月刊カノープス通信
2004年2月号

 目次

・季節の便り『春の予感』
・今月の勘違い
・近況報告『ツワモノ発見』
・近況報告『S家風お好み焼き』
・読書録
(『ルチアさん』『狐笛の彼方』『グインサーガ外伝・消えた女官』)
・オンライン小説読書録(『暁の大地』)




 季節の便り『春の予感』

 一月の終わりから二月の始め頃って、不思議です。
 まだまだこれから寒さ本番なのに、気分的には、なんとなく、もう早春のような気がするのです。
 特に、うららかに晴れた日は、気温は低くても光が明るくて、木々はまだ裸だけれどよく見れば枝先ではひっそりと木の芽が膨らみ始めているのに気づいたり。
 『光の春』という言葉がありますが、二月の晴れた日には、その言葉を実感します。

 でも、私が一月の終わりごろになるとそろそろ春が近いという気分になり始めるのは、花粉症であるせいもあるかもしれません(^_^;)
 花粉症のシーズン中はずっとアレルギーの予防薬を飲み続ける必要があるのですが、この予防薬は、花粉が飛び始めてからではなく、シーズンの半月位前から飲み始めておく必要があるので、一月も終わりになると、花粉シーズに備えて病院で薬を貰ってきて飲み始めることになるのです。
 それによって、少し早めに春の接近を実感するわけです(^_^;)

 そんなわけで、花粉症の私には、春先はとても辛いシーズンなのですが、花粉症になる前は、早春は、一年で一番好きな季節でした(今でも好きなことには変りありませんが、クシャミや目のかゆみに苦しんだり薬の副作用と鼻づまりのせいでぼーっとしているうちに過ぎてゆくので、ゆったり季節感を味わう余裕がないです(^_^;))。
 子供の頃のある日、小学校からの帰り道に、ふいに春の予兆を感じて見上げた二月の空の色と、その時の、幸せに胸が膨らむような、だけどなぜだか少し寂しいような気持ちを、今でもはっきりと覚えています。




 今月の勘違い

 毎度おなじみ、あいかわらずのとんちんかん会話集です。

★私:「明日、学校行くんでしょ?」
 息子:「えっ? ラッコでゴンでしょ?」

★私:「とんかつのつけあわせはやっぱり千切りキャベツだよね!」
  夫:「えっ、天狗のキャベツ?」

★私:「靴は下駄箱に入ってるよ」
  私:「えっ? ブタ箱?」

★夫:「あ、ナボリン(腰痛等の薬)飲もう、ナボリン……」
 私:「えっ、甘栗甘栗?」
 夫:「おなべ山栗なんて言ってないよ!」

★私(スーパーのチラシを見ながら):「あ、これ、安いよ、9950円だって」(何が9950円だったかはもう忘れました(^^ゞ)
 夫:「えっ、風船950円? それは高い!」

★夫に来たメールに『東京か冥土事務所で会合を開きます』と書いてありました。
 (どっちでやるのか、はっきりしろよ……ていうか、そもそも『冥土事務所』ってどこ?)と不思議に思っていたら、後から訂正のメールが来ました。
『先ほどのメールでは失礼しました。冥土まで行かなくていいように東京亀戸(かめいど)事務所で会合を開きます』と書いてありました。
 冥土に事務所がある会社なんて嫌だ……(^_^;)

★暮れに、夫と一緒にコミケに参加したとき、会場はざわざわしているし、二人とも寝不足でぼんやりしていたために、朝からくだらない聞き間違いが頻発。でも、メモ帖を用意していなかったために、ほとんど忘れてしまいました(^_^;)
 唯一覚えているのが、これ。

 夫が昔作ったエ○ァンゲリオンのパロディ本が、今頃になってどこからか出てきたので、ちょっと時代遅れだけど……と思いつつ、一応持っていって並べたのです。
 で、夫と私でその本について話していたときの会話です。

 夫:「今どきあんな本売ってないよね
 私:「えっ、『山崎アンナホーム』って無いよね?」

 一瞬、頭の中で、『山崎アンナ・ホーム』というのは熱心なクリスチャンで資産家未亡人(たぶんヤマザ○パンの創立者の親族)の『山崎アンナ』さん(アンナは洗礼名。本名は寿子さんとか松代さんとか?)が私財を投じて設立した孤児院か老人ホームで……とか、どんどん想像しちゃいました(^_^;)




