長編連載ファンタジー
イルファーラン物語
冬木洋子作
(前回までのあらまし:ある日突然異世界イルファーランにやってきた内気な女子高生・里菜は、羊飼いの若者アルファードに拾われて、共に暮らすようになった。そこは日常生活の中で誰もが普通に魔法を使う世界であり、里菜には、自分の見ている前で他の人の使う魔法を無効にするという特殊な力があることがわかった。 里菜は、頼もしい保護者であるアルファードに淡い恋心を抱きつつ、幸せな日々を送っていたが、ある夜、奇妙な夢を見た。自らを『魔王』と名乗る黒衣の男が、里菜を『エレオドリーナ』と呼んで、自分の妻となるものであると主張し、共に来いと招く夢である。夢の中で、里菜は、『魔王』の振るう大鎌の輝きにわけもわからず魅了され、夢の中を流れる川の向こうに連れ去られかけるが、すんでのところで正気を取り戻し、此岸に立ち帰る。 自室で目覚めた里菜は、けれど、夢の中で自分が感じた不思議な陶酔に後ろめたさを覚えたために、その奇妙な夢を、アルファードに話すことが出来なかった。 それから、しばらくたったある日、一人で留守番していた里菜は、突然、黒衣の女暗殺者に襲われ、間一髪のところで帰宅したアルファードに助けられる。捕らえられて自刃した女は、近くのヴェズワルの森に巣くって山賊行為を働いている謎の宗教団体『タナティエル教団』のものだった。女は村の墓地に埋葬された。そして、その夜――。 14 夕刻、ふたりが家に帰りついたころにはすでに地面をうっすらと白く染め始めていた雪は、それからますます激しさを増して降りしきり、闇が地上を覆い尽くす頃には、あたりはすっかり雪景色に変わっていた。 暗い夜空から音もなく舞い落ちる雪が、ほの白く、すべてを埋めていく。裏庭に残る女の血の跡も、今は雪の下だ。 暖炉の燃える部屋の中で、里菜は、さっきから、窓にへばりついて、水滴を手で拭っては、窓から漏れる淡い光の中を通りすぎていく雪を見ていた。 雪は、あとからあとから降りしきり、いっこうに小止みになる気配もない。この分では明日の朝までに、かなり積もることだろう。この村では、この程度の雪は、珍しくもないという――なにしろ、冬の間中、雪に埋もれているのだ――が、東京でなら、何年かに一度の大雪といったところだ。 香草のお茶を前にテーブルに座っているアルファードが、里菜に声をかけた。 「リーナ、そんなに雪が珍しいか」 「うん。あたしの住んでたとこじゃ、めったに降らなかったの。ね、アルファード、あした、雪合戦しよ!」 「えっ……。いや、俺は……。子供たちを誘ってするといい」 「だって、子供が相手じゃ、思い切りぶつけられない」 「それなら、ローイを誘えばいい。あいつならきっと、大喜びで、子供と混ざって雪合戦をするだろう」 「いや。あたしは、アルファードとしたいの!」 アルファードは、困った顔で黙ってお茶を飲んでから、もう雪合戦の話は勝手に打ち切って、こう言った。 「それはともかく、もう遅い。そろそろ寝たほうがいい」 「うん、もうちょっと、もうちょっとだけ……」 アルファードは、しかたないな、といった表情で、また、お茶を一口飲んだ。 別に特にお茶が飲みたいわけではないのだが、間が持たなくて、他にすることもないので、とりあえずお茶を飲んで時間稼ぎをしてみたという風情だ。 普段ならもう寝ている時間なのだが、今夜、里菜はこうして、夕食のあと、雪にかこつけていつまでも居間でぐずぐずしている。 実は、里菜は一人で寝室に行くのが怖いのだ。なにしろ、昼間、あんなことがあった後だ。 それで、なんだかんだと言い訳をつけて寝室に行くのを引きのばしているのだが、いくらなんでも、そろそろ寝る時間だ。アルファ−ドだって、普段ならもう寝ている時間なのだから、里菜が彼の寝室でもある居間から出ていかないせいで、いつまでも寝られなくて迷惑しているだろう。 里菜は、溜息をつきながら、窓から離れようとした。 その時、ふいに、里菜は目を見開いて、もう一度窓を覗き込んだ。 窓の外に、揺れる灯りを見たような気がしたのだ。 確かに、それは、灯火だった。たぶん、角灯の明りだ。 降りしきる雪の中、窓の明りを横切って、角灯を手にした三つの黒い人影が静かに家に向かって来る。半透明の窓板が、ゆっくりと近づいてくる黒い行列を不規則に歪ませ、揺らめかせ、二重三重に滲ませている。 もちろん顔は見えなかったし、服装もはっきりとはわからなかったが、これが村の誰かなんかであるはずがないと、里菜は直感した。 それほど、それは、幻想的な、非日常的な光景だった。 きっと、雪と闇と灯が、すべてをそんなふうに見せるのだろう。その、音のない行列は、まるで黄泉からの使いを思わせた。 「アルファード! 誰か、来る……」 里菜の声にアルファードが素早く立ち上り、里菜の腕を掴んで部屋の奥に引っぱり込んだ。そうしておいて、自分は、滑るように窓辺に寄った。 窓の外を一瞥するなり、彼は、里菜の背中を押して囁いた。 