長編連載ファンタジー
イルファーラン物語
冬木洋子作
七 里菜がこの国に来てから、およそ一カ月がたった。この国の暦は、『あっち』の世界とあまり変わらない。季節の推移も、おおよそ、あちらの北半球と同じようなものらしい。 この国では、一年は三百六十四日なのだというが、年の境である冬至の日は古い年にも新しい年にも数えないので、実際には『あっち』とおなじ三百六十五日というわけだ。 一年は、冬至を新年として十三の月にわけられ、一カ月はきっかり二十八日、つまり四週間。そう、この世界でも、一週間は七日なのだ。一週間は、創世神話にちなんで、『草木の日』に始まり『妖精の日』で終る。初級学校や商店の多くは『妖精の日』ごとに休業するというから、この日が日曜日に当たるらしい。 そんなこの国の暦では、今は『十一の月』の終わりだというが、里菜がやってきたのは秋分の頃だったから、『あっち』の数え方で言えば十月下旬頃に当たるはずだ。国の最南端である温暖なエレオドラ地方では、平地はまだ秋の盛りであるらしいが、高原のまきばには、早くも冬の足音が忍び寄りつつある。吹き渡る風は冷たく、霜に当たった草は茶色く枯れ始め、仰ぎ見るエレオドラ山の頂きには、新雪が白く輝いている。 里菜が初めて自分の『力』を押えることができたあの日から、さらに一週間が過ぎたが、里菜の生活には、いまのところ何の変化もない。 羊の放牧の季節も、もうすぐ終る。 ふいに吹きつけた風の冷たさに、里菜は自分の腕を抱いてちぢこまり、隣に座るアルファードとの間を少し詰めた。 「寒いか?」 「うん、ちょっと」 里菜は顔色をうかがうようにちらりとアルファ−ドを見上げ、おずおずと彼に寄り添ってみた。 アルファードは、それをそっと押し戻しながら立ち上がると、黙ってそそくさと上着を脱いで、里菜をくるみ込むように掛けてくれた。 そして、こう言って背中を向けた。 「ちょっと、水を汲んでくる」 (アルファードってば、芸がない! 朴念仁もいいところ。せめて言い訳くらい、もうちょっとバリエーションをつければいいのに) 大股で遠ざかる後ろ姿を見送りながら、里菜は、かすかに残るアルファードのぬくもりを求めて、上着をかき寄せた。アルファードの匂いがする。 里菜は、毎日のように、こんなふうにしてアルファードに寄り添おうと試みる。アルファードはその度に、必ず、要りもしない水を汲みに立ち上がる。 最初は拒絶された気がして寂しく感じていた里菜も、繰り返すうちに、彼が毎回同じことを言うのが半分面白くなってしまったのである。 それに、里菜がこんなふうにそれなりに積極的に振る舞ってみせられるのも、実は、アルファ−ドがこちらを上回るほど積極的に応じてくることは絶対にないとわかっているからなのだ。 (ドラゴン退治の英雄のくせに、いかにも勇ましそうに剣なんかを下げて歩いているくせに、たかが女の子からこんなふうに逃げまわったりして、おかしいわ)と、里菜は、こっそり一人笑いして、アルファ−ドの置き忘れていった剣を見やった。 ただの羊飼いだとばかり思っていたアルファ−ドが実はドラゴン退治の英雄であり全国武術大会の優勝経験者であるということを、里菜は、ロ−イから聞かされていた。 ロ−イの話によると、アルファ−ドは、これまで、いつも、まきばで羊を見張りながら暇さえあれば剣の素振りをしていたのだという。 が、里菜は、アルファ−ドのそんな姿を見たことがない。 アルファ−ドは、里菜の前では、まず絶対に剣を抜かないのだ。 アルファ−ドの剣の刀身を、里菜は、たった一度だけ、ちらっと見たことがある。ここへ来た最初の頃、夕食の後の居間で、彼が、黙って剣の手入れを始めようとしたのだ。 これといった装飾もない実用一辺倒の武骨な剣は、鞘に納めて無造作にそのへんに置かれていると、一見、ただの農具か何かと錯覚しそうな慎しさ、何気なさだが、手入れは行き届いていて、いったん抜き放てば、突如としてくすんだ日常性の仮面を脱ぎ捨て、ぎらりと光る。 それを見て里菜がぎくっとしたのに、アルファ−ドは目聡く気づいたらしく、それ以来、里菜の前では決して剣を抜かないのである。 そんな彼が、里菜の傍らに剣を置き忘れていくなどというのは、珍しいことだ。 