長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語

冬木洋子作


 <第二章 シルドーリンの宝玉> 


 それから三日間、四人の旅は、何事もなく続いた。
 天候は大きく崩れることなく、キャテルニーカのおかげで里菜の体力もなんとか持っているし、狼も追い剥ぎも出なければ、他の旅人に出会うこともない。
 あの夜のことは、誰も口にしない。
 キャテルニーカは例によって一連の出来事をすっかり忘れてしまっているし、アルファードもどうやら、ただ、頭痛がして里菜やローイに無愛想な態度を取ってしまったというふうにしか覚えていないらしい。
 里菜は、それを、キャテルニーカのしわざではないかと思っている。キャテルニーカが、アルファードの記憶に何らかの操作をしたのではないかと。彼女には何か催眠術のような不思議な力があるのではないかと、山賊の一件以来、里菜はずっと思っていたのだ。
 けれど、今のキャテルニーカに、そのことを確かめようとしても無駄だろう。どうせ忘れているにきまっている。
 どっちみち里菜は、キャテルニーカが悪い目的でそんなことをしたとは思っていない。キャテルニーカがそれをしたなら、たぶんアルファードの過去が彼を取り返しがつかないほど傷つけるのを防ぐためにしたのだろうと思っているのだ。
 キャテルニーカは謎の多い子供だが、タナティエル教団の巫女であることから考えても、タナート神――ひいては、あの『魔王』――と何か縁のあるものなのはまちがいないし、実際、『魔王はかわいそう』などと言いもした。が、それでも里菜は彼女を全く疑うことができない。
 里菜も幾度か、考えてはみたのだ。自分が、キャテルニーカのかわいい顔や白痴的な無邪気さを装った態度に惑わされて、騙されているのではないかと。けれど、どうしても、そうは思えなかった。彼女からは全く、悪意や、歪んだものは感じられないのだ。そして里菜は、その自分の勘を信じることに決めていた。
 そうして四人はひたすら歩き続けた。
 里菜とローイが、あいかわらずたあいのないおしゃべりをしながら歩くまわりを、キャテルニーカが跳ね回ってはしゃいでいる。その先頭を、アルファードは黙々と歩く。
 夕方にはローイが狩りをし、アルファードがたきぎを拾うあいだに、キャテルニーカと里菜は、香草やきのこを集める。いくら暖かい地方とはいえ、キャテルニーカがいなければ、こんな冬のさなかに、こう簡単に食べ物やら薬草やらをみつけることはできなかっただろう。これもキャテルニーカの不思議な力のひとつらしい。
 夜には焚火を囲んで狩りの獲物と堅パンを食べ、食事の後はローイが歌をうたい、それから地面にマントを敷いて眠る。ローイは毎晩里菜に「一緒に寝ようぜ!」と声をかけ、里菜に悪態のつきかたを指導してはアルファードにたしなめられる。
 四日前までと、何も変わらない旅路である。ただ、まわりの景色だけが変わっていく。イルシエル山脈は背後に遠ざかり始め、ときどき街道の左手に現われるシエロ川は見るたびに川幅を増し、流れは緩やかになり、流れの左右に切り立っていた崖は狭い川原に変わる。森の木の種類が変わり、だんだん常緑の広葉樹が増え、緑が濃くなる。
 けれど、目に見えないところで、もうひとつゆっくりと変わりつつあるものがあった。
 それは里菜とアルファードとローイ、三人の関係だった。
 それまでどうにか彼らの間に保たれていた、ひとつの危ういバランスが、狂い始めていたのだ。
 それはたぶん、村から遠く離れるにつれて、里菜やローイの心の中から、ヴィーレの姿が薄れていったせいだ。今まで、彼ら四人のバランスをとり、なんとか仲良し四人組にまとめあげていたのは、実は、最年長でリーダー気質のアルファードでも、口達者で要領のよいローイでもなく、地味でおとなしい、はにかみやのヴィーレだったのだ。
 やさしいヴィーレを、誰もが好きだった。誰もがヴィーレを悲しませたくなかった。だから彼らは、ヴィーレ自身を含めて、誰も、誰かに向かって一歩を踏み出すことができずにいた。彼らは、それぞれの想いを秘めながらも、やさしい四角形を保つことを選んでいたのだ。
 だが、今、要《かなめ》のヴィーレが抜けたことで、そのバランスが崩れた。
 ローイは里菜に、里菜はアルファードに向かって、一歩づつ、足を踏み出そうとしていた。
 けれどこの時までは、里菜もローイも、まだ自分の気持ちの変化を自覚してはいなかった。ロ−イが自分の気持ちにはっきりと気づいたのは、その夜のことだ。