「リーナ、向こうの部屋に隠れろ!」 アルファードは、戸口に駆け寄り、壁に掛けてある剣を取って、内開きのドアの脇に立った。 すぐに、コツコツと、ドアを叩く音がした。 「誰だ」 アルファードは剣を抜いて構えながら、短く誰何した。 ドアの向こうで、穏やかな、年経た声が、それに応えた。 「私どもは、タナティエル教団のもの。シルドーリンから参りました」 「シルドーリンだと? ヴェズワルじゃないのか」 「はい。最高導師ギルデジードからの使いです。あなたがたに危害を加えるつもりはございません。武器も持っておりません。お話ししたいことがあって参りました。どうか入れてくださいませ」 「タナティエル教団になど、用はない。帰れ」 「話を聞いていただけるまで帰りません。一晩中でも、明日、あさってまででも、ここにおります」 これにはアルファードも困った。 このあたりでは、ヴェズワルの山賊のせいで、タナティエル教団の評判は非常に悪い。ただでさえ里菜をうろんな目で見るものがいるというのに、こんな連中に家の前に居座られては、どんな噂が立つか分かったものではない。そのうえ、相手は、どうやら老人だ。家の前で凍死でもされては、かなわない。 アルファードは、細く開けたドアの隙間から、外にいるのが三人だけなのを確認し、用心深く抜き身の剣を手にしたまま、ドアを開いた。 黒衣の三人は、旅行用の長い防水マントを背中に払い除け、両手を広げて、武器もなく魔法を使うつもりもないことを示しながら、ドアの内側でアルファードがつきつけている剣の前を、恐れる様子もなく一人ずつ通り過ぎて部屋に入ってきた。 そのあいだ中、アルファードは、油断なく剣を構え、彼らの動きを見守っていた。 先頭に立って入ってきたのは、今、口をきいた、彼らのリーダー格らしい老人である。腰は曲がり、小枝のように痩せ細った小柄な姿だが、その動きには、どこか威厳が感じられ、フードの下の顔にも品位と知性が宿っている。教団内でかなり高い地位にあるものかもしれないと、アルファードは思った。 後に続く二人は、対象的にがっちりした体格の若い男たちだった。おそらく、高僧の護衛をかねた従者なのだろう。 三人とも、衣装はほとんど同じだが、そういえば、死の前ではみな平等というのがそもそもの基本であるこの教団では、本来、高位の導師も一般の教団員も同じものを着るのが原則のはずだ。 最後の一人が後ろ手にドアを閉めると、先頭の小柄な老人がフ−ドを外し、静かにアルファードの前に進み出て片膝を折り、地面にうずくまるように頭を下げた。タナティエル教団独特の礼の姿勢である。黒いマントがふわりと広がり、肩に積もっていた雪が床に落ちて水に変わる。 後ろの二人も老人にならって、うっそりと跪《ひざまず》き、三人は、 「あなたの心に平安がありますように」と、静かに唱和した。 それから老人は、跪いたまま顔を上げ、黙って油断なく目を光らせているアルファードを見上げて言った。 「私はタナティエル教団の導師、ゼルクィールと申します。このように強引にお目通り願いました無礼をお許し下さいませ。私どもはあなたがたにお会いするために、シルドーリンから遠く旅して、今夜、やっと、ここを探しあてたのでございます。どうぞ、その剣をお収め下さい。私は御覧の通り、無力な年寄りでごさいます。後ろのものは当教団の若い導師で、ここまで私の護衛をしてまいりましたが、よろしければ、話が終るまで外で待たせておきます」 「いや、いい。挨拶はいいから、用があるなら、早く用件を」 あいかわらず抜き身の剣を手にしたまま、それでも構えは解いて、アルファードはぶっきらぼうに答えた。 老人は、立ち上りながらアルファードの腕輪に目を止めると、もう一度アルファードの目をじっと覗き込んで、呟いた。 「では、あなたが、<銀のドラゴン>なのですね……」 アルファードの目の中に、一瞬、暗い炎が燃え上がった。拳が、関節が白くなるほどぎゅっと握り締められた。 アルファ−ドは、これまでも、<ドラゴン退治のアルファ−ド>という二つ名で呼ばれるのが、実は、あまり好きではなかった。自分の名とドラゴンを結びつけて口にされるのが、何故とも知らず不快だったのだ。今、こうして容赦なく『ドラゴン』と呼ばれて、突如身の内から、自分でも意外な程の、眩暈のするような怒りが沸き上がり、彼は一瞬、茫然とした。 「どういう意味だ」 抑えた声で鋭く問うアルファードに、小柄な老人は、ひるむ気配もなく穏やかな表情を見せて、こう言った。 「あなたが今まで、我が君の花嫁たるべき幼い女王を守護してくださったことに、私どもはみな、深く感謝いたします。あなたは、ご自分の役割を正しく果たされました」 「何のことだ。誰の話をしている」 「そちらの部屋に、娘御がおられましょう。会わせていただきたい」 「会って、どうする」 「女王はいまだ幼く、その心は半ばまどろみの中にあって、御自分が何であるかを御存知ない。