2006年06月30日
 慌しく過ぎたこの1週間、土・日曜日は、当館恒例の「ゆふいんシナリオ塾」。
 10名の塾生たちの熱い思いがぶつかりあう、充実した2日間だった。
 福川さんの橋田賞受賞を祝ってシャンパンで乾杯。川辺一外先生の講義は、「カントの実践理論」や、「ハイレベルなエシックス」など・・・・。
 福岡のテンペラ画家・永 武さん来館。途中で見つけた木苺の枝と、道端の即売所で求めたらしい真っ赤なスモモをかかえていた。そんなふるまいも絵になる彼だ。

 水曜日は、「行動美術大分展」を見るために県立芸術会館へ。
 このグループは、女性群の活躍がめざましく、100号のパワー溢れる抽象作品が3点ずつ展示されていた。それぞれの持ち味が生かされた、見ごたえのある展覧会だった。中でも群を抜いている作家の数人に、私は注目していきたいと思っている。

 木曜日の夜は、「アートフォーラム」。
 今月の駅アートホールの展覧会は、宮崎県の樋口十儚さんのオブジェ・「童心への誘い展」。壁面いっぱいの楽しいオブジェに囲まれてのフォーラムだ。
 当館の画廊でも同時開催しているが、こちらは顔彩を使った水墨画展。そこで、フォーラム参加者は事前に、ドルドーニュ美術館に集合し、同じ作家の絵画作品をまず鑑賞してから作者の全体像をつかもうというもの。
 スペインの美術学校を卒業後、世界行脚の旅をつずけたという作家の話を肴にして盛り上がるアート談義。
 樋口さんがつぶやいた。「名誉や肩書きではなく、まず人間であること」の意味を考えさせられたひとときだった。

 そして今日は金曜日。
 月末なので画廊の展示替え。「樋口十儚絵画展」は、明日から「高橋紘雄水彩画展」となる。バトンタッチをする2人の俊才画家は帰りしな大きく手を振り合った。またいい出会いが生まれたようだ。
2006年06月22日
第9回ゆふいん文化・記録映画祭が終わって、2週間たった。
パンフレットの編集をした仲間3人と,お世話になった印刷所の方と
イタリアンレストランで昼食。
まずは乾杯! 歩きの恒ちゃんはバドワイザー、平野さんほか車組は
ドイツのノンアルコールビール。
まわりの旅行者に混じって、ピザをほおばりながら、私たちもしばし旅人気分を
味わう。
「映画祭の意味?」なんて、この際難しいことは誰も言わない。
「とにかくみんな精一杯やったよね。」「楽しかったね。」「今年も大勢きてくれたね。」
筑紫哲也さんも2日間参加され、多くの貴重な発言をしてくださった。
特に私がコメントをかいた「映画・吉野作造」について、画面ではわからない歴史の事実を教えていただき有難かった。
筑紫さんにお会いすると、テレビの厳しい顔ではなく、おおらかで暖かい人間性が感じられる。
数年前,湯布院の道端で親しくお話をさせて頂いたことがある。
その前は、筑紫さんの郷里の日田の骨董屋で偶然お会いして一緒にカメラに
おさまった。
が、今回は、夜の懇親会のとき、最後列に来てタバコを吸われる筑紫さんの横にいたというのに、私は挨拶をし損なった。
というのは、それくらい懇親会での質疑応答がエキサイティックな状況だったからだ。
筑紫さんは落ち着く間もなく、タバコをもみ消してまたゲスト席に戻っていかれた。
ゆふいん文化・記録映画祭はおもしろい。観なくてはわからない。
いろんな人に出会わなくてはわからない。
さあ、これから第10回目に向かってどう歩きだすのか・・・・。
2011年09月17日
(源流川)
 小さな美術館の脇腹に沿って源流川が流れている。夏の涼風は館内を駆け抜け、流れの音が耳に快い。土手の向こうは緑の田園地帯だ。
 ある日の昼下がり、「ザボーン、ザボーン」と突如、凄まじい音がした。何事が起きたのかと外へ出ると、数人の少年が、土手の上から川つぼの中へ飛び込んでいる。
水面まで2メートル以上ある。何度も水しぶきをたて、小学生らしい歓声を上げる。
 こんなとき、大人はどう対処したらよいのか、私はテラスを出たり入ったりしながら落ち着かず、少年に声を掛ける。「大丈夫?けがとかしてない?」「はい、靴を履いてます」と川の中から律義な返事が返ってきた。なるほど、靴があれば安全なのだと私は妙に納得した。
 いつの間にか、わが家の小学生の孫たちまでが水着に靴を履いて仲間入りしていた。実は昨年、東京から転居してきた孫たちに、土手からの飛び込みを禁じていた。川底に危険な物があるかもしれないという不確かな理由のためだ。だが「靴を履く」という少年のシンプルな知恵は私の不安感を一挙に吹き飛ばした。
 由布岳を源とする源流川は「生きもの」の宝庫だ。蛍、カニ、ウナギ、スッポン、亀
などが岩場に潜んで育つ。子どもたちもまた、この川から自然界の楽しさや厳しさ、仲間との連帯感など多くのことを学んでいくに違いない。(俳句同人誌「あまのがわ」代表・由布市)  <大分合同新聞/8月24日・夕刊【灯】欄に掲載> 
2006年08月10日
 1週間ぶりの激しい夕立だ。
 かぞえきれないほどの雷がすぐ頭上で炸裂する。
 美術館の庭先から由布岳の頂上まで繋がる森がアッと言う間に雨と風としぶきの渦にまきこまれていく。 
 天地がひっくりかえったような凄まじさを呆然と眺めながら、これはまさに浦上玉堂(江戸時代)のダイナミックな墨絵の世界だと思った。
 川端康成が、新聞社に借金してまで求めたというその絵は、大胆で繊細、正面に盛り上がる山や雲、吹きすさぶ木の枝など詩情あふれる豊かなものだ。今、「川端康成記念館」に展示されている。
 10分ほど続いた雷雨がすっきりと止み、木漏れ日が射し込むと、にわかに樹間に霧が漂いはじめた。
 赤とんぼの群れがどこからか一斉に現れ、交錯しながら飛んでいる。
 美術館の敷地内を、毎日我が物顔で飛びかっている、あの小さなグンバイトンボ(軍配トンボ)は大丈夫かしら?
 今まで誰もその名前を知らなかったけれど、近頃
知人の古田氏(九大農学部)に調べていただき、晴れて正式名称が解明した次第。
 メスの両足関節に付着しているような、相撲の行司が持つあの軍配状の半透明の形体は、なんとも不思議だが、宙を飛ぶ様はユーモラスで美しい。  九州では主に西日本の湧き水地帯に棲息するらしい。
 かわいいグンバイトンボは、たびたび旅行者のデジカメに収められながら、湯布院の土産話となっていることだろう。
2006年07月20日
 雨の合間に用事を済ませようと思った。
 車を走らせる農道の左右では、いつの間にか青々とした稲が背丈をそろえていた。
 突然、稲の間から合鴨の鳴き声がした。
 合鴨農法をこころみるNPOの青年たちのたんぼからだ。お腹が空いたのかしら?鳴き声が騒々しくなってきた。彼らはお腹が空きすぎると稲の根っこの下の土を掘り返してしまうそうだ。土の中の虫をたべるらしい。 
 青年たちは、数ヶ所に点在させている合鴨たちにどんなタイミングで餌を与えているのだろうか。いつかのように、大雨でたんぼも合鴨も流されませんように・・・。そして、おいしい有機米を・・・。

 日本一ちいさな由布院盆地を、屏風のようにとりかこむ山々。そして両腕を拡げて
たおやかにそびえ立つ由布岳。
 いつもなら一つの面でとらえられる山肌が、雨後には、次々とたちのぼる霧の数だけ峰が重なり合っていることがわかる。
 いくつもの谷、いくつもの沢をも内包しながら、息ずいている由布岳の全貌をフロントガラスの正面に据えた。
 「これで、よし」。絵画では描ききれないこのみごとな情景を、きっちりと胸に受け止めながら、私はいつものようにつぶやいていた。
 それは十数年前、由布の里に棲みついて以来、何度となく繰り返す自分自身への確認作業のようなものだった。

                 
2006年07月06日
  美術館内の画廊ドルドーニュでは、高橋紘雄水彩画展が始まった。
新緑の山里、季節の風をはらませた由布岳、
せせらぎの音が聞こえて来る渓流、
哀愁に満ちた別府湾と高崎山、
路地からヒョイと老婆が出てきそうなひなびた街角、
浅瀬で寄り添う2隻の漁船・・・・
 透明水彩による詩情あふれる風景画は、いつもの彼の独壇場だ。彼は水彩画の魔術師にちがいない、と私はひそかに思っている。
 ただし、この魔術師は、少し変わっている。
 たとえば彼が海辺の漁船に心惹かれて絵を描きはじめるとき、まず3日間はその現場に通いつめるという。
 そして満ち潮時・引き潮時の小船の状況や、風・朝陽・夕陽・海の色など3日間観察したあとに、始めてスケッチブックをひろげて一気にかきあげるという。
 そのためか、はやる気持ちを抑えるかのような流動的なタッチの、無駄のない強弱の線と色彩が美しい。
 高橋紘雄作品の特色は、暮れなずむナス色の空と、街角の飴色がかった路地への郷愁だろうか?
 それとも、無限にひろがる風色につつまれながら、自然とともに生きる人たちへの賛歌なのだろうか。
 映画のロケハンティングよろしく、この魔術師は1点の水彩画面に「美の瞬間」を閉じ込めるための、ひそやかな時間を温めていた。
2011年09月20日
 台風の影響でこの数日来雨が続く。窓の外の源流川が、この時とばかりに猛々しい声をあげている。今日は来館を約束されていた画家に電話して、22日(木)に変更してもらう。しかし、美術館は、こんな日はわりかし来客が多い。名古屋の癌の病院勤務の方、旅と山好きな京都のご夫妻。湯布院に別荘を持っておられる博多のご夫妻。芳名録にご主人がお名前と、うれしいメッセージを書き残して下さった。「初めて来館いたしました。素晴しい絵の数々と、落ち着ける雰囲気に感動いたしました」こちらこそありがとうございました。これまでずいぶん絵画をご覧になっておられるようで、
当館に展示している作家のお名前を多くご存知でしたので、嬉しい思いをいたしました。明日は休館日。アートスタッフをのせて、三重町のカメラマンの「アトリエ訪問」に出かける予定。明日は台風がおさまりますように。湯布院から三重町まで、2時間ほど。3つの山越えをせねばならない。道中がけ崩れの恐れあり!
2011年08月30日
自由律俳句(口語俳句)     裏 文子
  
     ・パンドラの蓋を開けるな 放射能レベル7
     ・大地の裂け目から 星になってしまった
     ・大夕焼け 網を繕う男たちがいる
     ・目を瞑れば消えた風景たちあがる
     ・陽だまりの母子草 汚れた風に揺らぐ

   今月より大分合同新聞の「灯」欄にコラムを掲載することになりました。多くの知人から励ましのお電話やお手紙をいただき恐縮しています。湯布院のこと、アートのこと、出会いの記憶など、折々の思いを自然体で綴ることができたら・・・と願っています。   8月24日(夕刊)・「源流川」



