「そういえば私たちって、喧嘩しないよね?」
いつもと変わらない、けれども隣に君がいる。それが堪らなく幸せだと感じる朝の登校風景。
何気ない会話を交わしながら登校する生徒達の波に乗り、正門を潜り抜けたところで、隣を寄り添い歩く君が、ふと思い付いたようにそう言った。
「・・・喧嘩?」
「うん。だってほら・・・仲が良いほど喧嘩するって言うじゃない。でも私たちって喧嘩しないな〜と思ったの」
「・・・香穂子は喧嘩がしたいのか?」
「そういう訳じゃないけれど、お互いに気持や考え方とか、本音をぶつけ合ってる気がするじゃない」
喧嘩がしたいなど、不思議な事を言うんだな。
意味を図りかねて香穂子をじっと見つめ、思わず眉根を寄せながら考え込んでしまった。
俺を見上げる彼女の大きな瞳は、透明な朝日を受けて眩しく輝いており。
真っ直ぐに向けられる純粋さが伝えてくるのは、喧嘩という行為がしたいのではなく、彼女にしてみればもっとお互いを深く知りたいからなのだろう。喧嘩した事がないから、どんなものなのか興味がある・・・というのも嘘ではない気がするが。
「喧嘩しないと言うより、俺達はいつも、喧嘩にまでならないのではないか?」
「私が一方的にぶつかっていって、蓮くんが受け止めてくれるんだよね。いつも宥めたり、聞き役に回ってくれるもん。私ってば、ちょっと大人気ないかも・・・」
「どんな時も真っ直ぐなのは、香穂子のいいところだと、俺は思うよ」
香穂子は香穂子のままでいてくれ。真っ直ぐに向かってくる君を受け止めるのが、好きだから。
自己嫌悪に陥ったのか、う〜と唸る彼女に微笑めば、頬が赤く染まっていった。
「気持や考え方をぶつけ合っても、お互いを理解して歩み寄るから、喧嘩になる前に丸く収まると思う。それにどんな理由であれ、気分の良いものではない。しないに越した事はないだろう」
「確かに蓮くんの言う通りだね〜。上手くバランスは取れているのかな、私たち」
そう言って香穂子は俺を見上げて、喧嘩しないで仲が良いのが一番だよね、とにこやかに微笑んだ。
俺もそれでいいと思う。喧嘩したら君も俺もお互いが身も心も傷ついて、きっと生きた心地がしないだろうから。
「蓮くん。これからも、喧嘩しないで仲良くしようね」
「そうだな・・・よろしく頼む。じゃぁまた、放課後に」
音楽科校舎と普通科校舎との分かれ道に来た所で、立ち止まる。
ここで互いの校舎へと別れるから、暫く彼女とは会えなくなってしまう。寂しい心を抱えつつ、放課後に練習室で会おうね〜と、手を振りながら背を向ける彼女に小さく手を振り返したところで、ハタと思い出した。
そうだ、今日は・・・。
「香穂子、待ってくれ!」
「蓮くん、どうしたの?」
立ち止まって振り返る香穂子の元へ駆け寄ると、キョトンと不思議そうに俺を見つめてくる。
「今日は久しぶりに家族が揃うから、授業が終わったらすぐに帰ってこいと言われていたんだ。すまない、放課後は一緒に練習できないんだ」
「ううん、気にしないで。寂しいけれど、今日は一人で頑張るよ。明日また一緒に練習できるかな?」
「あぁ・・・だがもしかして、下校時間の6時まで残るつもりなのか?」
「うん、だって学校でしか練習できないんだもん。今まで苦手だった所、今日中におさらいして明日ビックリさせてあげるね」