それをお教え申し上げた上で、シルドーリンにお連れいたします。無論、お望みなら、女王の守護者たるあなたも、ご一緒に来ていただいてもよろしゅうございます」 「そしてシルドーリンで、リーナが生贄として殺されるところを、見ていろというのか。黄泉にいる死者の王の花嫁になるというのは、そういう意味だろう。あるいは、体のよい囚われ人として、一生、シルドーリンの洞窟の奥にでも丁重に幽閉しておく気か」 「私どもは、生贄などという野蛮な行為はいたしません。ましてや、我等の女王となるべき娘御を、どうして殺めたりなどいたしましょう」 「では、お前らは、殺すつもりもなくて刺客を差し向けるのか」 「刺客、ですと?」 「とぼけるな。昼間、黒衣の女が来た。あれはお前たちの教団のものだろう」 それを聞くと、老人はうなだれて溜息をついた。 「ああ……。間に会いませなんだか……」 それからアルファードを見上げて、急くように尋ねた。 「しかし、女王は、ご無事だったのですね」 「ああ。あいにくとな」 老人は、アルファ−ドの返答に込められたあからさまな皮肉はまったく無視して安堵の息を吐いた。 「それならば、ようございました。その刺客は、恐らく、ヴェズワルのものでしょう。ヴェズワルのものたちは、曲解した教義に<御使い様>の御言葉をこじつけて解釈し、女王について、誤った考えを持つに至ったらしいのです。……彼らをお許し下さい。心の弱いものは、しばしば道を誤ります。ヴェズワルのものたちが、常日頃いろいろと無法な行為を働き、周辺の方々にご迷惑をおかけしていることは存じておりますが、お恥ずかしいことに、もはや我々には彼らを抑える力がないのです。力及ばず、刺客を事前に差し止められませなんだこと、無念にございます。……して、その女は?」 「死んだ。自害だ」 老人は、再び溜息をつくと、頭を垂れて静かに祈った。 「黄泉の大君よ、定めによりて死せる魂を、御許に安らわせ給え」 祈り終った老人に、アルファードは言った。 「女は、ついさっき、村の墓地に埋葬した。ねんごろに弔ってやったが、お前たちのやりかたで埋葬し直したいというのなら、遺体を掘り出して引き渡してもいいが」 「いいえ、結構でございます。死後の平安は、弔いの形式に左右されるようなものではなく、その者の心次第でございますから。道を誤った信徒に、そのように情けをかけて下さり、かたじけなく存じます」 「お前たちの内輪揉めになど興味はないが、そのとばっちりで迷惑を被るのは、二度とごめんだ。わかったら、帰れ」 「いえ、まだ話は終っておりませぬ。娘御に、会わせていただきたい」 「だめだ。帰れ」 アルファードは、威圧するように一歩進み出て、再び剣を構えた。 が、黒衣の老人は、引き下がらなかった。 「帰りませぬ。あなたには、我等と女王を隔てる権利はありませぬ」 「なぜ、リーナを女王などと言う。リーナのことを、どこで知った。彼女はただの少女にすぎない」 「女王は、まだ目覚めておられぬのです。先頃、<御使い様>の御言葉がございました。いまだ目覚めぬ幼き女王が、異世界より降臨し、南の聖地で銀のドラゴンに守られていると。そこにいらっしゃる娘御がその女王であることは、間違いないことでございます」 老人は、いきなり、奥の扉に向かって声を張り上げた。 「女王よ。お聞き下さい。……神代の終焉以来、女王の御帰還を待って、王は眠り続けておられます。眠れる王を目覚めさせ、悪夢の中から救い出すことができるのは、女王よ、あなたをおいて、ありません。我等の王に復活をもたらし、その花嫁となり、王と並んで新しき世を治めるために、あなたは、この世界に降臨なさったのです。どうか私どもと、ともにおいで下さい。……女王よ。聞こえておいでですね? どうぞ、こちらへお出まし下さいませ。ここにおられる若い方には、あなたに命令する権利はありませぬ。あなたには、我々に会うかどうかを御自分で決める権利がおありです」 バタン、とドアが開いた。 頬を紅潮させ、黒い瞳を煌めかせた里菜が、薄い胸を傲然と反らして立っていた。 その姿が、どこか、いつもより大きく見えて、アルファードは目をしばたたいた。 「女王よ……」 黒衣の三人は、再びさっと跪き、そろって深々と頭を下げた。 その頭上に、里菜はいきなり、場違いな金切り声を投げ付けた。 「何よ、何よ! 黙って聞いてれば、人のことを勝手に、誰やらの花嫁になるとか決めつけて! あたしは、いやよ! あんな、ロリコンの、人さらいの、ばか笑いの死神じじいのお嫁さんになるなんて!」 アルファードもあっけにとられたが、跪いていた三人も、ギョッとした。 呆然と顔を上げた老人は、言葉を失ってまじまじと里菜を見つめ、後ろの二人は、互いに顔を見合わせた。 ややあって、老人が言った。 「女王よ……。おっしゃることが、よく分かりませぬが……。その、じじい、とは?」 アルファードも、眉をひそめて問い掛けた。 