2011年09月15日
 昨日、口語俳句同人誌「あまのがわ」の編集を終わり、別府の印刷所に入稿。今日は晴れ晴れとした心で迎える。この一ケ月、夢の中でも呪文を唱えるように編集していた。他人の文章を、一言一句間違えないようにパソコンに打ちこむのは、自分の文章を打ち込むより神経を使うものだ。50ページの本の中に挿入した写真は、意外によいものがとれたと思う。湯布院にはまだまだ、あまり知られていないスポットがある。
2006年06月21日
白いホタルブクロの花が咲いています。
昨夜は20匹ほどの蛍が美術館の庭先で
幽玄な光をはなちながら弧を描いていました。
昔は花の中でホタルを飼っていたのかしら?
 これから少しずつ湯布院情報をおしらせします。
どうぞよろしく。
2011年10月26日
アトリエ訪問(写真家・伊藤正昭さんを訪ねて) 
    
    「まなざしの向こうに見えるもの」    
 台風15号が過ぎ去った翌日、湯布院から1時間余りの山道を走り、三重町の伊藤さん宅へ向かった。
 川幅のある大野川の大橋を渡ろうとすると、右手に突如沈堕の滝」が出現した。前日の大雨のためか滝水が山のように盛り上がり、さすが雪舟が絵にしただけの迫力がある。その橋のたもとで待ち合わせをしていた伊藤さんに先導されて辿り着いた白壁の家。納屋の広い軒下には畑道具や玉葱などの日常がぶら下がり、何とも懐かしい風景である。
 お邪魔した家の中にはカメラがズラリ、50台は優に超えているだろう。空気調整されたガラスケースに収まっているものもある。さらに6畳ほどの整備された暗室や広々としたアトリエ。そこにはいくつかの音響機器もある。そのすべてがご自分で製作・修復されたものだ。「若いときから、電気工事の仕事をしていましたから」。彼はさらりと言った。ご自分の技術者としての自信に裏打ちされているとは言え、写真撮影、現像、マット作りなどの制作工程をすべて一人でされているのには驚かされた。このアトリエから彼の思い通りのモノクロ世界が展開していくのだと思った。
 伊藤さんの写真は、或る時は群像のように並ぶガマの穂と暮れなずむ夕空。そして或る時は雪に包まれた山々の稜線や、海岸にたたずむ巨石。私たちはその白黒の画面の中に誘われて、風や波の気配などの空気感を共有する事が出来る。
 私には彼のまなざしの向こうに、人の心に内蔵されている祈りの形の原風景があるような気がしてならない。              裏  文子
2011年11月08日
アトリエ訪問・高山林次郎さんを訪ねて
     「理屈はいらない!」

 その日、高山林次郎さんのアトリエはやわらかな秋の陽ざしに満たされていた。ガラス戸の向こうの澄んだ青空と手入れのいき届いた庭の果実花々。そんな自然の彩りがそのまま室内のイーゼルに架けられた大きな抽象画に投射されているように見えた。
 作品はいつも直截で斬新、キャンバスを大胆に切り裂くようなシャープな線と、それを包みこむ躍動感あふれる豊かな色面の対比が美しい。彼の作品の中には時折小窓のある風景が出現する。漆黒の闇の中でそっと主張している窓の灯と、他の空間を支配するダイナミックな黄色の対比にドラマ性が感じられる。
 高山さんは高校時代、ゴッホの作品に衝撃を受け、絵のとりこになったと言う。後にセザンヌに傾倒したようだが、今のご自分のスタイルを確立されるまでどれほどの変遷があったことか。小品のパステル画にセザンヌの色調が伺われた。
 鹿や狸が出没するという三重町の美しい丘陵地で、広い畑を耕しながら、日々の絵画制作と真摯に真向かう暮らしは当人の理想とする生活スタイルだったのではないかと思わせられた。
 アトリエを訪問することで、私は作家と同じ空間に浸りながら、絵画について語り合うと言う贅沢な時間を過ごすことができた。「作品制作に理屈はいらない!」という高山さんの含蓄のある言葉の裏に、五感を通して表現することへの大切さを教えて頂いた。     裏文子(ゆふいん駅アートホール・森の散歩道)掲載          
2012年06月23日
「月はどっちに出ている」                     裏 文子
 映画「月はどっちに出ている」(監督・崔洋一)のタクシー運転手は方向音痴だった。東京に暮らす人々の悲喜劇を描いた映画だが、妙に身につまされた。
 私の方向音痴もひどいもので、時々混乱におちいることがある。日常生活にさしたる支障はないが、由布院盆地に長く住んでいるというのに、実はいまだ方位がよく把握できていない。以前、大分市に住んでいたころ、朝日は東の海から昇り、由布岳がある西の空に沈んでいた。夕日はうるうると揺れながら沈み、やがて真っ赤な夕焼けの中に由布岳のシルエットが浮かび上がった。
 ところが今、由布岳の麓に住んでいると、仰ぎ見る山の右肩から突如キラキラとした太陽が現れる。この方角こそが確実に「東」なのだ。由布岳の裾をぐるっと回ったずっと向こうに別府の海がつながり、海から生まれた朝日は、市街地や丘陵をなめながら由布岳を越えてくる。その簡単な理屈が近頃ようやく分った。由布岳の表と裏では頂上の形が違う。儒学者・毛利空桑は由布岳の正面は庄内から見た姿だと言った。
 朝日が盆地に届くころ、農家の人たちは露を抱いた野菜の収穫を終え、ゲートボールのお年寄りは一汗かいて温泉につかる。
 「駅は?」「金鱗湖は?」。旅人に毎日のように道を尋ねられる。これからは東西南北で教えることにしよう。
              (俳句同人誌「あまのがわ」代表・由布市)
   2012年6月22日 大分合同新聞「灯」掲載より
2012年03月24日
 「オイストラッフの花束」                            裏  文子
 四十数年前、福岡音楽文化協会の主催でモスクワ・フイル(100人編成)が来日した。バイオリンは世界的巨匠、ダビット・オイストラッフ。心臓病悪化のため、直前まで来日が危ぶまれた公演で、会場は彼の美しく豊かな音色を待ち望んだファンであふれた。
 その日、花束をオイストラッフに贈呈するという大役を頂いた。プログラムが終わると、いよいよ振袖姿の私の出番だ。深呼吸をして舞台に向かう。「スパシーバ(ありがとう)」。満面に笑みをたたえて迎えてくれたオイストラッフ。「オーツェン・ハラッショ(素晴らしかったです)」と私もにわか仕込みのロシア語で歓迎する。
 彼は聴衆に向かい、20年前、初来日した空港で、幼い少女から花束を贈られた時の思い出を述べ、退場する私の肩を抱いて舞台の袖までエスコートしてくれた。会場は割れんばかりの喝采の渦。袖では旧ソ連の警備員たちが拍手と歓声で彼を迎える。息子のイーゴルが体調を気遣う中、アンコール演奏のため再び舞台に出て行った。若い警備員たちは身じろぎもせず、彼の魂の調べを聞き逃すまいとしているかのようだった。
 オイストラッフの死が報じられたのは帰国後、まもなくのこと。旧ソ連の国家体制に伴う厳しい環境の中で、生命の危険を冒してまでも来日した演奏家の生涯を思んばからずにはいられない。
                  (俳句同人誌「あまのがわ」代表・由布市)

      2012年3月17日 大分合同新聞「灯」より
2011年12月02日
「菊畑公園の文人たち」
 湯平の石畳前を大きく左に曲がると、菊畑公園がある。昔は一面に野菊が咲いていたという。登り口の案内板には野口雨情、菊池幽芳、種田山頭火がこの地を訪ねたと書いてある。
 雨情は「7つの子」「赤い靴」「しゃぼん玉」「証城寺のたぬきばやし」など2千余曲の作詞をした。1934(昭和9)年4月に来訪、その時作った歌詞が湯平小唄の元歌となっている。
 丘に据えられた幽芳の歌碑は「山ぎりは深く立ち込め 水の音はいよいよ高し雨の湯平」と自筆の草書体で書かれている。幽芳は「己が罪」「乳姉妹」などの小説を大阪毎日新聞に発表。「別府温泉繁盛記」の連載では、当時の別府の風情を情緒豊かに描いている。
 雨情と幽芳は水戸の出身。のちに新聞社の取締役となった幽芳が後輩の雨情を伴って湯平に2泊した。地元有志の歓迎会で、2人を囲んだ記念写真が残されている。
 山頭火が湯平に2泊したのは1930(昭和5)年11月。公園の句碑には「うしろ姿のしぐれていくか」が
刻まれ、いかにも山頭火らしい虚無僧姿が偲ばれる。
 大正・昭和の文壇に異彩を放ちつつ、奔放な精神で駆け抜けてきた作家たち。それは広く、自由に、人間性の回復を希求するものであった。
 公園内に点在する100体を超す石の仏様。その深紅の前掛けが幽玄な晩秋の野を演出していた。
 (俳句同人誌「あまのがわ」代表・由布市)
    11月29日 大分合同新聞、夕刊「灯」掲載
2012年01月08日
「雪は天から送られた手紙」
 いつのまに雪雲が忍び寄ったのだろう。ふと気がつくと外はぼたん雪が舞っていた。きらめきながら、あとからあとから、まるで追いかけっこでもしているかのようだ。頭上の由布岳はすでに霞んでいる。
 「雪は天から送られた手紙である」。こんな時、雪の博士、中谷宇吉郎のこのフレーズが頭をよぎる。それは岩波映画のタイトルにもなった。今泉文子監督作品の冒頭シーンは、数頭の馬が疾走してくる瞬間を足元からレンズが捕え、同時に「ドルドーニュ」と書かれたテロップが流れた。私は一瞬驚いた。というのは、私の仕事場の美術館は南仏のこの地方名に由来していた。そこは画家藤田嗣治が暮らした場所でもある。
 さて、なぜ、映画が「馬の疾走」から始まったのか。
 宇吉郎は、東大理学部の寺田虎彦の下で学び、師にラスコーの洞窟壁画に描かれている動物の脚の力強さをよく観察してくるよう薦められた。それは、科学者の視点からの力学を意味したものだろう。彼はのちに北大教授として札幌に赴任し、生涯のテーマとなった「雪の結晶に出会うことになる。随筆「由布院行」には、自然と人間が共生する姿が緩やかに綴られている。
 雪の到来と共に、湯布院の正月が息づいてくる。源流太鼓が盆地の山々にこだまし、集落の社からは神楽の音色が立ち上がる。今年こそ平安な年でありますように。  
 2012年1月7日、大分合同新聞・「灯」掲載
2012年02月19日
[50年目の同人誌」
 俳句同人誌「あまのがわ」を年4回発行している。1918(大正7)年、吉岡禅寺洞によって創刊された「天の川」が、師の没後、ひらなが表記の「あまのがわ」となり、代表者が何度か代わりながら50年目を迎えた。
 現代語(口語)で作る俳句は、季語や575にこだわらず、イメージの構成から生まれる内在的リズム感を、詩の本質として重視している。広く自由に、強靭な最短詩の
創造を志向するグループだ。
 「あまのがわ」と同系列に大分市の俳誌「虹波通信」もあり、すぐれた作家を輩出している。昨秋、静岡で開催された口語俳句全国大会では、成人に加えて1,100人の高校生が応募、年齢層の厚みに驚かされた。
 「あまのがわ50周年記念号」(229号)では<人と作品>の特集を組み、先人たちにスポットを当てた。そこでは執筆者が、口語俳句と出合った経緯、先輩たちの思い出、作品などを紹介している。戦争という国家の渦に巻き込まれた時代を経て、自我を回復し、口語俳句運動の先頭に立ってこられた先輩たちの勇気と行動力に胸が熱くなる思いがした。
 私たちも、社会や自然や個の出来事とまっすぐに向き合い、感動を表現したいと願っている。俳句のほかに鑑賞文、論文、随筆、掌編小説なども掲載している。
     陽だまりの石じんわりと膨らんでいる        文子
   
