放課後に比べると短い昼休みは、香穂子と一緒だとあっという間に過ぎ去ってしまう。楽しい時ほど過ぎ去るのが早いだけでなく、午後の授業を控えてどこか慌しく急かされるものを感じるからだろうか。一人で過ごす時間は長く感じられるのに・・・。だが音楽科と普通科で校舎を隔てた俺たちにとっては、例え短くても共に過ごせる貴重なひと時には変わりはない。


いつものように香穂子と待ち合わせて昼食を取り、その後は練習室で過ごす昼休み。
ヴァイオリンを片付けながら練習室の壁にある時計を見れば、もうすぐ昼休みが終る事を告げていた。

午後の授業を終えて放課後になればまた会えると分かっているのに、名残惜しさだけが募ってしまい、チャイムが鳴るぎりぎりまで一緒にいたいと思ってしまう。楽器を片付けてどんなに早く切り上げても互いに離れがたくて、許される時間を最大限に使って語り合ったり触れ合ったり・・・。普通科の香穂子の方が遠いから配慮はしているのだが、結局いつも彼女を教室まで走らせてしまう事になる。


だから今日こそはゆとりを持って教室へ戻ろうと、早めに楽器の片付けをしているから余計に短さを感じてしまうんだ。走るのは平気だと・・・もう少し一緒にいようと言い張る彼女を宥めすかして説得つつ、自分にも言い聞かせたのはつい先程。半ば口論のようだっただけに、しぶしぶ納得するなり彼女は機嫌を損ねて口を噤んでしまっている。時計の針を眺めても時が止まる事は無く、小さく溜息を付くと荷物を纏めて立ち上がった。

窓辺に寄り掛かって俺を待つ香穂子と視線が絡めば、笑みを浮かべるもののどこか寂しそうで。拗ねて縋るように真っ直ぐ向けられる眼差しに、ひょっとして逆効果だったのだろうかと、チクリと胸に痛みが刺した。

君に悲しい顔をさせたい訳じゃない・・・辛いのは俺だって同じなんだ。

胸に刺さった消えない小骨が熱く疼き、苦しさに息を詰めて眉を潜める。切ない想いは微笑みの裏に隠して優しく呼びかけると、彼女の表情も窓辺を照らす温かな日差しのようにふわりと和らいだ。

「すまない、待たせたな。じゃぁ、少し早いが教室に戻ろうか」
「うん・・・また放課後に、ここで会おうね。蓮くん・・・さっきは我がまま言ってごめんね。次に会えるまでたった2〜3時間の辛抱だもんね」
「いや俺こそ、急かすような事をさせてすまない。もし怪我をしたら危ないし、いつもぎりぎりで教室に駆け込む君が授業に遅れたら大変だろう? そのせいでもう昼休みに会えなくなってしまったら、俺が困ってしまう・・・。香穂子と過ごす時間には変えられない、君が何よりも大事だから」


向けられる大きな瞳を見つめ返して心に湧く熱い言葉を伝えれば、私もお昼に会えなくなるのは嫌だな・・・と。
僅かに頬を赤く染めてはにかみ、ポツリと吐息のように呟いた。強気で言い張っていた先程までと変わって、急に大人しく素直になった香穂子に俺は一瞬目を見開いたが、可愛いと・・・心に想うままに瞳を緩める。すると彼女の頬に赤みが増してゆき、もじもじと照れ臭そうに手を弄りながら視線を彷徨わせていた。


閉じたグランドピアノの蓋に置いていた白い制服のジャケットを手に取り、帰る為に羽織ろうとすると、香穂子から待ってと声がかかる。手を止めれば寄り掛かっていた窓辺から軽やかな足取りで駆け寄り、小首を傾げてねだるように両手を俺に差し出してきた。


「ジャケットを着るなら私にやらせて欲しいの。駄目かな?」
「ありがとう、では・・・その、お願いしてもいいだろうか?」


嬉しさと照れ臭さから熱さが込み上げ、上手く言葉に出てこない。
駄目な訳がないだろう? 君に着せてもらうのは少々照れ臭いが、むしろ毎日でもと望んでしまうのだから。
何とか一言を伝えて瞳を緩めつつジャケットを手渡すと、嬉しそうな笑みを浮かべてきゅっと腕の中で抱き締める。

腕の中に納まるジャケットを見ていると、俺まで抱き締められたような気分になるのは何故だろうか。
肩先を広げるように掲げる準備万端の香穂子に身体を寄せ、熱くなった顔を背けるように背を向ける。
二人きりになれる練習室に、感謝をしつつ・・・。