「リーナ、その『ろりこん』というのは、何だ?」 里菜の言葉は、どういう仕組みでか、この世界の言葉に自動的に翻訳されて相手に伝わるらしいのだが、この世界にない物事を指す言葉などは、翻訳されずにそのまま伝わるらしい。どうやら、この言葉も、『翻訳』されずに伝わったようだ。この世界にも、それに相当する言葉はあるはずだが、きっと、代用するにはニュアンスが違うのだろう。 「え? まあ、その、『あちら』の世界での、ののしり言葉よ。気にしないで」 困って答える里菜に、アルファードは厳しく言った。 「リーナ。俺は、君がローイなどとつきあって下品な悪態を覚えるのではないかと心配していたのだが、どうやら、そんな心配をしなくても、君は『あちら』の世界で、悪態のつき方は十分に覚えてきていたというわけだな。だいたい、じじい、などという無作法な言葉は、相手が誰であろうとも使うべきではない!」 こんな時に言葉づかいについて大真面目に説教を始めるアルファ−ドの神経に呆れつつも、里菜は思わず赤面した。 「だって……。本当なのよ。本当に、嫌なやつなんだから! 強引だし、アタマ、おかしそうだし、ヘンな魔法使うし。それにあたしのこと、勝手に自分のものだなんて決めつけて、ひとりで妻だとか花嫁だとか言ってて、思い込み激しいし、自信過剰っぽいし……」 やっと気を取り直した老人が、かすれた声で尋ねた。 「女王よ。あなたは、その……、黄泉の大君に、お会いになられたので?」 「オオキミだかオオカミだか知らないけど、あの死神野郎になら、会ったわよ。あなたたちが迎えにこなくても、自分からあたしに会いに出てきたわ。ずっと、ただの夢だと思ってたんだけど……」 アルファードが口を挟んだ。 「死神とは、タナート神のことか?」 「なんだか知らないけど、自分のこと、『魔王』だって言ってたわ。でも、それは、本当の名前じゃないって」 その言葉を聞いて、黒衣の三人はざわめいた。 アルファードはそんな三人のことなどおかまいなしに、里菜を厳しく問い詰めた。 「リーナ。そのことを、俺に話さなかったな」 「だって、夢だと思ってたんだもん。わざと隠してたわけじゃないの。あとで話すわ」 まだ何か里菜に言おうとするアルファ−ドを遮るように、老人が、突然それまでの慇懃な態度を忘れたかのような性急さで、強引に話に割って入ってきた。 「そのお方は、どのようなお姿であらせられましたか? どのようなことを仰せになられましたか?」 懇願するように、せき込むように尋ねた老人の、しわ深い顔の中の半ばまぶたに閉ざされた目には、不思議な渇望の色が浮かんでいた。 「ええっと、いろいろ、変なことを、よ。赤ちゃんと結婚したいとか。ヘンタイよ、ヘンタイ!」 若い僧が、目を丸くして、思わず口を挟んだ。 「ハァ? 赤子と結婚、ですか?」 「そう。あとね、ええと、何だか、この世界に再生を、とか、新しい神代《かみよ》の楽土、とか、そんなようなこと」 それを聞いた黒衣の三人は、 「おお……」と、どよめいたきり、黙り込んでしまった。 若い僧たちの目に、感極まったように涙が浮かんでいる。 老人はと見ると、床に頭を擦りつけるようにうずくまったきり、動かない。 心配になった里菜は、屈んで老人のフードの下を覗きこんだ。 「おじいさん? どうしたの、大丈夫? ……あたしがあなたたちの神様のことヘンタイとか言ったからショック死しちゃった――なんてこと、ないわよね?」 老人は顔を上げた。その目から、とめどなく涙が流れている。目の前に、心配そうな里菜の顔があるのを見た老人は、再びうずくまり、嗚咽を漏らした。 「おお、女王よ、女王よ……。私などのことを、そのように気に止めて下さるとは、もったいない……」 あまりの感激ぶりに、里菜は薄気味悪くなって、後退りながら言った。 「ねえ、その、女王っていうの、やめてよ。なんか、ほら、ハイヒールはいて鞭持ったお姉さんみたいじゃない」 気味悪さと困惑の余り、とりあえず、何か茶化してみないではいられなかったのだ。 老人は、キョトンとして、涙に濡れた目をしばたたいた。 後ろの若い僧たちも、うるんだ目を見交わして、ぼそぼそと呟きあった。 「はあ……。鞭、ですと。何の象徴でしょうか」 「やはり、女神の御言葉は、我々凡夫には、理解できぬのですな……」 そしてまた、感動の面持ちで里菜を見つめて、神妙に次の言葉を待った。 里菜は、何だかうんざりして、少しばかり投げやりに言った。 「とにかくね、悪いけどあたしは、女王なんかじゃないの」 そのあとに里菜は、ものの弾みで、ついうっかりと、こんなことを言ってしまった。 「それに、あたし、あんな死神のお嫁さんになんか、死んでもなる気、ないから。あたしは、ここにいるアルファードのお嫁さんになるって、もう決めてるの!」 その場にいた全員が、一瞬、凍り付いたように沈黙した。 里菜は慌てて、赤面しながらアルファードを盗み見たが、彼は、何も聞こえなかったようにそっぽを向いて黙ってしまった。 