ロ−イの話では、これは、全国チャンピオンの愛剣としてはちょっと相応しくない、初心者が使うような安価な普及型の、なんの変哲もないありふれた剣なのだといい、サイズもごく標準的なものらしいのだが、堂々たる体躯のアルファ−ドが持つと、体格との対比で、やけに細身に、少々貧弱にさえ見える。 実際、イルベッザの武術大会の一回戦で、無名のアルファ−ドが初めて剣を構えた時、その、大きな身体に不釣り合いな小振りの剣に、観衆の間から失笑が漏れたという。 が、アルファ−ドに言わせれば、剣は大きければ大きいほどいいというものでもなく、ドラゴンの心臓を貫くという用途にはこれくらいがちょうどよいのだそうだ。鱗の隙間をこじ開けるようにして突き入れるにはあまり肉厚だったり幅広だったりする剣は不向きだし、ドラゴンの体の下に潜り込むようにしての至近距離からの突きなので、あまり長い剣では却って動きが取りにくいのだという。 そんなふうに具体的な使い方を聞くと、たしかにこれは殺しの道具なのだと、あらためて何か冷たいものを感じるが、普段はもう、アルファ−ドが剣を下げていることにすっかり慣れてしまって、何とも思わない。いつも鞘に入ったままで決して抜かれることのない剣は、羊追いの鞭や水入れの革袋と同じ、アルファ−ドの日常の持ち物のひとつに過ぎない。 最初にアルファ−ドの部屋で剣を見た時には、たしかに里菜は、あんな、どう見ても普通のつつましい農家のような家に、あたりまえのように剣が置いてあることに驚いた。ここはそんな、普通の人も剣を持っていなければならないほど危険な世界なのかと不安になりもした。 が、何しろ別の世界なんだからそんなこともあるのだろう、この世界は、まだ剣を下げた人たちが普通に歩き回っているような、そういう野蛮な時代なんだろうと思った。それが、最初のうち里菜がここを実際以上に昔風の、時代がかった世界だと思いこんでいだ原因のひとつだった。 後になって、この世界では確かにまだ剣が普通に使われており(どうやら鉄砲というものは発明されていないらしい)、都市の治安維持にあたる官憲だの、裕福な商人などに雇われる護衛の私兵などは当然のこととして剣を持ち歩くが、そういう特殊な職業でない一般市民がつね日ごろ剣をぶら下げて歩くということは、やはり、あまりないらしいのがわかった。といっても、剣の所有自体は別に珍しいことではなく、ことに田舎の旧家では、いざという時の備えや父祖から受け継いだ家財の一つとして剣を持っている家も多いが、普通はそういうものは、納屋にしまったり、先祖伝来の由緒あるものであれば居間に飾ったりして、特別な時以外は持ち歩かないものだそうだ。まあ、あたりまえといえばあたりまえのことだろう。 それなのになぜアルファ−ドは牧場に行く時にまで剣を持ち歩くのかと里菜に尋ねられたロ−イは、 「まあ、要するに、ヤツは変わり者なんだよ」と、肩をすくめた。 一応、家畜泥棒や狼を寄せつけないためだの、牧場で暇があったら素振りをするためだのと理由をつけてはいるが、本当のところ、彼は、剣を持ってないと落ち着かないのだろうと言うのだ。 「きっと、あれはさ、赤ん坊がおっぱい臭いタオルの切れっぱしを持ち歩くのと同じなんだよ。ヤツは、あれを持ってなきゃ、不安で外を歩けないんだ」と言って、ロ−イは、ニヤニヤした。 ロ−イは、このあたりではあんな無粋な長剣を普段から持ち歩いているのはアルファ−ドくらいのもので、これが他の人だったら時代錯誤の変わり者、かっこつけのひけらかし屋と笑い物になっていただろうがアルファ−ドだから笑われないのだと話してくれた。彼が武術大会のチャンピオンであり、また実際にみんながドラゴン退治で彼の剣の世話になっているからだと。 その時に里菜は、アルファ−ドが武術大会のチャンピオンであることや、自警団長としてドラゴン退治をしていることを、初めて知ったのだ。 それを言うと、ロ−イは、信じられない、という顔をして、 「なんだ、やっこさん、あんたに、そういうこと何も話してないわけ? それって、無口だとか謙遜だとか、そういう次元じゃねえよなあ」と呆れかえり、武術大会でのアルファ−ドの栄光や、彼自身も加わってのドラゴン退治の様子について、身ぶり手ぶりを交え、微に入り細をうがった誇張たっぷりの熱弁を振るってくれたのだ。 ロ−イが語ったドラゴンの生態とドラゴン退治の手順は、だいたいこんなところである──。 