月刊カノープス通信
2004年3月号

 目次

・季節の便り
・今月の勘違い
・近況報告『お便所の神様』
・近況報告『未知の味』
・『私のヘンな食習慣』
・読書録
(『海より生まれし娘』『裔を継ぐ者』『夢の岸辺シリーズ』他)




 季節の便り

 今年の桜の開花はどうなるのでしょうか。暖冬だったから早いかな?
 桜前線より一足早く桜の壁紙にしてみました。
 3月も終わりごろになれば関東地方でも桜が咲いてる可能性が高いし、どっちみち沖縄ではとっくに咲いてるんだし、気分はもう春ですよね(^^)




 今月の勘違い

 毎度おなじみ、あいかわらずのとんちんかん会話集です。

★私(スーパーのチラシを見て):「赤卵(あかたまご)48円だって!」
 夫:「えっ? バカどもが48円?」

★子供たちがテレビでアニメを見ている音声だけ聞いていたら、 「君が居たから冷え性で来た」というセリフが聞こえました。
「なにそれ???」と思ったら、どうやら、本当は、「君が居たから優勝出来た」だったらいしです。

★これも子供たちが見ていたアニメの音声で、 「激辛カードを3枚!」というセリフが聞こえたような気がしたのですが、これは、「デッキからカードを3枚」だったらいしです。

★週刊誌の広告の見出しに『NHK美人局アナがどうこう』と書いてありました。
 「えっ、NHK美人局(つつもたせ)アナ? NHKのアナウンサーが美人局(つつもたせ)をやって捕まったというスキャンダルか?」と、とっさに思ったんですが、、考えてみたら、あれはたぶん、『つつもたせアナ』じゃなくて、『美人(びじん)局(きょく)アナ』だったんですね……(^^ゞ
 いえ、でも、その記事、見出しを見ただけで実際に読んだわけじゃないので、本当に美人局(つつもたせ)の話だったのかもしれませんが……。そういえば美人局って、死語?

★先日、あるフリーソフトをダウンロードして、その説明を読むと、『これを動かすには○○(←何か難しい名前)というソフトウェアのインストールが必要』というようなことが書いてありました。その時の会話です。
 私:「これを動かすにはなんとかって言うソフトウェアがいるって書いてあるよ」
 夫:「えっ、なんとかって言うコスプレーヤーがいる?」




 近況報告『お便所の神様』

 12月号で、私は良く知らないうちに青アザが出来ているという話をしましたが、先日たまたまパート仲間と雑談していたとき、『仕事中にいつのまにか手に傷ができてた』という話から、『知らないうちに出来るアザ』の話題になりました。

 彼女によると、「知らないうちに青アザ(彼女の言い方によると『青マグレ(方言?)』)が出来るのは、お便所に入るときにちゃんと『こんばんわ』と言わないからだと、子供の頃、よく母に言われた」というのです。

 なんで誰もいないトイレに入るのに『こんばんわ』なんて独り言をいわなければいけないのかと、目が点になったのですが、話を聞いてみると、『お便所の神様』に挨拶しなければいけないのだそうです。
 昔は厠に神様がいると言った話はよく聞きますが(他にも台所とか、家中の要所要所に神様がいたらしい)、トイレに入るときに神様に挨拶がいるなんて、初めて聞きました。

 彼女は私より少しだけ年上の人なのですが、子供の頃は、親に言われて、ちゃんと、トイレに入るときは、誰もいないところに向かって『こんにちは』『こんばんわ』と言っていたそうです。そのお母様は、今でもちゃんと挨拶してトイレに入るそうです。
 そういう民間信仰って、まだ現役で生きていたのですね。

 私によく青アザができるのは、トイレに入るのに挨拶をしたことがなかったからなのでしょうか……(^_^;)




 近況報告『未知の味』

 最近、BSE騒ぎで牛丼がやたらと話題になりましたね。
 テレビでも新聞でも、牛丼がなくなると大騒ぎ。なんでも、吉野○の牛丼が無くなった日はテレビなどの取材が殺到して、たまたま最後の一杯を食べた人は食べてるところをテレビに撮られたとか(^_^;)
 うちでとっている新聞でも、『庶民の生活に欠かせないあの牛丼が消費者から奪われる! 大変だ!』みたいな感じで大騒ぎしていたのですが、私、それがちょっと意外だったのです。