 旅に出てから六日目の夜。
 最初の夜はプルメールで宿屋に泊まったから、野営は五度目だ。準備もだんだん手慣れてくる。里菜も、キャテルニーカに教わって、食べられる野草をだいぶ覚えた。ローイは、いったいどうやって獲ってくるのか、今回も、ちゃんと山鳥を獲って来た。
 いつもどおりの楽しい夕べである。
 夕食のあと、いつものようにローイがキャテルニーカに歌をうたってやっていた時、焚き火をはさんだ向い側の倒木にアルファ−ドと並んで――もちろん、例によって少し離れて――腰かけていた里菜が、急に身体をずらしてアルファードのすぐ隣に行くと、ぎこちなく硬い動作でアルファ−ドに寄り添った。
 それが非常に唐突で、いかにも思いきって勇気を出して決行してみたという感じがありありで、しかも、アルファ−ドの逞しい腕にそっと小さな手を掛けて恐る恐る凭れかかってみながら彼の横顔を盗み見る里菜の、そのおどおどした上目使いが、まるで、ここまでならやっても叱られないかなと飼い主の顔色を伺いつつ少しだけ行儀の悪い振る舞いをしてみる飼い犬そっくりだったので、はたで見ていたロ−イは、吹き出しそうになりながら呆れかえった。
(あーあァ、リーナちゃん、だめだよ、そんなんじゃ。何かの拍子にって感じで、もっと自然に接近しなきゃあ。自分たちは仲がいいんだからこれくらいあたりまえってつもりで、ごく普通に、堂々とさ。自分がおどおどしてると相手も気まずくなって退いちゃうんだぞ。俺もケツの青いうちは、それで女の子、何人も逃した……って、それはまあ置いといて……。
 でも、リ−ナちゃんって、ほんと不器用だよなあ。いかにも不慣れで、似合わなくて、無理して頑張ってるって感じがありありで、何か笑えるというか、見ている方が恥ずかくなるというか……。でも、そこが、かわいいんだよな……。健気で、いじらしくて……。
 ああっ、もう! かわいすぎるよ! なんでアルファ−ドのやつは、あれ見て平然としてられるんだ? 鈍感とか堅物とか、そういう問題じゃないよな。あいつ、かわいいものをかわいいと感じる人並みの感性ってものを持ってないのか? それとも、もしかして、ほんとにホモか? どうせまた、逃げるんだぜ)
 歌いながらローイが横目で見ていると、案の定、アルファードは突然立ち上がり、必要もないのに焚火にたきぎを押し込んで、里菜から少し離れて座り直した。
(ほうら、やっぱり逃げたよ。なんてやつだ。つれないよなあ。リーナはなんとかあんたに近づきたくて一生懸命で、今のだって、あの子にしてみりゃずいぶん思い切ってしてみたことだろうに、あんただってそれはちゃんとわかってるんだろうに、それをあんなふうにわざとらしく無視するなんて、あんまりじゃねえか! かわいそうに!)
 焚き火越しにアルファ−ドを睨みつけながら、ロ−イは、みぞおちのあたりに何か黒い霧のようなものがもやもやと沸き上がって来るのを感じた。それを、怒りだと思った。アルファ−ドにかわされて叱られた犬のようにしょんぼりしながら、それでもまだアルファ−ドの姿を目で追っている里菜が、ロ−イの目には、迷子のおさな子のように頼りなくいたいけなものに映り、その分だけ、その里菜をこんなふうにいじめている――ように見える――アルファ−ドが、とんでもない冷血漢の人非人に見えてきて、ロ−イは、むらむらと腹が立ってきたのだ。
 ここ数日、ローイは何度も、このふたりのこんな様子を見続けてきた。もちろん、ここ数日に限らず、村にいたころから二人はずっとこんなことを繰り返していたのだが、このところ里菜が少しづつアルファードに歩み寄ろうとしはじめたのはローイの目にも明らかで、その分よけいに、ローイの目には、アルファードが里菜にひどく冷たくあたっているように見えていた。
 そしてそれは、あながちローイの思い過しともいえなかった。
 里菜は、アルファードの背中が遠く見えたあの夜から、その距離を少しでも早く埋めようと、どこかで焦っていたのだ。
 あのやさしい村を出てきてしまった今、里菜は本当によるべない身の上だ。見知らぬ異世界で天涯孤独の境遇で、この世界のことを何も知らず、魔法の力も無く、生活していく術も、何一つ持たない。そんな里菜にとって、この世界で頼るものはただひとり、アルファードしかいない。今ここで――あるいはイルベッザについてからでも――アルファードに見捨てられてしまっては、里菜はたぶん、生きてさえいけない。今の里菜にとって、アルファードにつれなくされるということは幼児が親に見捨てられるようなものであり、まさに死活問題なのだ。