 近況報告『ツワモノ発見』

 先日、抱っこヒモで前抱っこした赤ちゃんに、歩きながらミルクを飲ませているお母さんを見かけました((@_@) なんて器用なんでしょう! びっくりです! 母は強し!
 車を運転しながら口紅をつける人とか電車の中でマスカラを塗る人と同じくらいツワモノかも。
 そういえば、夫は、電車の中で眉毛カットをしている人も見たことがあるそうです。かなりツワモノ!



 近況報告『S家風お好み焼き』

 先日、実家に行ったとき、お昼にお好み焼きを作って食べました。
 実家のお好み焼きは、ちょっと変っています。
 このあたりのお好み焼き屋さんでは、溶いた粉と具をボウルで混ぜ合せてから焼くのが一般的だと思うのですが、私の実家では、お好み焼きは、まず粉を溶いたタネだけを、鉄板の上にクレープのように薄く丸く広げ、その上に山盛りのキャベツとネギを始めとする具をこんもりと乗せ、さらにその上から少量のタネをたらたらと円を描くように垂らしてサンドイッチ状にしてからひっくりかえすのです。

 タネの材料は、小麦粉と水、塩、卵、ひき肉。あれば山芋粉を混ぜるとなおいいです。
 特徴は、なんといっても、生のひき肉をタネにほうに最初から混ぜておくことでしょう。
 そして、タネは、水分が多めで、かなりゆるいです。クレープのように薄く延ばすので、ちょっとゆるい方がやりやすいのです。
 具は、キャベツ、ネギ、桜エビ、紅しょうが、かつお節、あれば揚げ玉。
 仕上げに、青海苔とウスターソースをかけて食べます。

 この、ウスターソースもポイントなのです。
 普通は、おたふくソースなど、とんかつソースのようなどろっとしたタイプのものを使いますよね?
 もっとも、今回始めて知ったところによると実家でも全員がウスターソース派というわけではなかったようですが、私は、長年、お好み焼きにはウスターソースをかけるものだと思っていました。

 こういうお好み焼きは、私は、実家以外では見たことも食べたこともありません。
 母が岐阜の出身で、どうやら岐阜風のお好み焼きらしいです(岐阜ではどの家でもこういうお好み焼きを食べるとは限らないですが)。

 この、岐阜風(?)お好み焼きは、よそでは食べられない実家ならではの味です。
 外のお好み焼き屋さんでこういう作り方のところは見たことが無いし、我が家でも作れないことはないのですが、実家には鍋物や鉄板焼きが出来るガス台付きテーブルがあるのに我が家には火力の弱い小さめの電気ホットプレートしかないので、あまり作らないのです。

 みなさんは、どんなお好み焼きを作りますか? S家方式のお好み焼きを食べさせるお店を、誰か見たことがありますか? 情報があったら教えてくださいね(^^)




 読書録

(注・この読書録は、あくまで私の備忘録・個人的な感想文であって、その本を未読の人にマジメに紹介しようという気は、ほとんどありません(^^ゞ (……たまに、少しだけ、あります)。 ただ、自分の記録のためと、あとは、たまたま同じ本を読んだことのある人と感想を語り合いたくてアップしているものなので、本の内容紹介はほとんど無いことが多く、ものによってはネタバレもバリバリです。あまり問題がありそうな場合は、そのつど警告するか、伏字にしています。)


『ルチアさん』  (高楼方子 フレーベル館)

 『どこか遠くのきらきらしたところ』『どこからも遠いところ』への憧れ、『ここでないどこか』を想うことを巡る、穏やかで切ない物語。
 無国籍で浮世離れした雰囲気が懐かしい、古風な童話調の作品で、優しい色使いのノスタルジックな装丁装画も物語世界にぴったり合ってます。

 古いお屋敷で、物静かな母と二人のお手伝いさんと共に静かな日々を送る幼い姉妹。船乗りのお父さんは、外国に行ったきりなかなか戻って来ず、お母さんは愁いを帯びてひっそりと佇むばかり。
 そんな閉ざされた生活に、新しいお手伝いのルチアさんが新風を吹き込みます。