俳句同人誌「あまのがわ」代表・由布市)    2月11日・ 大分合同新聞「灯」掲載
2011年10月07日
「キビナゴの海」
 「そろそろ宇治山先生をお呼びして」。津田露色老医師の声が華やぐ。別府市荘園の別宅で句会が終わると、恒例のメーンイベント、老医師ご自慢のキビナゴのお作りが始まるのだ。ことキビナゴにかけては自ら買い物かごを提げて行かれるほどこだわりを見せた津田先生であった。
 まな板の上では脂が乗った生きのよいキビナゴたちが出番を待っている。隣家から
草の小道を急ぎ足でやってこられた宇治山哲平画伯。「やあやあ、楽しみにしていましたよ」と相好は早くも崩れっぱなし。
 老医師は早速、冷やした指先でキビナゴの頭と骨をスーッと外し、ぷりぷりとした白身を客人の小皿に盛って、カボスを添える。「うまいですなあ」。日頃あまりお酒を飲まれない宇治山先生も、この日ばかりは杯を傾けてご満悦だった。
 飲むほどに、食するほどに会話は熱気を帯びていく。宇宙や古代への関心、詩や絵画への情熱は底知れず、話題はとどまることを知らない。「現代」に視点を定めておられた孤高の俳人と画家は、互いに“心友”と呼び合ってはばからなかった。
 1972(昭和42)年、津田先生が亡くなられ、故郷の関崎灯台近くに句碑が建立された。除幕式の日、波光きらめくキビナゴの海をじっと見つめておられた今は亡き宇治山先生。胸に去来したその思いの深さが透けて見えるような気がした。
        (大分合同新聞社 夕刊「灯」掲載 9月22日)
2011年11月01日
「アートの町」
 湯布院は「アートの町」と呼ばれて久しい。多くの旅人たちが「この町は美術館が多いですね」と言う。確かに個人美術館はポストの数よりも多い。
 だが、由布院駅アートホールの活動は、全国でも類を見ないユニークな存在として注目を浴びている。
 イタリアのメデイチ家の教会をイメージした磯崎新設計のJR由布院駅。ゲートのような改札口もなく、駅舎内の広いアート空間のすりガラス天井からは、木漏れ日のような柔らかな光が注ぐ。ここは旅人のおしゃれな待合室でもある。
 ホールの作品展は、1日も休むことなく開催され、
新駅舎の歩みとともに21年目を迎えた。これまでさまざまなジャンルの作家たちに素晴らしいアートシーンを展開していただいた。
 当初からホールに携わってきた私は、ここで多くの作家や作品と出会った。その出会いの歴史は、湯布院アートの財産となっている。アートを媒体として、人々が心を安らげ、感動や生きる力を感じながら、社会へのメッセージを受け止めてほしい・・・そんな願いを込めながら、アート仲間と毎月の展示を続けている。
 昨年11月〜今年2月まで20周年記念企画「ゆふいん三世代物語」が開催された。これは子ども、プロの作家、高齢者の3部構成。総勢四百余人の制作者を得て大盛況に終わった。それぞれの作品からは、生命の喜びの歌が聞こえた。
    10月26日 大分合同新聞「灯」欄に掲載
2011年12月27日
 (口語俳句)
・両翼閉じて蒼くねむる棺
・焼き場の煙が兄をつれていく
・カサッと声あげたよ 骨壷の喉仏が
・座禅する喉仏いつも 観ていてくれる
・大木に影がない 家長が逝った日
2012年07月14日
「揺るぎない世界観」      −8日まで芸館で柾木高個展ー
 作家との邂逅はいつも予期せぬ形で生まれる。個展の開催から、そのままご縁がつながっている作家の一人に柾木高がいる。中津市で生まれ、大分県立芸術短大(当時)卒業後、堺市のアトリエで制作活動を続けている。これまで数多くのグランプリを受賞。謙虚で実直、作品の大小に関わりなく、常に揺るぎない内なる世界観を提示してくれる。
 絵の題材は「静物」から「人物」そして「風景」へと移行し、最近は「火・森・水」をテーマとされている。
 数年前、絵の題材を求めて訪れた由布の里で、「夜の闇に燃え上がる火を見た。その時ようやく描きたい世界が見えてきたような気がする」と言われる。
 それは五穀豊穣を祈る「蝗攘祭」の夜、城橋たもとの三角州では薪が燃やされ、牛の肩に乗せられたわら人形が、いくつも土手から火中に投じられる。勇壮な源流太鼓の音が燃えさかる炎をあおり立て、夜空には火の粉が舞い上がる。甚句が流れ、「祭」の終わりを告げる。
 その日、盆地の水田のあぜや川沿いにも一斉に万灯籠がたかれた。野の律動の中で、闇夜に揺らめくかがり火の列との遭遇は、柾木を幻想と、原始への回帰へと誘ったことだろう。
 その夜のことが契機となり、以来「寂々たる世界」を求めて辺境を巡り、「火・森・水」と対峙されている。大自然への畏敬と恵み、そして祈り。その生命の根源と向き合うことが画家の使命であるかのように。
 在学中に広瀬通秀、宇治山哲平両先生の指導を受け、師と同じ道をひた向きに歩み続ける柾木高の魂の軌跡が、県立芸術会館での初めての里帰り展で披露されている。                     (ドルドーニュ美術館長・裏 文子))
 △柾木高個展「火・森・水」は大分市の県立芸術会館で8日まで開催中。

  2012年7月5日   大分合同新聞(夕刊) 文化欄掲載
2012年05月25日
「陽はまた昇る」
 東勝吉さんは老人ホーム・温水園に入所する以前、日田できこりをしていたという。勝吉さんは点滴が大の苦手、「点滴するくらいなら死んだほうがまし」などと看護師を困らせたり、園のくらしに慣れない頑固なお年寄りだった。
 ある日、佐藤施設長が尋ねた。「何か趣味はないんかえ」。考え込んだ勝吉さん。「小学生のころ『どろぼうとおまわり』の絵を描いて先生に褒められた」と答える。「ほう、そりゃ才能があるんかしれん。絵をやりなさいよ」。施設長のその一言が83歳の彼の背中を押した。
 以来、勝吉さんの口からは愚痴も消え、穏やかに、生き生きと輝きながら絵を描く日々に没頭した。99歳で亡くなるまでの16年間、なんと100点を超す水彩画の秀作を生み出したのだ。風景画の素朴で伸びやかな構成と豊かな色彩、人物画に込められた哀歓など、勝吉さんの感性あふれる作品は、由布院駅アートホールをはじめ各地で披露され、大きな反響を呼んだ。
 一昨年に引き続き、第2回「陽はまた昇る」展。今、湯布院では勝吉さんにちなんで83歳以上の方々の水彩画を募集している。(6月30日まで)。応募作品は全て、9月に駅ホールや盆地内の施設に展示される。
 「自分の人生に、よもやこんな楽しいことが残っていたなんて!」と前回出品されたある人の言葉が思い出された。
  (俳句同人誌「あまのがわ」代表・由布市)     裏 文子
                                                            5月23日  大分合同新聞夕刊「灯」掲載 
2012年09月13日
     「オランダの旅人」                   裏   文子

 数年前のある日、大きなキャリイバックをマウンテンバイクに積んだ中年の外国人夫婦が、私の美術館に立ち寄った。作品を鑑賞しながら、的確な質問をされる2人の日焼けした笑顔が美しい。
 彼らはなんとマウンテンバイクで自国のオランダを出発し、シルクロードを走り、ラオス、ベトナムに寄り、上海と下関間は船。その後、九州を一周して最終目的地・湯布院に到着したという。
 私は頭の中で地球儀を反転させながら、かって空から眺めた、緑と褐色に覆われた広大なアジア大陸を思い、メコン川の砂ぼこりが舞うラオスの田舎道や、ベトナムへと続く白く真っすぐな道を思い浮かべた。
 夫のボブは体育教師、妻のアランカはマッサージ師。旅の目的は聞かなかったが、鍛えぬかれた肉体と豊かな感性、そして綿密な計画性はまさに「地球の歩き方」を地で行っているようだ。夜はテントで過ごされる由。旅の終わりはせめてもと、わが家の離れに泊っていただくことにした。
 夕方、彼らのワインパーティに誘われ、いそいそと戸口に向かうと部屋に明かりがついていない。けげんに思って尋ねると、夕暮れの空が美しいからだという。
 不意を突かれた。時代に流され、日常に置き忘れてしまった平和な夕暮れの美しさ・・・。窓辺の携帯ラジオからはクラシックが流れ、楽しい会話がはじまった。
       (俳句同人誌「あまのがわ」代表・由布市)  
    2012年 9月4日  大分合同新聞・夕刊 「灯」掲載
2013年03月28日
「町の未来図」                       裏  文子
 サルラの朝市。石畳に並んだカラフルなテントはフランス国旗の赤・青・白。野菜や果物や花々、芋のようなサラミやカモ肉がぶら下がる。私たちが熱々の揚げ春巻きを頬張っていると「わあ、うまそうですね!」とテントの中から日本語が飛んできた。日本の青年がいなりずしや惣菜を売っている。フランスのこんな片田舎にも日本人が暮らしていた。海外で和食が見直されているのか、売れ行きが良さそうだ。
 画廊の開館までの待ち時間は石畳のカフェでコーヒータイム。間もなくイーゼルを肩に担いでやってきた長身の画廊主。その情景さえも絵になる。
 隣のテーブルのおばあさんに、通行中の若者や子どもたちが走り寄ってきて、左右の頬に頬ずりをしていく。彼らにとっては日常のあいさつ習慣なのだろうが、私は半ば羨望も加わりながら、横目でちらりちらりと盗み見る。ここはお年寄りが大事にされている町なのだ。
 学校が休暇中の昼下がり、どこかでロックが鳴り響いていた。音楽は公園内に造られているスケート場からだ。大人たちが見守る中、幼児から中学生くらいまでの大勢の子どもたちが、リズムに乗って、嬉々とした表情で滑っている。
 中世の歴史が残る観光の町で、お年寄りや子どもたちが大切にされながら、生き生きと暮らす様子に、この町の未来図が見えたような気がした。
 (口語俳句同人誌『あまのがわ』代表・由布市
 2013年3月26日  大分合同新聞「灯」掲載
2012年09月16日
「 アートホール二十年間の記録 」
  