 だからといって里菜は別に、アルファードに養って貰おう、守って貰おうなどという打算で彼に取り入ろうとしているわけではないが、それでも、アルファードにもっと近く寄り添いたいという願いが、里菜にとって、村にいた時よりももっと切実な、せっぱつまったものになってしまうのはしかたがない。
 そして、里菜をそんな心細い状況の中に連れ出したのは他ならぬアルファードなのだから、本来なら彼は里菜にこれまで以上に気を配って不安にさせぬように振る舞ってくれる責任があるのではないか――こうして自分を信じてついてきた里菜にその見返りとしてこれまで以上に親密に接してくれるべきではないかと、里菜は、心のどこかで思っている。
 そのひそかな期待と、ここへきてかえって彼を遠く感じるようになってしまった現実との落差が里菜をますます不安にさせ、その焦りが里菜をいつになく積極的に振る舞わせるのだが、里菜が押せば押した分だけ、今までと同じ距離を保とうとしてアルファ−ドは退く。里菜もそれはわかっていているのだが、それでも、心細さのあまり、何度でもアルファ−ドに縋りつかずにいられなくて、そのつど身をかわされて、ますますよるべない気持ちになる。
 そんな里菜の、彼女なりのせいいっぱいの積極果敢な行動が、あまりにも不器用で、一生懸命になればなるほど不似合いなので、ロ−イは、おかしくなるのと同時に、その板につかなさ具合がやけに愛しくて、なんだか胸が苦しくなるのだ。
(アルファ−ドのやつ、あんな子にあんなに一途に慕われて、なんでああやって知らんぷりできるかなあ。俺だったら、あの子にあの縋りつくような目でじっと見上げられたら、もう、どうしていいかわからないくらい可愛くて愛しくて、ただもう、いきなり、力一杯抱きすくめずにはいられないだろうに……。あんまり愛しすぎて何が何だかわからなくなって、あの子がびっくりして逃げようとしてじたばたもがいたってもう絶対放してやる事ができないくらい夢中になって力まかせに抱きしめちまうかもしれないのに……! なのになんでアルファ−ドは、あの子をあんなふうに、ひとり寂しくぽつねんと座らせとくんだ。ひどいじゃないか、もっとやさしくしてやれよ!)と、そこまで考えて、ロ−イは、
(でも……)と、思い至る。
(じゃあ、ここでアルファ−ドがリ−ナをやさしく抱き寄せて、何か甘い言葉のひとつもささやいてやったとしたら? そのほうがいいと思うか?)
 その場面をうっかり想像してしまったロ−イは、さっきからずっとみぞおちのあたりでもやもやしていた黒いものが、急に石のように固まって重くなって胃の中にどしんと落ちてきたような気がして、思わずぎりっと奥歯をかみしめた。
(それは、やっぱり腹が立つじゃないか! もっと腹が立つじゃないか! だいたい、なんでリーナは、俺にじゃなくてアルファードなんかに懐くんだ? そもそもそれが間違ってるんだよ。俺だったら、絶対、もっとやさしくして、大事にしてやるのに。ひとときだって、あんなふうに心細そうになんかさせておかないのに。そうさ、俺だったら、さ。
 なのに、なんで、アルファ−ド、アルファ−ドなんだ。アルファ−ドに冷たくされたら世界の終わりだ、みたいな顔してさ。こんないい男がそばにいて、しかも自分に惚れてるってのに目もくれず、まるで世界には自分とアルファ−ドしかいないみたいに、あんな朴念仁の唐変木にばかり執着して、必死で縋りつこうとして。
 リ−ナちゃん、俺の存在、忘れてない? 世界に男はアルファ−ドひとりってわけじゃねえんだぞ? あんないたいけな、いじらしい子が、世間知らずの余り、たまたま目の前にいるってだけのやつを世界でただ一人の相手みたいに思い込んで、そんなつまらん勘違いのせいであんな悲しい思いをしてるなんて、これは絶対、間違ってるよな)
 ローイの中に決意が生まれた。
(よおし、決めた。俺はリーナに告白するぞ。リーナがアルファードに惚れてるのはわかっているが、だからってあの子がやつにあんなふうに冷たくあしらわれ続けるのを黙って見ているのは、もう我慢の限界だ。リーナも、そろそろ目を覚ますべきだ。俺が目を覚まさしてやるよ。アルファードなんかより、もっとやさしい、いい男が、こんな目の前にいるんだ。それに気がつかずに、いつまでもアルファードなんかを追いかけてるなんて、リーナにとって、世紀の大損だ!)