二人の若い僧たちは、とほうもなく恐ろしいことを聞いたように、怯えた顔を見あわせた。まるで、そこに居合わせた全員にいまにも天罰が下って何か恐ろしいことが起こるのではないかという顔だ。 しばらくして、最初に気を取り直した老人が、こわごわ確認した。 「アルファードというのは、そこの若い方のことですな?」 「そ、そうよ。今、そう言ったじゃない!」 「それで、その方も、そういうつもりでいらっしゃるので?」 「し、知らないわ。あたしが勝手に、そう決めてただけだから。でも、あたしは本気よ。アルファードとでなけりゃ、一生、誰とも結婚なんかしないんだから!」 「では、別に、あなたがたがすでに結婚のお約束を交わしていなさるとか、あるいは、その……、事実上、夫婦として暮しておられるとか、そういうわけではないのですな」 「そうよ。どうせ、片思いよ。悪かったわね!」 里菜はやけになって叫んだ。 アルファードはあいかわらずむっつりと横を向いて、何も聞こえないふりをしている。 老人は、そんなふたりを、年老いた叡智の宿るまなざしで見比べてから、それまでの恭しい態度とは違う、不思議にやさしい面持ちで里菜に向き直った。 「娘御よ、あなたはおいくつですかな?」 「……十七よ。それがなんだっていうの?」 「そうですか……。それならばもう、結婚なさってもおかしくはないお年頃ですな。私の娘も、十八で嫁に行きましたが……。けれどあなたは、どういうわけか娘が七つかそこらの、ほんの幼い少女だったころ――おおきくなったらお父さまのお嫁さんになる、などと言ってくれていたころを、私に思い出させますな。その娘も、十年も経ったらそんなことはすっかり忘れて、遠方に嫁に行ってしまったわけですが……。あなたの、その方への今のお気持は、何かそんなようなものではございますまいか。十七とおっしゃいましたが、それにもかかわらず、どういうわけか、あなたは、まだ幼い。大人になればそんな気持など、きっと忘れてしまいましょう」 里菜は、自分の真剣な想いにケチをつけられたと感じて、何か痛烈なことを言い返してやろうかと口を開いたが、自分を見つめる老人の顔に慈父のような微笑みが浮かんでいるのを見て気勢をそがれ、口を尖らせて、こう言っただけだった。 「そんなことないわ。大人になればって言ったって、あたしは今だって、もう、子供じゃないもん。アルファードとだって、歳、そんなに違わないんだから」 老人はそんな里菜に、ますます愛しげに微笑みかけて言葉を続けた。 「ですが、今、あなたがその方を見る目は、私には、父親を見上げる幼い娘のそれのように見受けられますな。今のあなたがたを無理に引き離すことは得策ではなさそうですが、そんなことをしなくても、いずれ、時が来れば、あなたは自分から、その方のもとを旅立つでしょう。なぜなら、娘御よ、あなたの運命の相手は、ほかにいらっしゃいます……」 それまでそっぽを向いていたアルファードが、向き直って老人を睨みつけた。それに力を得て、里菜は叫んだ。 「だから、あたしはそいつが嫌いなの! もう、放っといてよ!」 アルファードが、おもむろに口を開いた。 「……と、いうわけだ。リーナは、シルドーリンになど、行かない。そうだな、リーナ?」 「うん」 「では、こいつらを帰していいな?」 「うん!」 アルファードは進み出て、里菜を背後に庇うように老人の前に立ちはだかり、低く言った。 「失せろ」 老人はうずくまったまま動かず、顔だけを上げて、じっと里菜を見た。 アルファードの声が、凄みを帯びた。 「失せろ! リーナは、魔王の花嫁になど、ならない!」 剣の切先が、老人の目の前につきつけられた。それを無視して、老人は、懇願するような視線を里菜に向けた。 「女王よ。どうしても、来てはいただけないのでしょうか。この若い方も、護衛として同行していただいてもよろしいのですよ」 「行かない」 里菜は素早く、きっぱりと言い切った。 「さようですか……。ならば、しかたがありませぬ。……女王は、すでに王と巡り会っておられる。なれば、我等がお連れしなくとも、女王はいつかお目覚めになり、御自分のなすべきことをお知りになりましょう。女王よ、その日を、お待ち申し上げております。では……」 そういうと老人は、突きつけられた剣先を全く無視して立ち上がり、今度はアルファードに言った。 「お若い方。ヴェズワルのものに、くれぐれもお気をつけ下され。私はこれからヴェズワルに説得に参るつもりですが、おそらく彼らは、私のいうことなど聞かぬでしょう。どうか、目覚めの時まで、我等に代わって女王をお守り下さい」 アルファードは、老人を睨みつけて、唸るように言った。 「きさまに言われなくても、リーナは、必ず、『この俺が』、『ずっと』、守る! とっとと、失せろ! 二度と俺の前に姿を見せるな!」 その剣幕に、里菜は少し驚いて身をすくませた。