愛する君に幸多かれ

放課後の森の広場は多くの生徒達が集っており、陽気な賑やかさに満ちている。そんな様子を横目に見つつ通り過ぎ、少し離れた静かで日当たりの良いベンチを見つけて腰を下ろした。


待ち合わせ場所を変えた事を伝えようと携帯電話で香穂子宛てのメールを打ち、送信ボタンを押す。
この携帯が鳴るのが先か、それとも彼女がここへ来るのが先か・・・。

息を切らして走ってくるのか、俺を驚かそうと突然やってくるのかと想いを馳せながら待つ時間さえも楽しくて。
送信完了のメッセージを確認してディスプレイを閉じかけたところ、ふと映った自分の顔が緩んでいるのに苦笑しながら、閉じた携帯をジャケットのポケットに仕舞い込み、胸に宿った温もりごとそっと握り締めた。




香穂子の訪れを待ちながら、ふと見上げる空は陽もまだ高く、少し白く霞がかった春独特の青空が広がっている。眠気を誘われてしまうのんびりとした陽気に、太陽も暮れる事をすっかり忘れてしまったかのようだ。
絶え間なく形を変えながらのんびり流れていく雲を眺めるこんな時は、以前より陽が長くなったのだなと、一日の長さを改めて感じる瞬間だ。

ついこの間までは、授業が終わって放課後になればオレンジ色に広がる黄昏空が家路をせかし、君と会える時間の短さにお互い心を痛めていたというのに・・・。今では少しずつ長くなった陽の分だけ、君と一緒にいられる時間が長くなった。空が明るくて、暖かい・・・ただそれだけの事がこんなにも嬉しくて、心弾んでしまう。


一日を終えたとはいえ、ここに集う皆が疲れを見せるどころか、楽しげに弾んでいるように見えるのは、辺りが充分に明るいせいもあるのだろう。陽が暮れるまでの残りの時間をどう過ごそうかと、心浮き立つ気持が伝わってくる。彼らの気持は良く分かる・・・俺もそうだから。





今が盛りを迎えた爛漫の春。
何時の間に春になっていたのだろうかと・・・・もう春なのだなと、しみじみ思う。

春の足音は冬の間から始まっていたように、俺が気付かない間にもひっそり忍ぶように少しずつ俺達の元に来ていたのだ。ほんの少しの光を見つけて一生懸命背伸びをしている健気な花や木の芽のように、様々な春の息吹が呟いたり囁いたりして、それぞれが趣向を凝らして春が近いことを教えてくれた。


春をもたらす予感が何時しか確信となるように、それは君が好きだと・・・俺の心の中を占める君への想いに気が付いた瞬間と似ているように思う。

例えば君が奏でる優しいヴァイオリンの音色が弓となり、俺の心の弦を震わすように・・・。
絡む視線やふとした瞬間に触れ合う指先、心に染み入る交わす言葉、真っ直ぐ向けられる瞳と笑顔を受け止めた温かい心地良さなど・・・。

聞き逃してしまいそうな音であっても、不思議とそういった予感や気配は敏感に感じる事が出来るのだ。


瞳を閉じ耳を澄まして、ひっそりと俺に囁く春の声に耳を傾けてみよう。遠くから忍び足でそっと近づいてきたけれど、いつしかその足音はだんだん軽やかになってきて・・・・ほら、俺の直ぐ側に。




くすくす・・・と楽しげに鳥が囀るような笑い声が耳元をかすり、ふと瞳を開けて視線を向ければ、俺の隣に座る香穂子の姿。彼女は膝の上に手を置き、にこにこと微笑みながら俺を見上げている。
彼女に言葉をかけようとしたが、いつの間にかに頬も口元も目元も・・・俺の表情の何もかもが思いっきり緩んでいた事に気が付いた。先ほど送ったメールといい、君を想うと自然に心が緩んでしまい、それがどうしても押さえられずに顔にも出てしまうようだ。


しかしひょっとして、こんな俺を君はずっと眺めていたのだろうか?
そう想うと何やら無性にくすぐったくて、照れくさくなってしまう・・・何しろ想いを馳せていた本人にずっと見られていたのだから。顔も身体も急に熱さを増したのは、日当りの良さのせいだけではないかも知れない。



「香穂子・・・来ていたのか。すまない、少しぼーっとして気が付かなかった・・・」
「蓮くん、メールありがとう。返事しようかと思ったけど、ちょうど用があって近くにいたし驚かそうと思って、そのまま来ちゃった。最初はね、あまりにも静かだったから、温かいお日様の下で寝てるかと思っちゃったよ」
「急に外に呼び出してすまないな、練習室がいっぱいで取れなかったんだ」
「ううん、気にしないで。私こそ、いつも蓮くんに頼ってばかりでごめんね、いつもありがとう。こんなにいいお天気なんだもん、部屋の中に籠っているのは勿体無いよ。私たちだけじゃなくきっとヴァイオリンも、気持いい〜って喜んでいると思うよ」


ベンチの足元にヴァイオリンケースと鞄を置く彼女は、蓮くんおまたせっ!とそう笑顔で俺を真っ直ぐ振り仰ぐ。
彼女が向ける笑顔・・・それだけでふわりと温かい春風が巻き起こり、俺を取り巻く周囲の自然と空気までも優しく柔らかく包み込んでくれる。君が見せる満開の笑顔は、丁度今のように盛りを見せる爛漫の春のようだ。


