シビトノチョウチン



 ――『つーかまーえた!』

 鬼ごっこをしている子供のような無邪気な声と共に、閉じた左まぶたの上に、ひんやりと湿った小さな柔らかなものが一瞬、触れた――、その感触で目が覚めた。
 目を開ける前、耳元で、いっせいにあぶくが湧き上がるような小さな声を聞いたような気がした。


 ――『これで、もう、このひとはあたしのものよ』
    『そう、あたしたちのものよ!』
    『このひとは、ここに帰ってくるわ』


 クスクスと笑う声が周囲に弾けて散った。

 はっと目を開けば、薄暗い森の、泉のほとり。
 葉陰の暗がりに駆け込んでゆく小さな裸足の足の裏が、一瞬、見えた気がした。並んで飛ぶ二匹の白い蝶のようにひらひらと翻った足の裏の白さが、目に焼きついた。
 妙に細長く、足裏が扁平な、踵の尖った、どこか獣めいた足の裏だった気がする。
 それともあれは、本当に白い蝶だったのだろうか。
 そう思って、目をこすって、足の裏の消えた藪の中を透かし見たが、もう、蝶も足の裏も見えなかった。

 かわりに、左目の隅に、何かが動くのを見た。
 ……何か、怪しい生き物の姿が、視界の端を過ぎった。
 いや、あれは、『生き物』じゃない。
 幼い日に年取った子守り女が話してくれた、御伽話の中の妖《あやかし》 たちのいずれかだ。妖《あやかし》たちは、様々な姿と性質を持ち、それぞれに違う名を持っていたはずだが、私は、子守り女が教えてくれたそれらの名を、一つも覚えていない。

 もう一度、目をこすって、頭を振った。
 首を上げて周囲を見渡した。木の葉の天蓋を透かして、暮れかけた空が見えた。

 私は、泉のほとりの大きな木の根元に凭れて、柔らかな緑の苔を褥《しとね》 に、いつのまにか寝入っていたのだった。
 私がここにたどり着いた時には、まだ日は中天にあったのに、今、あたりはもう、黄昏だった。
 私は重い身体をゆっくりと起こし、隣に投げ出してあった背嚢を引き寄せた。
 なるべくそっと動いたつもりだが、脇腹に激痛が走る。
 戦友たちは無事だろうか。

 私たちの部隊は、ほとんど壊滅し、残ったものたちは、ちりぢりに敗走していった。
 私の周囲には数名の戦友がいたはずだったが、逃げ惑ううちに、いつの間にか一人になっていた。
 そうしていつしか鬱蒼と茂る小暗い森に迷い込み、道なき道を這うように進むうちに食料も尽き、水も残り少なくなり、傷つき、疲れ果てた頃、ふいに視界が開け、目の前に美しい小さな泉が現れた。
 私は澄んだ泉の縁に腹這いになって獣のように水を飲み、そのまま、泉のほとりの大木の根元に倒れこんだ。もしかしたら自分はこのまま死ぬのではないかと、ちらと思ったが、もう、それでもよかった。それほど、疲れ果てていた。疲れで朦朧としながら、それでも背嚢だけは外して横になったらしい。その時には、もう、ほとんど意識がなかったのだ。
 そのまま、木漏れ日に包まれて眠りに落ち、今、目覚めた。

 私はまだ死んではいなくて、眠る前と同じ、北の国境地帯の森の中の、美しい泉のほとりにいた。眠る前と同様に、傷を負った脇腹が痛み、全身が熱を持って疼いていた。
 違うのは、明るい真昼だったその場所の周囲に闇が忍び寄りはじめていること、そして、私の左目が、左目だけが、何か異形のものの姿を認めていることだけだった。
 異形のものたちは、今もちらちらと、私が見ていることなど知らぬげに、目の隅を横切ってゆく。

 そのことを否定する気力も無くそれを眺めているうちに、夢の中で聞いた声を思い出した。


 ――『みぃつけた!』
    『いいもの見ぃつけた!』
    『ニンゲンの男!』
    『美しいニンゲン!』
    『鉄の匂いがするわ。……火薬と、血の匂いも』
    『血の匂いは好きよ。でも、火薬と鉄は嫌い』
    『ほら、剣を持っている。この人はきっと、兵隊よ』
    『兵隊は嫌い。剣は嫌い。でも、この人は欲しいわ』
    『欲しいわ。かたちがきれいだもの』


 夢の中で自分を取り囲んでクスクスと笑い、囁き交わす、無数の声。乾いた枯葉が触れ合うような、蜘蛛の巣に宿った露が震えて落ちるような、ひそやかな笑い声。

 私は、まだ、夢の続きを見ているのだろうか。それとも、脇腹の傷から悪い熱が広がって、私の思考と視界を歪めているのだろうか。
 唇が乾く。暑い。いや、寒い。私は身震いした。湿った苔の上で寝ていたから、服が湿っている。いや、これは、熱がもたらす汗だろうか。それとも、傷から染み出した血か。
 視界が霞む。私は死ぬのだろうか。