 幼い姉妹には、その、ころころした水色の卵みたいなかたちの不思議なおばさんが、なぜか、お父さんのお土産の水色の『宝石』――『海の夕陽』や『妖精のため息』や『高原の風』を封じ込めた二人の宝物そっくりに、水色に光って見えるのです。
 やがて姉妹は、ルチアさんの秘密を探るべく、帰宅する彼女の後をつけ、彼女の養女ボビーと知り合い、夜中に家を抜け出す小さな冒険をします。
 そしてついにルチアさんの秘密――夜中に一人で、瓶に入った不思議な水色の玉を溶かした、水色に光る水を飲んでいる――を突き止めるのです。

 この物語の場合、ネタバレは問題にならないと思うので言ってしまうと、出来事は、ただそれだけ。
 ルチアさんの秘密が分かっても、なにか劇的な冒険が始まったりするわけではありません。
 ただ、その不思議な果実が、ルチアさんのおじさんが市場で買って来た『どこからも遠いところ』に生える木に生ったものだということを知るだけ。
 青果店のピピンおじさんは、騙されてその木を買い、毒のあるその実を食べて死んだといわれていますが、ルチアさんは、その実が毒ではないと知っていて、瓶詰めにして保存した実を、時々一人で水に溶かして飲んでいたのです。ルチアさんが光っていたのは、そのためだったのです。

 そして、姉妹は、ボビーに水色の宝石を預け、返してもらいそびれたまま、三人の少女たちは、それぞれ大人になっていきます。
 お姉さんのスゥは、『どこか遠くのきらきらしたところ』のことをすっかり忘れて、学校の先生に。
 妹のルゥルゥは、『どこか遠くのきらきらしたところ』を探して、長い旅に。
 ボビーは、姉妹の宝石を持ったまま、姉妹に出会う前は考えたこともなかった『どこか遠くのきらきらしたところ』のこと、姉妹には光って見える養母が自分には光って見えず、空色の実を溶かした水を飲むことが出来ず、飲んでもおいしいと思えなかった自分のことを考えながら大人になり、ある日、宝石を返しにスゥの元を訪れる――。

 そこでも、また、劇的な展開はありません。
 ただ、スゥが、大人になって忘れてしまっていた、小さい頃の宝物の水色の宝石と『どこか遠くのきらきらしたところ』のことを思い出し、旅に出たまま帰らない妹が、『どこか遠くのきらきらしたところ』を探しに行ったのだと気づいただけ。物語は、あくまで静かに幕を閉じます。
 でも、読み終わったときに、自分にとっての『どこか遠くのきらきらしたところ』についてとか、自分はこの話の中の誰に近いだろうかというようなことを、ふと考えさせられるのです。

 ――自分は、ルゥルゥやその父親のように『どこか遠くのきらきらしたところ』を探して躊躇いも無く旅立つことが出来る人間ではない。私の足は、今いるこの場所を、きっと離れない。私にとって、『どこか遠く』は、あくまでも『どこか遠く』であり続ける。自分の足でその地を踏もうとは思わない。
 では、誰が私に近いだろう。
 小さい頃は水色の光が見えていたのに日々の暮らしの中でそのことを忘れて大人になったスゥでもない。私は、大人になっても、『どこか遠く』のことを、たぶん忘れてはいない。
 ルチアさんのように、自分の裡に『どこかと遠くのきらきらしたところ』の輝きを取り込んで、ありふれた日常を満ち足りて生きる幸せな人には憧れるけど、たぶん自分はそうなれない。

 じゃあ、私に近いのは、水色の実のなる木を手に入れたことで命を縮めたけれど幸せだったピピンおじさんだろうか。
 水色の光を見ることが出来ない自分についてあれこれ考えている自分が気に入っていると語るボビーだろうか。でも、私は、彼女と違って、子供の頃には何の疑問も無く水色の光を見ていたと思う――。