 「由布院駅アートホール二十年間の記録」誌が完成した。100nのフルカラー。245企画、登場作家はグループ展を含めると膨大な人数になった。彼らはその後、どうしているだろうか。二十年間の歴史を振り返ると感慨深いものがある。1990(平成2)年12月、駅の待合室も兼ねた広いアート空間で、現在活躍中の作家たちを応援しよう。アートを通して住民と旅人が感動を共有する場であってほしい。そんな思いから駅アートホールの活動は始まった。
 以来、作家たちに、毎月さまざまなジャンルのすばらしい作品展を展開していただいた。例年、全国各地から多くの申し込みがあり、審査会で選出された方々に展覧会をお願いしてきた。
 国内外の人々が行きかう由布院駅。この場所で発表することは、作家にとっても刺激的であるようだ。彼らのチャレンジ精神にはいつも頭が下がる思いがする。応援する私たちアートスタッフも、作家の情熱や感性あふれる作品に育てられてきた。
 「広場に花飾りをつけた棒を立てれば、そこに祭りがはじまる」。私が大切にしているユングの言葉である。さしずめ私は、その棒を支えるひとりにすぎないが、湯布院という癒しの空間で、仲間たちと、理想の花飾りを仰ぎ続けたいと願っている。
     (俳句同人誌「あまのがわ」代表・由布市)

         大分合同新聞・夕刊・「灯」連載                裏  文子 
2012年11月04日
  「誕生日はいつ?」                裏 文子
 
 私の生年月日は終戦の年の1月10日となっている。が、これは正しいとは言えない。なぜなら、育ててくれていた山梨の親戚の人たちが、小学校入学に際して、誕生日をいつにしようかと話しあっていたからだ。「文子はいつもにこにこしているから、十日恵比寿の日にしよう」叔父の一言で、私は福の神、恵比寿さまにあやかることになった。
 私が生まれたのは中国東北部旧満州国チチハル。父は当時新聞記者をしていた。ソ連軍の侵攻により、命がけで引き揚げてきた100万を超す日本人。その中に母と3歳の姉、そして乳飲み子の私がいた。姉妹は南アルプス山麓の親戚に預けられ、母はどこかへ働きにいった。私が12歳の時、博多で雑誌を発行していた父の元に引き取られた。
 20歳の頃、探していた母に再会。会ったら一番に尋ねたいことがあった。「私の誕生日はいつ?」
 母の目は懸命に宙を泳ぎながら記憶をたぐりよせようとしていた。
「雪が降っていて、とても寒い日だった・・・」が、引き揚げというあまりにも過酷な体験のせいか、私の出生日は剥がれ落ち、消えてしまっていた。幸福だった満州の日々、そして帰国後の家族の離散。
父母は思いを繋げながらも別々にその生を終えた。
 母の弔いの日、「私の永い戦争」がようやく終わったような気がした。
       2012年11月3日(土)大分合同新聞「灯」掲載
2012年10月11日
   シラサギ
 
 黒雲がたち込め、足元で雨がえるが鳴きだした。また夕立が来そうだ。
 夏のはじめの集中豪雨以来、わが家の横を流れる瀬音に耳をそばだてるようになった。いつもは上流の静かな川が、あの日は怒涛となって荒れ狂い、水かさはもう少しで堤防を越えそうな気配だった。「この川は50年間決壊したことがない」という近くに住む年配者の言葉を心もとなく感じはじめ、「もしかしたら」と胸は早鐘を打ち出した。
 とその時、雨音がぴたりとやみ、みるみるうちに川の水位が下がっていった。天の采配というべきか、由布院盆地を覆った厚い雲の容量は、ギリギリのところで被害を最小限にとどめてくれた。とはいえ、金鱗湖や数軒の宿には泥水があふれた。幸い人災には及ばなかったことが何よりではあった。
 3・11以降の自然災害と原発事故、日本各地の豪雨災害、中小企業の倒産など、社会の動きはこの先も混沌とした不安感を増長させていくかにみえる。
 旅人たちが言う。「あなたは幸せですね。毎日、川の音や風の音を聞きながら、絵に囲まれて暮らせるなんて。まるで別世界!」
 こんなささやかな情景を、別世界だと言う人々、よほど心が疲れているのだろうか。
 シラサギが1羽、「グワーッ」と悲鳴のようなだみ声をあげながら、眼前の空を横切っていく。

(俳句同人誌「あまのがわ」代表・由布市)
  2012年10月6日 大分合同新聞夕刊「灯」掲載
2013年03月05日
  「ガス灯の街」
 
 野に置きざりにされたようなサルラ駅に降り立った娘と私は、なだらかな坂道を岸壁(城塞)に沿って歩きだした。南仏の風は真冬とは思えないほどやわらかい。
 30分ほどで中心街に着き、朝市が開かれるリベルテ広場の近くで、老夫婦が経営する安宿を見つけた。安宿とはいえ重厚な構え。暖炉の上のブロンズの少女像と大きなバスタブ。おしゃれな奥さんはよく喋り、寡黙のご主人は外出する私たちに窓から手を振ってくれる。フランス映画さながらの、生活感漂うこの宿が気に入り、私たちは連泊することにした。
 中世紀、司教と行政官の町だったサルラは、100年戦争の間、武器や食料を保存する城塞の地として重要な役目を担い、周辺の幾つもの城に守られていた。
 フランス革命以後荒廃したままになっていたというが、50年前、マルロー法により、フランス国内最初の「景観保護地域」として復元され、イエローストーンの美しい街を取り戻した。
 住民は約1万人。私が住む湯布院とほぼ同じ人口だ。石畳にそってカフェやショップが軒を連ね、ワイン、フォアグラ、トリュフなどの特産物が上品に並べられている。店では「ボンジュール」(こんにちは)誰もが歌うように挨拶を交わしあう。
 夕暮れ、街中にガス灯がともされ、霧雨が静かに飴色の石畳に吸い込まれていく。

 2013年2月23日  大分合同新聞「灯」欄掲載
2012年12月17日
 「さみしい顔」
 旅人たちと絵について語り合う時間は楽しい。
 ある時、壁にかけてあるテンペラ画の少女像(永武作)を見ながら、一人のご婦人が言った。
「何かさみしそうな顔ですね。仕事から疲れて帰ってこの絵を見ると、もっとさみしくなりそうだわ」
「この作家は人間の機微を描くのが得意なのです。でも、人って、素面はみな、こんな表情をしていませんか?あのテディベアの顔も笑っていてはいけないそうですよ。幼い子が、悲しいとき、にこにこ笑っているテディベアを抱きしめたいと思いますか?さみしそうな表情のテディベアだからこそ友達になれるんです。絵画も同じことが言えるのではないかしら」。私は得意げに、昔、人形作家から聞いた話を披露した。
「まあ!そんなこと考えたこともなかったわ」大げさに感嘆するご婦人は聞き上手だ。私はさらに話を続けた。
「ピエロはお好きですか。あの道化者のピエロ。片方の目で現実を見て、もう片方の目で夢を見るんですって」
「まあ。そんな意味があったのですね」
「道化を演じた『人間失格』の太宰も・・・」と言いかけて、私は内心「しまった!」と思うのだ。聞き役に回ろうと日々心しているはずなのに、また、おしゃべり癖が出てしまった。
 来年こそは謙虚なホスピタリティー(おもてなし)ができますように。

(俳句同人誌「あまのがわ」代表・由布市)
2012年12月8日 大分合同新聞夕刊・「灯」掲載
2012年05月02日
「彫刻の丘」
大分大学医学部の裏手をまわりこみ、舗装道路を銭瓶峠方面へ向かった。昔は別府へ抜ける豊前街道の要衝だったという。高崎山を脇に見ながら由布市挟間町七蔵司の「彫刻の丘」についた。例年より遅いはずの桜がこのほっこりとした丘の上ではすでに満開、ツツジやコブシも咲きそろい甘い芳香を漂わせていた。
 ここには彫刻家・柚野朝男氏の鉄や石彫の大きな立体作品が、丘の起伏になじんだ形でいくつも設置されている。作品名は「廻る」「失われた祠」「虚空遍歴考」など。「七蔵司」という父祖の地の由来によるものだろうか、土地の歴史にまつわるものが多く、奥行きのある思想性と存在感に圧倒される。
 「彫刻の丘」のはるか向こうに対峙するのは霊山のおおらかな稜線だ。セザンヌが何度も描いたサント・ヴィクトワール山がそのまま横たわっているようだ。どっしりと鎮座する量感あふれる「静」の霊山と、この丘の「動(情感)」の作品群が野の空間を隔てて響きあっている。しょうしゃなアトリエ内では「さくら祭り小品展」が開催され、氏のお仲間の絵画や立体作品が展示されていた。
 柚野氏の理想郷ともいえる「彫刻の丘」をお訪ねして、午後の陽光のなか、何とぜいたくなひとときであったことか。突き抜けるほどの青空を風が廻っていた。

   4月19日 大分合同新聞「灯」掲載
2014年08月28日
「里のまつり」
 祭りの朝、重く垂れ込めた雨雲の向こうにかすかに青空がにじんでいた。不安的中、午後は本降りになった。祭りを諦めかけていたころ、ふと雨音がミンミンゼミの合唱に変わっているのに気づいた。急いで窓外を見ると、山肌を霧が立ち上がっていく。しめた!と思う間もなく、また雨音。それが何度か繰り返され、ようやく夕暮れの空に祭り開始の花火が上がった。
 虫追いと五穀豊穣を祈る由布院盆地の「蝗攘祭」は、牛の肩にわら人形(実盛どん)を載せた行列がおはやしと掛け声で町内を練り歩く。会場の城橋たもとの三角州では、勇壮な源流太鼓が打ち鳴らされ、実盛どんが次々とたいまつに投げ込まれた。火は高々と燃え上がり、火の粉を夜空に散らしながら「蝗攘祭」が終わった。足元の清流が先ほどまでの雨で勢いづいている。
 この後、花火会場のJR由布院駅裏の農道へ移動する。田園の闇の中で「万灯籠」は無数の命をともすかのように風に揺らぎ、幽玄の世界へ誘っていた。
 今年の「供養盆地花火」は、ゆふいんラヂオ局と連携して湯布院らしい思いが演出され、故人へのメッセージが番組で紹介、供養と感謝をささげた。実行委員会の若者たちや、300件を越す協賛で盛り上げた盆地まつり。頭上に降り注ぐ大花火は山々にこだましながら・ふるさとの先人たちが何か答えてくれているように感じた。

