悪意無きイタズラ
「蓮くん」
「呼んだか、香穂子」
「うぅん、呼んでみただけ」
いつもは隣に並んで歩くのに、避けている訳でもなく俺の後ろを歩く香穂子が、にこにこと笑みを浮かべている。
俺が歩き出すまでは、彼女も立ち止まったままのつもりらしい。
特別な人から呼ばれる名前には、魔法の力があるのだろうか。
嬉しくてもっと俺の事を呼んでほしくて、心の底からくすぐったさが湧き上がってくる。
そうか・・・と、照れ隠しに短く返事をして再び歩き出せば、楽しげな鼻歌と一緒に軽やかな足音が重なった。
「れーんーくん!」
背中に呼びかける香穂子の弾む声が、透明な輝きとなって身体へ染み込み、温かさが弾けて広がった。
弾む声を聞いただけで、楽しげに笑みを浮かべながら、ステップを踏んでいるのが目に浮かぶようだ。
俺も君の名を呼ぶのは好きだし、呼ばれたいと思う。何度も呼ぶほどに俺の事を・・・そんな夢み心地で肩越しに振り返ったが、慌てて立ち止まった彼女は、後ろ手に組んだまま視線を反らして違う方向を見つめている。
「・・・・・・・・・」
呼んでないよ、どうしたの?と。きょとんと小首を傾げるから、何でもない・・・そう言って歩き出すしかない。
聞き間違いだったのだろうか? いや、確かに呼ばれた筈なんだが・・・。
期待していただけに寂しい本音を隠し、香穂子の気まぐれかも知れないと自分に言い聞かせてみる。
口ずさむメロディーが、鼻歌から歌声に代わった。嬉しそうな彼女をこっそり振り返れば、最近お気に入りだというレモンティーの500mmペットボトルを、両手で大事そうに抱えている。どこかで聞いたようなフレーズだと思ったら、手に持っている清涼飲料水のTVCM曲だと思い出した。
内容は晴れ渡った青空の下で、付き合い始めて間もない高校生の男女が繰り広げる、初々しい恋模様。
いや・・・憧れもあるし嬉しい事には変わりないのだが、だからこそ恥ずかしいというか照れ臭い。
同じ事をやりたいと言われたら俺はどうしたらいいだろうかと、その飲み物を見るたびに困ってしまうんだ。
タイトルからして「HTSUKOI・初恋」という名前なのだから、手を出しにくくて飲んだことは無いけれど。
CMについて熱く語り愛用している香穂子によると、後味がほんのり甘くて優しい・・・のだそうだ。
君と一緒にいる時の空気や気持ちのようだなと言ったら、頬を染めてはにかんでいたな。
「ねぇ蓮くん、こっち向いて」
「・・・・・・・・・」
「おーい、蓮くん。ねぇねぇ月森くん? 私の目の前を歩いている、ヴァイオリニストの月森蓮くーん!」
「・・・・・っ!」
振り向くべきか、黙っているべきか。
なぜか振り向かなくても香穂子はご機嫌なままだし、黙っていると余計にねだってエスカレートしてくる。
焦らせば焦らすだけ燃えてくる、そんな状況にも似ていて勝手に熱さが募り、堪えきれずに後ろを振り向いてしまった。しかし肩越しに振り向いたものの、後ろにいた筈の香穂子がいない。
消えた? そんなばかな!?
確かに後ろから声が聞こえたし、さっきまでここにいたのに。
「香穂子、どこにいるんだ!」
悪戯なファータがこの学院内には多く潜んでいるから、彼女を隠すなど造作も無いだろう。
急に心を厚く覆い出す真っ暗な不安に、締め付けられる苦しさに眉を顰めて叫んだ。
周囲を見渡し彼女を捜していると、今度は背中側から誰かが俺の肩を叩いてくる。
トントン・・・トントントン、私はここだよ。
叩かれた左肩を反射的に振り向いたが誰もおらず、まさかと思って反対の肩を向くと、手を伸ばせば抱き締められる懐の中に君が飛び込んできた。真っ直ぐ振り仰ぎ心配な様子を装っているが、口元は一生懸命笑いをかみ殺しながら。単純な罠にかかった自分自身が情けなくて、額を押さえつつ溜息を深く吐いた。
「蓮くん、慌てちゃってどうしたの?」
「・・・香穂子、わざとやっているだろう」
「な、何の事? あっ!喉が湧いたかな、これ飲む?」
反らす事を許ささずに瞳の奥を見据えれば、嘘の吐けない香穂子はそわそわと肩を揺らし出す。
知らないよ?とあくまでも誤魔化し、小首を愛らしく傾げたり。持っていた飲みかけのペットボトル・・・初恋という名のレモンティーをいそいそと差し出してきた。それとも君の恋がどんな味か、俺に教えてくれるのだろうか。
募る想いが訴える喉と身体の渇きを、瞳を閉じて軽く頭を振り、意識を薙ぎ払う。
駄目だ、深読みをしてどうするんだ。
ここは学校で今は放課後で、多くの生徒がいる森の広場なのだから。