 でも、彼らの中で、もし物語を書く人がいるとしたら、それは、きっと、スゥかボビーだと思うのです。
 ルゥルゥや姉妹のお父さんのように『きらきらしたところ』を探して自ら旅立ってしまえる人や、ルチアさんのように自らが水色の光を纏ってしまえる人は、物語なんか書く必要が無いから。自分自身が物語りだから。
 『どこか遠く』の物語を紡ぐのは、きっと、ここを離れてどこか遠くに行ってしまう事のできない人、自分自身が物語にはなれない人なのだろう――。
 ボビーが言う通り、ルチアさんのように『ここ』にいながら同時に『どこか』にもいられる人は、『ここでないどこか』に恋焦がれる必要はないのだから。

 そんなふうに、『どこか遠くのきらきらしたところ』と自分との関係をあれこれ考えて、穏やかな切なさと静かな感傷に浸れる優しい物語でした。

 この物語が優しいのは、スゥやその父やピピンおじさんのように『どこか遠く』に焦がれ続ける人も、ルチアさんのように『ここ』に根を下ろしつつ自分の裡に『どこか遠く』の輝きを宿し続ける人も、ボビーのように『どこか遠く』を想うこともなく生きてきた人も、水色の実について『あんなにあやしいほどきれいなものは、きっとどこか変なのよ』と言い放つサラおばさんのような人でさえも、否定しないからだと思います。
 誰もが、『どこか遠くのきらきらしたところ』を想ったり想わなかったりして生きていて、そのそれぞれの生き方に、それぞれの幸せがある――。けれど、きらきらした水色の実が風に吹かれて音を立て、シャボン玉のような水色の花が咲いている遠い国は、確かにどこかにあって、そこには不思議な水色の光が満ちているのだ――。
 そんなふうに思うと、心が静かに凪いで、澄んでいくような気がします。

 そして、この本、最後のページに名前を書き込む欄のある蔵書票風の図案が印刷されているのがいい!
 私は図書館で借りて読みましたが、この本は、自分で買って手元において、あのアンティークな蔵書票に自分の名前を書き込んで、時々繰り返しパラパラと読めたらとても幸せな本だと思います。

 ところで、この作家は、私、デビュー作『ココの詩』から十年以上、ずっと注目して追っていた人なのです。デビュー作で注目した人が、その後、ずっと活躍してくれていると、なんだか嬉しいです。


『狐笛の彼方』(上橋菜穂子 理論社)

 『守人』シリーズでブレークした上橋菜穂子の新刊……だけど、10年前から企画があったものらしいです。
 今、調べてみたら、デビュー作『精霊の木』が1989年、二作目の『月の森にカミよ眠れ』が1991年、『守人』シリーズ一作目『精霊の守人』が1996年だから、10年前の1993年は、ちょうどその間ですよね。(ちなみに、最初の二冊は現在、絶版もしくは品切れのようです。いい作品だったのに。でも、『精霊の木』は復刊ドットコムで復刊確定らしいです\(^o^)/)

 今度は、和風ファンタジー。
 はっきりと古代日本が舞台とかではなく、なんとなく和風の架空世界が舞台で、化け狐と里の娘の心の触れ合いというモチーフがメルヘンっぽいこともあって、『日本昔話の世界』という感じです。
 そこに渡来人系の呪術が絡んで呪力合戦みたいな話になるのですが、天下国家がどうこうより、里の娘小夜と霊狐の淡い恋や運命にとらわれた術者たちの哀しみといった人間的な要素が印象深いです。

 『守人』シリーズの硬質さと比べると、全体の印象がふわりとやわらかく、ちょっと民話的な懐かしさがあり、全体的に小粒な印象ですが、きれいにまとまっていて、私はとても好きです。内容のせいか、文章もやわらかい気がします。『守人』の文体に時に感じる違和感がなく、読みやすいです。

 そして、このお話は、私がとっても好きな物語の始まり方のパターンなのです。
 実は何か特別な出自や力を持ちながら自分ではそれと知らずに(あるいは知っていてもそれを正当に生かすことは出来ずに)、普通の生活(あるいは他人から見ればあまり普通じゃなくても当人にとっては当たり前であるところの日常)を送っている、まだ自分というものを良く知らずに狭い世界に生きている無力で世間知らずな少年少女の前に、大きな運命が降り立ち、広い世界が開けていく――というパターンです。