   口語俳句同人誌「あまのがわ」代表    裏  文子
      2014年8月25日
           大分合同新聞「灯」掲載
2014年03月10日
記憶の色
 言葉にすると、雪のように消えてしまいそうなほどはかなく、大切な思い出がある。それは大分県立芸術会館の宇治山哲平展でのこと。会場に埋め尽くされた鮮やかな幾何学模様に圧倒されながら、私は色彩の樹海の中をぼうぜんと歩いていた。
 ある静かな大作の前に立った。それは濁りのない青い面の中央に、赤色の造形を配した油彩画「愛」だった。
 これはアトリエで椅子にかけたモデルを見ながら制作しておられた絵だ。背後から先生の声がした。「赤の色が難しくてね」「先生、お庭のコイの色を出されたかったのではないですか」。すると先生は私の顔を見据えて目を真ん丸くされ、両手をパンと打ち「そうなんだよ。分かる?」
 私の無遠慮な発言に、先生が大げさに反応されたのでかえって面食らった。やはりそうだったのか。別府荘園のアトリエの飛び石を渡るたびに、池の水面に浮きあがってくる緋色1匹。私の記憶のコイの色だ。先生は朝晩エサをやりながら、そのたえなる色を盗んでおられたのだ。
 「どの絵が一番好きだった?」。先生の質問に戸惑いながら「どれもすごいと思いますが、私はガラスケースの中の墨絵『童』が・・・」。
すると先生は私の耳元で「本当はね。僕もあの絵が一番好きなんだよ」。
 あの等身大の墨絵「童」は、防空壕で失われた6歳の娘さんの像だったのかもしれない。                            2014年3月8日、大分合同新聞「灯」掲載    裏 文子
2014年02月04日
  「オフの湯布院に」

 盆地をとりまく峰々を風音が鳴り渡る。
 湯布院の客足がぐんと減るころ、裸木の向こうで雪をかぶった由布岳が一段とまぶしく雄姿を誇り、風呂や側溝から立ち上がる温泉の湯気が人々の情感を誘う。
 「オフの湯布院」と呼ばれるこの時季は、客人への対応も行き届き、心からのおもてなしができる時でもある。例年巡ってくる季節のリズムに順応しながら営まれる私たちの暮らし。今は与えられた個の時間と向き合い、人のありようについて考えるチャンスなのだと思う。
 そんな閑日、菊畑茂久馬の「絶筆 いのちの炎」(葦書房)を読んだ。それは著名な画家たちの最後の絵について書かれているものだ。「あとがき」から引用する。「美神の使徒たる絵かきの死。ここには肉体の死と絵画の終りが、ひととき、まどろむように美神にだかれる静かな時刻が訪れる。この世でいちばん痛切で美しい時間だ。画家がその時いかに荒々しく狂乱しようと、必ず、一瞬限りなく静かな美しい時間がよぎる」
 著書の最終編は、日田出身の宇治山哲平で締めくくられていた。自然界に生命を吹き込む気韻と、生命の律動をはらみながら、うたい上げた宇宙の大パノラマ。その冥界へ旅立たれた宇治山先生は今年、没後28年目となる。「オフの湯布院」は静かに先生の絵と向き合おうと思う。                                      口語俳句同人誌「あまのがわ」代表・裏文子



2013年11月29日
   Kさんの歩数計
                             裏 文子
 晩秋の昼下がり、土手をKさんが歩いていく。コートの裾を風にさらし、みなぎる瀬音を痩身にまとってマフラーに首をすぼめて大股で行く。
 以前Kさんがポケットから取り出した歩数計を確認する姿を見て笑ったことがあった。長続きはしないだろうと思った。が、その後、彼の姿をどこそこで見かける人たちが増え、うれしそうに話題にした。当年79歳。町づくりのリーダーを、誰もが友達みたいに「Kさん」と呼ぶ。
 先日も宇奈岐日女神社へ続く裏道を、老年の男性と話しながら歩いておられた。長男に老舗旅館の経営を委ね、やや自由人になられた様子のうしろ姿が穏やかだ。
 私は運転席の窓から声をかける。「息子さんが言っていましたよ。『親父は時々行方不明になるんです』って。「あ、そう?」Kさんはニコニコと否定も肯定もなさらない。
 が、私には彼の行動にひそかに思い当たるふしがあった。長老や若者、農家、商店、宿屋、職人、旅人たちを結わえながら、累々と生命をつなぐ小さな町、湯布院。彼は築いてきた町のほころびを見回り始めたのではないかしら。終生揺るぎないKさんの歩数計。今日も歩を刻んでいることだろう。
 ご自宅で聞かせていただく蓄音機のたえなる音色。LDでのオペラ鑑賞。そこでしか得られない至福の時を仲間とむさぼりに行きたくなった。  
      11月23日大分合同新聞夕刊『灯』掲載
2014年11月04日
「姫島」
 伊美港から出航したフェリーは、国東半島の両子山に見送られながら岸を離れた。快い潮風に包まれると私は既に旅人だった。姫島村は昨年ジオパークに認定され、美しい自然や歴史、文化や豊かな近海資源が着目されている。
 ここには確かに日本の原風景があった。自治が守られ、約2500人が暮らす島に小・中学校、スーパー、ガソリンスタンド、診療所、信号機が一つ。海鮮料理の食事どころと宿もある。
 この村には過剰なものが見当たらない。
 ひたひたと寄せる潮、渡来するアサギマダラ、海が見える広い境内に18の社が祭られている大帯(おおたらし)八幡社。見事に細工された御神船は船引き祭りの山車で使われる。キツネ踊りや、「姫島七不思議」伝説も興味深い。
 地層褶曲(しゅうきょく)を見ながら、車エビの養殖場に沿ってブルーラインを行くと姫島灯台に着く。ここは小倉藩の細川忠興が石積みのかがり火を用いた和式灯台の初めだという。村上水軍が行き交った眼下の海。下関戦争では外国艦隊が姫島沖に集結。伊藤博文が調停のため、漁師の手こぎの船で2度も、この島から山口まで往復したという。
 たおやかに湾曲した海水浴場は保養地ニースの浜辺のようだ。秋の日が優しく波光を照らし、遠くで元気な長老たちがグラウンドゴルフに興じていた。

 2014年11月3日 大分合同新聞「灯」掲載
    (口語俳句同人誌「あまのがわ」代表  裏 文子
2013年10月22日
Made in  Yufuin                    裏  文子

 今月、JR由布院駅アートホールではゆふいん在住作家による「Made in Yufuin〜 輝く人・モノ・アート〜」展を開催している。
 私たちはこれまで22年間、駅アートホールの展覧会活動を続けながらも、「地元にアートが根付いたか」という課題を抱えてきた。
 が、今回約50人の陶芸、木工、竹工芸、絵画、写真、書、彫刻、映像など、クオリテイーの高い作品群を前にすると、わが町もまんざらでもないなという気分になった。通りの観光客のにぎわいとは状況を異にして、忍耐強い職人魂が、静寂な時を紡ぎながら、日々発酵を続けていることに誇らしさを覚えた。
 制作の場を求めて移り住んできた作家の多くは、湯布院をついのすみかと定めているようだ。美しい由布岳に癒されながら制作し、ここで育まれた子供や孫たちもまた、感性豊かにアートの根を張っていくことだろう。
 先日、大分市アートプラザで開催された「国見アートの会」主催・「磁力と地力」展のオープニングパーテイに出席した。絵画、メタルアート、木工、竹工芸、創作びょうぶなど、国東の風土感あふれた力作が展示されていた。
 「国見に移住しませんか。家賃1万円です」木工家の恒成哲三郎さんが、ジョークを交えてロビー活動をしていると、一人の若者が賛同の手を挙げた。国東にもいい風が吹きそうだ。
    10月19日 大分合同新聞「灯」掲載
2014年04月15日
 「舞台と桟敷」

 1羽の大きなゴイサギが、土手の真ん中で塑像のようにたたずんでいる。いつもは流れの中でじっと獲物を狙っているのに、今日はほんのりと色づき始めた倉木山の山桜でも眺めているのか。
 源流川沿いの美術館の窓から、クレソンと菜の花がこんもりと繁茂しているのが見える。
 遊歩道にもなっている土手は旅人たちの散歩道であり、地元の人々の生活道でもある。近くの旅館勤めの若者たち、乳母車の親子、犬を連れた人たち、一輪車を押して畑に行く人、お散歩中の保育園児の一行。
 また饒舌でパワフルなアジア諸国の人々は韓国語か中国語か、にわかに判別できないが、彼らにテラス越しのあいさつや道案内をしながら、国際交流のまねごとをする。土手沿いの美術館が珍しいのか、館内をのぞき込む人がいるが、私は大歓迎である。湯布院の「絵のある風景」を記憶のアルバムにとどめてほしいと思っている。
 私も室内で来客とテーブルを囲んでおしゃべりしながら、土手を歩く人々を眺めている。幸福そうな人、疲れている人、うつむいて歩く人。彼らの背後にさまざまな暮らしのドラマが見える。
 室内からと、土手からと、互いを見ていると同時に「見られてもいる」。まるで舞台と桟敷席のように、この相互の関係性を面白がっているのである。

   口語俳句同人誌「あまのがわ」代表・裏文子
   2014年4月14日 大分合同新聞「灯」掲載
2014年05月18日
「ダッハウにて」
 朝のミュンヘン駅。カラスの大群と見まがうほどに、黒一色のコートと帽子の群衆がホームを進んでくる。工場労働者なのか、数百人を超す無言の流れに圧倒され、ドイツという国の秩序と力を見せつけられた思いがした。
 その日、娘と私はミュンヘン郊外の、ナチス・ドイツ強制収容所が残るダッハウへ向かった。この国の人たちはナチの記憶に触れられるのを嫌がると聞いていたので、地図だけを頼りに汽車やバスを乗り継いだ。乗り合いバスには花柄のスカーフをかぶったかわいい老婦人が座り、車窓にはメタセコイアが朝日に映え、絵本のような世界が広がる。
 バスを降り収容所まで歩いた。ここは主に、ユダヤ人の芸術家・聖職者・医者・学者など5千人が収容され、人体実験をされた所だ。有刺鉄線が張られた高い塀と見張り台。粗末な棟が並ぶ。資料館に入ると、分厚い扉がガシャリと音をたてて閉まり、一瞬閉じ込められたかのような感覚に陥った。拡大されたおぞましい写真群の前で、人間の尊厳を冒す、ありとあらゆる手段に対して、決して目を覆ってはいけないと深く思った。
 ドイツの中学生たちが引率の教師に説明を受けていた。民族至上主義がもたらした「あやまちの歴史」を学ぶ姿が印象に残った。
 近ごろ起きた「アンネの日記」破損事件で、強制収容所に捕らえられた人々に思いをはせた。
    平成26年5月17日  大分合同新聞「灯」連載
2013年06月07日
  ウエールズの山

 5月中旬、由布岳(1584メートル)の山開きがあった。好天気に恵まれた新緑の中、県内外から家族連れなど、約4千人が山頂を目指したという。その様子をテレビで見ながら、私はイギリス映画「ウェールズの山」を思い出していた。
 映画の舞台は南ウェールズのとある村。ある日、イングランド人が地図作成のためにやってきた。「ファノン・ガルー」は村人にとって唯一の誇れる山、聖なる山だ。
 だが、測量の結果、それは299メートルの「丘」とみなされた。標高305メートル以上でなければ「山」として認められず、地図にも載らないという。
 村人にとっては一大事だ。自分たちの存在価値まで失われてしまう。再測量をしてもらうため、あの手この手で彼らの滞在を引き留め、大人も子どもも総出で、あと6メートル、バケツで頂上に土を盛っていく。
 やっと積み上げた夜、豪雨で土が流されたが、彼らの執念は揺るがない。3日後の再測量で、ついに「ファノン・ガルー」は「山」として地図に記されることになった。
 ストーリーは伝説に基づいているとはいえ、山の標高を変えるような大胆な発想と勇気に爽快感を味わった。登場人物が生き生きと描かれる村のありように共感しながら何度も胸を熱くさせた。流れるブラスバンドの音色も快い。

