玄関の扉が閉まるのをもどかしそうに見守る香穂子は、今かまだかとそわそわ肩を揺らしながら待っている。
国外でのコンサートを終えて数週間ぶりに帰宅するのだから、会いたくて待ち遠しかったのは俺も同じ。
タクシーから下ろした荷物たちを運び込み、戸締まりを終えて・・・そんな間も鼓動は高鳴り気持ちが先へと急いでしまう。すぐに飛びつきたいけれどここは少しだけ堪えて、深呼吸をして互いに気持ちを整えなければ。
久しぶりなんだ、まずは顔を良く見せてくれないか?
例えどんな事があっても、こうして出迎えてくれる君の笑顔を見ただけで、俺も同じような表情になっている。固まっていた頬も瞳も緩み、柔らかい気持ちにさせてくれる・・・いろんな表情が大好きなんだ。
「ただいま、香穂子」
「蓮、お帰りなさーい!」
微笑みを注ぎながら腕を広げると、パッと嬉しそうに笑みを弾けさせた香穂子が、子犬のように真っ直ぐ駆け寄ってくる。ぴょんと飛びつき、首に腕を絡めて背伸びをしてくる身体を深く抱きしめ返しながら、届きやすいようにと身を屈めて頭を寄せた。
見つめ合う視線が同じ高さで絡むと、鼻先が触れる近さで「お帰りなさい」ともう一度甘い吐息が微笑んで。
閉じた瞳が合図となって押しあてられるのは笑みを浮かべたままの唇・・・ずっと求めていた柔らかな君の温もり。そう、香穂子がくれるお帰りなさいのキスだ。
たった一瞬でも頬を染めて恥ずかしがる香穂子からくれるキスは貴重だし、唇からたくさんの想いや言葉が流れ込んで来る。続きをねだりたくなる頃にすぐ離れてしまうのが残念だが、挨拶のキスならば仕方が無い。このまま離したくない・・・もっと欲しいから今度は俺からも贈ろう。
呼吸も舌も絡め取り全てを奪い、俺の中にある熱さを伝え、唇を深く重ねる「ただいま」の挨拶を。
「・・・んっ」
空白の時間を埋めるように、僅かな時間も惜しくて性急に求め合いながら、唇の合間から零れる吐息も愛しくて呼吸ごと全てを奪いたくなる。帰宅を心待ちにしていた嬉しいひと時に、あれを伝えよう、これをしようと。
いろいろ考えていた言葉も何もかも感情の渦に吸い取られ、結局は君だけしか見えなくなってしまうんだ。
それは香穂子も同じようで・・・というより俺がそうさせてしまったのだが。頬を染めて半ば意識を飛ばしかけながらも、崩れ落ちないよう背にしがみつきながらぼんやり俺を見つめていた。
潤んで蕩ける瞳と色香を漂わせ始めた表情、背に感じる微かな指先の力に、熱さが込み上げ鼓動が高鳴るのを、なけなしの理性で必死に押し留めるしかない。
しかし・・・まだここは玄関先じゃないかと、自分に苦笑したくなる。
帰宅の挨拶をするだけで、いつも随分と長い間この場に留まっている気がするのは気のせいでは無いな。
早く部屋に行こうと思うのだが、抱きしめた身体を離しがたくて動けないのが、正直な気持ちだ。
おかえりなさいと、そう香穂子に出迎えてもらったばかりなのに・・・ただいまと伝えるだけで、毎回鼓動が張り裂けそうになる。いい加減そろそろ慣れなくてはと思うが、君が愛しいから、これからもずっと続くのだろうな。
「もう〜蓮ってば! これは挨拶なのを忘れちゃ駄目って、いつも言ってるのに。いつでも真っ直ぐ心に届く想いは嬉しいけど・・・力が入らなくなちゃうよ。コンサートで家にいなかった間に、お話ししたい事がいっぱいあるし、今日は腕をふるって夕ご飯つくったんだからね。それに・・・ほら、えっと・・・まだ夜は長いでしょう?」
「すまないな、嬉しくて止まらなくなってしまうんだ。それに、一言の挨拶にも気持ちを込めるのは大切だと思うんだが」
「それはそうだけど、程度の問題というか。挨拶ってよりも本気なんだもん、でももちろん嬉しいよ。私ね、玄関の扉を開けて蓮を出迎える瞬間が、一日の中で二番目にドキドキするの。心の中に秘めている熱いものに飲み込まれて、このまま流されちゃいそうなんだもん」
「二番目・・・という事は、一番目は何なんだ?」
「へっ!? それは夜にって・・・やだ言わせないで! 蓮には内緒なの!」
見えない火や湯気を噴き出しているのか、言いかけた自分の言葉に真っ赤になって口を尖らしている。
知っているくせにと、聞き逃してしまうような小さな呟きが聞こえたような気がしたけれど、隠した答えは俺が想像した通りだと思うから黙っていよう。言ったらもっと恥ずかしがる君は、顔を背けて拗ねてしまうだろうから。
赤い髪に指先を絡めつつ滑らせ頬を包めば、手の平から熱さと鼓動が伝わってくる。なるべく平静を装いながらようやく会えた嬉しさと感触を指先の一本一本で確かめ、見つめる大きな瞳に微笑みを注ぎ込み。ただいまともう一度伝えた言葉には、押さえきれない吐息が混じっていた。
国内や時には国外のコンサートツアーなどで長期間離れていたりすると、帰宅した時にこのまま香穂子を抱き上げ、寝室に直行した事もあったな・・・と。玄関先でちゃんと堪えている今の自分と、一緒に暮らし始めたばかりの比とべて、自分で思いだしておきながら今更のように照れ臭さが込み上げてきた。
彼女が望むように触れるだけのキスを贈れば、柔らかく掠める羽のような感触に、腕の中の香穂子が心地良さそうに頬を綻ばせた。だが少し物足りないなと思うのは我が儘だろうか?