 決心してしまうと、胃の中の石が少し軽くなったような気がした。
(だいたい、前から思ってるんだけど、リ−ナは、自分じゃ、やつに恋してるつもりでいるらしいが、あれはどう見ても、恋なんてもんじゃないよ。今のあの子がやつを見てるあの目は、恋する女の目じゃなくて、揺りかごの中にひとりで置かれた赤ん坊が母親の姿を片時も休まず目で追い続けている、そういう目だよ。それを、あの子は、あんまり世間知らずで、まだ恋ってのがどんなもんか知らないもんだから、恋だと思いこんでるんだ。
 アルファ−ドは、一見モテてるようで、ありゃあ、実は、リ−ナから全然男だと思われてないんだよ。ご愁傷さまってなもんだ。惚れられてると勘違いして、いい気になって余裕こいてんじゃねえぞ。俺がこれからリ−ナに本当の恋ってもんを教えてやれば、あんたのことなんか、あれはほんとは恋なんかじゃなかったんだなって気づいて、すぐに昔話に――ただのほほえましい思い出になっちまうんだからな。
 うん、それじゃまず、アルファードの野郎に宣戦布告といくか。あいつはリーナにあんな態度をとってるんだから、リーナを口説くのにあいつに断わる義理もないんだが、あとで文句いわれると、つまらねえからな。さて、いつ話そうか。やつとふたりになる機会って、あるかなあ)
 考え込んでしまったローイを、キャテルニーカがつっつき、口を尖らせて文句を言った。
「お兄ちゃん、今、歌、間違えた! よそ見しないで、ちゃんと歌って」
「おっ。おお、悪い悪い。じゃ、次の歌な」
 そういってローイが歌い始めたのは、熱烈な恋の歌だった。
 ローイはそれを、心ひそかに、里菜に捧げるつもりで歌っていたのだが、それを知っているのはローイだけだから、はたから見ると、キャテルニーカにラブソングを捧げているようにしか見えない。ローイはまた、歌っているうちに目の前にいるのが里菜のようなつもりになって、思い入れたっぷりに甘く歌いあげながらキャテルニーカを熱いまなざしで見つめたものだから、里菜はアルファードにひそひそと囁いた。
「ねえ、こないだから思ってたんだけど、ローイって、やっぱりちょっとアブなくない? ほら、あれ見てよ」
「いや、別に、おかしなつもりはないと思うんだが……」というアルファードの答えも、ちょっと自信がなさそうだった。
 そんなことを言われているとは露しらず、ローイは里菜への熱い思いを込めて愛の歌を歌い、キャテルニーカは、がぜん熱が入ったローイの歌に満足げに聞き惚れて、野営の夜は更けていった。




「準備完了! じゃあ、アルファード、ローイ、見張り、お願いね!」
 シエロ川の川原に並んで転がるふたつの大岩の間に、自分の青いマントを張り渡すように掛け終えた里菜は、マントの向こうのふたりに声を掛けた。
 両端を石ころで押えられたマントは、ふたつの岩のあいだの狭い隙間にちょうどカーテンのように垂れて、その向こうの水面を隠した。
 マントの向うの水溜りは、実は、川原に湧き出る天然の温泉である。白い湯気が、水面を這うようにたゆたっては、冷たい空気の中に立ち昇っている。
 旅に出て七日目の昼過ぎ。
 川原のそこここから湯気が立ち昇り、かすかに硫黄の匂いが漂うこの場所は、古くからこの街道を往来する旅人たちに共同で利用されてきた天然の温泉場である。アルファードからこの場所の事を聞いていた里菜は、旅の途中でただ一度の入浴を、ずっと楽しみにしていたのだ。
 幸い、今日は、ちょうど昼食時の暖かい時間帯に、この場所に差し掛かった。天気も穏やかで、風もない。石鹸はないが、湯の中で揉むと泡立って良い香りのする汚れ落としの薬草もある。キャテルニーカが森で採ってきたものだ。
 里菜は、思い出したように岩の後ろからひょいと顔を出し、立ち去ろうとしていたローイに向かって叫んだ。
「ローイ、いっとくけど、覗いたりしたら絶交よ!」
 ローイは振り返って叫び返した。
「何だよ、リーナちゃん、何でアルファードには言わないで、俺にだけそんなこと言うんだよ。あ、そうか、アルファードには見られてもいいんだな?」
「バッ、バカッ! アルファードが覗きなんかするわけないもん!」
「じゃあ、何か、俺は覗きをするような人間に見えるってのか?」
「見える! だってあたし、ドリーに聞いたんだから! あなたが前にドリーのお姉さんがお風呂入ってるの、覗いたって」
