合鍵



リビングや寝室には、引越しの業者によって運び込まれた段ボール箱や家具たちが、所狭しと空間を埋め尽くしている。俺が使っていたもの、日本から運んだ香穂子のもの・・・そしてひときわ眩しく輝き温もりを放つのは、二人で暮らすために一緒に店を回りながら選んだものだ。君と俺の色が一つになった新しい樹の香りを吸い込むと、嬉しさとくすぐたさが混ざり合い、緩む瞳や頬笑みが止まらない。


空気を入れ替えるために窓辺に歩み寄り、白い木枠の窓を開け放てば、爽やかな風が部屋を通り抜けた。今までは別々の窓から違う景色を眺めていたが、今日からは君と一緒の窓から、同じこの景色を毎朝毎晩眺めることになる。眩しい光に瞳を閉じて吸い込んだ後に目をゆっくり開けば、窓枠をフレームに見立てた絵葉書のような街の景色が、光の中で広がっていた。

異国での生活も数年たち、この街の景色もだいぶ見慣れたものになったが、香穂子の目には目新しいものばかりだろう。期待とともに不安も湧き上がるが、どんな時でも挫けず前向きに頑張る彼女を、そばで支えるのは俺の役目だと、決意も新たに胸へ秘めた。彼女にとっては、初めて見る景色や触れ合う文化、生活が待っているんだ。




留学という海を越えた数年間の冬を互いに耐え、迎えた心の春。試練の先にある幸せをつかみ取り、共に歩む将来を誓い合ったのは、まだそれ程遠くない冬と春の端境期だったな.。君の左手の薬指に指輪をはめた春の始まりの日に、俺たちの長かった冬もようやく終わったんだ。籍を入れて正式に夫婦になるのは、スケジュールの関係でもう少し先になってしまう。まだ若い・・・そう思う人々もいるだろうが、俺たちはもう充分に待ったと思う。時間の長さなど関係ないのは、音楽で繋がる俺達二人の絆の強さや想いの深が証明してくれる筈だ。君も、そう思うだろう?

互いの家への挨拶を終えば、止まっていた時間が目まぐるしく動き始めた。香穂子は音楽や語学の勉強だけでなく新たな一歩を踏み出す渡欧の準備を、俺はこちらで彼女がヴァイオリンを学ぶ環境を整えたり。手続きや新居を探すためにと、互いに海を越えて行き来をする数ヶ月間が、あっという間に過ぎた印象がする。毎日が速く感じるのは、それだけ充実していることだから幸せだよねと・・・。笑みを浮かべる君が嬉しそうに何度も見返していた手帳の日付は、赤いペンで印をつけた一緒に暮らし始める今日の日だった。


大きな家具は既に運び込まれてあるから、後は荷ほどきをしながら細かいものを配置して行くだけ。だがそれが一番大変なのだが・・・生活用品よりも、楽譜やCDなどが大量に溢れてしまうのは俺も君も同じらしい。


見渡す部屋にまだ慣れない落着き無さを感じるのは、俺の部屋でありながら君の色が感じられるからだろう。君の部屋を初めて訪れた時のような、鼓動の高鳴りさえ感じるんだ。インテリアショップを巡りながら、カーテンや寝具の色は何色にしようか・・・この家具も素敵だと、蝶のようにひらひらと駆け回っていたな。窓辺に置く小物を一つ一つ手に取りながら、香穂子は快適な部屋作りに夢を膨らませていたなと思いだす。

キッチンやバスルームは彼女のこだわりが全面に現れ、リビングや寝室はシンプルな内装と色合いで。考えを出し合い一つのものを作り出す作業や時間が楽しいのは、音楽を作る作業にも似ているからだろう。それだけでなく君と一緒だから・・・寄り添った道の先を共に歩む大切な空間だからなのかも知れない。二人でイメージを重ね描いた俺たちの新居へと引っ越しを終え、一息吐いたのもつかの間。まずは荷ほどきをしなくてはいけないな。せめてリビングに寛げるスペースを作り寝室を整えないと、今晩は食事や眠る場所がなくなってしまうから。





「んしょっ、うんしょ・・・この箱重いよ〜。でも、あともうちょっとでお部屋に辿り着くから頑張らないと。うんしょっ・・って、きゃっ!」
「・・・っ! 香穂子、危ない!」