 というのは、私は牛丼というのがそんなに一般的な食べ物だとは、ぜんぜん知らなかったのです。
 そんな、食べられなくなったからといって大勢の人が困るような、日本の庶民に欠かせない国民的な食べ物だなんて思ってもいなかったので、この騒ぎに、びっくりです。
 もし、これが牛丼ではなく、『日本からハンバーガーが消える!』とかだったら、私も『それは大変! 今のうちに食べとこう』とマ○ドナルドに走ったかもしれませんが……。

 実は私は、生まれてから一度も、○野家にもそれ以外の牛丼屋にも入ったことがないのです。
 牛丼屋に行ったことがないだけでなく、実は牛丼という食べ物そのものを食べたことが無いかもしれず、さらに、実は、それがどんな食べ物かも、よく知らないのです。
 そういえば、昔、私が牛丼を食べたことがないと聞いた夫が、『牛丼とはこういうものだ』と言って家で牛丼を作ってくれたことがあったような気もしますが、どんなものだったか良く覚えてないし、それが外で食べる牛丼と同じものだったのかも定かでありません。

 なんで私が牛丼を食べたことがないかというと、ひとつには、そもそも丼モノ全般がそれほど好きでないというのもあります。
 カツどん・親子丼・玉子丼だけはOKですが、それ以外の見慣れない丼モノは、基本的に食べる気になれないのです。
 なんでかというと、そもそも、ご飯とおかずが混ざっていること自体に抵抗があるのです(^_^;) ご飯とおかずは、あくまで別々に食べたいのです!
 カツどんや親子丼は、カレーライスとか『うな重』とか同じで、『ご飯とおかずが混ざってる』のではなく最初から『そういう料理』だと思っているのでOKなんですが、中華丼なんて、大人になって初めてその存在を知ったときには、
(えっΣ( ̄ロ ̄|||) あんな、八宝菜みたいなものをご飯に乗せてしまうなんて、まさかそんな! 信じられない!)と、がーんとカルチャーショックを受けたものです。で、未だにどうしても中華丼を食べる気になれません。
 あと、ビビンバも未だに食べられません。われながら偏屈です(^_^;)
 私って、もしかしてすごい偏食家なのでしょうか……?

 そして、吉○家に入ったことのないもう一つの理由。
 それは、食べるのが遅いから(^_^;)
 私、昔から、食べるのがすごく遅いのです。猫舌なせいもありますが、冷めてるものでも遅いのです。
 で、牛丼屋というのは、入ったらすぐに注文して、出てきたら素早く食べ終わり、さっさと立って出てゆかなければならない所のような気がして、私のようなノロマがうかつに近づいてはいけない禁断の地のように思えたのです。

 あと、牛丼といえばボリュームたっぷりというイメージもあったので、昔は小食だった私は、全部食べられなさそうなさそうだというのも、牛丼屋を敬遠していた理由の一つです。
 今でこそそれなりに食べますが、昔は、私、ほんとに小食だったので、外食の時、量の多そうなものは絶対頼まないことにしていたのです。
 それで、家族で外食して弟妹がステーキセットとか頼んでる横で、一人、それなら残さずにすみそうなホットケーキだのフレンチトーストだの(夕食なのに!)を頼んだりしていたのです。
 あと、これは今でもたまにやることですが、もし、ぜひともステーキだのハンバーグだのが食べたい時は、パンやご飯のついたセットではなく、単品で頼んで、おかずだけ食べるのです。それなら残さなくてすむので……(^_^;)
 もともとご飯とおかずは別々に食べたいほうなので、よほどしょっぱいもの以外なら、おかずだけでもぜんぜん平気です。さすがに和食の時はご飯が欲しくなりますが、洋食なんて、もともと、コースのときはおかずだけ先に食べて最後にパンを食べたりするものなんだから、別にそんなにヘンじゃないはず……だけど、やっぱりヘンですかね(^_^;)