馬より一回り以上も大きい巨体で悠然と飛来するドラゴンは、羊やヤギなどの小型の家畜を上空から襲い、時には、鱗あるそのかぎ爪で人間の赤ん坊をさらうこともある、危険な敵である。牛や馬などの大きいものは普通は襲わないし、人間の大人を餌として狙うことはないが、怒りっぽく獰猛な性質で、おどかしたり邪魔をしたりする相手には見境いなく立ち向かってくる。肉食なので農作物を食い荒らすことはないが、着地するのに開けたところを選ぶために、しばしば畑地も被害を受ける。また、ドラゴンが口から吐く炎は不浄な火であり、その火で焼かれた畑では当分は一切の作物が育たなくなるというのも、ドラゴンが恐れられる理由の一つだ。 ふつう、ドラゴン退治は、集団で、撹乱と攻撃の二手に分かれて行なわれる。撹乱役が回りを囲み、矢を射たり石を投げたりドラを叩いたりしてドラゴンの注意をそらす中、火除けの盾を持った攻撃役たちが、炎をかいくぐってドラゴンに接近する。 ドラゴンには翼があるが、体が大きいため、平地から自力で飛び上がるには助走や風待ちが必要で、あまり機敏には飛び立てない。それでも、もし飛び上がって上から襲われると危険なので、まず、槍などで翼を破るのが定石だ。そして、四方八方からの攪乱でドラゴンを混乱させ、繰り返しの攻撃で弱らせたのち、攻撃役のなかでもっとも勇敢で腕の立つものが、仲間たちの援護を受けながらドラゴンを仕留めるのである。 アルファードは、この、最も危険でかつ華々しい仕留め役を、ここ数年、一手に引き受けている。 仕留め役は、普通は長槍を持ち、ドラゴンの眉間の急所を狙うのだが、アルファ−ドは、身体ごとドラゴンの胸元に飛び込み、鱗の隙間から剣で心臓を刺し貫く。 これは、彼の前には誰もそんなことができるかもしれないとさえ考えてみたこともなかったような大胆で斬新な戦法で、彼は、まず、斃したドラゴンの胸を開いて身体の構造や心臓の位置を確かめるところから始めたのだという。 アルファ−ドの言によれば、離れたところから長槍を振り回して、一番よく動く頭部の、それも極めて範囲の狭い急所を狙うより、このほうがずっと確実で合理的な、実用的な戦法だというのだが、理屈はそうでも、ドラゴンの巨体を間近に見上げる恐怖が常人にそうそう耐えられるものではないことは、実際にドラゴン退治を経験したものほどよく知っているし、もしその恐れを克服できたとしても、本当に首や前足をかいくぐってドラゴンの胸元に飛び込むには、それだけでも並みはずれた胆力と敏捷さ、素早い判断力が必要であり、それを実行できる勇気と実力があるのものは、やはり彼の他にはおらず、結局、彼の画期的な戦法は、誰にもまねができないままなのだそうだ。 ちなみに、ローイは撹乱役を務めているが、これが結構優秀なのだという。 彼は、弓の名手で、まず間違いなくドラゴンの目を射抜いてしまうのだそうだ。そうすれば、後の攻撃は、ずっと有利になる。ああ見えても、近隣に名の聞こえた名射手なのである。彼が、ろくに働かずにブラブラしていても、「困ったものだ」程度で済まされているのは、持ち前の愛敬だけではなく、この、自警団での活躍のおかげもあるらしい。 ついでに言うと、彼は、背が高いのでひょろひょろして見えるがそれなりに筋肉はついており、なにしろ敏捷でリーチが長いので、実は、剣もまあまあ使う。剣を振り回すしか能のない、いわば専門バカのアルファードと違って(と、これはロ−イの弁である)、彼は、根っから器用で要領のいい人間で、実に特技が多い。大抵のことは、ほどほどの努力で人並み以上にこなす。 アルファ−ドの剣の修業の相手をしたのも、ロ−イなのだそうだ。 アルファードに最初に剣術の基礎を教えたのは育て親のレグル老である。彼が、突然、養い子に剣術を教え出すまで、村人たちのほとんどは彼が剣をたしなむことさえ知らなかったのだが、彼は実は、いつどこでどんないきさつで会得したものか、非常に高度な基礎理論を正確に身につけており、それを、何を思ってか、少年だったアルファ−ドに徹底的に叩き込んだのだ。 が、老齢の彼に出来たのは本当に基礎的な理論と型の指導だけで、老人が病で寝ついてからアルファ−ドの実践的な打ち合い稽古の相手をずっと務めてきたのは他でもないロ−イであり、それによってロ−イ自身も、かなり剣の腕をあげてきた。