・『三月のライオン』1〜6巻 (2017年5月15日)
『三月のライオン』1〜6巻を拝読し、色々と考えさせられました。
「「潔い」のと「投げやり」なのは似ているけど違うんだ!<中略>自分を大切にしてくれ!」(2巻より)
故・村山聖九段をモデルにした二海堂が主人公の零に叫びます。
故・村山九段は「どんな時も挫けずに将棋に相対した」と紹介されていました。
事件当時の私を振り返りますと、不合理な指示に対して宗教的実践として従うことを「潔い」と美化していたところがあったと、ハッとしました。実際は半端で「投げやり」であり、自分がめちゃくちゃになっていく中で、自分を大切にできなくなると同時に、他者に対しても大切にできなくなっていったと気づきました。
これはカルトの恐ろしさの一つです。
「桐山のアタマをかち割ってやって欲しいのです」(3巻より)
と、二海堂は兄弟子に、壁にぶつかっている零を将棋で打ちのめすように頼みます。
零は勝つつもりでいたものの、あっけなく負けます。
「まず感じたのは衝撃、そして次に襲ってきたのは、嵐のような「恥ずかしさ」だった。<中略>そして気付いた、この人は全部、全部見透かしたうえで、こうして静かに座っているのだという事」(同)
これが本物の師弟だと感動しました。
事件当時の教団のグルと弟子との関係とはまるで違います。麻原は弟子のアタマをかち割るようなふりをして、信者の人格を解体して、自分の思い通りに利用しようとしていました。
不合理な指示や扱いをされ、衝撃を受けて信者は自分を見失うばかりです。
零のように、自分で自分の姿を自覚していくこととはまるで逆でした。
将棋の師弟制度はとても興味深いです。
「師匠といっても何かをする義務はありません。弟子にとってもそれは同じ。」と紹介されています。
これは将棋に限らず、道と呼ばれるものの、本来の姿かもしれません。それは一人一人の個体性を通して道を実現していくものだからです。それが組織化されて制度となり、その中に限定されれば、本物の人として成長はないと、当時の過ちからも痛感しています。
「不思議だ ひとはこんなにも時が過ぎた後で 全く違う方向から 嵐のように救われることがある」(5巻より)
零が世話になっている3姉妹のひなたは学校で友達をかばったためにいじめにあいます。
「後悔なんてしないっ しちゃダメだっ だって私のした事はぜったいまちがってなんかない」(同)
と、ひなたは泣きじゃくります。そう言い切った彼女を見た零は、かつて自分が学校の中でいじめられ、ひとりぼっちであった時に、ひなたが手を差し伸べてくれたように受け止め、
「ありがとう 君はぼくの恩人だ 約束する 僕がついてる 君に 恩を返すよ」
と、語りかけます。
不思議です。過去と現在がリンクして同時に変化していきます。
ひなたが友達をかばったのは、誰に言われたからではなく、「見て見ぬフリを」できなかったからでした。
改めて、カルト教祖の言いなりとなり、見て見ぬフリをして、救済の名のもとに大罪を犯してしまった罪の痛みと、自分の愚かさをかみしめています。
2017年5月15日 井上嘉浩