(口語俳句同人誌「あまのがわ」代表・由布市)   裏  文子

     2013年6月4日、大分合同新聞・夕刊、「灯」掲載
2013年07月12日
  笹鳴きの時
 朝日がまぶしい木立の中で、ウグイスが鳴いている。1ヶ月前には「チャツ、チャツ」と笹鳴きをしていたのに、今では「ホーホケキョ!」と辺りの空気を制している。
 生育期間が必要なのはウグイスに限ったことではない。創作にも思いを温める(熟成させる)時間が要る。その行程は苦しく、また楽しい〈笹鳴きの時〉でもある。
 「もしもし。締切を過ぎていますが・・・」。同人仲間に催促の電話をする。「忘れているわけではないんです。毎日かんがえているのですが、まだ・・・」
 弁解はいつものこと。私はおかしさをこらえて言う。「では2日待ちますから、頑張ってください」
 俳句は翌日、FAXで届けられた。締め切りを守らないのは困りものだが、何度も推敲を重ねた跡が見え、作品群は充実していた。
 俳句作家もいろいろなタイプがある。感覚型、熟考型、その併用型。とかく若手作家は、感覚的で観念的。その危うさが魅力となる。また年配者は人生経験に裏打ちされた奥行きを感じさせる。口語俳句は、五七五の型にも、季語にもとらわれない1行の自由詩。日常の言葉で表すので親しみやすいと思う。
 ネジリ鉢巻をして机に向かうより、料理や散歩をしている時の方が、ふっと言葉が立ち上がってくる。脳と心を解き放つと、いつも向こう岸から助け舟がやって来てくれるのだ。

   2013年         大分合同新聞「コラム」掲載
2015年01月21日
「年始めの風景」
 灯明に足元を照らされる午前0時の仏山寺境内。
 鐘楼では経を唱えた和尚が「ゴーン」と力強く梵鐘を突いた。除夜の鐘は霧が立ち込める由布岳の懐に吸い込まれ、その響きを引き継ぐように人々が後に続く。私も、重い撞木(しゅもく)に弾みをつけ、闇の中へ思いきり鐘音を押し出すと、煩悩が身から抜け出たような爽快さが残った。
 その足で坂道を下ると、金鱗湖畔の天祖神社から笛・太鼓のおはやしが聞こえてきた。おはやしは湖面に反響し、辺りに澄んだ音を広げていた。社殿に参って幣(ぬさ)を頂き、広場の薪に頬を火照らせながら、亀の井別荘から振る舞われたおいしい年越しそばをすする。
 神楽はゆるやかに始まっていた。庄内の平石神楽座による「大蛇退治」。愛らしいクシイナダ姫を演じるのは長老か、袖口から骨太の指がのぞく。酔いつぶれた大蛇が舞台から落下しそうなしぐさが絶妙だ。豪快に舞うスサノオノミコトが、大蛇の胴体から取り出した剣をかざすと、観衆から拍手が起きた。
 勧善懲悪のカタルシスが満たされることで、このシンプルな神楽のドラマは成就するが、今、世界の現状となると一筋縄ではいかない。宗教、民族、国家間の支配の構図、さらに自然災害や事故など、目を覆いたくなる状況が続く。私たちはただ平和を祈ることしかできないのだろうか。

 2015年1月15日 大分合同新聞「灯」掲載
             口語俳句同人誌「あまのがわ」代表
2015年08月13日
「図らずも」
 庭のアカプルコの花が5輪咲いた。霧雨にぬれながらユリ科特有の甘い香りを辺りに散らしている。
 どこまで伸びるつもりなのか、ネムやムクゲの木がびっしりと花を付け、すでに剪定を諦めた私を見下ろしながら空に向かう。
 ホタルブクロがほぼ咲き終わり、ミズヒキソウに季節のバトンが渡された。草花は地中でじっと出番を待ち、芽吹き、いっときの晴れ姿を見事に演じた後、消えていく。滅びと再生を繰り返す庭は、出会いと別れを繰り返す人の生きざまに似ている。
 近頃、福岡県久留米市出身(大阪府堺市在住)の大淵美喜雄という絵本作家から新刊案内のパンフレットが届いた。タイトルは「天使の庭」。表紙絵の舞台はランプが下がった森の中の家。背後の山際に大きな月が輝き、庭で少女や猫が楽器を奏でている。おや?見覚えのある風景だな。よくよく見ると、何とわが美術館の看板が描いてある。建物は改装したので、今ではモノクロフィルムになってしまった風景だが、それが絵の中では突如フルカラーとなって再現したのだ。紹介文に「心が疲弊してしまった大人に贈る、大人のための絵本」とある。
 図らずも絵本の表紙絵に登場したわが美術館は、その役割を再認識することになった。展示作家の夢や再生の思いが人々の心を癒してくれることだろう。

 2015年8月11日 大分合同新聞「灯」掲載
      (口語俳句同人誌「あまのがわ」代表・由布市
2016年01月07日
残留日本人
 昨年は本誌掲載の「戦後70年・伝える戦争の記憶」を興味深く読み、戦争を体験した人々の心情や、勇気ある発言に心打たれた。 年末には写真集「フィリピン残留日本人」を船尾修氏(日出町在住)が出版され、レンズを通して、まっすぐな視線の奥に刻まれた、苦悩の歴史に触れる思いがした。
 1945(昭和20)年、中国東北部旧満州へ、ソ連が日ソ不可侵条約を破り侵攻。そんな緊張時のわが家に中国共産党の八路軍の兵士たちが入ってきた。母はソ連兵かと身構えたが、八路軍の旧知の若者たちだった。
「早く逃げる用意を!」と言うので、母が急いで荷物をまとめている間、3歳の姉と私は兵士の膝に抱かれていた。
 満州が平安だったころ、新聞記者の父は「軍隊の飯はまずかろう」と、見回りの兵士を時々家に招き、母の手料理を振る舞っていた。義理堅い彼らは、母子を案じて駆けつけてくれたのだ。
 母は赤ん坊の命を思い量ったのか、お手伝いの中国人夫婦に私を預けた。が、兵士たちが鉄道まで送ってくれる途中、母はきびすを返し、私を抱いて戻った。母の一瞬の決断で、幸いにも私は残留孤児を免れた。
 アジア諸国には、今も日本人の証を残しながらも、日本に認知されてい人々が多くいるに違いない。彼らの存在を、時の流れとともに風化させてはならない。

2016・1・6  大分合同新聞「灯」掲載
2015年04月01日
「 ゆふいんこども映画祭」
 大人と子どもが出会う映画祭として始まった「ゆふいんこども映画祭」。26回目となった3月7日、実行委員会よりすぐりの作品が今年も上映された。わが家の孫たちと夫は、おにぎり持参で朝から参加。私は夜の部の「少女は自転車にのって」を鑑賞した。
 物語の舞台はサウジアラビア。今もなお、男尊女卑が色濃く残る中、1人の少女が周囲に反対されながらも自力でお金をため、自転車を手に入れた。少女が街中を自転車で疾走するラストシーン、その爽やかな表情に、国の未来が予感できた。
 昨今、私たちは青少年の悲惨な事件に心を痛めることが多い。
日常的に、子どもは大人社会のどこにいるのだろうか。また大人が失ってしまったものは何だろうか。そんな問い掛けに、映画は何らかの示唆を与えてくれそうな気がする。
 毎回優れたアニメが何本も上映され、ワークショップも行われてきた。これまでの印象深い映画は「友だちのうちはどこ?」「ライフ・イズ・ビューティフル」「100歳の少年と12通の手紙」「ベイブ」「鉄塔武蔵野線」「シコふんじゃった。」など列挙しきれない。
 「大人と子どもの世界を超えて、訴える力のある映画を上映する」。主催の由布市教育委員会と、こども映画祭実行委員会が大切にしてきたコンセプトだという。

  3月28日 大分合同新聞「灯」掲載 「あまのがわ」代表

2014年12月11日
街の灯

 11月中旬から6日間、大分市旧西新町通共栄会主催の「ウエストニュータウン・キネマフェスタ〈昭和のキネマ館>」が開催された。豊後大野市出身・埼玉県在住の活動写真弁士・麻生八たさんの公演を軸に、国内外の名画が上映された。
 この街には大正時代から60年続いた映画館「喜楽館」があった。当時は大分の浅草と呼ばれるほどに商店が並び、人々が行き交った。喜楽館の存在は街のコミュニティーの場だったようだ。
 映画は押しなべて言えば人間愛のドラマだと思う。近年、映像はデジタル化され、閉塞された「個」の世界で楽しむことが多いが、時には開放された「衆」の空間の大画面で臨場感を味わうのもいい。
 会期中4回の活弁公演では八たさんの迫力に圧倒された。せりふが先か、役者が先かと見まがうほどの一体感にも魅了された。最終回は、チャプリンの「街の灯」。盲目の花売り娘に寄せる彼の温かいまなざしに包まれながら、会場のアートギャラリー、ザ・ブリッジを後にした。そぼ降る雨の中、裏街の灯が妙に親しく胸に迫った。
 11月22日から24日まで、同会場で芸短フェスタ「大分わかもの映画祭」が行われた。映画祭のない大分市で、大分ゆかりの映画監督(瀬木直貴、高木聡、瀬々敬久、山本政志)を招き、作品上映と若者たちの交流会が開かれた。
  12月4日、大分合同新聞「灯」掲載
2015年02月28日
赤瀬川原平さんが残したもの
 あの日、赤瀬川原平さんは皮ジャンとブルージーンズで湯布院にみえた。色紙にサインをお願いすると、かわいい猫の絵を添えてくれ「猫、好きなんですよ」。彼ははにかみに近い笑顔で言われた。その時、芥川賞受賞作「父が消えた」と「雪野」の印象的なシーンについて私の感想を述べさせていただいた。
 昨年10月、77歳の彼の訃報に接した。風倉匠さんに続き、ネオ・ダダの灯がまた一つ消えてしまった。
 いま、大分市美術館で「赤瀬川原平の芸術原論展」が開かれている。433点の、絵画、オブジェ、巨大模型千円札、トマソン(無用の長物)の写真やカメラ、マッチのラベル、ちびた鉛筆などの収集品が並ぶ。原平さんは、高度成長期に捨てられたり、陰に隠れてしまったものと対峙し、まるで時代を俯瞰するプロデューサーのようなまなざしですくい取っていた。
 私たちはこれまで、何を大切に記憶し、何を排除してきたのだろうか。好きな作品に「宇宙の缶詰」がある。かに缶のラベルを内側に貼って密閉し、宇宙を閉じ込めることによって価値観を反転させたのである。
 そのような視点はベストセラーになった著書「老人力」にも見られる。老化による衰えを「老人力がついてきた」とプラス思考に置き換え、肩の力を抜いて生きることの大切さを述べている。

