせ、溢れる興奮を伝えてきた。
フローリングの床へペタリと座り、持ってきた手提げ鞄からいそいそと何かを取り出している。
また何か宝物を発掘したのだろうか? 何故か君は、見つける度に俺の所へ披露しにやってくるから。


膝を折って彼女の目の前にしゃがみ込むと、ジャーンという効果音付きの笑顔で俺の前に掲げられたのは、一冊の絵本だった。子供向けの絵本に書かれているタイトルは俺も知っている。
恐らく誰しもが一度は読むであろう童話で、いわゆる「王子様とお姫様」が登場するものだ。


どうやら家から走ってきたらしく額に光る汗を浮かべ、頬はほんのり紅潮していた。
切れた息を肩で整えているから、手に持った絵本が肩合わせて微かに上下している。
君はいつも走っているな・・・そう思いながら、疲れも見せない元気な笑顔と掲げる絵本を交互に眺めた。


「今日は部屋の大掃除をするから会えないのだと言っていたが、もう終ったのか? 随分早い時間だが」
「えっと〜それはね、まだ途中というか・・・これから始める所なの」
「途中で放り出しては駄目じゃないか。掃除の途中で、わざわざ俺の所へ来たのか?」
「蓮くん怖い顔しないで? お掃除は帰ったらちゃ〜んとやるから・・・ね? それよりも、お掃除どころじゃなかったの。蓮くんに一刻も早く会わなきゃって、いてもたってもいられなかったんだよ」


顔を隠してしまう大きめな絵本の脇から、香穂子がひょっこり顔を覗かせた。
ごめんね・・・私が来て迷惑だった?と、悲しそうに瞳を曇らせて。


最初は誤魔化すような笑みを浮かべていたが、厳しく眉を顰める俺に不安が込み上げたようで、必死に見上げて縋るように訴えてくる。君の為を想えばこそ、あえて厳しく接しなければならない時だってある・・・だが。

すぐにでも緩んでしまう頬を引き締め、厳しい顔を保つのが精一杯。全てを投げ打ってでも俺に会いたかったのだという衝動と、真っ直ぐに向ける彼女のひたむきさが、脆くも理性の壁を突き崩した。 雲間に差し込んだ一筋の光りが満ち溢れ、心に欠けていた鮮やかさと温かさが戻ってくる。


「迷惑な訳ないだろう。今日は会えないと思っていたから、俺も香穂子に会えて嬉しい。突然俺の家にやってきた君に、嬉しさが止められないんだ。こうでもしないと、掃除の続きもある君をすぐ帰せる自信がない」
「蓮くん・・・・・」


やはり心は偽れないな、俺には無理そうだ。心の中で苦笑を漏らし、想うままに微笑を向けると、掲げられていた絵本がゆっくり下ろされる。じっと切なげに見上げていた香穂子の瞳が潤み、ほうっと甘い吐息で染まった頬が蕩けてゆく。そんな顔で見つめられたら、益々君を帰せなくなってしまうじゃないか。

熱くなりかけた自分の頬を引き締めるべく、コホンと軽く咳払いをして、何とか話題を進ませようと試みた。


「その絵本が、どうかしたのか?」
「子供の頃の大切な物を入れていた、段ボール箱が出てきたの。中にこの絵本があったんだけど・・・ほらっ。片付けしている最中に本とか楽譜を見つけると、つい懐かしくて読みふけっちゃうでしょう?」
「まぁ・・・香穂子の気持も分かる、俺にも覚えがあるから。本棚の片付けは俺も苦手だ」
「綺麗なドレスを着て、素敵な王子様に出会う恋物語。小さい時に憧れて、何度も読み返してたな〜って思い出したの。ふふっ、いつか私も出会えるのかなって夢見てた。今読み返しても温かくて、幸せな気持になれるよ」
「確かに、夢を与えてくれるな。絵本を読む君を眺めているだけでも、幸せになれそうだ」
「でもね、現実はもっと素敵でトキメキがいっぱいだった。だって私には蓮くんがいるもの。この出会いは、どんな物語にだって負けないよ!」


ほんのり赤く染めた頬を綻ばせた香穂子は、腕の中へ絵本を大切に閉じ込め、ぎゅっと抱き締めながら頷いた。
物語の内容よりも俺は、楽しげに夢を語り、笑みを浮かべている君を見ている方が幸せを感じるんだ。
男の俺には馴染みの無い感覚だが、彼女は今でも密かに憧れを持ち続けているのだろうか・・・。


どちらかと言えば君は物語の姫というより、冒険の勇者かも知れないな。
そんな事をふと考えているうちに口元が緩んでしまうのを止められなかった。


何を考えていたの?と悪戯に笑みを零す香穂子の大きな瞳が、目の前に身を乗り出してくる。いや・・・何でもないんだと微笑で覆い隠せば、蓮くんも一緒に見てみる?とそう言って隣に移動し、肩を並べてちょこんと座った。
見やすいように俺の膝と香穂子の膝半分ずつ乗せ、身をもたれ掛けながらパラパラと絵本のページを捲り出す。