たしかに、あの老人は、アルファードに対しては少々慇懃無礼だったかもしれないが、だからと言って、そんなことで、普段温厚なアルファードがここまで怒るとは思えない。アルファ−ドが、『俺が、ずっと』のところを、一語一語区切るようにしてやけに強調してくれたので、どういうつもりでそう言ったのか、その真意はわからないながらも嬉しかったが、一方で、ただ礼儀正しく話をしていっただけでここまで怒鳴られるようなことをしたわけでもない気がする老人が少し気の毒になって、里菜はドアの隙間から顔を出し、雪の中に出ていく小さな背中に声をかけた。 「おじいさん。雪がひどいから、気をつけてね」 老人は振り返り、かすかに微笑んで頷いた。そしてそのまま、静かに去っていった。 アルファードは、まだ、燃えるような目で、黒衣の一行を睨み続けていた。自分の中でふつふつと燃えたぎる怒りのほとんどが嫉妬からくるものだということに、彼自身も気づいてはいなかった。 自分では決して認めないだろうが、彼は、そもそもの出会いの時から――女神の淵で里菜を見出したあの時から、里菜を、発見者である自分のものと思い込み、自分は女神から彼女を託されたのだと自負し、彼女に対する自分の正当な保護者としての義務と権利を一瞬たりとも疑わずに来たのだ。 そんなふうに、これまでひそかにすっかり自分のものと信じこみ、掌中の玉として大切に守ってきたつもりの里菜が、誰か他の者の花嫁になると言われたこと、しかも、その相手が、神様だかなんだか知らないが、女神に任ぜられた正当な保護者である自分の知らないうちに里菜と会って、ずうずうしくも里菜を自分のものだなどと一方的に宣言していたらしいことが、おもしろくなかったのである。 嫉妬といっても、それは、恋敵の出現に慌てた男というよりも、まだ子供だと思っていた娘が自分に内緒でいつのまにか作った恋人に求婚されていたと知った父親のような気持ちだったのだが、いずれにしても彼がこれまで知らなかった、自分でも理解できない種類の感情で、訳がわからなかった彼は、よけいに、目の前の黒衣の老人に怒りを向けるしかなかったのだ。 しかし、ドアを閉めて振り返った時、アルファードはすでに冷静な表情を取り繕っていた。 その冷静さの中に、いくらかの厳しさが混じっていたので、里菜はビクッとした。 自分のさっきの告白について、アルファードに何か言われるのかと思ったのだ。 さっき、内緒のつもりの想いをつい口に出してしまったとき、里菜はアルファードがそれを聞かなかったことにしてくれるらしいので、むしろほっとしていた。何も言わないということは、自分の気持に応えてくれないまでも、それを黙認はしてくれるということだと思ったのだ。 けれども、そうではなく、これからきっぱり、はねつけられるのだろうか……? 望みはないと、はっきり宣告されるのだろうか? だが、いくぶん堅さの混じる声でアルファードが言ったのは、全然別のことだった。 「さて、リーナ。さっきの、『夢』の話を、聞かせてくれないか」 里菜が、例の夢を、魔王がアルファードに関して語った内容と自分が感じた不思議な陶酔のことは抜かして語り終えるまで、アルファードは、冷めたお茶を前に、ただ黙って聞いていた。 「ねえ、アルファード。あたし、どうすればいいの? ずっと、これ、ただの夢だと思ってたから、忘れてしまおうとしていたんだけど……」 助けを求めるように里菜が尋ねると、アルファードは、やっと口を開いた。 「それで君は、少しでも、そいつの花嫁になろうという気があるのか」 「まさか! さっき言ったじゃない。絶対、いや!」 「それなら、放っておけばいい。花嫁になる気がなければ、それが夢だろうと、そうでなかろうと、北の荒野へ行く必要も、シルドーリンに行く必要もないんだから」 「でも、もしまた、魔王が夢に出てきたら……」 「無視すればいい。君は、その時も、はっきり断わったんだろう? そうしたら、そいつは、無理強いはせずに、消えたんだろう? 何回でも、断わればいい」 「でも……」と言って、里菜は黙りこんだ。 もう一度、あの誘惑に抗し切れるか、里菜は自信がなかったのだ。けれどそれをアルファードには、言えない。 その思いを見透かしたように、アルファードは淡々と言い聞かせた。 「夢の中では、俺が助けに行くことはできない。君の心がすべてなんだ。君が、本当はどうしたいのか、それをよく考えるんだ」 「うん……」 アルファードに話せば何もかも何とかしてくれるような気がしていたが、何しろ、夢だかなんだかよくわからない、あやふやな話である。いくらアルファードが強くて頼りになるといっても、そんなあいまいな夢の中の出来事まで具体的に解決出来るわけがないのは当然だろう。 これ以上、この件で指示を請おうとしても無駄だと思った里菜は、話題を変えた。 「ねえ、アルファード、さっきのおじいさんたち、何なの? タナティエル教団って、山賊のことじゃなかったの?」 「いや、君にも話したと思うが、彼らはもともと、宗教団体だ。