今ではアルファードのほうがずっと強くなってしまったが、今のアルファードがあるのも、もとはと言えばローイのおかげである……と、これはロ−イが常々あちこちで吹聴していることだが、アルファ−ドに訊いてもその通りだと言うから、本当のことなのだろう。どうも、彼は、よほど練習台に向いた人間らしい。 こんな名射手を有し、人望厚い名団長であり最強の仕留め手であるアルファードに率いられて見事に統制がとれたイルゼールの自警団は、近隣にその名をとどろかせ、その名を唱えればドラゴンが逃げていくとまで、たたえられている。頼まれて、よその村の付近に出たドラゴンの退治に赴くことも多いという。 ──と、こんなような話をする間中、ロ−イが、彼自身のドラゴン退治での活躍ぶりを思いっきり強調したのは言うまでもないが、彼には気の毒なことに、里菜は、その部分はどうせ吹かしと受け止めて聞き流した。 後で里菜がアルファ−ドに、どうして武術大会やドラゴンのことを隠していたのかと問いつめると、アルファードは困惑顔で答えた。 「いや、別に、隠していたわけじゃない。ただ、武術大会なんて昔の話で、今の君のここでの生活に何の関係もないから、たまたま話さなかっただけだし、ドラゴンについては、いきなりこの村にドラゴンが出るなどと打ち明けたら君が驚き、恐れると思って、君がもっとここに慣れたころ、時機を見て話そうと思っていた」 「だって、教えてくれる前にドラゴンが出たら、もっと驚くじゃない」と里菜が抗議すると、アルファ−ドは、 「いや、そういうことは滅多にないだろう。ドラゴンが出るのは主に冬になってからなんだ」と、やっと里菜にドラゴンのことをしぶしぶ説明してくれたのだ。 彼は、普段は無口だが、根っから口下手というわけではなく、必要があると思えば、いくらでも多弁にも能弁にもなれるらしい。が、特に必要だと思わないことは、あまり話さない。そして、彼が必要だと認める事柄は、どうやら、あまり多くない。質問をすれば、その質問には額面通りきちんと答えてくれるが、ロ−イのように一を聞けば十を教えてくれるなどということはないので、彼から知りたいことを全部聞き出すのには、いちいち根掘り葉掘り質問しなければならず、結構手間がかかるのである。 「伝説では、年経た巨大なドラゴンは邪悪な知性と魔法の力を持ち、人語を操るという。が、そうした伝説については、俺は詳しくない。俺が知っているのは、このへんに飛んでくる現実のドラゴンのことだけだ。そして、俺の知るかぎり、あれは、ただの動物だ。冬になって食べ物が不足してくると、エサを求めて村に下りてくるらしい。ここ数年、ドラゴンの飛来がやたら多いんだが、村を荒らしさえしなければ、俺は、出来れば、殺したくなどないんだが」というのが、アルファ−ドの面白くもなさそうな説明だ。 彼にとっては、ドラゴンは、ただ、餌を求めて山から里に迷い出て来る大型の野生動物にすぎないらしい。 ドラゴン退治の話も、ローイから聞くと、はらはらどきどきの大冒険なのだが、アルファードにかかると、淡々と手順を説明するだけで何の面白みもなく、まるで日常のありふれた肉体労働のひとつであるかのように聞こえて、まるきり身も蓋も無い。 事実、彼にとっては、ドラゴン退治は村の男として当然担うべき単なる役務のひとつであり、延々と繰り返す日常生活の一部なのだろう。 村の人たちは、彼がドラゴン退治のことで自慢話をしたり、手柄顔をしたりしないのは謙虚だからだと思っているが、里菜は、そうは思わない。 そもそも、彼は、村の人々からは非常に謙虚な人間だと思われているが、里菜が見たところ、本当は、別に、そういうわけでもないのだ。彼は、自分の力や働きを過大評価もしないかわりに、過小評価もしていない。 確かに彼は、あまり自慢話をしないが、それはたぶん、別に謙虚だからではなく、ただ、それらが自分にとって空しいこと、どうでもいいことだったり、あたりまえの義務だったりで、自慢するようなことだとは本当に思っていないから自慢しないだけではないだろうか。 その証拠に、彼は、愛犬ミュシカのことは手放しで自慢する。 彼は、単に、自分の価値観の通りにものごとを見ているだけで、ただ、その価値観が、どうやら、他の人たちとちょっと違うのである。