2015年2月19日 大分合同新聞「灯」掲載
2015年07月12日
「野のごちそう」
 家庭菜園のまね事をしてレタス、トマト、ピーマンの苗を5,6株づつ植えた。日々増殖する葉物の勢いに感嘆し、トマトの色づきに心躍らせている。フキやミョウガやシソは、その隙間を縫って自らの領域を広げた。
 今年も、指先をあくに染めながら、フキの香りをコトコトと炊いた。山菜の香は山里でこそふさわしい。
 両手に野菜を抱いて、菜園から台所へ直行できる幸せ感は言葉にならない。
 生まれたばかりのカタツムリが、透明な殻を背負って葉上を歩む姿はかわいいが、巨大ナメクジや、モグラの穴には閉口する。ミミズは土を耕し、改良してくれるという。わが家の肥料は自家製のボカシなので、有機の土はミミズにも好都合らしい。
 回覧板を届ける近所の佐藤家の畑は、多種類の野菜がいつも青々と茂っている。添え木や覆いなどが細やかに行き届き、見ているだけでほれぼれしてしまう。この適度の広さと日当たりが、私の理想とする菜園である。
 近頃、庄内の農家から米や無農薬野菜を分けていただいている。重量感あふれる根菜や葉物野菜。ズッキーニ、カリフラワー、スティックセニョールなど、おしゃれな名前を持つ野のごちそう。都会から移住された若い生産者の頑張りが、わが家の娘たちも巻き込み、安全・安心な地域の関係性を構築していく。

    2015年7月11日 大分合同新聞「灯」掲載
2017年01月05日
「明日を照らす」
 被災地から転向してきた小学生の手記がある。「いままでなんかいも死のうとおもった。でも、しんさいでいっぱい死んだからつらいけどぼくはいきるときめた」。いじめを受けながらも必死に生きようと決めた少年に心からの声援を送りたい。手記は私にある歌を思い出させた。
 避難所になった釜石小学校で、みんなで歌った校歌(井上ひさし作詞、宇野誠一郎作曲)があった。それはやさしい言葉で軽快に、力強く生きるための知恵を内包していた。井上ひさしは震災の前年に没。残された言霊は、蚕が吐き出す透明な生糸のように、キラキラと輝きながら明日を照らした。たとえどんな苦境に立とうとも、希望を捨てない子どもたちへの応援歌だった。
@いきいき生きる/いきいき生きる/ひとりで立って/まっすぐ生きる/困った時は目をあげて/星を目あてにまっすぐ生きる/息あるうちは/いきいき生きる

Aはっきり話す/はっきり話す/びくびくせずに/はっきり話す/困ったときはあわてずに/人間についてよく考える/考えたならはっきり話す

Bしっかりつかむ/しっかりつかむ/まことの知恵をしっかりつかむ/困ったときは手を出して/ともだちの手をしっかりつかむ/手と手をつないでしっかり生きる
 (口語俳句同人誌「あまのがわ」代表・由布市)
 
   2017年1月4日          大分合同新聞「灯」掲載
2015年05月04日
「二つの絵画」
 「すみません。常設作品の販売はしておりません」。今は個人美術館をしているので堂々と答えられる。
 以前、画廊をしていたころは状況が違った。大事にしていた私のコレクションを、毎月展示替えする個展会場とは別の壁面に掛けていた。コレクションは非売品なので値段はない。
 が、ある日、京都からの中年の男性が、故岩尾秀樹氏の小品「黄河炎流」の前から離れようとしない。「こんなすごい絵に関西では出合えない。ぜひ譲ってほしい」と、滞在日数を延長して画廊に通い詰めた。私は数日断り続けたが、ついに彼の熱意に負けた。
 あの炎えるような、大気逆巻く黄河の夕景は、その後の氏の個展でも目にすることはなかった。その絵を手放したことを晩年の岩尾氏に白状すると、「そうですか。そこまで気に入ってくださるなんて画家冥利に尽きます」と言われたが、少しさみしそうに感じた。
 また宮崎喜恵氏の日本画「想い」の前で、しきりに涙を拭っていた福岡の主婦に、「この絵さえあれば子どもと生きていけます」と懇願された。ご主人に急逝され、ふらりと訪ねた湯布院で、導かれるようにこの絵に出合ってしまったという。その決意の表情に再び私は折れた。人生の節目に遭遇した慈愛に満ちた作品は、今も母子に静かに寄り添っていることだろう。

5月2日 大分合同新聞「灯」連載
2015年06月12日
「デン・ズバリ・シーン」
 県立美術館の開館記念展で、世界の名匠たちの絵画と肩を並べ、異彩を放っていた宇治山哲平作品。この状況を一番に宇治山先生に報告したいと思った。また、先生のまな弟子である故・岩尾秀樹氏にも見てほしかった。前回執筆した「灯」で岩尾氏に触れたので、その流れでさらに記しておこうと思う。
   宇治山哲平も死んだ
   あんなに俺にやさしい人はこの世にいないと思う
   俺を愛し俺の大成を祈る彼の気持ちを
   いつもいつもありがたく感じていた
   ああ大分からエカキの匂いは消えた
   いまエカキバカはいない
 2年前、88歳で他界された画家、岩尾秀樹氏(国画会審査員)が書き残したエッセイ集「緑陰のひとりごと」が、ご遺族の手により刊行された。この詩は冒頭の章にある。制作の苦悩と楽しみが、画家のあるべき姿と切実な心情のまま、赤裸々に、珠玉の言葉でつづられている。度々登場する師・宇治山哲平への熱い思いが行間にあふれ出す。
 「いい絵は、デンとしていて、ズバリとした切れ味がある。そして静かな呼吸でシーンとしている」
 「デン・ズバリ・シーン」。師の言葉を思い出しながら、別府の山の上の1軒家で絵と対峙されておられた姿が浮かぶ。

  2015年6月9日・大分合同新聞「灯」掲載      裏 文子
2017年10月28日
阿修羅像
 
 高山辰雄先生が亡くなって十年になる。庭先から海につながる大分市春日浦で少年期を過ごされ、美術を学ぶため上京。以来、中央画壇で活躍された。私たちが高山作品に特別な親しさを覚える訳は、1983(昭和58)年から開催されている「高山辰雄賞ジュニア県美展」にある。郷土の子どもたちに絵画好きの裾野を広げられた功績の大きさを思う。旧県立芸術会館での授賞式に見えられた時、美しい銀髪と白く透き通るお顔に見とれてしまった。先生は当時「芸術新潮」にエッセイを連載され、その自然体で美しい文章に触れるのが楽しみだった。
 特に印象に残るのは先生が学生時代に奈良の興福寺で初めて阿修羅像を目前にした時のこと。あまりの崇高さに胸を打たれ、涙があふれて止まらなかったという。その後も何度か奈良を訪ねる機会があったが、年を重ね、あの時の感動を失っているのではないかと恐れて興福寺へ足を向ける勇気がなかった。が、晩年になって思い切って阿修羅像を訪ねてみると、昔と同じように心打たれ、涙があふれたことに驚き安堵されたという話だった。
 数年前、私も阿修羅像に会いに行った。帝釈天に娘を奪われた阿修羅は何度も戦いを挑んだ。眉を寄せ、憂いを含む少年のような表情に魅了されながらも、高山先生のように内に高ぶる感情はなく、自分の心の濁りに落胆するばかりだった。

  2017年10月25日 大分合同新聞「灯」掲載
2018年09月21日
ヴェニスの商人
 7月の「ゆふいん音楽祭」は小林美恵のストラディバリウスによるロマンス「揚げひばり」の美しい旋律にしびれた。穏やかな風とひばりのコンビネーションが豊かな宇宙観を感じさせた。
 8月の「湯布院映画祭」は佐藤浩市のオンパレード。楽しみにしていた「トカレフ」(阪本順治監督)は、観客に媚びない映画との前触れ通りナレーションなし。役者の渋い演技が男の闇の世界を堪能させた。が、最後まで謎が残る内容だった。
 湯布院へも何度か来られた米倉斉加年が亡くなったのは4年前。彼は福岡の高校の大先輩だ。小学生のころ、下校途中の駄菓子屋のおばさんがいつものように手招きしてあめをくれた。その店先で、学生風のお兄さんに図書館で借りてきた本を読んでもらったことがある。私だけのために読んでくれたお兄さんの記憶が突如よみがえったのは、大人になって偶然ラジオからあの独特の声が聞こえてきた時だ。すぐに経歴を調べると、やはり彼は近所の米屋の息子、あの駄菓子屋の隅に積まれていた米袋を配達していたお兄さんと合致した。
 大分市で開かれた講演会で開口一番、「ヴェニスの商人を知っていますか」。その迫力に聴衆はみな押し黙った。彼が描いたイラスト、金貸しシャイロックを眺めながら、米倉斉加年は何を伝えたかったのだろうかと時々思いを巡らせている。

 口語俳句同人誌「あまのがわ」代表・由布市
 9月17日 大分合同新聞「灯」掲載
2017年08月15日
一緒に帰ろう
 
 ゆふいん文化・記録映画祭で上映された「無音の叫び声」のシンポジウムに参加した。農業や里山を追うドキュメンタリー映画監督原村政樹はなぜこの映画を作ろうと思ったのか。
木村由夫は出会うとすぐに、「今晩うちに泊るべ?」。人懐っこくて飾らない彼の人柄に、都会に暮らす人たちにはあまり感じることのできない魅力を覚えたと言う。山形の牧野村の美しい風土に根差す農業。自然の恵みや脅威など、人知では及ばない自然の存在を身近に感じながら「百姓になれ」と言って戦死した父の遺言を守ってきた。
 近年、日本の大多数を占める小さな農家の声がかき消されている。物を見、発言のできる百姓にならなければ。彼は農村青年たちと詩の同人誌を結成。詩集は16冊にも及んだ。
 中でも、父親が戦死した中国の余家湾と言う村を訪ねた時の詩は哀切の情に満ちていて心打たれた。
 わたしはとうとう余家湾にやってきた/「おれの声が聴こえるか」/「この叫ぶ声があなたの耳もとに届いたか」/いまわたしはあなたの面前に立っている/一緒に帰ろう/姉や妹たちの待っている/日本に帰ろう/おやじよ/70年ぶりの親子ともどもまぎの村へ/いまも緑濃い大地へ/そして田圃へ出よう/畑へ行こう/ふたたび戦争などない/まぎの村の未来へ/一緒に/帰ろう(「まぎの村へ帰ろう」より抜粋)
  2017年8月12日・大分合同新聞「灯」掲載
2018年10月18日
83歳からの出発
 「お知り合いで83歳以上の方はいませんか」。実行委員会はこの8年間、同じ質問を繰り返してきた。
 湯布院の老人ホームで83歳から晩年まで100点余りの水彩画を描いた東勝吉翁にちなんで始まった公募展「陽はまた昇る〜83歳からの出発」。JR由布院駅アートホールでの隔年開催は5回目を迎え、全国からの出品者が今年は62人となった。
 2日目の台風接近のさなか、14人の出品者と関係者約60人を迎えてのフォーラムを開いた。5回連続の出品者もいて年ごとに充実、思いが詰まった力作ぞろい。「金鱗湖朝霧昇竜」を描いた男性は社会のお役に立ちたいと再就職をしながらの制作だという。戦時中グラマンが盆地の空を飛び由布院駅に爆弾が落ちた話もされた。映画館の看板絵師だった100歳の男性は、四季の変化がある山の美しさをもっと描きたいと意気込みを示された。
 美しい風景や季節の花々を丁寧に描く人、災害の復興を願い「小鹿田の里」で働く人々を温かい視線で描く人。二・二六事件の朝の思い出や長崎の記憶」あの日のキノコ雲」、海軍航空機の炎上を描いた「宇佐空炎上」などは、作者たちが戦争を体験した世代で貴重な歴史の証人だからこそ生まれた。
 わが町の長老、中谷健太郎は「あの世とこの世]と題し陰影を含む作品を寄せている。同展は29日まで。