満面の笑顔で自信たっぷりに言う香穂子に、まさか・・・と悪い予感が脳裏を過ぎる。
一度決めたら良くも悪くも、テコでも考えを変えない香穂子だ。その信念の強さは、尊敬に値すると俺は思う。
ただし、時と場合による。どうか今回ばかりは彼女の頑固強さが現れませんようにと、祈るばかりだ。
表情も口調も、努めて優しく穏やかに語りかける。
「香穂子、今日は早く帰るんだ」
「なんで!? 練習するなって蓮くんらしくないよ」
「残るなとは言ってない。そうではなくて・・・冬場は暗くなるのが早から、暗くなる前に、頼むから少しでも早く帰って欲しいんだ。暗い中一人では危ないだろう?」
「大丈夫だよ、家は近いし」
「そう言う問題ではない、香穂子が心配なんだ。本当は俺が君を家まで送りたい所だが、そうもいかないのだから」
ただでさえ最近、学校の周囲で、良くない輩が出没するという話も頻繁に耳にする。
香穂子に何かあったらと思うと、考えただけで血の気が引いて気が遠くなりそうだ。
「練習したい君の気持も分かる・・・俺もとても嬉しい。けれども、今日は早く帰るんだ。その分、明日取り戻せるように俺も協力するから・・・」
「も〜っ蓮くんってば、本当に過保護すぎるほど心配性だね。私は大丈夫だから」
「君が無防備すぎるんだ!」
大丈夫と無邪気に笑いかける香穂子に僅かばかりの頭痛を覚えて、前髪を書き上げつつ額を押さえた。
一体何を基準に、自分は大丈夫と言い張るのか。
君には人を惹きつける魅力があるのだから、もっと自覚して欲しいと、こんな時ばかりは切実に願ってしまう。
俺にだって譲れないものはある。君に関しては妥協する事も引くこともできないんだ。
愛しく思えばこそ・・・大切だからこそ・・・心配で堪らないのだから。
なのに君は話を聞こうともしない。どうしたら、俺の気持が分かってもらえるだろうか。
大きく溜息を吐くと、香穂子の細い腕を強く掴み、彼女の目の前に掲げるように持ち上げた。
多少荒いやり方だが、仕方が無い。
「・・・っ、蓮くん腕・・・痛いよ・・・放してっ!」
「俺の手でさえ振りほどけないのに、何かあったらどうする?!」
「私は残るよ、絶対に帰らない」
「香穂子っ、何を意地になっているんだ!」
「蓮くんの分からずやっ!」
なっ・・・! 分からず屋は香穂子の方だろう?
必死になるあまりに冷静さを失っている心には、君の声どころか俺自身の声さえも届かなくて。
限界を迎えていた俺の心の引き金を、君が引いてしまった。
つい、カッとなってしまったんだ。
戒めるように強く握って目の前に掲げていた彼女の手を、静かに離す。
駄々をこねた子供のように、真っ赤に染めた頬を膨らませて俺を睨んでいる香穂子の瞳を、真っ直ぐ射抜く。
嵐の前の静けさが、辺りを包んだ。
「・・・・・っ、勝手にしろっ!」
「・・・・・!」
鋭く吐き捨てるように。
滅多に荒げる事のない俺の声を聞いて、香穂子が一瞬びくっと身を竦ませた。
俺の瞳に射抜かれたまま見つめる彼女の表情が悲しそうに歪み、大きな瞳に光るものがじわりと浮かんで、いっぱいに溢れてくる。零れ落ちないように、唇を強くかみ締めながら・・・・・・。
俺に何かを伝えようと、訴えようとして縋るような視線を向けると、力尽きたようにしゅんと項垂れた。
しまった・・・我を忘れて、強く言い過ぎてしまった!