彼の価値観によれば、自分がミュシカを近隣一有能な牧羊犬に育て上げたという成果は誇るに値するが、ドラゴン退治は、誇るようなことではないということらしい。 それどころか、どうも、彼は、ドラゴンやドラゴン退治については、あまり話したくないらしい。何か、その話題に触れられたくない訳でもあるようだ。 それを里菜は、自分なりに、村人たちの期待が重いのだろうかと想像している。 アルファードが、<女神のおさな子>として、ドラゴンから村を守る役割を期待され続けてきたことも、里菜はすでに知っていたのだ。 「<女神のおさな子>、かあ」と、里菜はつぶやいて、その時ちょうど川のほうから戻ってきたアルファードを眺めやった。 粗末な服を着て、ただ普通に歩いてくるだけで、その雄々しい姿は圧倒的な存在感を漂わせて、里菜の目には本当に神話の中の英雄のように見えた。 (大人なのに<おさな子>っていうのは、ちょっと変だけど、アルファードなら、なんだか神々しくて、ほんとうに女神の申し子なのかもって、思っちゃうけどな) 里菜は、近づいてくるアルファ−ドに、うっとりと見とれた。 その時、頭上で、何か風を切るような音が聞こえ、ふいに陽がかげった。 ミュシカが、ガバっと起き上がった。 アルファードが一瞬凍りついたように足を止めて空を仰ぎ、次の瞬間、猛然と地を蹴ってこちらに走り出した。 (何?) 上を見上げた里菜は、息を呑んだ。 太陽を横切って、巨大な黒い影が頭上を飛び過ぎて行った。 長い尾と大きな翼が目に焼き付いた。 (……ドラゴン!) 一瞬遅れて、周囲で風が騒いだ。 * 「あーあ……。もの想う秋、ってか。畜生め。なんてこったい。はぁ……」 ローイは、村はずれの道を、山に向かって大股で歩きながら、がらにもなく溜息をついた。背中には弓と矢筒を背負っている。家の仕事をさぼって里菜のところに行く日には、彼は、兄嫁には山鳥を狩りに行くと告げて出て、実際、ついでになるべく鳥や兎を射て持ち帰ることにしているのだ。彼は彼なりに、兄夫婦に気を使っているのである。 今日も、彼は、里菜の訓練につきあいに、牧場《まきば》へ行くところだ。 一週間前、里菜は初めて自分の『力』を抑えることが出来たのだが、まだ訓練は続いている。 あの時は、ローイは、彼女がすぐに、もう何の不自由もなく魔法の存在を受け入れるだろうと思った。だが、彼女は結局、魔法を信じられたわけではなかったのだ。ただ、アルファードを信じただけ、アルファードの言葉を鵜呑みにすることを覚えただけなのだ。 あの後、しばらくは、彼女は、アルファードがいちいち「これは本当のことだ」と言い聞かせなければ魔法を消してしまった。そのうち、ローイの出す火だの水だのといった、もう見慣れた魔法は消さずに済むようになったが、それも、アルファードがそばにいないとだめだ。それに、初めて見る魔法や、ロ−イ以外の人の使う魔法は、最初の一回は、そのつどアルファードが言い聞かせなければ消してしまうのだ。 要するに、彼女は、アルファードなしでは、その力を抑えられないのである。 たぶん彼女は、心の底では、自分の力が制御できることを望んでなどいないのだ。それが出来るようになったら、アルファードと一緒にいる大義名分がなくなる。それくらいなら、今のままのほうがいいと思っているはずだ。 それでも彼女が頑張っているのは、ただひたすら、アルファードに誉められたい、がっかりされたくない、見捨てられたくないという一心だろう。 彼女がある程度の精神制御に成功しているのも、自分の精神を自分でコントロールできるようになったというよりは、むしろ、アルファードに制御されることを受け入れたからではないか。たぶん、里菜は、ただ、自分で判断することをやめ、自分の理性をアルファードの支配に明け渡してしまったのだ。何も考えずにアルファ−ドを信じていれば間違いない、彼は絶対自分を悪いようにはしないから判断はみんな彼に任せておけば良い、と。里菜がその力の制御を学ぶ過程は、そのまま、アルファードが里菜の精神を支配していく過程でもあったのだ。 アルファ−ドはもともと、たやすく人を支配する質の人間だと、ロ−イは、前から思っていた。他の誰もが、アルファ−ドの見かけの謙虚さ、もの静かさに惑わされて、彼のそんな性質に、あまり気づいていないだけだ。 