 ふと傍らに目を落とすと、蒼白い釣鐘型の小花が群れ咲いていた。
 ああ、この花の名は、なんというのだったか。幼い頃に、見たことがある。
 そう、思い出した。この花は、<シビトノチョウチン>と言うのだ。
 花の名を教えてくれたのは、あの、年取った子守り女だった。
 この花の咲くところで遊んではいけないと、子守り女は言っていた。なぜなら、そこは、森の精霊たちが集う場所だから。
 月のない夜、精霊たちは、手に手にこの花を掲げて、集会を開くのだという。その時、この花は、内側から蛍火のようにほの蒼く光るのだという。

 そして、この、身体の下にある苔。
 そういえば、この苔は、<スダマノネドコ>というのではなかったか。この苔のある場所も、森の中で、近づいてはいけない禁忌の場所ではなかったか。

 子守り女は、こうも言っていた。森の中では、決して不用意に寝入ってはいけないと。中でも水のほとりでは、特にいけないと。
 水のほとりには不思議な力が働くから、妖《あやかし》 や精霊が好んで集まるのだという。特に、黄昏時には、小さな子供や蒼褪めた少女の姿をした水妖や木霊たちがうろついて、美しい人間の子供などが眠っていると、異界に連れ去ってしまうのだと。
 そういって、子守り女は、屋敷近くの森で遅くまで遊びたがり、疲れるとその場で昼寝をしたがる幼い私を、何度も無理やり屋敷まで抱えて帰って、子供部屋の寝台に寝かしつけたものだ。

 その、森の中の泉のほとりで、シビトノチョウチンの咲く場所で、私は、泉の水を飲み、スダマノネドコを褥に眠り込んでいたのだ。
 ああ、見れば、子守り女が小さな妖《あやかし》 たちの食べ物であると教えてくれた毒キノコ、アヤカシダケや、ヒカゲノドクイチゴも生えている。それらの植物には、本当はちゃんとした別の名前があるはずで、この名は田舎の年寄りの言う俚言 《りげん》に過ぎなかったのだろうが、特に植物などに興味のない私が知っているのは、子守り女が教えてくれた、そういった怪しげな俗称だけだ。

 私は、子守り女が語ってくれたあれらのことを、長ずるにつれて、無知な田舎ものの年寄りの蒙昧な迷信と微笑ましく蔑むようになったまま、ずっと忘れていた。
 けれど、あれらは本当だったのだ。
 シビトノチョウチンの咲く泉のほとりで、黄昏時、私は、木霊かスダマか水妖か、何がしかの妖 《あやかし》に見込まれたのだ。左目に、妖《あやかし》 の、体温の無い冷たいくちづけを受けたのだ。
 その時から、私の左目は、この世と二重写しに異界を見るようになった。




 その後、私は、どこをどう歩いたのかいつの間にか森を脱して、辛苦の後に国境の戦場から生還し、故郷で私を待つ妻の元に帰り着いた。妻は、ボロボロの幽鬼のような姿になりはてた私をかき抱いて泣いた。妻の献身的な看護のお陰で、私はそれなりの体力を取り戻した。

 けれど、左目で異界を見る私は、もはや人の世界では暮らしていかれなかった。
 一年の苦しみの後、私は、妻を捨て、故郷を捨てて、ふたたび、ただ一人、かつての敗戦場へ舞い戻った。
 そして、あの泉をあてもなく探して森の中を歩き回って、今、何かに導かれるように、もう一度、この場所にたどり着いたのだ。

 折りしも、黄昏時だった。
 足元には、今も、あの日と同じく、シビトノチョウチンが群れ咲いて、内側に蒼白い光を灯している。大木の根元は、しっとりと露を含んだ柔らかなスダマノネドコに厚く覆われ、草陰にはヒカゲノドクイチゴが赤く見え隠れしている。倒木の陰で、半透明で不定形の怪しいモノが、蒼白い毒キノコを無心に食んでいるのが見える。
 違うのは、私が銃も剣も帯びていないこと。
 鉄で出来たものは、すべて森に入る前に捨ててきた。


 ――『みぃつけた!』
    『ほら、ね。来たわ』
    『来たのね、あたしのニンゲン。待っていたわ』


 枯葉が鳴るようなクスクス笑いと、小さな軽やかな足音が近づいてくる。
 妖《あやかし》のくちづけを受けたあの日から、私は、すでに異界の物語の中に住んでいたのだ。


(終)

NNR主催掌編小説コンテスト『キスから始まる物語』(終了済み)参加作品〜


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この作品の著作権は著者冬木洋子( メールはこちらから)に帰属しています。
掲載サイト:カノープス通信
http://www17.plala.or.jp/canopustusin/index.htm