 これは、ファンタジーでは非常に多いパターンで(ほとんどファンタジーしか読まないので他のジャンルではどうかは知らない)、たとえば、農場の少年に危険な影が忍び寄る『ベルガリアード物語』なんかも典型的なこのタイプですし、最近読んで面白かったものでは『骨牌使いの鏡』や『西の善き魔女』の冒頭も典型的なそのパターンだったと思います。SFだけど『紫の砂漠』もそうだった気が。

 そういう始まり方をするファンタジーが、大好きなのです。
 しかも、その始まり方が、最初はゆったりしていて後から大きなうねりが来るのが、特に好き。

 あまりにもこのパターンの始まり方が好きなので、そうでない話からも、エピソードの順番を入れ替えたり視点人物を変えたりすることでそのパターンを抽出出来てしまうという、非常に我がまま勝手な特技(?)があるほど(^_^;)
  例えば、たつみや章の『月神シリーズ』なら「ポイシュマのパートから始めてポイシュマ視点で彼の子供時代を描けば、そのパターンになるのになあ」とか、小沢淳の『真紅の封印』なら「フィン視点でフィンとアレクの出会いのエピソードから描き始めればそのパターンに……」とか、とにかく、ついつい、お話の中からそのパターンを拾い出してしまうのです! (これは、もちろん、そのパターンにした方がよかったのにという意味ではありません。ただ、全体の構成から見れば現状が最適なのはわかっていても、ついついそのパターンを抽出して見ずにはいられないしまうヘンな癖があるというだけです)

 ファンタジーにこのパターンが多いのは、ファンタジーは少年少女の成長を描くことが多く、『閉ざされた世界にいた少年少女が外の世界を知っていく話』が多いからでしょうか?

 というわけで、ちょっと話がそれました。『狐笛の彼方』の話に戻ります。
 結局、領土問題の話だったんですよね。物語の横糸は小夜と野火の恋や大朗たち呪者一族の苦しみで、縦糸は、こじれた領土問題。
 領土を巡って敵対する双方が、どちらも同じく傷つき苦しんでいる――、そんな虚しい諍いは、やめてしまえばいいのに、既にもともとの原因を離れて、ただ、今まで互いに払ってきた犠牲のためだけに、もう、どちらからもやめられない――。
 こういう、感情的にこじれた領土問題って、今も世界のあちこちに存在して、そこやその周辺に住む人たち、関係する国や民族の人たちを苦しめ続けているんだなあと、あらためて悲しく思わされます。

 それから、特に好きだったシーンは、鈴姉さんが闇の戸を繕うために踊るシーン。ほんのちょっとの描写なのに、すごく鮮明で映像的でした。
 そういえば、『神の守人』のタルハマヤ神出現のシーンもそうでした。
 この人は、こういう幻想的な描写がすごく良いです。沢山の言葉や飾り立てた単語を使うわけじゃないのに、神秘や幻想をありありと目の前に描いてくれるのです。
 そういう、神秘や幻想を鮮やかに描きだして見せてくれる物語って好きです。


『グインサーガ外伝 アルド・ナリス王子の事件簿1 消えた女官』 (栗本薫 ハヤカワ文庫)

 それなりに面白かったんですが、う〜ん、私がもっとアルド・ナリスに思い入れがあれば、もっと楽しめたかもしれない。

 私にとっては、グインサーガの中で、ナリスというのは特に思い入れが深いキャラじゃないんです。
 というか、はっきりいうと、むしろ嫌いなキャラなんです。最初から死ぬまで、一貫して、けっこう嫌いでした(^_^;)
 最初のうち、わりと陰険な悪役みたいな役回りだった頃も、それなりに嫌いだったけど、その後、リンダと結婚して、実は繊細で純粋な壊れ物のような人で、永遠の少年の魂を持っていて……みたいなことを言われるようになってから、ますます嫌いになりました(^_^;)(暴言の段、平にお許しくださいm(__)m)

 でも、そんな、実在の人間に対するように嫌うことが出来るということ自体、それだけキャラが立っている、キャラの造形が優れているという証拠だと思います。
 私がナリスを嫌いなのは、小説のキャラとして出来が悪いからではなく、出来がよすぎて、実在のそういうタイプの人物を嫌うのと同じように嫌うことが出来てしまうからなのです。