ロ−イが思うに、彼が里菜に対してしたことは、実は、彼が自警団の教練で常日ごろからやっていることと同じなのだ。ただ、今回、里菜に対してしたことの方が、普段のそれよりずっと極端なだけだ。 団員に剣を教える時、彼は、指導者として、しばしば、相手の心を無条件でまるごと自分に預けさせるようなことをする。 普段、いかにも無私無欲で実直そのものという顔をしている彼が、そうやって意図的に誰かの心を支配しようとする時に突然見せつける意外な狡猾さ、手際の良さ、ためらいのなさに、観察力の鋭いロ−イは、これまでに何度となく驚かされてきた。 が、別に、それを悪く言う気はない。 あれは、アルファ−ドの、独特の指導法なのである。そして、確かにそれは、しばしば非常に有効なのだ。いったん自分の心の全てを指導者としての彼に明け渡すことで、その団員は、確かに、皆、必ず強くなっているのだから、文句を言う筋合いはない。 それに、アルファ−ドも、誰に対してもそれをするわけではない。彼がそれをするのは、相手の性格や相手と自分との相性を見極めた上で、特定の一時期にそういう段階を経ることがその相手の指導のために有効だと判断した時だけだ。 また、彼が私利私欲のためにそれをしているのではないことも、認めざるを得ない。彼は、あくまでも自警団の強化のために無心に尽力しているだけなのである。彼の指導者としての素質と技量は、ロ−イも高く買っている。おかげで、この村の自警団は、個々の団員の力量も高いし、団長のアルファ−ドを中心に鉄の結束を誇っている。そしてそのことが、村をドラゴンから守ると同時に、ドラゴンと戦う団員たちの命をも守っているのだ。なんといっても、人の命ほど大切なものはない。アルファ−ドは、団長として、団員たちの命を預かっているのだから、それを守るために、自分に出来る限りのあらゆるテクニックを駆使して手段を選ばず力を尽くすのは当然だ。 だが──と、ロ−イは考える。 彼の考えでは、アルファ−ドが本能的に会得しているらしいあの巧みな人心掌握の手腕を、発揮していい場合とそうでない場合、そして、発揮していい相手とそうでない相手というものが、あるのである。 そして、彼の考えでは、アルファ−ドは、里菜にだけは、あれをやってはいけなかったのだ。他の誰かならともかく、里菜に対してアルファ−ドがあれをやるのだけは、絶対に反則なのだ。 事が事だけに普段よりずっと強引で理不尽だったアルファ−ドのやり口を思い出すたびに、ロ−イは、むかむかと腹が立ってくる。 あそこまで強引な、無茶な理屈が、いとも簡単に通ったのは、相手がもともと彼を信じ切り、頼り切っていた里菜だからで、里菜がアルファ−ドに恋をしていたからなのだ。 そして、そういう気持ちは、絶対に、何か他のことのために利用してはならないものだと、ロ−イは思うのである。 結局は里菜のためだとはいえ、そんなにも信じ切られているその気持ちを何のためらいもなく利用してやすやすと相手を支配してしまう──ロ−イには、そうとしか見えなかった──などという、相手の信頼につけこむようなやり方は、ロ−イの感覚では、結果は良くても手段として汚いような気がするのだ。 たしかに、里菜は、自分のあの妙な力を、制御する必要があった。彼女がこれからこの世界で生きていくためには、それは欠かせないことだった。そして、アルファ−ドは、例によって私利私欲のためではなく、あくまで彼女のためを思って、ひとつの方便として、ああいうせりふを言ってみせたのだろう。 けれど、この場合、私利私欲のためではないということが、かえってロ−イの気に障るのだ。単なる方便で、あんなふうに里菜の心をがっちり自分に繋ぎ止めるようなまねをしてしまうなんて、そして、それにあっさり成功してしまうなんて、なんだか不公平ではないか。 アルファ−ドが、里菜に対する下心があってあれをしたなら、それはそれでしかたないだろう。アルファ−ドにだって、女の子を口説く自由はある。口説くのがうますぎるからといって、ロ−イに文句を言う権利はない。 でも、アルファ−ドは、たぶん、別に里菜を口説き落とすつもりであんなことを言ったのではないのだ。本人は、全然、そういうつもりはなかったに違いない。