大好きな君に名前を呼ばれるのは好きだが、逸らされ続けるのは好きではない。
焦らされるのにも我慢の限界があるし、理由が分からないだけにもどかしい。
怪しい・・・君は絶対に何か悪戯を企んでいるんだ、好奇心いっぱいの輝きがそう訴えるように。
だが心の中にあるものが、何かを察知してむずむずと疼き出すのは何故だろう。
相変わらず笑顔で俺を見つめる君に、言葉にならない高揚感が、驚きや喜びの前兆を知らせてくれる。
勝手に期待して落ちないように、とにかく落ち着かなければ。さすがに三度目は無いだろうし・・・。
高鳴る鼓動は深呼吸で整え、踵を返して一歩を踏み出したその時。
今までになく強く俺を呼んだ香穂子の声が聞こえたと同時に、腕にぶつかる軽い衝撃を感じた。
「待って、蓮くん!」
「香穂子、いい加減にし・・・・・」
「へへっ、捕まえた」
「え!?」
肩越しに振り返った瞬間、言い終らないうちに飛びついた腕へしがみつき、背伸びをした香穂子の顔がぐっと近付く。大きな瞳の輝きに吸い寄せられ、動きも呼吸も時間さえも止まる。腕に絡みつく指先へスローモーションのように、きゅっと力が込めれられて・・・頬に柔らかく温かなもの・・彼女の唇が重なった。
触れるだけだけど、しっかりと確かめるように長く。
名残惜しげに温もりを残しつつ唇と腕がゆっくり離れる中、驚いて目を見開く俺映す潤んだ君の瞳。
振り向きざまのキスなのだと気づきた途端、唇が触れた場所が熱く疼きはじめ、火を吹いてしまいそうだ。
今の俺は耳まで赤くになっているのだろうが、大胆な事をした香穂子も、負けないくらい真っ赤になっている。
もじもじと恥しそうにペットボトルを両手で握り締め、時折こっそり上目遣いに様子を伺うのが堪らなく愛しい。
やってから恥しさに気づいたのか、それとも俺の熱さが移ったのか・・・恐らく両方だろうな。
天羽さん辺りがみていたら大変な事になるのに。後先を考えず、気持ちに真っ直ぐな香穂子らしい。
出かかった諌めの言葉は飲み込み、恥しさを隠して笑みを浮かべる火照った頬に、そっと手を伸ばして名前を呼んだ。森の広場だという事も忘れて君しか見えない俺も、同じかも知れないな。
「香穂子がずっと呼びかけていたのは、その・・・これのキスがやりたかったのか?」
「うん・・・そうなの。大好きな人の名前を呼んで、振り向きざまのほっぺにキス。あのね、初恋ドリンクのTVCM見たらときめいちゃって、一度やってみたかったの」
「なら、言ってくれれば良かったのに」
「だって蓮くん、初恋ドリンクの話しするといつも照れ臭いっていうし。キスしたいなんて私から言うのはもっと恥しいもの。こういうのって突然の驚きが大事だから、内緒にしてたの。からかっていたんじゃないよ、キスしたかったのは本当なの・・・ごめんね。もしかしたら、嫌だった?」
そこでようやく、点と点が一つの線で結びついたんだ。
なぜ気がつかなかったのだろう、あれほど香穂子に刷り込まれていた結末だというのに。
香穂子がペットボトルを持っていたか、俺の名前を呼んでも知らぬ振りをしていたのか。
君が描く恋心・・・叶えたいと憧れ願う大切なもの。そう、これこそがCMの結末と同じだったからなんだ。
「君からのキスは大歓迎だが、イタズラは勘弁してくれ。名前を呼ばれたら君のキスが待っていると、そう想ってしまうから」
「大丈夫! 初恋ドリンクはレモンティーだけじゃなくて、ミルクティーとストレートティーがあるんだよ」
「他にもCMがあるとは知らなかた。やはり・・・その、同じように他のCMにもキスがあるのか?」
「うん! ちょっと大人っぽいストレートとか、甘く溶けちゃいそうなミルクティーも素敵なの〜。恥しいけど頑張るから、楽しみにしててね!」
「は!?」
それは飲み物の事だろうか、いや違うな・・・美味しいではなく素敵だと言ったのだし。
問いかけようとした矢先に、無常にも下校時間を知らせるチャイムが鳴り響く。するりと腕から抜け出した香穂子は、また正門でねと手を振り慌しく駆け出してしまった。
あっという間に小さく消えてゆく背中を見送りながら、緩んだ頬が止まらない。
機会を伺い緊張しながら待っていた彼女の想いが、愛しさとなって羽根のように俺を包んでくれる。
香穂子のはしゃぎようからみると、頑張るというからには君からくれるキスなのだろう。
それは俺も楽しみだ、この後は一瞬たりとも油断が出来ないな。
君のキスは無邪気なイタズラと共に、突然やってくるのだから。