慌てふためき、一歩踏み出して項垂れる香穂子近づいて、声をかけようとしたが時既に遅く。
一度口から出た言葉は、二度と俺の口へ戻る事はなく、刃となって胸へと突き刺さっていた。
君の心にも・・・俺の心にも・・・・・・見えない傷口から、とめどなく流れ落ちる雫。
君を思えばこそで、傷つけるつもりは無かったのに。
駄々をこねた子供みたいだったのは、俺とて同じだったのだ。
「すまない・・・・その・・・今のは・・・」
「・・・勝手に・・・するもん・・・・・・・」
はっと我に返ると、気まずい僅かな沈黙の後に耳に届いたのは、聞き逃してしまいそうな程に消え入りそうな、か細く震える声。じっと俯いたまま佇んでいた香穂子が避けるように数歩後図さり、くるりと背を向ける。
「あっ・・・香穂子!」
駆け出す香穂子を引きとめようと伸ばした手が肩をすり抜けて、虚しく空だけを掴み。拳を強く握り締め痛む心を抱えたまま、俺を振り返ることも無く普通科校舎へと消えてゆく小さな背中を見送った。
つい先程まではオレンジ色の黄昏空だったのに、見上げれば藍色の空に輝く冬のオリオン座。
最終下校時刻の迫った正門前は下校する生徒の数もまばらで、吐く息の白さだけが浮き立って見えた。
ファータ像に寄りかかりながら右腕にはめた腕時計を見れば、尽きる事の無い大きな溜息が溢れてくる。
もう・・・どれくらい待っただろうか。
既に家に帰っているのなら、それでもいいと思う。
だが、彼女のことだ、もしまだ学校に残っているとしたら・・・。
それでも俺は、現れないかも知れない彼女を待っている。
喧嘩しないと、朝この場所でお互い言ったばかりなのに。
きっかけは、本当に些細なものだったと思う・・・なぜこんな事になってしまったのだろう。
「蓮くん!?」
「・・・・・・!」
心の底で待ち望んでいた声に呼びかけられてハッと我に返ると、目の前には大きく目を見開いた香穂子が佇んでいた。居るはずの無い、信じられないものを見るような表情で驚いている。彼女もまさが、俺が待っている訳が無いと思っていたのだろう。微かだが、驚きの中にホッと安堵したように緩んだ表情が浮かんでいて、涙が込み上げそうになった。
「・・・香穂子」
「蓮くん。お家に帰ったんじゃ、無かったの?」
「帰ったよ・・・でも、戻ってきた。・・・やはり、最後まで残っていたんだな」
「・・・わざわざ、お説教言いに戻って来てくれたわけ?」
お互いにハッと口をつぐみ、唇をかみ締めた。
違う、そんな事が言いたかったのではない。
どうして素直になれないのだろう・・・と。
心の隙間に吹き込む寒さを伴った気まずい沈黙が、重い宵闇となって俺達を包み込む。
言わなければ・・・。
ぎゅっと両手の拳を握り締めると、一歩前へ踏み出し、今にも泣きそうに歪む香穂子の瞳を真摯に見つめる。
「すまなかった・・・・」
「蓮くん?」
「きつく、言い過ぎた。君の話を聞こうとせず、俺の意見ばかりを押し付けて、君を泣かせてしまった。謝らなければと、朝からずっと後悔してたんだ」
別れ際の泣き顔がずっと脳裏から離れずに、俺の心を攻め立てた。心臓を握りつぶされるような苦しさは、香穂子が抱える心の苦しみ。当然の罰なのだと、罪悪感に苛まれながら長い一日を過ごした。
「ずっとここで、私の事、待っててくれたの?」
「いや・・・今、来たばかりだ」
「嘘・・・・」
悲しそうにふわりと微笑むと、手袋を外してコートのポケットに仕舞い、ゆっくりと俺の元へ歩み寄ってくる。腕を伸ばせば抱き寄せられるほど・・・身体が触れるほどに近く。そっと両腕が伸ばされ、白く柔らかい手の平が俺の頬を包み込んだ。凍てついた頬を溶かす優しく温かい感触が、凍った心までと溶かしてくれるようだ。
「蓮くんのほっぺ、こんなに冷たいじゃない。風邪引いちゃうよ!」
「俺はこれくらいでは、風邪ひかないよ。香穂子が辛い思いをした事に比べたら、なんとも無い」
「私こそ、ごめん・・・ごめんね。つまらない意地張って、蓮くん困らせちゃったりして。私を心配してくれてるんだって、ちゃんと分かってたのに。凄く嬉しかったのに・・・・素直になれなくて。ごめん・・・なさい・・・」
「もう、いいから・・・」
頬を包んだまま見上げる大きな瞳に涙が溢れ、透明な光る雫が頬を伝ってゆく。言葉を詰まらせる彼女の背に腕を回し、そっと抱き寄せた。優しく、けれども強く、想いの全てを伝えるように。