そういうつもりがあって照れもせずにあんなことを言えるアルファ−ドではない。本人は色恋とは関係ない話のつもりでいるから、平然とあんなことが言えたのだ。 でも、自分に恋をしている女の子にあんなことを言うのが、相手の心にどんな影響を及ぼすか、彼は、考えてみるべきだったのだ。いくら彼でも、里菜が自分が恋していることにくらい気づいていただろうに、気づかぬふりであんなことを言っておいて、あとは、すっかり手中にした里菜の心をそのまま放ったらかして自分は相変わらず超然と澄ましかえっているのだろうと思うと、実に気分が悪い。あれは反則だ。どう考えても、フェアじゃない──。 (ありゃあ、まずいよなあ。アルファードのあのやりかたは、リーナに、自分の力を制御することを教えているんじゃなくて、「俺無しではお前はやっていけないんだ」ってことを教え込んでるだけだ。そんなこと、わざわざ教えこまなくても、リーナは最初から、どういうものかアルファ−ドにすっかり頼り切って、アルファ−ドがいなけりゃ日も暮れないって感じじゃん。俺は、どっちかっていうと、ちょっとそれを治したほうがいいと思うぞ。あの子だって、もうすっかり元気になったんだし、ここの暮らしにも慣れたんだし、見かけはちいとばかり子供っぽくても本当はもう子供じゃないんだから、そろそろ、何でもかんでもアルファ−ドに頼ってばかりいないで、もうちょっと自立心ってものを持つべきだと思うね。アルファ−ドも、本当にあの子のためを思うなら、そうなるようにしむけてやるべきなんだ。だいたい、アルファ−ドは、あの子をがっちり囲い込みすぎだよ。過保護を通り越してるね。たまたま最初に見つけて家に泊めてやったからって、あの子はちゃんと一人前の人間で、捨て猫じゃないんだから、別に、最初に拾ったやつのものに決まりってわけじゃねえんだぞ) (リーナもリーナなんだよな。あの子も、ありゃあ、アルファードに追い出されるのが怖くて、アルファードがいないと自分はだめなんだってことを見せつけ続けているんだ。そんな心配しなくたって、アルファ−ドのやつ、ほんとはリ−ナを家から出す気は全然ないんだろうにさ。ふたりしていったい何をやってんだか。もう勝手にしてくれ、だよな) (それにしても、何だってまた、リーナはアルファードなんかにいきなり惚れちまったんだ? まったく、もったいない……。そりゃあ、助けてくれた恩人には違いないが、それだって、ただ、リ−ナが倒れてるとこに最初に通り掛かったのが、たまたまヤツだったってだけじゃないか。行き倒れを見つければ家に連れ帰って看病するくらいのことは、なにもヤツじゃなくたって、この村の誰だって、するさ。もちろん、俺だってさ。あ−あ、なんで俺が最初にリ−ナを見つけなかったんだろうなあ。そしたら、なにもかも、全然違う成り行きになってたかもしれないのに) 気の毒なエルドローイは、すっかり里菜に恋してしまっていたのである。 里菜がやってきた当初、色めき立ってほかの村からまで彼女を値踏みに来た若者たちのうち、最初のもの珍しさと興奮が薄れた今でも女の子としての彼女に興味を示している者は、ローイが知るかぎり、そう何人もいない(そして、そうことに関する情報で、彼の知らないことは、まず、無い)。 彼女と同年代の若者の多くにとって、里菜は幼すぎて、恋愛の対象にはならなかったのだ。『あっち』の世界にいたころでも里菜は実年齢より子供っぽく見られがちだったが、この村の娘たちは全体にやや大柄で、顔立ちも身体つきも大人びているから、里菜はよけい、大人の女性の中に紛れ込んだ子供のように見える。しかも、この村では、若者たちが社会的に大人になるのが『あちら』より早い。十七、八ともなれば、自分の子を産み育ててくれる生涯の伴侶を選ぶべく真剣に模索しはじめているのがあたりまえだ。そんな彼らにとって、まだ子供子供した小柄な里菜は、どう見ても相手として役不足と映ったのである。 それでも里菜がいいと思った者も、全くいなかった訳ではない。何しろ、幼なじみではない女の子というだけでも希少な存在だ。しかも、よその世界から来た娘である。そこはかとない神秘性もつきまとう。髪や目の色もちょっと珍しくて人目を引くし、顔立ちもどことなく風変わりで、そのへんの見慣れた娘たちとは雰囲気が違うので、見ようによっては何やら庶民離れした高貴な顔つきのような気がしなくもない。