 最近では、けっこう、OLさんなども○野家に入るようになったらしいですが、昔は、吉○家といえば、安くて早くて量が多く、素早くかーっとかっ込める大食いの男性しか入れないようなイメージがあったのですよ。
 どれにしようかな〜と長々と悩んだり、いつまでものんびり席に座って、ちまちまとご飯をつっついて、のろのろ食べて、あげくに食べ残したりすると、お店のおじさんや周りの男性たちに白い目で見られそうな、ちょっと怖いイメージが……(○野家さん、ごめんなさい。頑固オヤジのすし屋じゃあるまいし、まさか、食べるのが遅いからってお店の人に怒られるなんてわけ、ないですよね。分かってます、分かってますけど、気後れしちゃうんです……)。

 そんなこんなで、未だに吉野○に一度入ったことがなく、牛丼がどんなものかも知らない私って、もしかして天然記念物級に時代遅れなのでしょうか……。いやほんと、牛丼がそんなにメジャーな食べものだなんて、ちっとも知りませんでしたよ……。




 『私のヘンな食習慣』

 上の牛丼の話で、私は外食の時、夕食なのにホットケーキを食べたり、ご飯を食べずにおかずだけ頼むことがあると書きましたが、実は、家でも結構ヘンな食事の仕方をしています。

 私は、家で食事をするときも、おかずが特にしょっぱい和食のとき以外は、ご飯とおかずを一緒に食べません。おかずを全部食べ終わってから、ふりかけやうめぼしと一緒にご飯を食べます。
 これは、昔、すごく小食だった頃の名残です。実家では、通常、おかずは一人分づつお皿に取り分けられていたのですが、小食だった私は、一人前のおかずを食べ終わると、もう、ご飯がほとんどおなかに入らないことが多かったので、まずおかずを全部食べてしまった後、おなかの残り容量に合せて調節してご飯を食べる習慣がついたのです。おかずの食べ残しを防止するための工夫だったのです。

 しかも、私には、そのほかにももう一つヘンな食習慣があって、メニューにもよりますが、おかずを食べるときも、いろいろ交代で食べず、一品づつ順に片付けていくのが普通なのです。
 これは、それぞれのおかずの後味が混ざるのが嫌だからです。
 ……こう書いていて、自分でも、あらためて、かなりヘンだと思いました……(^_^;)




 読書録

(注・この読書録は、あくまで私の備忘録・個人的な感想文であって、その本を未読の人にマジメに紹介しようという気は、ほとんどありません(^^ゞ (……たまに、少しだけ、あります)。 ただ、自分の記録のためと、あとは、たまたま同じ本を読んだことのある人と感想を語り合いたくてアップしているものなので、本の内容紹介はほとんど無いことが多く、ものによってはネタバレもバリバリです。あまり問題がありそうな場合は、そのつど警告するか、伏字にしています。)


海より生まれし娘(上・下) (シャーリアの魔女第一部) ハヤカワ文庫
 翻訳モノのSFファンタジー・ロマンス(?)。三部作のうちの第一部です。
 先月、私が好きな物語の始まり方のパターンのはなしをしましたが、この、『シャーリアの魔女』も、ほぼそのパターンかな。
 何も知らないで普通に生きている少年少女の前に特別な運命が降りかかるというタイプ。
 これのヒロインの場合、最初から自分が特殊な能力をもつ魔女であることを知っていて、その能力を治療師の仕事にひそかに活かしつつも迫害を恐れて海辺の洞窟に隠れ住んでいるのですが、最初からかなり特殊な境遇にあるとはいえ、彼女にとってはそれは普通の日常であり、そこに大きな運命の波が襲い掛かるという点で、ほぼ、そのパターンだと思います。