すぐ近くで聞こえた声に振り向けば、大きな段ボールを抱えた香穂子が寝室のドアを潜ったところだった。抱えた箱のせいで前が見えない彼女は、足元にある荷物に躓きよろけてしまった。片付いていない荷物や段ボールが散乱する部屋で転んだら、怪我をしてしまう。足元にある荷物を避けつつ香穂子の元へ駆け寄ると、崩れそうな荷物を支え持ち、彼女ごと抱くように受け止めた。

長いようで短いほんの一瞬止まった時が再び動き出せば、安堵で深い溜息が溢れてくる。俺が持つと視線で促すと、ごめんね・・・と申し訳なさそうに上目づかいで見上げながらそっと手を離した。君が日本を発つ時から今まで、こんなやりとりが何度交わされただろうか。


「蓮が支えてくれなかったら、段ボールごと私も床へ転がっていたと思うの。怪我しなかったのは蓮のお陰だよ、ありがとう」
「荷ほどきがまだだから足もとに気をつけてくれ、と言いたいが・・・。まったく君は、無理をして重いものを運ばなくていいと言っただろう? 怪我をしたり身体を傷めたらどうするんだ」
「だって私たちのお家なんだよ? じっとしていられなくて自分の手で何かしたかったから、抱えられる小さな段ボールを持ったんだけど・・・ちょっと重かったみたい。でもね、これだけは私の手で運びたかったから頑張るって決めたのにごめんね? 重いよね?」
「重いから俺が持つんだ、君よりかは力がある。作業用に手袋もはめているし、これくらいは平気だ。気持ちは嬉しいが、俺にとっては君の手も大切なのを忘れないでくれ」
「うん、気をつけるね・・・。お引越しが嬉しくて、早くお部屋を作りたいってウズウズちゃうの。手元に置きたいから寝室に運んだんだけど、あっ、その辺に降ろしてもらっていいかな?」
「あぁ分かった、ではとりあえずここに置いておこう。中に何が入っているんだ?」
「これはね、私の宝物だよ」


ふふっと笑顔を綻ばせると、エプロンの前ポケットからカッターナイフを取り出し、器用に合わせ目の段ボールを切ってゆく。彼女も手袋をはめているとはいえ、刃物で怪我をしないかと心配で、一瞬たりとも目を離す事ができない。隣に片膝をついて座り緊張しながら見守っていると、無事にカリカリ刃が戻る音がして、外した手袋と一緒にエプロンのポケットへしまった。


なんだと思う?と期待に輝かせる大きな瞳で俺を見つめ、笑顔を浮かべる君に導かれ心が弾む。君の宝箱がそっと開かれた中にあったのは、たくさんの絵葉書やエアメール、そして数冊のアルバムたち。見覚えがあるのは当然だ、絵葉書やエアメールは、俺が留学中に日本へ残る香穂子へ送ったものだから。息をのみ目を見開いて驚く俺に悪戯が成功したような・・・ちょっぴり自慢げな笑みを浮かべ、宝物でしょう?と小首を傾げ相槌を求めてきた。

宝物か、だから自分の手で運びたかったんだな。言葉にならない熱い想いが込み上げ、心や身体中み満ちてくるのを感じる・・・俺の熱さに交るこの優しい温もりは君の想い。誕生日やクリスマスカードもあるのだと、懐かしそうに瞳を細める香穂子が数枚を取り出し、俺に手渡してくれた。作業のためにはめていた手袋を外して受け取れば、書き記した時の想いや光景までが蘇ってくるようだ。たった一枚の絵葉書なのに、とてもずっしりとした重みや温もりさえ感じるのは不思議だな。これはきっと、俺たちが重ねた歴史の重さ何のだろう。