いつの頃からか、練習が終るたびにこうして香穂子は俺にジャケットを着せ付けてくれるようになった。
着たまま練習も出来るし一人でも着れるが、かいがいしく世話をしてくれるのが嬉しくて・・・その後に甘えてくる君が愛らしくて。俺もひと時の幸せを味わいたいから、つい好意に甘えてしまうんだ。
だから近頃は、あえてジャケットを脱ぐようにしている。


肩越しに振り返りつつ腕を後ろに差し出すと、両手がそれぞれ袖口に通され、すっと上に引き上げられた。
背伸びをする君が届きやすいようにと、俺はその時少し腰を落として。着込もうと回す俺の腕の動きに合わせて、広げるように彼女の手も一緒に動き、そっと優しく覆い被せるように。

まるで自分で着ているかのように自然で違和感が無く滑らかな動きに、二人の呼吸が一つに重なり合うのを感じて思わず頬が緩んでしまう。例えるならば、君と奏でるヴァイオリンの音色を心と身体で体感するのに似ているかも知れない。


ジャケットを人に羽織らせる・・・着せ付けるのは、どちらにとっても簡単に見えて意外と難しい。
無理に引き上げれば腕が絡まり袖が通らなかったり、痛みや着心地の悪さを感じてしまうから。

俺たちもやり初めの頃はぎこちなかったが、毎日やっているうちに着せる側と着せられる側・・・君と俺の呼吸やタイミングが何も言わずとも分かり合って、互いに気遣えるようになってきたのだと思う。君に羽織らせてもらうと温かくて着心地が良いのは、君の気遣いや優しさ・・・想いの全てが、俺をジャケットと一緒に包み込んでくれるからなのだろうな。


抱き締めるように襟元を引寄せボタンをはめていると、軽い衝撃と共に柔らかな温もりが背中に押し当てられた。そう・・・肩に羽織らせ終ると、君は決まってそのまま俺の背中にしがみ付いて来るんだ。
クスクスと楽しそうに漏れ聞こえる吐息を聞きながら、前に絡められたしなやかな両腕に重ね、僅かに前に屈み引寄せながら抱き締める。肩越しに振り返ると、心地良さそうに頬を擦り寄せる香穂子がいて・・・。緩む瞳と口元のまま、愛しさを微笑に変えて今度は俺から彼女を包み込んだ。


「蓮くんの背中って、抱きつきたくなっちゃうの。広くて温かくって・・・とっても安心する」
「こら・・・あまり強くしがみつくと、皺になって脱がなくてはいけなくなってしまう。せっかく香穂子が着せ付けてくれたのに、それは悲しい」
「脱いだらまた私が着せてあげるからね。でもそんな事言っている蓮くんだって、私を離さないじゃない」
「そうだな・・・本当はこのまま離したくない、君にも俺を離して欲しくはないんだ。早く戻らねばと言っておきながら、俺が一番君と別れがたく想っているのかもしれないな。早く片づけても結局こうしているうちにチャイムが鳴って・・・いつも、始業時間ぎりぎりに戻る事になるのだから」


やはり今日も駄目だったなと言えば、更にキュッと力を込めてしがみ付き、悪戯っぽい笑みで俺を振り仰いだ。
絡まる視線がどちらとも無く甘く緩み、重ねた手の中で互いの指が求め合うように絡まると、しっかりと覆い包むように握り締める。

香穂子が俺にジャケットを羽織わせるのを楽しみにしているように、俺にとってもこのひと時は待ち遠しくて嬉しいものなんだ。それば恥ずかしがりやな君が、甘えたいと・・・ささやかに告げる意思表示なのだから。



だが時は無常に過ぎ去りいつまでもこうしてはいられない。想いを振り切るように重ねて引寄せていた腕を離すと、背中に触れていた温もりも静かにはなれてゆき。隠れていた香穂子がいそいそと前に回り込み、しなやかな指先で襟元のタイを直してくれている。降りかかる吐息を感じながらじっとしているのは、何ともくすぐったくて、触れられた箇所が服の上からでも肌に伝わり熱さを感じてしまう。抱き締められる距離で君を見つめながら、平静を保つのがやっとの状態だ。


「香穂子は着せ付けてくれるのが上手いな。今だけでなく、毎朝こうして君にジャケットを羽織らせてもらったらいいのにと思ってしまう。どんなにか一日が幸せで、力に満ち溢れたものになるだろうか」
「蓮くんに喜んでもらえて嬉しいな。結構難しくて、日々研究中なの。でも毎朝って・・・それって、えっと・・・」