 どうやらヒロインと領主との恋愛がメインらしいのですが、恋愛モノらしくなるのは下巻の後半になってから。それまでは、長い長い導入部という感じです。

 どうも、恋愛物としては私に感情移入できるタイプの作品ではなさそうなのですが、SFファンタジーとして楽しめることを期待しています。
 恋愛について言えば、相手に奥さんがいるのがネックですねえ。
 その奥さんが嫌なやつなら、まあいいんだけど、夫婦仲はぎこちないもののとりあえずそれなりに善い人で、ヒロインも彼女を好いているので、なおさらです。
(この下、先の展開についての私の予想が書いてあるので、読みたくない人のために反転させておきます)
 私の予想では、あの奥さん、たぶん、やむを得ぬ事情で死にますね。でないとヒロインたちの恋が読者の共感を得られる形で成就できないもん。あの奥さんを不幸にして結ばれても後味悪いですもんねえ。

 ここから、ちょっと話がそれますが……。
 それにしても思うのは、海外の作品って、導入部がゆったりしてるなあということ。
 海外の作品って言ったっていろんな国のいろんな作品があって、私が主に読むのは欧米の児童文学とSF、ファンタジーが主なんですが、最近の日本の軽めの児童文学やライトノベルを読みなれていると、全般に導入部がゆったりしていると感じます。日本で翻訳されて私が読むのがたまたまそういうもの中心なだけかもしれないけど、児童文学でも、日本の子供は、ここでこんなにゆっくりしてたらもうついて来ないよ、みたいな。日本の子供と若者は特別短気なのでしょうか?(^_^;)

 この本とはぜんぜん関係ない話になっちゃうんだけど、児童文学でよくあるのは、例えば転校生が主人公のものなら、事件なり冒険なりが始まる前に、転校生が新しい学校になじめないで鬱々としている描写が延々と続くというもの。
 そこで自分の体験を重ね合わせて主人公に感情移入させるようになっているのでしょうが、最近の日本の軽めの児童文学やライトノベルなら、まず、最初の数ページ以内に事件を起こして読者の興味を引きつけようとするのが定石じゃないですか。
 日本でも、そういえば30年くらい前の児童文学なら、本題に入る前に延々と前フリがあるようなものが多かったような気もしますが、当時はぜんぜん普通だと思っていたものを、今読み返すと、(私も含めて当時の子供は良くこんなもの読めたなあ、いい作品だけど、今の子は読まないだろうなあ)と思うことが多いです。
 私、個人的にはゆったりした導入部が大好きなんですが……。

 話は戻って、これも、なにか事件が起こる前にまずその世界に馴染み、ヒロインへの感情移入を徐々に深めさせてもらえるタイプの、ゆったりした導入の仕方で、個人的には好きなタイプの導入部です。
 特に楽しかったのは、ヒロインが洞窟にすんでいること!
 私、洞窟生活のお話が、異常なほどに好きなんですよ〜(^^ゞ


裔を継ぐ者(月神シリーズ外伝) たつみや章 (講談社)
 『月神の統べる森で』のシリーズの外伝。外伝といっても、ぐっと時代が下がってからのお話で、後日譚みたいなものです。
 どんぐりの料理や狩猟採集生活など、古代の暮らしぶりがいきいきと描かれてて楽しいです。

 古代のお話なのに、主人公のサザレヒコは、イマドキの甘やかされた現代っ子風。病弱ゆえに甘やかされて、欠点は多く、未熟だけれど、ごく普通に年齢相応に子供らしくて分かりやすく、素直に感情移入しやすい主人公です。

 まあ、わざと嫌な子として書かれているこの子にむかつく人も多いとは思いますが、我が身可愛さに嘘をついたり責任転嫁をしたことが一度もない子供なんていないと思うし(いたら拝む!)、子供の頃にそういう過ちを犯したことのある人が将来悪い人間にしかなれないというと、そうでもないわけで。
 出来すぎた主人公より、自分にも身に覚えのあるような弱さを持った等身大の主人公として、私は共感できました。

 そんな、ひ弱でわがままで口ばかり達者な頭でっかちの『現代っ子』が、山野での過酷なサバイバル体験を通して逞しく生きるすべを学び、自然に対する謙虚さ、他の命に生かされていることの意味、神々を敬う敬虔さなど、人間として大切なことを知り、成長していく物語です。