 架空のキャラなのに実在の人間のように嫌うことが出来てしまう――。それはもう、すごいことです。
 作者が後書きでまるで実在の人物について話すように彼について語り、その死を悼んでしまうのも、無理のないことかもしれません。
 それくらい、よく描きこまれた、存在感のある、魅力あるキャラだとは思っています。

 ……とまあ、ナリス様語りはこのくらにして。
 一応、推理仕立てになっていますが、静かな湖畔の離宮でひっそりと暮らす二人の美しい不遇の小公子たちの生活がを描くことが主眼と思われます。
 で、たしかに、その、美しい王子たちの優雅で寂しい生活はいい雰囲気で魅力的に描かれていて、楽しめました。

 でも、ナリス少年、想像力逞しすぎ(^_^;)
 これはネタバレではないと思うので言ってしまいますが、最後に事の顛末が解明した後、ナリスがりギアにそれを解説するんだけど、事件の事実関係だけでなく、それぞれの動機まで深く深く掘り下げて語ってるんですよ。誰は誰のことを実は疎ましく思っていたのに違いなくて、誰は不幸な生い立ちからこういう風に性格がゆがんでいて……みたいなことを。
 で、そういうことを、さも『明らかになったやりきれない事実』のように語るんだけど、実は、あれ、みんなただの想像じゃないですか!
 だって、本人たちから直接話を聞いたわけでも、深い事情を知る人から証言を得たわけでもないんですよ。起こった事件から動機を想像しただけじゃなんですよ。

 まあ、それはとにかく(^_^;)、ナリス・ファンにとっては、とても嬉しい、幸せな一冊だったのではないかと。

他に『百鬼夜翔 黒き蟲のざわめき』『ビートのディシプリンSIDE1』などを読みました。




 オンライン小説読書録

 あまりにも長らく休眠していたこのコーナー、もうとっくになくなったものと思われていたのでは?
 というか、そんなコーナーがあったこと自体、忘れられているのでは?
 自分でも、このコーナーは、もう自然消滅と思っていました(^_^;)
 が! 復活です! 今回一回だけで、また長期休眠するかもしれないけど……(^^ゞ

 このコーナーをぜんぜん書かなくなっちゃったのは、最近オンライン小説をあまり読んで無かったというのもあるけれど、最初に、あまりにも押しも押されもせぬ大御所の定番の名作みたいなものばかり取り上げてしまったせいかもしれません。そのせいで、その後、(おっ、いいな)と思うものがあっても、(でも、あの、誰もが認める高名な大傑作と並べるほどだろうか?)と、頭の隅でちらっと思ってしまい、自分自身で敷居が高く感じちゃってたのかも。
 それに、一応、完結作品中心に書くつもりでいたので、その条件に当てはまるものがなかなか無かったのもあります。

 でも、今回は、堂々たる完結大長編を読んだので、思い立って、コーナー復活となりました。
 というわけで……

〜〜堂々の完結! 『暁の大地』〜〜

 一口に面白いオンライン小説といっても、その魅力は千差万別。
 でも、あえてタイプ分けすると、その分け方の一つに、アマチュアならではの在野の魅力に溢れた『野の花の美』タイプと、技量の程はともかくタイプとしてはプロっぽい傾向のタイプとがあると思うのです。

 これは別に、『野の花』タイプより『プロ風』タイプの方が必ず上手いとか偉いとか高級であるとか、そういうことではありません。プロ並みに巧い『野の花』タイプもいれば、作風としては商業作品の亜流っぽいけど技量的にはまだまだ……という作品もあります。また、これは単なるタイプの違いであって、アマチュア作品としては、どちらが上等だとか優れているとか、そういうことはないと思っています。
 じゃあ、私がどういう基準でプロタイプ・野の花タイプを分けるのかといわれても、ちょっと説明し難いんですが……(^_^;)