「香穂子・・・その・・・いつから、ここに?」
「ちょっと前からなの、黙っててごめんね。ふふっ・・・蓮くんが幸せそうに微笑んで空を見ていたから、私もそんな蓮くんをず〜と眺めていたかったの。楽しそうに何を思い浮かべているのかなって、考えていたんだよ」
「そ・・・そうか・・・・・・」
「蓮くんのお陰で、私の心も身体も日向ぼっこしているみたいに、ポカポカしてきちゃった。ねぇ、空を見ながら何を思い浮かべていたの? 凄く楽しい事?」
「そうだな、俺にとって楽しい事・・・とても幸せな事には違いない。香穂子は知りたいか? 君を待ちながら、俺が何を想っていたのかを」
「えっ、教えてくれるの?! もちろん知りたい!」


私の予想通りだといいな〜とそう言って、顔を綻ばせてワクワクしている香穂子へと座る距離を詰めると、それがお互いの合図のように彼女もちょこんと身体を寄せてくる。身体を寄せ合いながら温もりを伝え合い、少し背伸びをして肩先に頭を擦り付けながら俺を振り仰ぐ様子は、まるで甘えて擦り寄る子猫のようで。触れ合う程に近い大きな瞳を、真上から覗き込むように微笑を乗せて見つめた。



「少し前に比べて随分陽が伸びた・・・春なんだなと思っていたんだ。君と一緒に過ごせる一日が、長くなったと」
「あのね、私もそれ思ってたの! 下校時間が過ぎても明るいし夕方になってもまだ温かいから、ちょっと寄り道できるでしょう。日が沈むまでは、蓮くんと一緒にいたいもの。冬の間寂しくてお互い今まで我慢してた分を、これからいっぱい取り戻さなくちゃね!」
「満開に咲き誇る桜や暖かさ、陽の長さでようやく春の盛りを感じたけれど、季節は突然変わるものではない。冬の間から少しずつやってきていたんだ。それが・・・恐らく、俺の表情が緩んでいた最も大きな理由。春の訪れは、君を愛しく想う気持に似ていたから」
「えっ・・・わ、私!? 春と私が、どうして?」
「気が付いたら香穂子の事で俺の頭も心の中もいっぱいだったなと・・・・。君が好きだと、その想いは突然訪れたように感じていたけれど実は違う。俺が気付かないうちから少しづつ、想いが積み重なっていたのだな。きっと心から溢れるまでは、気付かないものなのかも知れない。そう思っていたら、隣に君がいた」


そう・・・静かに忍び寄る彼女は、気付いたら俺の側にいたのだ。
笑顔を浮かべて見守る君自身がまるで春のように、俺へと運ぶ想いのように・・・。
あまりの偶然とタイミングに、目の前の君は想いが生み出しだ幻だろうかと驚いたけれど、込み上げる嬉しさはどれ程のものだったか、君は知らないだろうな。


「香穂子の予想は?」
「お、大当たりだよ・・・」
「それでは分からない、君の言葉で聞かせてくれないか?」
「・・・わ、私が早く蓮くんに会いたかったように・・・蓮くんも私の事を想ってくれたのかな・・・って思ったの。浮かべてた微笑と感じる心地良さが、一緒にいる時と同じだったから・・・」



一瞬息が止まったのではと感じる程、照れながらも必死に想いを伝える彼女の言葉が嬉しくて。押さえようも無い熱さにも似た愛しさが心の中から湧き上がり、俺の身体中を隅々まで満たしてゆく。

君へと想いを馳せながらつい緩んでしまう自分が照れくさいと、そう想っていたけれど、例え空間を隔てていても目の前にいる時と同じ想いを向けられる事が、何だかとても誇らしく素晴らしいものに思えた。


背から腕を回し、そっと彼女の腰を抱き寄せながら緩めた瞳で甘く見つめると、初々しい淡い春の陽射しは若葉や草花だけでなく、微笑む彼女の頬もほんのり春色に染め上げてゆく。優しく耳元で囁けば、咲き誇るどの花よりも顔を真っ赤に染めながら、膝の上に置いた手をきゅっと強く握り合わせて俯いてしまう。

嬉しいけど、同じくらいに恥ずかしいよ・・・と。
恥ずかしそうに俯いたまま触れ合っていた腕の肘で俺を突付き、ぽそぽそと囁きながら。






同じ日は一日として繰り返す事無く、色鮮やかに輝き始めた毎日。
香穂子と出合ってから、俺にはたくさんの夢と希望が生まれた。
だがそれは君が側にいてくれるお陰なんだ。


三月の風と四月の雨が五月の花を連れてくるように、季節は常に移ろい巡るけれど、俺に季節を運んでくれるのは、いつだって隣にいる君。一緒に過ごすこの先も、どんな季節を運んでくれるのだろうか?



だが俺も、君の季節を彩り運んでゆく存在になりたりたいと思う。
誰よりも幸せになって欲しい、君の幸せは俺の幸せ・・・君と共に幸せを分かち合ってゆきたいから・・・・。

例え春が過ぎたとしても、彼女の心の中にいつでも温かい春と花の咲く季節をもたらしたいと願うんだ。
温かい陽射しだけでなく、時には心を潤す優しい雨だったり、背中を押す風であったり・・・愛しいその笑顔が絶える事無く輝き続けるように、ずっと。