俺が香穂子を抱き締めるのと同時に、彼女の手も俺の背に回され、互いに求めるように強く縋り付いて来る。ごめんね・・・と、胸の中で何度もしゃくり上げる彼女に泣き止んで欲しくて。笑顔を見せて欲しくて。
頭を手の平で覆い包みながら、ゆっくりと労わるように髪を撫でてゆく。
穏やかな呼吸と同じ速度で、ゆっくりと・・・・。
暫くすると大分気持も呼吸も落ち着いたようで、大人しく身体を預けてきた。柔らかさと心地良さに浸りながら、微笑を向けて優しく問いかける。それよりも練習はできたのか?と。
胸の中で思いっきり泣いたのが恥ずかしいのか、おずおずと照れくさそうに見上げると、まだ目元と鼻先に赤みの残る顔が小さく微笑んで、ふるふると力なく首を横に振った。
溜息を吐きながら、何度も弾いては辞めての繰り返しだったのだと。
「一人だと全然楽しくなくて、寂しくて。それよりも、蓮くんに嫌われたらどうしようって、不安でいっぱいだったんだよ。練習どころじゃ・・・無かった。でも練習するって言った手前、帰る訳にもいかなかったし、謝ろうって連絡しようにも、お家の用事じゃ迷惑かなって・・・時間が立つほどに、苦しかった」
「辛い思いをさせて、すまなかったな」
「ううん、私だけじゃないもの。蓮くんこそ、辛かったでしょう?」
視線が絡むと、どちらからともなく、はにかんだように小さく笑いが零れる。
君も俺も、同じ事を想っていたのだな。
仲良くしていられるのも、喧嘩してすぐ仲直りできるのも、その想いと素直で真っ直ぐな心のお陰なのだろう。
どちらも、君が俺にくれた大切なものなのだから。
腕の中の香穂子がきょろきょろと周囲を見渡し、ちょうど正門前に誰も生徒の人影が無くなったのを見て、じゃぁ仲直りのしるしに・・・そう言って少しばかり背伸びをした。
ふわりと、ほんの一瞬だけ重なる彼女の唇。
では喧嘩はもうお仕舞い、これで仲直りだな。
目元を柔らかく緩ませると、今度は俺からも香穂子の唇に、触れるだけのキスを贈った。
ゆっくり身体を離せば、あれほど硬く凍っていた心も身体も、すっかり君がくれた温かさで溶けていた。
「もう時間も遅い。家まで送らせてくれないか」
「いいの、蓮くん? お家のご用は大丈夫なの?」
「あぁ、心配ない。香穂子と仲直りしてこなかったら家には入れないと、家族に怒られてきたから」
そわそわと落ち着き無く時計ばかりを気にする俺を見かねて苦笑しながら、祖父母や父も母も、私たちの事はいいから行ってきなさいと、快く送り出してくれたのだ。
困ったように微笑むと、そ・・・そうなんだとごにょごにょと口篭って手を持て遊びながら、照れて頬が真っ赤に染まってゆく。さぁ、帰ろう。そう言って手を差し出せば、嬉しそうに頷いて手の平が重ねられ、しっかりと強く指先から絡められた。共に歩きながら、ふふっと小さく笑った香穂子が、俺の顔をひょいと覗き込むように見上げてくる。
「これで蓮くんも、お家に帰れるね。良かったね」
「ありがとう。香穂子のお陰だ」
先程までは冷たく感じた漆黒の空に輝く白い星空が、今は見守るように温かい。
「喧嘩はこりごりだよ。喧嘩するほど仲がいいって言うけど、喧嘩してみたいなんて、もう絶対言わない」
「俺もこんな思いをするのも、君にさせるのも、二度と御免だ。君が言った通り、喧嘩せずに仲が良いのが一番だな。俺達なら、きっとそれが出来る」
「いつも優しい蓮くんが、本気で怒ると凄く怖いって、初めて知ったよ。また新しい蓮くんが見つけられたかな」
「嬉しいけれども、そう頻繁に見せたいものじゃないな。俺も見つけたよ、香穂子に敵わないものをまた一つ。君の泣き顔は、俺にとって最大の弱点だという事を」
やっと・・・今日初めて見る事が出来た、香穂子の笑顔。
やはり君には笑顔でいて欲しいと、心からそう思う。
新しく見つけた事や学んだ事、乗り越えて身も心も一つ大きくなった気がするけれど。
喧嘩した俺達が、君が言うように、もっと仲良くなれたのかどうかは・・・。それは手の平から伝わる温もりと、寒さを忘れさせてくれる甘く絡み合う視線が、深まった想いの在り処を教えてくれた。
まるで厳しい寒さの後にやってくる、麗らかな春のように優しく暖かで。
苦い薬の後に待っている、口直しのお菓子のように、とびっきり甘く。