 まあ、それはともかく、狩猟や野外生活の術の習得という現実的な成長と平行して、大蛇(竜)との対決や水の女神たちの助け、火の神の試練(=象徴的な死と再生の儀式)など、神話的なイニシエーションを潜り抜けた少年の旅の最後には、(これは書いてもネタバレにならないとおもいますが)神様と人とが一緒になって心地よい炉辺火でたらふくご馳走を食べ、物語を語るという、満ち足りた気分いっぱいの大団円。

 本編四部作では、村は守られたけれど、個々のキャラクター(特に作者の思い入れが特別深いらしい月神シクイルケ)は必ずしも幸せにしてあげられず、手放しでめでたしめでたしの大団円とはならなかったので、その分、500年後を舞台に借りて、まるまる一冊かけてシリーズ全体の大団円をやったという印象を受けました。

 この一冊は、あくまでも個人の成長の物語であり、本編のような雄大さはありませんが、サザレヒコの成長の物語としては不足なく完結しているので、その完結感が、本編の完結感を補完した感があります。

 しかし、これ、神話・昔話の定型を用いて描かれている中にも、ある意味非常に現代的なテーマの、古代が舞台でありながら現代に通じる物語なのですが、今の子供たちには、あのサバイバル生活の厳しさって、あまりにも理解の素地が無さ過ぎて、すでに理解できないかも(^_^;)
 私だって実感できるとは言いがたいけど、私にはまだ、それが、自分の理解の及ばないほどに過酷な状況であるはずだと想像することが出来る程度の見聞の蓄積があるけど、子供たちにはそれがないですから……。


『夢の岸辺』シリーズ(『太陽の黄金 雨の銀』『天使の燭台 神の闇』『現実の地平 夢の空』) 妹尾ゆふ子 (講談社ホワイトハート)
 妹尾ゆふ子のファンでありながら、ずっと前からそのうち読もうと思い続けて実はまだ読んでなかったこの本。ふと気づくと、もう10年前の本だったんですねえ……(^_^;)
 ファンタジー部分は10年経っても古くならないけど、学園ものの部分には、さすがに時代を感じますね。『オバタリアン』とか『ネルトン』とかの言葉が出てきたり。そういえば、一世を風靡してたっけなあ、『ネルトン』。ろくに見たことなかったけど懐かしい。でも、この頃にはもう女子高生はルーズソックス履いてたんだ……。なんとなく、しみじみ……。 

 それはともかく、サクサク読めて面白かったです。イマドキかえって珍しい気がするくらいオーソドックスな、ちょっと古風な(?)オトメ向けファンタジーです。これこそ、私が漠然と思い描いていた、実際には存在しなかったのかもしれない『ちょっと昔のコバルト(等、少女向け文庫)系ファンタジー』のイメージそのもの(でも『コバルト』じゃないけど(^_^;)。
 高校生カップルの初々しさがこそばゆい。いや〜、青春だなあ。若いっていいなあ。

 余談ですが、私、高校生の頃って全く恋愛する気がなくて(同級生なんてガキっぽくて全く対象外、かといって大学生や社会人は、別世界に住む別の生き物なので、対象外かどうか考える以前に視野にも入ってこなかった(^_^;))、こういう初々しい男女交際の経験って、ないんですよね。今にして思えば、ちょっと損したかも。

 さて本題に戻って……。
 なぜかセーラー服姿の水谷(♂)と、『サー・ヒーロー』には笑いました(^_^;)
 そして、軽いタッチで書いてるけど、ドラゴンが頭上を飛び過ぎるシーンなんかは、さすが妹尾さんらしいファンタジー世界の風を感じます。

 これ、一冊目、二冊目は夢の世界で冒険するファンタジーなんだけど、よくよく考えてみると、三冊目には、実はファンタジー的な要素は全くないのですよね(たぶん……)。夢は見るけど、それはただの夢で、実際に夢の世界に行っちゃうのとは違う。ただの学園恋愛物です。
 でも、前二作の締めくくりとして、三冊目単独で見るとファンタジー要素がないけど、三冊合わせればちゃんと三部構成のファンタジーなのですよね。最後の一冊で、現実世界でそれまでの夢の落とし前をつけたということで。だから三冊目も、ファンタジー以外はあまり読まない私にも面白かったです。