「あの・・・ね、えっと・・・軽くチュッって一度だけだと足りないっていうか、やっぱりもっと欲しいかな」
「・・・・・・っ!」
赤く染めた顔でへへっと悪戯っぽく笑った香穂子は、上目遣いにもじもじと前に組んだ両手をいじり出す。
瞳を閉じて背伸びをして、んーと唇を差し出すしキスをねだる姿は呼吸が止まる程に愛らしい。
挨拶だから・・・と俺を諫めた君だって、結局はこうしてねだってるのを気づいているのかいないのか。
だから互いに止まらなくて動けなくて、俺たちの挨拶はずっと続いてしまうんだ。
ではもう一度と触れる寸前の唇で甘く吐息で囁き、数度啄むキスを贈るれば、クスクスと楽しそうに囀る声に煽られて、途中で止めるつもりが頬や首筋まで唇が這い回りだした。
「ふふっ、気持ちいい〜くすぐったいよ」
日々を重ねるに連れて情熱や欲だけに流されず、気持ちを上手くコントロール出来て、互いの思いを共有しあえるようになったと思う。キスは本能的な行為でも、俺たちには大切なコミュニケーションの手段だ。
意思疎通はもちろん、快楽だけでなく、楽しさや癒しなどを得る為に、互いに工夫し合わなくてはならないな。
「香穂子・・・一つ質問しても良いだろうか」
「ん、なぁに?」
「挨拶だからと君は言うけれど、挨拶のキスというのはどれくらいまでを言うんだ? 俺は香穂子に会いたかった気持ちを込めるから、毎回離せなくなってしまう。かといって軽く触れるだけでは、もっと続きが欲しくなるんだ・・・俺も君もお互いに。何度も繰り返しては、挨拶というより会話に近いと思うんだが」
いつまでも玄関先にはいられない、そろそろ部屋に行こうかと促し名残惜しげに身体を離した。
だが伝えた質問にきょとんと目を見開くと、思っても見なかったとばかりに小首を傾げて。人差し指を顎に当てつつ、う〜んと唸りながら答えをひねり出している。そんなに彼女を悩ますほど、難しい質問だったのだろうか?
「もちろん挨拶には気持ちがこもっていなくちゃ駄目なの。例えば朝起きて、蓮が半分目を閉じた寝ぼけ眼のまま、ついでに私のほっぺを擦るのはおはようのキスじゃないんだよ。ん〜軽くても駄目だし深くても困っちゃうし、よく考えると難しいよね」
「・・・・だから、朝は特にやり直しがあるのか。だが俺たちは俺たちの挨拶で良いと思うんだが」
「でも会話か〜そうかも知れないね。おはようからお休みまで、挨拶ごとにいろんなキスがあるもんね。どれも同じのが一つとして無いんだよ。音楽でも会話が出来るように、キスでもお話が出来るのは素敵だよね」
「じゃぁ言葉は使わず、キスだけで会話をするのはどうだろう?」
「えっと・・・でもね、キスだけっていうのは難しいと思うの。やっぱり言葉でも伝えなくちゃ。それにね、唇が熱くて蕩けちゃうよ。今だって私さっきのキスで・・・・」
赤く熟れた唇を手で触れて、じっと訴え見つめる瞳に吸い込まれてしまう。
香穂子が伝えたい意志と俺の解釈は違うと思うが、こればかり自分の都合良いように捕らえてしまうんだ。
やはり・・・今回も駄目だな、理性が焼き切れるのも時間の問題。
玄関に置いたままの大きなスーツケースや鞄たちを運ぼうとしていた香穂子は、俺がゆっくり歩み寄ると何かを感づいたのかじわりと後ずさってしまう。さすがに毎回だから、気づかれてしまったのだろうか?
すまないなと心の中で香穂子に詫びつつ、荷物は後で運ぶからとそう伝えて、代わりに彼女を難なく抱き上げた。
向かうのはいつも通り、俺たちの寝室だ。
「きゃっ・・・!」
「会えなかった間の話をこれからゆっくり話さないか? 俺も伝えたい事が沢山あるんだ」
「え!? ちょっと蓮、降ろして〜どこ行くの? 話ならリビングで、お茶のみながらでも出来るでしょう?
私よりも、玄関に置いてある荷物を運ばなくちゃ」
「キスで会話が出来たら素敵だなと、俺もそう思うんだ。だから・・・」
「あれは挨拶のお話でしょう? それとこれは別だったのに〜私動けなくなっちゃうよ」
どんなにお互いを知り尽くしても、気持ちを新しく持ち続けて、挨拶を忘れない二人でいたいと思う。
大切な曲にもあるだろう? 愛の挨拶と。
音色に乗せて想いを届けるように、口づけに乗せて俺たちの想いや言葉を伝え合おう。