ありがとうと告げて目の前に佇む香穂子の腰に手をまわし、そっと抱き寄せると、腕の中から優しい花の香りが鼻腔をくすぐる。先程まではしっかりしがみ付いていたのに、閉じ込められた途端にもじもじと照れ臭そうに身動ぎだし、胸元で上目遣いに振り仰ぎながら頬を赤く染めてしまう。それだけではなく何か言いたい事があるようで、あの・・・あのねと口篭る彼女に俺まで鼓動が跳ねつつも、紡がれる言葉をじっと待った。


「・・・何か新婚さんみたいだよね。朝にね、行ってらっしゃいって旦那さんを送り出してあげるやつ。本当は、ちょっとあこがれてた・・・蓮くんとやってみたかったっていうのもあるんだよ・・・」
「そ、そうだったのか。いや・・・気付かなくて、その・・・・・・」
「も、もう〜蓮くんてば真っ赤になって照れないでよ! 私まで意識して恥ずかしくなっちゃうでしょう?」


そう言う香穂子は火を噴出しそうなほど真っ赤になっているが、顔に全身の熱が集まって耳から心臓の音が聞こえる俺も、同じかそれ以上なのだろう。頬を膨らます彼女は羽根のように軽い拳で俺の胸を掠めたり、折角整えてくれた襟元を握り締めて揺すぶったり。込み上げる照れ臭さを誤魔化すのに必死なのだが、それが余計に俺を煽ってくれるのだと、お願いだから気付いて欲しい。

愛しい人に朝送り出してもらう男性の気持も、このようなものだろうかと思うと、着ているジャケットの内側に灯る熱がじんわり身体の中に染み込んでいくようだ。




「えっと・・・ここは家じゃなくて学校の練習室で、今は朝じゃなくてお昼休みだけど。教室に帰る蓮くんを、行ってらっしゃいって送り出す気持は一緒だよ」
「では、行ってきますのキスもしなくてはいけないな。放課後には、ただいまと言って君に会おうか」
「それ素敵! じゃぁ授業が終ったら、蓮くんよりも早く練習室に来なくちゃ。私もお帰りなさいって、蓮くんをお出迎えしてあげるね。ねぇ、また放課後もジャケットを脱いでくれる?」
「あぁ、君が望むなら・・・。ひょっとして、今と逆で俺が脱ぐのを受け取ってくれるのか?」
「うん! お帰りなさいのキスもするだろうから、せっかくだからやってみたいなって思ったの・・・今日もお疲れ様でしたって。でもどうしよう・・・本格的に新婚さんみたいでドキドキするね」
「俺も楽しみだ。だが・・・その、練習どころでは無くなってしまうかもしれないが・・・」
「どうして?」


不思議そうにきょとんと首を傾ける香穂子に、理性の限界があるからと言える訳が無く。何でも無いんだと微笑めば、待ってるねとはにかんだ笑みを咲かせて嬉しそうに頬を綻ばせる。抱き寄せながら身を屈めてゆっくり覆い被さってゆくと、ジャケットの襟元をきゅっと掴んで背伸びをする君と俺の影が君を包み一つに重なった。


求めるように、引寄せあうように触れ合う互いの唇。
まるで触れ合っているのが自然で、最も安らぐ時なのだと教えてくれるように。
唇と腕の中から伝わる柔らかさと温もり、想いと優しさを託したジャケット・・・いろいろな温かさが大きなうねりとなって俺を心の底から包み込む。


このまま、君という海に浸っていたい・・・。
だが引き離すように・・・それ以上はと先を留めるように昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響いた。




もっと感じていたいけれど、午後の授業に差し支えるからほんの一瞬触れるだけ。
気付いていないだろうけれど、君はいつまでも余韻を長くその身に留め、甘い空気を漂わせてまうから・・・。


君が俺を出迎えてくれるのならば、遠い君が先に着けるように、今日は少しゆっくり目に練習室へ行こうか。
無邪気な君と描くひと時の夢ではなく、いつか本当にこんな日が毎日過ごせたらいい。
共に暮らす日々が来る事を・・・俺が戻る場所はいつでも君だから。






45678キリ番を踏んで下さった青藍さんからリクエストを頂きました。頂いたリクは「高校生での学校ネタ」。コルダの携帯サイトで配信されていた9月の月森カレンダー見ていたら、月日で学校といえば練習室・・・とお決まりの安直な発想が頭から離れずでして。妄想の尽きない素敵な空間です・練習室万歳! 
という訳で青藍さんに捧げさせて頂きます、お待たせしてすみませんでした。




君が待つ場所・俺の帰る場所