「ちくしょう、ドリーのおしゃべりめ! それは大昔、俺がまだほんのガキのころの話じゃねえか。だから俺、あの村にいるの、嫌だったんだ。ガキのころのそんなちょっとしたワルサを村中の人がしっかり全部覚えていて、今だに酒の肴にそういう話を持ち出すんだもんな。ちぇっ。今の俺はな、そんなセコイまねはしないんだよ! 裸が見たけりゃ、正面から正々堂々と口説き落として見せてもらうまでさ。だいたい、あんたの裸なんか見たって、どうせニーカちゃんのとたいして変わらないんだから、面白くもねえや!」
「い、言ったわね! 言ったわね! 何よ、何よ、いくらほんとのことだからって……」
 ローイは、岩の後ろから次々飛んでくる小石の攻撃にあわてて逃げたした。
 その後ろ姿にまだ石を投げながら、里菜は、もう見張りの位置についていたアルファードに叫んだ。
「アルファード、ローイがニーカを覗かないように、見張っててね!」
「な、なんでニーカを、なんだ?」
 頭を抱えて逃げながらローイは不思議そうに呟いた。
 やがて岩陰から、水音と一緒に里菜とキャテルニーカのはしゃぎ声が聞こえ始めた。ふたりは、物好きなことに、この寒い中、お湯のかけっこでもしてふざけているようだ。
 岩に腰かけたアルファードが、のんきに嬌声を上げているふたりに「風邪をひくし時間が無駄になるから早くしろ」と注意すべきか、このくらいのささやかな楽しみは見逃してやるべきかと思案していると、となりでローイがいたずらっぽく声を潜めて囁いた。
「な、な、アルファード、ちょっとだけ覗いてみない?」
「バカ。止めとけ。そんなことは最低の人間のすることだ」と、まるでとりあわないアルファードに、ローイは、
「ちぇっ、つまんねえの。これで話に乗ってきたら、あとでリーナちゃんに、うんと大げさに言いつけてやろうと思ったのに。あんた、ほんとに堅物だよな。からかいがいもないや」と言って、しばらく黙って膝を抱えて何か考えていたが、ふいにアルファードのほうを向き直って、今度は真面目な顔で口を開いた。
「なあ、アルファード。あんたに話があるんだけどさ……。リーナのことなんだ」
「リーナの、何だ」
 アルファードは警戒するようにローイの表情を探って、用心深い口調になった。
 ローイはそのまましばらく黙っていたが、意を決したように再び口を開いた。
「あのさあ……。前にも聞いたんだが、リーナはあんたの、何だ?」
「何だと言われても、困ると言っただろう。だが、とりあえず今は、旅の仲間だ。これからは仕事仲間になるはずだ」
「要するに、単なる『仲間』なんだよな。でもさ、心の中じゃ、ほんとはリーナのこと、どう思ってるわけ? あんたは、自分にはあれができない、これができないと、つまらない言い訳ばかりしているが、そういう言い訳をとりあえず全部とっぱらっちまって、自分の気持だけを正直に考えて答えてくれよ」
「お前、何が言いたいんだ。そんなことを聞いて、どうする」
「いいから、答えろよ。あんたが、男としてリーナをどう思ってるのかを、確かめておきたいんだよ」
「どういうことだ」
 なおも用心深くそらとぼけるアルファードに、さすがのローイもむっとした。
「あー、いらいらする野郎だぜ。いいかげんにしろよ。いくらあんたが野暮天の朴念仁だからって、わかるだろうが。はっきり言って、俺はリーナに惚れてんだよ。俺はこれからリーナを口説いてみるつもりだ。そりゃあ、リーナがあんたに惚れてる……っていうか、本人はそのつもりなのは、わかってるさ。だから、あんたがはっきりと、俺はリーナを愛している、リーナは俺のもんだって言うんなら、しかたがない。俺に勝ち目はないさ。でも、あんたが、あんなふうにリーナにつれなくするんなら、俺にだって、万に一つくらいはチャンスがあるかもしれない。それで、万一でもリーナが俺になびいてくれたときに、あんたが、やっぱりリーナは渡せない、なんて言いだしたらこまるだろ。あんたと決闘なんてことになったら、俺、たぶん勝てねえからよ。だから俺は、今のうちにあんたの考えを聞いときたいんだ。で、どうなんだ、あんたの気持はよ!」
「俺がリーナをどう思っていようと、俺がお前に対して、リーナに交際を申し込むなという権利はないだろう。俺は、リーナの父親でもあるじでもなんでもないんだからな。もしお前がいいかげんな気持ちだったり、力づくでけしからん振る舞いに及んだりしたら、ただではおかないが、真剣な気持で紳士的に交際を申し込むというなら、それはお前の自由だろう」