「離れていた四年間・・・いや、今までずっと大切に保管してくれていたんだな。香穂子の気持ちが嬉しくて、何か言葉を伝えたいのに、たくさん込み上げすぎて上手く形にならない。たった一言では足りないがそれでも言わせてくれ、ありがとう香穂子。形に乗っている自分の想いを、改めて見るの照れ臭いな」
「メールや電話も嬉しかったけど、蓮からもらった絵葉書や手紙は特別に大切な贈り物だったの。大学の休みを利用して私が蓮の所へ行った時の写真もね、アルバムに整理してあるんだよ。こうしていつまでも形に残るって素敵だよね。シンプルな文章や一つ一つ几帳面な文字に、連らしさがぎゅっと詰まってて・・・何度も読み返してた。読んでいるとね、絵葉書の景色や手紙から蓮が語りかけてくるの」
「俺も香穂子から贈られた手紙を読んで同じように感じていた。離れていても傍に感じる温もりに包まれて、君を抱きしめているようで・・・・寂しさに凍えそうな時には、いつも君が俺を温めてくれたんだ」


手にした絵葉書の片隅に、涙で滲んだ跡が数滴残っていたり、何度も手に取った形跡が伺える。俺が送った絵葉書たちを眺めながら君は、人知れず涙を流していたんだな。もうこの手を離しはしない・・・胸が締め付けられる痛みに耐えていると、気づいた香穂子が慌てて手から葉書を抜き去ってしまう。赤く染まった顔で話を逸らそうと箱を探し始め、あれもこれもと取り出した葉書を託してくる。照れ隠しに頬を緩ませていると、どちらともなく見つめ合った視線に頬笑みが生まれた。


「一番古いのは、これかな。高校二年の終業式を終えyr旅立った蓮に、コンサートの写真を送ったでしょう? その時にもらったお返事の絵葉書だよ。とっても綺麗な街の景色と、絵画みたいに可愛い切手が嬉しくて、ヨーロッパに想いを馳せてたな〜懐かしいね。ここから始まったよね、私たち」
「そうだな・・・古いと言ってもたった数年前か、俺たちには長かったが。俺も、君からもらった手紙は全て保管してあるんだ。送った絵葉書と同じ物も自分用に買ってある・・・同じ景色を分かち合いたかったから」
「本当! ねっねっ、私が送ったその手紙とかもこっちに持ってきてる? もしあったら見てみたいの」
「確かこの辺に・・・あぁあった。君の足元にある段ボール箱の中にしまったから、荷ほどきの時に見せようか。これからは同じ窓から同じ景色を共に見ることができるんだな。この消印たちが懐かしく感じられるようになっても、いつまでも初心をわずれずにいたい・・・そう思う」


緩めた瞳で微笑むと、頬笑み返しの優しい花が君の顔いっぱいに綻んだ。交わる瞳と空気が、甘く優しい二重奏を奏でだす。惹かれ合うまま唇を重ねキスをすると、鼻先を触れ合ったまま絡む熱い吐息に、香穂子の頬が赤く染まった。照れくささを隠すようにそわそわと身動ぎ視線をそらすと、目を留めた左手の薬指にへ、愛しそうに眼差しを注いでいる。

心臓に最も近い愛を誓う指に煌めくのは、香穂子の大学卒業の日を待って俺が贈ったダイヤの婚約指輪。
だが君の瞳が持つ、眩しく純粋な輝きには敵わないと俺は思う。


「この指輪を見るたびに思い出すの、ずっと一緒にいようねって誓い合った日の事を。大学の卒業式という節目は、新たな人生の出発の日になったんだもの。やっと寄り添った道を、一人でなく蓮と二人で歩むためのね。蓮がくれた愛のしるし、この光が教えてくれるの。努力をすれば夢は叶う、幸せの始まりを忘れないようにってね。もちろん忘れないよ、どんなにたくさんステージに立っても、毎日が初演の気持ちなようにね」
「始まりの日は君に愛を誓い指輪をはめた日でもあるが、もっと前からあったと俺は思う。魔法のヴァイオリンを手にした君が音楽の祝福を受けた高校生の頃、初めて君と出会った学内コンクールの時から始まっていたんだ。そしてこれからも続く・・・毎日を少しずつ互いに積み重ねながら、そうだろう?」
「蓮・・・」


大きな瞳を潤ませる香穂子の頬をそっと包み、指先で優しく光の滴を拭い去った。緩めた瞳で君だけに向かう頬笑みを注ぎながら、手の平を滑らせ髪をなでる。くすぐったそうに小さくはにかみながら、子猫のように甘えて寄せてすり寄る、そんな君がたまらなく愛しい。このまま抱きしめたいが・・もう少しだけ我慢だな。