この中に小さな頃の君が詰まっているのだと思うと、俺にとっても大切な物になるから不思議だ。
眺めている瞳の真っ直ぐな輝きは、きっと昔も今も変わらないのだろう。




思い出を語りながら開いた挿絵のページは、物語の醍醐味と言える、二人がハッピーエンドで結ばれるシーン。
愛する者が互いに寄り添い合い、キスを交わして・・・。
だが子供心には夢を与えてくれても、大人になって深く読み取れば、少々照れ臭いのも確かだ。

いくつかのページに、丁寧にも新しい付箋が貼られているのを見ると、俺に見せたかったのだと分かる。
それはつまり、香穂子が伝えたい願いなのだろう。視線を感じて隣を向けば、物問いた気にじっと振り仰ぎ見つめる大きな瞳が、甘える色と光りを漂わせていた。何かをねだる仕草に鼓動が射抜かれ、瞬きすら忘れてしまう。


「香穂子、その・・・俺に何かして欲しい事があるのか? もしかして、この絵本の挿絵に関係するのだろうか」
「凄〜い、良く分かったね。懐かしく読みふけっているうちに、この本の中でね、私が蓮くんと一つだけまだ叶えていない夢があったのを思い出したの。一緒に叶えたいなって・・・うぅん、蓮くんじゃなきゃ嫌だから」
「・・・香穂子がやりたいものは、どれなんだ? 」
「え!? えっとね・・・・・・・」


やがて火を噴出しそうな程に顔を真っ赤に染め、もじもじと照れ臭そうに握り合わせた手を弄り出す。
そんなに恥ずかしがる事なのだろうかと想像が膨らんでしまうから、俺まで熱さが移ってしまうじゃないか。
チラリと本に視線を注げば物語の王子と姫のキスシーン・・・いや、これじゃないな。香穂子とは何度もキスを交わしているし、身体を重ねた事も考えると、少し前のページにあった目覚めのキスとも違う。


けっこう俺たちの中では、既に出尽くしているように思うんだが。まだ何かあったのだろうか?


彼女の願いを探す筈が考えを馳せるうちに、いつの間にか理性が欲望に引きずられ、自分のやりたい事に考えがすり替わってしまう。眉を寄せて必死に記憶の糸を手繰る俺を引き戻すように、腕を揺さぶる香穂子がこれだよと、そう言って新しく開いたページを指し示した。


「・・・・・・・!」 


しなやかな指が示したのは、物語の王子らしき男性に、横抱きに抱え上げられている女性の姿。
腕は首に絡められており、互いに甘く瞳を交し合っている。これはお姫様と言って思いつく一番の王道、いわゆる「お姫様抱っこ」というものだろう。


まさか、俺がこれをやるのか? 
ひょっとして香穂子はお姫様抱っこをして欲しくて、わざわざ俺の家まで息を切らし走ってきたのだろうか。
君が元気に駆け回っているから、日常の中で抱きかかえて運ぶ必要も無かったし。
いや・・・俺の家に来ても直ぐに帰さなければいけないから、無理をあまりさせなかったというものあるが。


俺にとっては、次々に遅い来る想いの直球の中でも最大級かも知れない。
張り裂けた鼓動から熱さが一気に噴出し全身へ駆け巡り、眩暈がしてくる。


「あのね、これがやりたいの。蓮くんにお姫様だっこ・・・して欲しいな」
「はっ!? お姫様・・・抱っこ」
「うん! 駄目かな?」
「・・・いや、その。駄目では無いが・・・」
「本当に! 嬉しい〜ありがとう。外だったら恥ずかしいけど、誰もいないお部屋の中ならいいでしょう?」
「・・・・・・・」


恥ずかがるのは俺ではなく君の方じゃないかという言葉は、心の中へ閉じ込めておこう。

愛らしく小首を傾げて見上げる様瞳は純粋で、甘えるというより、未知なる興味から来ているように思えた。
一度抱き上げた感覚だけで彼女は満足しそうだから、無邪気さがちょっと嬉しいような悲しいような・・・複雑な気分だ。いつもは恥ずかしがる君が、まだ知らない故に珍しく積極的なのだから嬉しい事には変わらない。君の願いは俺の願いでもあるから、喜んで叶えよう。


だが君はまだやっていないと言うけれど、本当は一度だけあるのを覚えていないのだろうか?



そうか・・・あの時は香穂子が眠っていたから、覚えている訳が無いのだ。まだ付き合い始めて間もない頃、俺の家に遊びに来た君が、部屋でCDを聞きながらうたた寝をしてしまった事がある。硬いフローリングの床に寝転がっては身体も辛いだろうからと、抱きかかえて俺のベットまで運んだんだ。目覚めた君があまりにも照れて恥ずかしがっていたから、眠くなったからと言って自分でベッドに横になったと、優しい嘘で誤魔化したけれども。

腕に抱き上げた時の柔らかさと温かさ、力を込めれば壊れてしまいそうで、こんなにも軽いのかと。
あどけない無邪気な寝顔を見つめながら、この腕の中の君を大切に守りたいと愛しさが込み上げ、なかなか手離せなかったのを覚えている。愛しい人を抱き上げたい願いや喜びは、俺だって同じなんだ。