10月17日 大分合同新聞「灯」掲載
2019年01月05日
殿下の和菓子
 湯布院から竹田までの山中は通い慣れた道だ。10数年前、今年創業215年になる竹田の但馬屋老舗の私家版「暖簾とともに」の出版を依頼された。記憶力抜群だった当時88歳の会長「故・板井ヤスエさん)の思い出話を中心に戦前からの和菓子作り、嫁や母として夫亡き後の暖簾を守り抜いた姿に焦点をあてながら城下町竹田の歴史をひもとくことになった。
 献上菓子「夜越の月」(後の「荒城の月」)や、日露戦争の傷病兵のために作った「千歳木」などの味を継承しつつ創作菓子にも力を入れている。
 印刷所へ最終入稿の日、気になる箇所があった。それは1924(大正13)年3月、別府日名子旅館の主人からの毛筆の便りだ。
「殿下はご同係泊りの日は御召しにならず余り大なる物にては無きかと思われ候につき御朝食前折半のうえ差し上げ候ところ1ケ御召しに相成り候、向て御随行の文武官6人つつしみ賞味せられ候次第に御座候」とある。和菓子をおいしそうに食される情景が目に浮かぶが、文中の「殿下」とは。
 県立先哲資料館に問い合わせると、来県されたのは秩父宮さまだった。前日の宇佐神宮ご参拝などの記事が1面に大きく報じられていたのをご覧になり、大変喜ばれたとか。そのほほえましい光景に親しみを覚えた。
 新しい年が安穏な日々でありますように。

2019年1月5日 大分合同新聞「灯」掲載
2018年11月27日
水の森全国俳句大会
 わたあめは入道ぐもののこりかな    宇藤総司(大分・小学)
 春風のたっきゅうびんがまだこない   西森詩竜(高知・小学)
 風鈴が風に呼ばれて返事する      片倉大和(佐賀・中学)
 引っ越した友の玄関つばめの巣     加来楓夏(福岡・中学)
 満員電車揺られる私と単語帳       林 実夢(愛知・高校)

 11日、国民文化祭「水の森全国俳句大会」がパトリア日田で開催された。掲句は小・中・高校生の部、4005句の応募から選ばれた入賞作の一部。一般の部の応募は2446句だった。多くの入場者とともに、全国からの選者が14人参列し、私も結社代表として参加した。
 壇上に緊張した面持ちで上がってくる受賞者たち。賞状を読み上げる私の顔を食い入るように見つめていた少年のまっすぐな瞳が心に強く残った。
 この子どもたちが大いなる自然界や人々、生き物たちや社会の変化などにも繊細なまなざしを注ぎながら、豊かな感性を育み続けてほしいと思う。そして広く自由に、俳句という短い詩を自分の言葉で発信しながら成長してほしいと願うばかりだ。国民文化祭への参加が今後の創作の励みとなればうれしい。
 その日は日田天領まつりの2日目。広場にはたくさんの出店が並び、活気にあふれた街の空気に触れることができた。

口語俳句同人誌[あまのがわ」代表・由布市
2017年07月07日
ユズリハ
 短期入院していた時、消灯時間が迫った病室のカーテン越しに老夫婦の会話が聞こえた。
 「医者は力を尽くしてくれた。今度の手術でダメだったら、おまえもいよいよ諦めんといけん。長いこと、よう頑張った」「うん。私が死んだら、あなた泣いてくれる?」「そりゃあ、泣くよ。でもわしは人前では泣かん。1人で仏壇の前で泣く」
 枕元の照明で読書をしていた私は、図らずも耳にした会話にそっと息を潜めた。手術前夜、妻にねぎらいと覚悟の言葉を掛ける夫。甘えるように渾身の思いで夫に問い掛ける妻の心情が胸に染みた。
 庭のユズリハの木がいつの間にか見上げるほど成長し、青空に両手を広げている。新緑の若葉ははちきれんばかりに輝き、下方の精彩を欠いた葉は耐えながら落葉の時を待っているかのようだ。ユズリハの木は常に生と死が共存している。それは3世代が共に暮らすわが家のパワー度の比例図に似ている。小学生の孫は小さな自分の菜園を持ち、やたらと種をまくのでつるは伸び放題。後の仕事は私に回ってくる。夫は送迎の車中でのおしゃべりが楽しそうだ。
 これからは1病息災のことわざに倣い、穏やかに歩を進めつつ個人美術館の充実とその文化的役割を果たしていきたい。「置かれた場所で咲きなさい」。亡き渡辺和子氏の言葉をかみしめながら。

2017・7・5  大分合同新聞「灯」掲載
2018年06月04日
絵の中の青年
 中津市出身の画家・糸園和三郎(1911〜2001)の作品に「鳥と青年」がある。大病に侵されていることを告知された作者が直後の不安感の中で制作されたという。
 弧を描くように空へ飛び立つ5羽のハト。それを見上げる青年と、地面から飛び立てないでいる一羽が描かれている。詩情あふれる夕暮れの空。色調豊かにくぐもる空気感と、画面の隅に切り込まれた闇の世界。
 作者の生と死の境界を暗示させ、孤独や不安と対峙しながらもキャンバスに向きあい続ける情念が感じられる。ハトを見ている青年の「状態」を描くというよりは画家の心象風景としての「存在」を表現しているようだ。閉館した県立芸術会館の入館チケットに使用されていたなじみのある絵でもある。
 以前、中津から来られた初老の男性が「あの絵のモデルは学生時代の僕です」と言われたのには驚いた。伝書バトを数羽飼っていた彼は、糸園画伯に請われてスケッチのためのポーズを取ったという。
 青年の姿は画家の目にどのように映ったのか、彼に託した思いが画面に見え隠れする。青年のやや膝を曲げた立ち姿はジャコメッティの彫刻を思わせた。
 絵の中の青年は今もお元気だろうか。「鳥と青年」は6月8日から
7月31日まで県立美術館コレクション展U「内なるものを見つめて」で紹介される。

2018・6・1  大分合同新聞「灯」連載
2017年04月23日
「帰郷」
 3月末の八ヶ岳パーキングエリアは雪が舞っていた。幼い日を過ごした山梨県南アルプス市の親戚の家に間もなく到着することを知らせる。あの頃の夕暮れ、槍ヶ岳の先端が真っ赤に染まると、遊びをやめて帰った。
 アルプスの屹立した雪稜を脇に見ながら、娘の運転に身を委ねる。
 昨日、湯布院を出発し、琵琶湖畔の宿に泊り、ひたすら走り続けてきた。カーステレオはアルゲリッチのショパン。なじみの旋律を口ずさむ。
 娘に見せておきたい私の古里。坂を上がり、遊び場だったお堂を過ぎて家に着くと、玄関の向こうから車椅子の叔父が顔をのぞかせていた。教師だった叔父方は桃園・米作・養蚕をしながら、引き揚げ者の私たち姉妹を育ててくれた。
 家畜の世話係だった私が鶏の餌を抱えて20羽ほどの鶏舎に入ると、子どもと見て止まり木から飛びかかられ、卵を取ろうとすると手の甲をくちばしで突かれた。綿羊が甘えた声で鳴き、刈られた毛は私たちのセーターとなった。桑の葉が朝露に光り、蚕は低音通奏の雨のように、ミシミシと桑をはむ音をくぐもらせた。亡き叔母はくず繭から生糸を紡ぎ、染色、機織りをし、きれいな服にしてくれた。
 92歳になる叔父は息子とヘルパーに見守られて平穏に暮らしている。
 富士山は輝きながら、雲間からヌッと顔をのぞかせていた。

2017年4月22日 大分合同新聞「灯」掲載
2019年10月29日
どこかに
 茨城のり子のしなやかで強靭な詩を当時編集していた会誌「風の計画・ふくろうが翔ぶ」(92ページ)に掲載させてほしいと思った。発行人の中谷健太郎さんも大いに賛同してくれた。
 転載許可を得るため、まず詩集の出版社に電話。作者の生存を確認し、住所を教えてもらった。初めは著名な詩人に安易に許可が頂けるものだろうかと心配したが、そこは中谷さんのこと、毛筆で丁重な依頼の手紙をしたためてくれた。
 間もなくご本人から快諾の返事が届き、その上、驚いたことに前年、亀の井別荘にペンネームではなく本名で宿泊されていたという。老舗旅館の客層の厚さを思った。
 こうして念願の詩は冊子の初めの見開きに掲載。山野に林立する電柱風景の写真を背景に置き、人々の暮らしをイメージした。
 
 「六月」    茨木のり子
@どこかに美しい村はないか/一日の仕事の終りには1杯の黒麦酒/鍬を立てかけ/籠を置き/男も女も大きなジョッキをかたむける

Aどこかに美しい街はないか/食べられる実をつけた街路樹が/どこまでも続き/すみれいろした夕暮れは/若者のやさしいさざめきで満ち満ちる

Bどこかに美しい人と人との力はないか/同じ時代をともに生きる/したしさとおかしさとそうして怒りが/鋭い力となって/たちあらわれる
  
2019・19・29、大分合同新聞「灯」掲載
2020年02月22日
よみがえった勝吉さん

 1昨年の夏、東京都美術館から湯布院のアート委員会にうれしい知らせが届いた。東京五輪・パラリンピック開催中に故・東勝吉さんの作品35点が都美術館に展示されると言う。世界から選出された5人の企画展(7月18日〜10月9日)のテーマは「Walls&Bridges−世界にふれる、世界を生きる」。町内では展覧会を盛り上げようとアートや福祉、行政、観光関係者らが実行委員会を立ち上げ、話しあった。  
 日田で生まれ、きこりをしていた勝吉さんは湯布院町の特別養護老人ホーム「温水園」に入所していた。83歳から99歳で亡くなるまで、四季の山々や川の流れ、人々の営みを題材にした手あかのつかない素朴な水彩画を100点余り描いてきた。画家・安野光雅氏は著書「会いたかった画家」の中で、「計算なしのうらやましい感覚」「水を得た魚のように」と絶賛する。
 都美術館の企画展後にJR由布院駅アートホールで「東さん里帰り展」(11月29日〜12月26日)を計画。さらに東さんにちなんだ「陽はまた登る〜83歳からの出発〜全国公募展」(隔年、6回目」は来年2月に予定している。
 吉報を受けた夜、仲間と都美術館の方を案内して源流川の蛍を見に行った。小川の暗闇から弧を描いて舞い上がる蛍火に勝吉さんの魂がいきいきとよみがえったように思えた。

2020年2月22日
大分合同新聞「灯」掲載
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ドルドーニュ通信