 ところで、一冊目、二冊目ともに、二人は夢の世界で、搭に登るんです。一作目では、お城の搭。そこにはお姫様がいるはずで、ドラゴンもいるんです。で、二作目では、巻貝の形をした螺旋の搭。

 で、思ったんですけど(ここからこの作品の話を離れて一般論になります)、この話に限らず、多くのファンタジーで、夢の世界や異世界では、主人公は搭に登ることになってますよね。
 実は私も、自分がファンタジーを書いたとき、主人公に古搭の螺旋階段を登らせています。
 もう、ハナから、ファンタジーの世界では主人公は搭を攻略するものだと――それが普通の行動だと思い込んでいたので……。

 実際には、自分は搭や螺旋階段を登る夢なんて見たことないんですけど、物語の中では、何かを成し遂げなければいけない主人公たちはその達成のために搭に登る必要があるんだということを、前から知っていたような気がするのです。
 それって、私だけじゃなく多くの人が共通して認識している『夢の文法』なんじゃないでしょうか。

 それから、水。
 一作目で夢の世界から出て行こうとする時、彼らは水に入ります。二作目で夢の世界で入った時には、水を潜って出てきます。
 これも、この作品に限らず、ファンタジーでは、とてもよくあることだと思うのです。
 この世と異界の間には、水があるのです。水が、この世と異界を隔て、また、繋ぐのです。

 たとえば、あの世とこの世を分かつのは、三途の川です。
 超自然の力を宿す桃太郎がこの世に現れる経路も川ですし、白鳥処女たちが天下って人と交わるのも泉や海辺だし、井戸もしばしば異界への通路となります。例えば、グリム童話『ホレおばさん』では、井戸に落ちた少女が地下の異界で大地母神ホレおばさんと出会います。そういえば『犬夜叉』も井戸ですね、あの井戸には水がないけど(^_^;)
 映画『千と千尋の神隠し』でも、夜になるとどこからか湧き出して満ちる水が、現実世界と異界を隔てていました。

 オンライン小説でも、いくつか読んだ異世界召喚ファンタジーで、異世界に飛ばされた主人公が最初に出現する場所が水に関係する場所であることが、非常に多かったです。
 私も、異世界に飛ばされたヒロインが川辺で覚醒するシーンを書いた一人ですが、精神分析的な象徴論など別に思い出さなくても、ただもう、最初から、直感的に、『ここでヒロインはもちろん水の中にいたはずだ』と思っていたのです。
 水を通した異世界への出現を書いた他の人たちも、きっとそうだったのでしょう。

 水は羊水の暗喩であり――だから、生命や誕生に深く関わるものであり、夢や無意識の象徴であり――だから死にも深く関わるものです。異世界への旅は、死であり、誕生なのです。
 水がこの世と異界を繋ぐ媒体となる――これは、ファンタジーの世界ではかなり普遍的な認識なのだと思います。


ZOO 乙一 (集英社)
 雑誌掲載作品などを収録した短編集。
 前に『GOTH』や『暗黒童話』を読んだときには、度を越した猟奇趣味を、そのあまりの荒唐無稽ぶりゆえに、怖いとか凄絶と感じるよりむしろ滑稽に感じてしまったんですが、今回は、不思議と、そうは感じませんでした。

 死や死体、身体損傷へのあくなきコダワリはあいかわらずなんだけど、この本(特に、殺人者が死体で家を建てる話の『冷たい森の白い家』や表題作の『ZOO』)では、延々と続く死体の描写に、何か奇妙な聖性のようなものさえ感じる気がしました。
 初出の年はまちまちで、作風の変化ではないので、短編だからでしょうか。
 長編のなかでは滑稽にみえてしまう荒唐無稽な猟奇描写も、短編でならなぜか神々しい色彩を帯びて、厳かな輝きを湛えているようにさえ見えるのです。