もう一度同じように抱き上げれば、夢の中の出来事を思い出してくれるだろうかと、密かな期待が熱く燃え上がってゆく。奥底へ必死に押さえ込んでいた、触れたくても触れられなかった想いが再び湧き上がってくるようだ。


「君の願い・・・お姫様抱っこをするのはいいが、代りに俺の願いも叶えてくれるだろうか?」
「へ!? 蓮くんのお願い? 何をするの?」
「抱き上げたまま、俺の好きなところへ君を運びたい。もちろん家の中でだから安心してくれ」
「もちろんいいよ! 大好きな蓮くんがお姫様抱っこしてくれるだけでも嬉しいのに、どこへ運んでくれるのか楽しみだよ。何か新婚さんみたいっていうか、気分だけでもお姫様になれそう」
「香穂子。すまないが、立ち上がってくれないか?」
「うん、いいよ。うわ〜楽しみでドキドキする、どんな感じなんだろう」
「少し失礼する」
「えっ・・・・きゃっ!」


パッと笑顔を咲かせて嬉しそうに立ち上がった所を、素早く横から攫うように抱き上げるのと、同時に小さな叫び声が上がった。


突然抱き上げられ動揺する香穂子は、落ちないよう咄嗟に両腕を首に絡め、力を込めて必死にしがみ付いてきた。首元に顔を埋める彼女に小さく笑いを零すと、触れ合う胸の振動で伝わったらしい。恐る恐る顔を上げると、もう〜笑わないでと真っ赤に頬を膨らませながら拗ねてしまう。すぐ目の前で見るそんな君も可愛いと思いながら、緩めた頬のまま塞がっている両手の代りに鼻先を擦りつけた。


「大丈夫、そんなに強くしがみ付かまなくても落としはしない。安心してくれ」
「ごめんね、思ったよりも高くてびっくりしちゃったの。でも凄い〜、これが蓮くんの目線なんだね、いつもの違う景気が見えてくる。あっ・・・あのね、その・・・重くない?」
「問題は無い。羽のように軽いから、このまま何処へでも君を運んでゆける」
「ねぇねぇ、お願いついでにくるって一回りしてもらえる?」
「あぁ・・・こうか?」


横抱きしたままその場でくるりと一回りすれば、風が俺たちを包むように舞い上がる。
ふわりと優しい甘い花の香りを胸いっぱいに吸い込めば、心の中をゆっくり君が満ちて染めながら。

きゃ〜と賑やかな歓声を挙げて楽しげにはしゃぐ笑顔、頬を掠めた温かさと柔らかさ。
キスをくれたのだと気付き立ち止まると、はにかんだ瞳で照れたように微笑んでいて、熱さが込み上げてしまう。
駄目だ・・・このままでは本当に止まらなくなってしまいそうだ。


「お姫様抱っこで運ばれるなんて、夢見たい。男の人ってやっぱり力があるんだね。ねぇ蓮くん、ところで私を何処へ運んでくれるの?」
「この部屋の中だ。俺たちのすぐ目の前にある」
「え!? 目の前って、もしかしてベット・・・とか言わないよね」
「さすが香穂子、良く分かったな。こうやって先に君を運ぶか、後で運ぶかの違いだから」
「い、意味わかんない〜! わ、私もう帰らなくちゃ。お掃除の途中で来ちゃったし、いつでも蓮くんが遊びに来れるようにお部屋を片付けないと。だから降ろして、ね?」
「あっ・・・こら、暴れると落ちるぞ。いっそ今日はずっとこうして、移動の時も君を抱き上げたままでいようか」
「や〜っ降ろして! 確かにロマンチックだと思うけど・・・ほら新婚さんじゃないし、まだ昼間だし。ずっと抱き上げたままだと、蓮くんが大変でしょう? 」


最初ははしゃいでいたものの、引きつった作り笑いを浮かべながら俺の気を反らそうと逃げ道を探っている。すまないと心の片隅では思いながらも、君が火をつけてしまったから、そう感嘆には熱さが収まりそうにないんだ。


「私・・・動けなくなるのは困るの〜」
「絵本の最後は、王子様とお姫様が幸せに暮らすんだろう? だから俺たちも・・・・・」


抱き上げたまま苦も無く部屋を横切りベットへ辿り着くと、真っ白いシーツの海へ静かに降ろして座らせた。
隣へ腰を下ろし抱き寄せると、ギチリと音を立てて軋むスプリング。何が起きるのか薄々感づいている君は、膝の上でぎゅっと両手を握り合わせながら身を硬くし、威嚇するように睨んでいる。どんなに睨んでも怖いどころか、可愛くて仕方がないのだというのに。



動けなくなった時の為にこうし俺が運ぶんだが・・・君が目覚めている間に願いを聞き届けるのは、確かに難しいかもしれないな。心の中で苦笑を漏らしながら緩めた瞳で微笑を注ぎ、腕の中へそっと抱き締めた。

唇を重ね深く味わいながら、軋むスプリングへとゆっくり互いの身体を沈めて-------。