「このあまま寄り添っていたいが、せめて寝室だけは片付けないと今晩眠る場所がなくなってしまう。片づけを続けようか、名残惜しいが。そうだ、香穂子へ渡す大事なものを忘れたいた」
「なぁに? 何をくれるの?」
「これを、君に。この家の鍵だ、香穂子用に合鍵を作ったんだ。今日からここは君の家でもあるのだから、受け取ってほしい。俺のスケジュールや都合で正式な手続きや挙式を待ってもらっているが・・・その、気持はもう夫婦だから」
「蓮・・・あのっ、えっと。改めて言うのは照れ臭いけど、今日から一緒によろしくね」


シャツのポケットから真新しい合鍵を取り出し、香穂子に差し出すと、火を噴き出しそなくらい耳まで真っ赤に顔を染てゆく。夫婦・・・もう気持は夫婦だよねと、ごにょごにょ俯きながら呟く香穂子の熱が、俺にも移り頬が燃えるように熱い。照れくささに視線を逸らしてしまいたいが、ともに生活をする最初の大切な儀式だから、心の半分を君に託すように真摯に瞳の奥を見つめ返した。

上目使いでおずおずと両手をおわん形に揃えて差し出した手の平に、彼女のための鍵をしっかり託す。じっと見つめた瞳から、言葉にならない彼女の想いが溢れてくるのを感じる。今何を思っているのだろうかと、尋ねなくとも分かるのは、感じた想いが同じだと共鳴し合うから。部屋に差し込む光ごと両手で鍵を抱きしめ、手の平に捉えた想いを、心へ届けるように胸元へ押し当てた。


「蓮・・・ありがとう。やっとここまでまで辿りついたんだね、今ね、すごく嬉しい。鍵が熱いのは蓮の心の欠片だからかな、それとも私がドキドキしているからなのかな。もらったこの合鍵はきっと、心の宝箱と未来への扉を開く魔法の鍵だと思うの。嬉しさの中に、慣れない外国の生活にちょっぴり不安もあったけど、今日感じた気持ちを思い出せばきっと頑張れるよ」
「魔法の鍵・・・か、ファータが悪戯をしそうだな。いや悪戯でなく、新しいこの部屋での生活と俺たちの音楽に、祝福を与えてくれるだろう。傍にいるという事は当たり前でなく、素敵な奇跡だ。その鍵で扉を開き、これからも互いに成長し合えたらいいな」


潤む瞳で浮かべる精いっぱいの笑顔が、熱く心を震わせた。香穂子・・・と愛しさを込めて優しく名前を呼び、膝をついて座ったまま両腕を広げた。鳥が翼を広げるように、こちらへおいでと眼差しで問いかければ、笑顔の頬がくしゃりと頬が歪む。笑顔と泣き顔が一緒になった瞳に溢れだすのは、冬を溶かす透明な雪解けの雫。新しい鍵と喜びと幸せを語る君の涙ごと、胸に飛び込む柔らかな身体を抱きしめよう。清らかな輝きが、俺の心も透き通る煌めきに変えてくれた。


「・・・うっ」
「どうした? 香穂子?」
「あのね、泣いちゃったのは嬉しくて幸せだったからなの。恥ずかしいなぁ、もう・・・私ってば蓮の前だと子供みたいに素直になれちゃうんだもの。悲しくないから心配しないでね。私がもらったこの合鍵と蓮の鍵と、後でお揃いのキーホルダー買いに行こうね」
「あぁ、そうしよう・・・楽しみだな」


抱きしめた腕の中からちょこんと振り仰ぎ、花のように両手で摘まんだ合鍵を、俺へと掲げ見せてくれた。互いの想いという宝物と秘めた心の扉や、未来を拓く鍵こそが本当の宝物かもしれないな。頬笑みで語りかけながら顔を近づけ、眼尻に残る涙を唇で吸い取った。


二人で暮らし始める今日に君へ手渡した合鍵と、これから着ける揃いのキーホルダ。
輝く新しい鍵のように、眩しい瞳や笑顔の君。
音楽の高みを求め海を離れていたそれぞれの生活が、一つになった大切な記念日を、俺は一生忘れないだろう。