 特に印象的だったのは、前述の『冷たい森の白い家』と、双子の姉妹の姉だけが母に虐待される話の『カザリとヨーコ』。
 どちらも、最近の事件を思い出させる(でも書かれたのはそれより前)、陰惨で救いのない児童虐待を扱った物語なのですが、『カザリと〜』は、内容の救いのない悲惨さにもかかわらず妙にあっけらかんとした語り口で、あろうことか、殺人の場面では『よし、成功だ!』みたいな達成感を感じてしまうし、ラストでは、開き直ったような開放感に、いっそすがすがしいような気分になってしまいます。

 『冷たい森〜』は、死体で家を建てるという荒唐無稽なグロテスクが淡々と語られるうちに、なぜか、宗教寓話を思わせるような不思議な崇高さが漂い始め、家の材料にする死体を調達し続ける異常殺人者が、他人には理解されない祈りのオブジェを築き続ける迫害された聖者であるかのように錯覚されて、なんとはなしに敬虔な行為を見ているかのように感じてしまうのです。

 どちらもほんとに何の救いも希望もない、陰惨なだけの話なのですが、それでいて、そういう妙なすがすがしさや神々しさを出せるのは、語り口の妙なんでしょう。見事に錯覚させられてしまいます。さすが『天才』ですね。

 そのほかの作品の感想です。
 『SO-far』は、最後のオチがつかないほうがよかった気がします。最後の種明かしで急につまらなくなっちゃった。その後、もう一度どんでんがえしがあればよかったのに。

 タイトルからしていかにも『いい話』風な『陽だまりの詩』は、実際、この本の中でほぼ唯一、普通に『いい話』だったのですが、なんだかものすごく既視感が……。
 初出は『小説すばる』らしいけど、だとしたら私は絶対読んでないはず。別の短編集とかアンソロジーとか(例えば『異形コレクション』とか?)にも掲載されたことがあるのでしょうか?
 あるいは、とてもよくありそうなネタなので、似たネタを扱った別の話を、前に読んだことがあるのかもしれません。

 でも、よくあるアンドロイドネタなんだけど、『死』と身体性へのコダワリは、やっぱりこの人らしいです。
 一見陳腐な無害さを装ったタイトルも、実は、『陽だまりのうた』ではなく、『陽だまりのシ』と読むんですよね。しかも、『し』ではなくて、『シ』。あえて『シ』にしたのは、きっと『死』との掛け詞なんだと思います。そういうシニカルさをこっそり忍び込ませるあたり、一筋縄ではいかないなあと思います。


白隼のエルフリード(ヴェルダ・サーガ) 夏緑 (エンター・ブレイン ファミ通文庫)
 しまった〜Σ( ̄ロ ̄|||) 続き物だった! しかも、続きが出てない!
 しかも、出版が2000年で、その後、まだ続きが出ていないということは、もう出ない確率高いですよね……(T-T) ライトノヴェルのシリーズものは、通常、続きが出るのが早くて、すぐ出ないものはもう出なことが多くないですか?

 てっきり読み切りだと思って読んでたんですよ。
 でも、3分の2くらいまで読んで、これ、本当に終わるのかな……と不安に思いはじめて、最後まで来たら、ここまではどうやら序章的な内容で、実はこれから戦いが始まるところだったらしい……(^_^;)

 紀元五世紀頃のドイツをモデルにした、これでもかというほどババーンとオーソドックスな中世西洋風ファンタジーで、中世の生活のリアリティも程よく取り入れ、『謡いの文体』を意識して本格的で格調高い雰囲気を演出しており、人物の内面の掘り下げはやや物足りないながらなかなかいい感じだったので、惜しいです。

 まあ、『アルスラーン戦記』の例がありますから、絶対に出ないとは言い切れないので、可能性に期待をつないで待ちましょう。
*作者のHPで確認したところ、2002年11月の段階で、よくある質問への回答として『続きは少々お待ちください』と書かれたままのようでした。一応、出る可能性があるのでしょうか……?



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