「ただではおかないって……。あんた、それはやっぱり、父親の心境じゃねえのか? まあ、そうすごむなよ。自分でもわかってるだろうが、あんた、すごむとマジで怖いんだからさ。俺が女の子に力づくで無理強いなんか、するわけないだろう。俺がどんなに紳士的な男かってことは、村中の女の子が知ってるぜ」
 これには思わず苦笑してから、アルファードは言った。
「なら、好きにすればいい。それで、もしリーナがお前を選んだとしても、リーナが自分の意志でした選択に、俺が口を出すことは出来ない」
 ローイは、しばらく黙ってアルファードを見ていたが、ややあって、再び口を開いた。
「あんたは、ずるいんだよな。そうやって逃げておいて、あんたとリーナが結ばれなくても、それはあんたがリーナを選ばなかったからじゃなくて、リーナがあんたを選ばなかったんだって言って、自分の臆病さから目をそらすつもりだ。そうだろう? 俺は、俺がリーナを口説くのにあんたが文句をつけなければそれでいいんだから、あんたにこれ以上とやかく言う必要はないんだが、やっぱり、恋敵がそんなふうに逃げていて正々堂々と勝負できないんじゃ、勝っても負けても後味悪い。だから、言わせてもらうけどよ……」と、アルファードに、挑戦するように目を据えて言う。
「あんた、女が怖いんだろう」
「なんで俺が、女なんか恐れなきゃならないんだ」と、アルファードはあきれたように言って、大真面にこう主張した。
「俺は、これまで、ひとりでドラゴンと戦ったって、自分より縦も横もひとまわりでかい男と真剣で試合したって、怖いと思ったことなどない」
「それは、わかってるさ。たしかにあんたは勇敢だ。あんたはきっと、死ぬことだって恐れない。それはあんたが、自分の生命にも、この世界にも、執着がないからだ」
 急にそんなことを言い出した彼の口調には、普段の彼のおちゃらけた様子はみじんも見られなかった。それはまるで、彼の中の詩人の直感のようなものが、普段の彼を押し退けて、彼の口を通して宣託を述べているかのようだった。
 ローイは一気に、こう続けた。
「あんたは自分の命に価値を認めていない。あんたは、ありのままの自分を認め、許すことができない。自分はこの世に生きている価値があるんだと認めてやることができないんだ。だから、あんたは、死ぬことよりも、生きていくことが怖いんだ」
 いつも陽気なお道化もののローイから、いきなりそんなむつかしいことを言われたアルファードは、意表をつかれて言葉に詰まってしまった。そんな彼を見て、ローイも自分の言葉が照れくさくなり、いつもの顔でニヤリと笑ってから続けた。
「いや、まあ、なんだ、つまりさ、こういうことだ。生きていくってことは、他の人間と関わっていくってことだ。回りの人間とあれこれつきあって、仲良くなったりいざこざがあったり、愛しあったり憎みあったり。それが人生ってもんだろ? なのにあんたは、それから逃げたいと思っているんだ。羊と犬だけを相手に、一日山にこもっていたのも、なるべく他人と会いたくないからだろう?」
 黙り込んだアルファードを見て、ローイは容赦なく指摘した。
「図星だな。あんたは都合が悪くなると黙っちまうんだ。あんたさ、無口なふりして、実は口達者なんだよな。おっと、とぼけても無駄だ。他のやつらは騙せても、俺の目はごまかせないぜ。あんた、普段は黙っりこくってばかりいるが、しゃべる必要があると自分で思った時は、どっちかっていうとしゃべりすぎだっていうくらいしゃべれるし、たくさんしゃべるってだけじゃなく、本当は、村で一番ってくらい、口がうまいんだよ。ただ、普段は、しゃべりたくないから黙ってるだけさ。どうせ誰にも自分のことをわかってもらえないと思いこんでるから――いや、実は、わざわざ努力してまでわかってもらいたいとも思ってないもんだから――、それで、自分の考えをいちいち人に説明するのが面倒くさくて、無口なふりに逃げ込んで楽をしてるんだ。あんたのだんまりは、逃げの方便なのさ。そうやって、人に自分の本心を見せないように、誰とも深入りしないように、気をつけてるんだ。俺は、それでも、あんたとは結構親しくさせてもらってるほうだと思うけどよ。そうだよな?」
「ああ」
「だから、友達として言わせてもらうが、あんたは、自分が逃げているってことに早いとこ自分で気が付かなくちゃ、人生、棒に振るぜ。俺だってひとに説教できるガラじゃないが、自分のことはわからなくても、他人のことは見えるもんさ」
「お前は、結局、何が言いたいんだ」