 というわけで、この『暁の大地』。
 これは、商業的にも通用しそうな、『プロっぽい』タイプの作品です。
 しかも、『商業作品の亜流っぽい内容だけどヘタ』じゃなくて、そのままある種の文庫本のラインナップに入っててもたぶん違和感なさそうな、地に足の着いた実力を感じさせる作品です。
 『ある種の文庫』と言いましたが、具体的には『ちょっと前の富士見ファンタジア文庫に入ってそうな作品』といえば、分かる人には作風が分かってもらえるはず(^^)

 エルフにハーフエルフ、王家、騎士、魔物などが登場する、王道的な設定の正統派ライトファンタジーです。
 世界観的には、ゲームやヤングアダルト系文庫などでおなじみのライトファンタジーの定番をほぼ踏襲しているので(でも、SF的な裏設定とか、力自慢のエルフが出てくるなどの、新鮮な味付けも程よく入ってる)、設定を理解することに気をとられることなく、安心してすんなりと、キャラが織り成すストーリーに入っていけるのです。
 これは、王道的なライトファンタジーの世界観を採用する利点でしょう。

 異世界ファンタジーという形式で何を描きたいかは人それぞれで、異世界そのものの雰囲気を描きたい場合もあるでしょうが、多くは、それはスパイス程度の要素であり、結局は、人間や世の中というものを描きたいのではないでしょうか。
 少なくとも、この作者の藤村さんが描きたかったものは、それだと思います。
 そういう場合、変った世界設定は、必ずしも必要不可欠ではないのですね。スパイス程度に、あればあったでいいだけで。
 描きたいものを描くための形式の選択に成功しているといえましょう。

 そして、形式として『ライト・ファンタジー』であるということは、必ずしも『内容が軽い』とか『テーマが軽い』ということではありません。
 『暁の大地』はライトファンタジーの手法を選択しつつ、重いテーマを深く掘り下げて描いています。
 ネタバレになるので具体的には書きませんが、ラストは感動的。
 涙の名残りに濡れた目の前に、タイトルどおり広々とした暁の地平が広がっていくような、前向きで心打たれる、すがすがしいラストです。
 『遺産』を巡る結論の出し方も良いです。しっかりした独自の思想が感じられます。
 ちゃんと言いたいことがあって、それを表現するのに適した様式で手堅く描かれた、中身の深いライトファンタジー。これだけの分量(テキストファイルで900KB超!)の物語を破綻なく纏め上げた華麗な力技と、それを着実にサイトで公開してきた地道な実行力に脱帽・感服です。

 ところで、これはとても不思議なんですけど、作者の藤村さんは、とてもお若い人なのです。これを書いたときには、まだ高校生だったはずなのです。
 そういう、とても若い趣味の書き手さんが、このタイプのファンタジー(個人の内面の幻想を描くだけでなく、社会とか国家とか政治とかが絡んでくる『現実』的な要素のあるファンタジー)を書くと、文章や小説作法の上手い下手とは別の次元で、往々にして、世間を知らないが故の不自然さとか幼さ・青さが、どこからともなく微妙に滲み出てしまうことが多いのです。
 でも、この作品には、不思議なことに、そういう幼さをあまり感じさせないのです。
 『ヤングアダルト向けライトファンタジー』という身の丈にあったジャンルの選択も成功要因だと思いますが、作者の個人的な資質のおかげもあるのでしょう。

 『若さ』と『世間知らず度』には、ゆるやかな正の相関関係はあるけれど正比例はしておらず、『実社会での体験・見聞の量』と『精神的な世間知らず度』もまた、正比例はしていないもの。
 実際にどれほどの体験をしたことがあるかと、世界についてどれだけ深い洞察を持っているかというのは、別の話なのです。
 ようは、自分の体験をその人がどれだけ良く観察し、深く受け止める能力があるか――つまり内面の資質の問題なのですよね。
 だから、私のようにぼんやりしている人間は、どれだけ長く生きてても、たぶんほぼ永遠にぼんやりと浮世離れした世間知らずのままだし、その逆に、とても若くして世の中を深く見ることが出来る人もいるのです。
 作者の藤村さんは、よほど落ち着いた、年齢不相応に老成したお人柄なんでしょうか……(失礼!)。


作品データ
タイトル: 暁の大地
作者: 藤村脩様
掲載サイト:Claymore




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