ただ、ヴェズワルに住みついた一派が、このへんで山賊行為を働いているというだけだ」 「あの人たち、ここの人たちと違う神様を信じているの? さっき、ここのとおんなじお祈りの言葉を唱えていたみたいだけど」 「ああ、違う神というわけじゃない。神は同じなんだが、ただ、その神について少し考え方が違うんだ」 「どういうふうに?」 「そういえば、君は、神々のことを、よく知らないのだったな。まず、そのことから話そう。この世界には、生命の女王エレオドリーナと、死の王タナートという、二柱の神がいる。小さな神々、例えばその土地その土地の土着の土地神や、風の精霊、海の主、森の王のようなものは他にもあれこれいるのだが、大きな、主だった神は、この二柱だ。俺たちは皆、出産や結婚式の時は女神に祈りを捧げるし、葬式の時は黄泉の大君タナートに祈る。それは、国中、どこでも同じだが、ただ、女神の聖地に近いこのあたりでは女神に関係する行事や祈りの数が多いし、男神の聖地のある北部では、その逆なんだ。 その北部でも特にタナート神を強く信仰しているのが彼らタナティエル教団だ。タナティエル教団は、タナート神の聖地であるシルドーリンで生まれた。教団自体はずいぶん昔からあるものなんだが、ここ数年のあいだに急速に信者を増やし、同時にいろいろと変質しているらしい。『タナティエル』というのは、古い言葉で『タナートを待つもの』という意味だそうだ。彼らは、タナート神の復活の時を待っているのだという」 「復活って、タナート神は死んだの? 神様も死ぬの?」 「いや……。そのへんのことは、今まで、俺にもよくわからなかったんだが……。俺だけでなく、たいていの人が、なんで彼らが復活などと言うのか訳がわからずにいたんだ。でも、さっき彼らは、たしか、タナート神は眠っていると言っていたな。それで彼らは、その眠れる神が復活する時を待ち続けているというわけだったらしい」 「神様が復活すると、どうなるの?」 「さあ。それも、よくは知らない。なんでも、その時こそ彼らの待ち望むような世の中になるとかいうことらしい。さっき、君も言っていただろう、新しい世がどうとか。それがどういう世なのか、俺は知らないが。 ただ、ヴェズワルの連中は――、ああ、ヴェズワルの山賊というのは、この近辺のものが彼らを蔑んでいう呼び方で、彼らは一般にはタナティエル教団ヴェズワル派と呼ばれているんだが、やつらはこのことで、こんな主張をしているらしい。神が復活したとき、地上に新しい神代の王国が築かれ、そこでは自分たちが、まっさきに神の近くに座れるのだと。 なぜかというと、自分らが<魔王の刻印>を持っており、それが新しい世での救いのしるしだということらしい。彼らは、魔王こそ黄泉の大君、つまりタナート神のもうひとつの姿で、刻印を受けるということは神に選ばれたということなのだと言っているんだ。そして、刻印のないものでも、ヴェズワルに来て、信仰のあかしとして手首に刻印に似せた刺青をしてもらえば神の近くに座る権利が得られると言って信者を集めているらしい。俺もその刺青は何度か見たことがある。 だが、どうも、それはタナティエル教団の正統の主張ではなくて、ヴェズワル派独自の主張らしいんだが、その正統の主張のほうがさっぱり宣伝不足で、ヴェズワル派の主張のどこまでがシルドーリンと同じで、どこからが違うのかもよくわからない。第一、ヴェズワル派の主張のほうが分かり易い。だから最近ではそっちのほうが広く知れ渡ってきて、タナティエル教団全体を、憎むべき魔王を崇拝する邪悪な教団だと考えるものも増えている。彼らがシルドーリンでひっそりと暮しているあいだは、決してそんなふうには思われていなかったんだが。 だいたい彼らは、もともと謙虚な人たちで、死の前では誰もが平等だと唱え、自分たちが神に選ばれたものだとか、そんなことは一言も言っていなかったはずなんだ。だが、さっきの話からして、シルドーリンの連中も、魔王とタナート神を何か関係のあるものだと思っているのは間違いなさそうだな。 それに、彼らが昔から魔物や魔王の刻印を恐れていないのは確かだ。 シルドーリンでは昔から、刻印を受けたものを教団に受け入れ続けてきた。魔王の刻印はこの世の生活への過剰な執着を断ち、信仰に入る助けになるから、それを受けたことを喜び感謝しろと言って、彼らを祝福するのだそうだ。かと言って、刻印のないものに刺青をするとかいうことは、なかったはずだが。 そういうわけで昔から、刻印を受けたものは、聖地シルドーリンに巡礼に出て、そのままタナティエル教団に入ることが多かった。実際、あそこでは、刻印を持つものでも普通に長生きし、穏やかな人生を送れることが多かったと聞いている。だから、タナティエル教団が最近急に大きくなったのには、魔王の刻印を受ける者が増えたせいもあるんだ。 今、タナティエル教団にはいろいろと良くない評判がたっているが、昔は彼らは、普通の人にも結構尊敬されていたものなんだ。