「いいかげん、逃げるのはよせってことさ。さっき俺が、あんたは女が怖いんだって言ったのはさ、正確に言えば、色恋沙汰が怖いってことだな。あんたが今までずっと女っ気なしで通してきたのは、べつにモテないからじゃない。あんたはよく、魔法が使えない男のところなんかに嫁にくる娘はいないだろうといっていたが、それは言い訳だ。あんたは、ずっと、とても注意深く、色恋沙汰を避け続けてきたんだ。ヴィーレのことだってそうだし、他の娘たちもうまくかわし続けてきた。リーナだって、あんなふうに冷たくあしらってるのは、色恋沙汰になるのが怖いからなんだろう? あんたはずっと、他の人間と深くかかわりあうのをなるべく避けてきた。そして、色恋なんてものは、そういうもののなかでも一番深いかかわりあいだ。本気の恋ってのは、むきだしの魂と魂のぶつかりあいだ。だから、うまくいきゃあ、こんなにいいものはないってくらいいいものだが、傷つくときは、ひどく傷つくさ。だからって、それが怖くて、人間やってられっか?」
 ローイは、見透かすような眼差しをアルファードに据えたまま、さらに言葉を続けた。
「……いや、あんたが怖いのは、自分が相手に傷つけられることじゃねえのかもしれねえな。あんたが本当に恐れているのは、相手じゃなくて、あんた自身かもしれねえ。惚れたはれたのドロドロの中でさらけ出される裸の自分を、あんたはきっと、見たくねえんだろう。あんたはいつでも落ち着き払って澄ましているが、色恋沙汰のただなかでは、いくらあんただって、いつもの、その、聖人君子の仮面をつけ続けてはいられなくなるときが来る。その時、その仮面の下から、なにか、あんた自身も知らずにいた危険なもの、醜いものが現われるんじゃないか。あんたは、それが怖いんだ。自分の中から、蛇が出るか、狼が出るか、それとも、ドラゴンが出るか……。それをあんたは知りたくないから、仮面をつけ続けられるような関係しか、持とうとしないんだ」 
 ドラゴン、と聞いた時、アルファードのこぶしが一瞬握りしめられたのを見て、ローイは少しばかりびびって、いそいで付け加えた。
「いや、なにも、あんたが、普段、わざと本性を隠していいやつぶってるって言うわけじゃないんだが……。あんたが本当にいいやつだってことは、例えあんた自身が知らなくても、俺がちゃんと知っているよ。友達だもんな。でも、自分の心の中には自分でもわからない部分があるものだろ? まあ、とりあえず、年は下だが色恋にかけちゃ大先輩の忠告ってことで、あんまり気にせず聞いといてくれりゃいいよ」 
 アルファードはいつもの平静な表情に戻って、あきれたように言った。
「何が大先輩だ。口がうまいのはお前の方だ。お前はいつだって口先だけは達者で、立派なことを言う。だが、お前だって、村中の娘を口説いてはいても、本気で恋をしているようには見えなかったぞ。そんなお前に、本気の恋とは、などと講釈を垂れられるとはな」
「どんな遊びの恋にだって、どこかしらに本気はあるもんさ。少なくとも俺が、あんたの百倍は場数を踏んでるのは確かだぜ。経験者の話は素直に聞くもんだぞ。あんた、口うまくかわして、結局、自分の気持ちを言わなかったが、やっぱりリーナが好きなんだろ? 好きなら好きと言わないと後悔するぜ。といっても、あんたが今から、じゃあそうしようなんていいだしたら、俺には望みがなくなっちまうんだけどな。それはそれで、まあしかたないさ。俺はそれでも出来るだけのことはしてみるつもりだ。とにかく俺、今度はほんとに本気なんだ。だから、フェアにいこうぜ。俺はリーナに惚れてるから、リーナを口説く。あんたも自分の気持をよく考えて、今のままなり応えてやるなりすればいい。それでリーナがどっちを選んでも、おたがい、あとで文句は言いっこなしだ。いいな」
「ローイ、お前、本当に、本気なのか? ゲ−ムじゃないんだぞ。ヴィーレのことはどうなるんだ」
 ローイは、にわかにムッとして言い返した。
「また、ヴィーレか。ヴィーレのことを心配しなきゃなんないのは、俺じゃなくて、あんただろう。あんただって、それは分かっているだろ!」
 ヴィーレのことを言われると、ローイは必ずムキになるのである。アルファードも、それはわかっているが、ヴィーレのことで彼につい説教をしてしまうのを止められない。