だが、ヴェズワルの連中が山賊行為をするようになって、この辺ではタナティエル教団の評判は非常に悪くなった。もっとも、しばらくして、ヴェズワルの連中はタナティエル教団内の異端分子というか、過激分子で、古くからの穏健なシルドーリン派と内輪揉めをしているらしいこともわかってきたんだが……。さっきの話では、ヴェズワルとシルドーリンの関係は、思っていた以上に悪化しているらしいな。ようするに、組織が急に大きくなりすぎて、まとまらなくなったんだろう」 「アルファード、ずいぶんくわしいのね」 「ああ、そうでもないが……。彼らは謎の多い連中で、外部のものには、詳しいことはあまりわからないんだ。ただ、ヴェズワルの奴らは俺たち自警団の宿敵だから、俺は、彼らについてはそれなりに研究しているつもりだし、彼らと接触する機会も多いから、他の人よりは情報も入る。彼らは大抵、ちょっとおかしくなっているから、捕えられた時などは、尋ねもしないことまで自分からいろいろと喚きちらすことが多いんだ」 「ねえ、捕まえた山賊は、どうするの? そういえば、昼間の女の人とか、縄で縛ったらどうするつもりだったの?」 「どうもしないさ。ただ、一通り尋問してから、プルメールにある監獄まで護送するだけだ。護送したって、形ばかりの取り調べのあと、そのへんにほうり出されてしまうだけかもしれないし、監獄に入っても、こそ泥程度じゃ、すぐに追い出されるだろうが。最近は治安が悪くなって、監獄も満員だから、こそ泥なんかを長く入れてタダ飯を食わせる余裕はないんだ」 「なんだ、それならたいして怖くないじゃない。それが怖くて自殺したなんて、よくみんな信じるわね」 「いや、どこの自警団でも俺たちのようにするわけじゃない。よそでは、プルメールまで連れて行くなどという手間はかけずに、罪人を私刑にしてしまうことも多い。うちも昔はそうだったらしいが、ひどい時は縛り首だ。そこまでいかなくても、かなり残虐なことをする連中もいるようだ。特に、この辺のものはヴェズワルの連中には恨みを持っているから、たとえ罪状がただのこそ泥でも、それがタナティエル教団のものとわかれば、どんな目にあわせるか分からない。あの女がそれを恐れたとしても、おかしくはない。 しかし……。あの女といい、今の連中といい、ああいうやつらに回りをうろつかれるとまったく困る……。こんなことが、今後もあるようだと、また君のことをとやかく言うやつが増えるだろう。そうでなくとも、いろいろと……」 続く言葉を呑み込んで、黙り込んだアルファードに、里菜も心配になって尋ねた。 「ねえ、アルファード、あの人たち、ここへ来る時、誰かに見られたかしら?」 「ああ、たぶんな。それに、来る時に見られていなくても、君を探し歩いていたようだから、その時に人に何か尋ねたりしただろう」 「やっぱり、それって、まずいのよね?」 「ああ、かなり、まずい。この辺じゃあ、やつらの黒衣は、魔物の灰色のマントと同じくらい忌み嫌われているからな」 アルファードは、そのまま腕を組み、宙を睨んで考え込みはじめた。 しばらくして、アルファードは、何か心を決めた様子で急に顔を上げ、まっすぐに里菜を見つめた。 「リーナ……」 「は、はい!」 アルファードの様子があまり真剣なので、里菜は思わず緊張して答えた。 「リーナ、その……。突然の話で、驚くと思うんだが……。いや、でも俺は、何も思いつきでこんなことを言うわけじゃないんだ。もう、ずっと前から真剣に考えていたことなんだ……。そう、たぶん俺は、あの日、女神の淵で初めて君を見つけた時から、いつかこういう日が来ると知っていたんだ……」 (え、なに、なに? アルファードは何を言い出すの?) アルファードがふいに椅子から立ち上がり、テーブルを回って自分のほうにやってくるのを、里菜は目を丸くして見つめていた。 里菜の前に立ったアルファードは、里菜の手を取って、椅子から立ち上がらせた。 愛しいアルファードに手を取られ、いつになく熱いまなざしで瞳をじっと覗き込まれて、里菜は、夢の中で魔王の大鎌に呪縛された時のように動けなくなった。目を反らすこともできない。声も出ない。気が遠くなりそうだ。 「ああ、その……。君が嫌でなければの話なんだが……。その……」 (え、え、え……。アルファードは何を言うの? もしかして、さっきのあたしの告白と関係あること? ええーっ、どうしよう!) パニックを起こしかけた里菜の耳に届いた言葉は、しかし、里菜が予想だにできなかったようなものだった。 アルファードは、里菜をひたと見つめて、力強く、こう言ったのだ。 「……リーナ。一緒に軍隊に入らないか?」 「へっ?」 里菜の頭の中が真っ白になった。 真っ白になった頭のなかに、ただひとつ浮かんだ考えは、こうだった。 (目がテンになるって、こういうことを言うのね……) (── 第一章・完 第二章に続く ──) |