「ローイ、お前は今でも本当はヴィーレのことを想っているんじゃないのか。ただ、自分では、それに気が付いてないんだ。だから、俺は心配だ。お前がリーナに交際を申し込むのを止める権利は、さっきも言ったように、俺にはないが、もしお前がリーナを手に入れたら、そのときお前は、とたんに、自分の本当の気持に気がついてしまうのではないか、そしてリーナが傷つくことになるのではないか、そんなふうに思えるんだ。今のお前のリーナへの気持は、確かに真剣なものなんだろう。でも、お前が言ったように、人の心には自分でもわからない部分があるだろう? お前は、ヴィーレへの自分の想いを、ごまかし続けているんだ。なんでそんなに意地になる必要がある? ヴィーレだって、本当は、ずっとお前を想っているのに。お前にはわからないのか? お前こそ、逃げているんだ。お前が自分の本当の気持から目をそらして、その結果としてリーナが傷ついたら、お前とヴィーレだって、自分たちが本当は愛しあっていることに気づくことができても、リーナをそのために傷つけたことでやっぱり不幸になるだろう。俺は、そんなふうになってほしくない。俺は、お前たち三人とも、弟や妹のように思っている。不幸になってほしくない」
 ローイは少し黙ってから、ゆっくりと押出すように低く言い出した。
「……全部、俺が悪いって言うのか。リーナもヴィーレも俺が不幸にするっていうのか。そしてあんたは、ご立派な博愛主義者だってのか。ああ、ああ、あんたは立派だよ。清く正しく身を慎んでらして、俺にはとても真似できねえ。リーナやヴィーレがあんたにつきまとうのは、向こうの勝手、あんたはひとり、雲の上の聖人君子でございってわけさ!」
 徐々に高まったその言葉は、最後には抑えた叫びに近くなっていった。
「そんなことは言っていない。ローイ、大声を出すな。リーナに聞こえる」というアルファードの言葉は、興奮したローイの耳には入らなかった。
 ローイはたたきつけるように言った。
「あんたが悪いんじゃねえか。全部、あんたのせいだ。あんたが、どっちかをきちんと選ばないから、ややこしいことになるんだ! あんたさえはっきりしてれば、あんたさえ逃げなければ……。だいたい、あんたは、俺がリーナを不幸にすることじゃなくて、俺にリーナを取られたら自分が不幸になることを認めて、そっちを心配するべきだぜ。偉そうなこと言って、あんたこそ、自分の気持が全然わかってないだろう!」
 ローイは珍しく、本気で激昂していた。その時の彼の様子からは、いつもならどんなに怒ったときでも消えることのない独特の愛敬が、すっかり影を潜めていた。
 だがそれは、一瞬の激情だった。ローイは、すぐに自分を取り戻して、声を落して言った。
「まあ、いい。あんたを、いま、責めたってしょうがない。きっと、あんたと俺と、両方が悪いんだろうよ。でも、言わせてもらうが、あんたに心配してもらうにゃ及ばない。もし、リーナが、万一でも俺と一緒になってくれたりしたら、俺は一生彼女を愛して大切にし、幸せにする自信があるんだ」
 そう言ってローイは、背中をそらせて後ろに手をつき、空を仰ぎながら独り言のように言った。
「あーあ、リーナにしろヴィーレにしろ、こんな堅物の野暮天のわからず屋の化石頭の、どこがいいんだ? アルファードばかりがモテて、こんなにみめうるわしく、限りなくやさしく紳士的で、しかもファッションセンスもサイコ−の俺さまが、なぜ理解されないんだろう。世の中、間違ってるよなぁ」
 その軽口が、彼なりの仲直りの提案であることを理解したアルファードは、気を取り直してまぜっかえした。
「たしかにお前の方が俺より顔がいいことは認めるが、お前のファッションとやらには、リーナもヴィーレもついていけないようだぞ」
「どいつもこいつも、村中の、いや、国中のやつらは、ファッションについちゃ十年遅れてるんだよ!」
 ローイはニヤリと笑い、そのままふたりは黙って岩の上に並んで座り、街道の向こうの森を眺めていた。



「あー、さっぱりした! 次はロ−イ?」
 やがて岩の後ろから現われた里菜のことばに、ローイは何事もなかったように答えた。
「ああ、先に入らせてもらうかな」
「ところで、ローイ、さっき何か怒鳴ってなかった?」
「あ? ああ、あのな、アルファードがどうしても覗きをするって言って聞かないもんだから、俺が一発、叱り飛ばしてやったのさ!」
 ローイはそう言って、けらけらと笑った。

(── 続く ──)



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作者 冬木洋子

HP『カノープス通信』
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(この作品の著作権はすべて作者・冬木洋子に帰属しています)