それに、若者たちの好みもさまざまだから、中には、ことさら子供っぽい容姿の娘を好む者もいる。 が、彼らのほとんどは、すぐに里菜をあきらめてしまった。どうせ彼女はアルファードのものなのだ。 一緒に住んでいても彼らの間に『何もない』のは、誰が見てもわかったが、里菜がアルファードにすっかり夢中なのは、同じ位、誰の目にも明らかだった。それなら、アルファードが単なる保護者としてでも里菜をしっかり囲っているうちは、もう誰にも勝ち目はないだろう。 数少ない里菜の崇拝者は、ローイを除けばなぜかみんな気弱で純情な若者で、村の英雄アルファードに対抗しようなどとは夢にも思わず、自分の片思いの儚さを嘆きながら里菜のことを忘れていったのだった。 (うん、あいつらは、ライバルの内に入んねえや。問題はアルファードだよな……) ローイは、また溜息をついた。 彼にしても、最初に里菜を見たときには、かわいいとは思ったが、やはりほかの若者たち同様、正直言って、なんだ、まだ子供か、と、思ったのだ。ただ、持ち前の親切心と好奇心、幅広い年齢層の女性全般に対する博愛精神、そして、将来に備えて今から顔を売っておこう、くらいの軽い打算で、とりあえず挨拶代わりにコナをかけて、ちょっとしたサ−ビスを試みただけだ。 だが、ただちょっとかわいいだけの子供だと思っていた里菜の黒い瞳にふいにまっすぐに見つめられ、微笑みかけられたあの時、そのまなざしが、魚の小骨のように彼の心に突き刺さった。そしてそれは、取れるどころか、日がたつにつれてますます深く刺さって、彼を悩ませ始めた。今では、もう、この小骨が気になって、三度の飯より好きなナンパをする気にもならないのである。 (俺も、ヤキがまわったなあ……。なんだって、あんな子供みたいな女の子に、こんなにぞっこんにイカレちまったんだ? ……そう、あの眼だよ。リーナの、あの眼が、いけないんだ) ロ−イを魅了した里菜の神秘の瞳は、迷信深い一部の老人たちには、何か不吉な力があると思われているらしい。里菜が魔法を消してしまうのは、その眼に超自然的な力があるからだと言うのだ。彼らにとって魔法は、生まれながらに女神から授かっている、正しい自然な能力であるから、それを消してしまう力などというものは、不自然な、不吉なものにほかならない。里菜のことを、「女神が使わしたものではなく、邪眼をもつ悪霊の使いだ」などとささやき、世話役や、まだ幼い司祭のティーティがいくら説得しても、その考えをかえないものすらいる。 そういうものたちは、里菜の力を恐れて彼女の前には出てこないし、誰もそんなうわさを彼女の耳に入れようとはしないから、里菜は自分をそんなふうに恐れるものがいるとは知らないのだが。 ローイはもちろん、そんな迷信深いうわさを一瞬たりとも本気で考えたことはないし、そんなことを言う奴は殴り飛ばしてやりたいと思うのだが、でも、彼女の眼に不思議な力があるのは本当かもしれないと思う。自分をこんなにも呪縛してしまうような、何か特別な力が。 そういうば、里菜を恐れる老人のひとりが、彼女に見られると魂を吸い取られると騒いでおり、それを聞いた時、ローイは、何を迷信じみた、と、笑い飛ばしたのだが、今にして思えばあんがいそれは当たっていたのかも知れない。確かに里菜の黒い瞳は、ローイの魂を吸い取ってしまったではないか。 里菜の、『魔法を消す力』を、一番身を持って体験しているのは、ほかでもない『練習台』のローイなのだが、それは確かに、慣れるまでは、彼にとっても少々ぞっとする体験だった。が、何事も慣れである。今では、そのことは、何とも思わない。 それなのにローイは今でも、里菜の黒い瞳にじっと見つめれられると、なんだか居心地悪いような、落ち着かないような気分になり、そのまなざしから逃れたくなる。そのくせ、一方で、もっともっと、いつまでも、見つめられていたいと思ってしまう。たとえそれで、そのとき魔法が使えなくなるだけでなく自分の魔法の力そのものが消されてしまうとしても、それどころか自分の存在自体が消されてしまうとしても、里菜に見つめていてほしい。その、相反する欲望に、彼は、どうしていいかわからなくなるのだ。これが不思議な力でなくて何なのだろう。 里菜の瞳に潜む、あどけない顔立ちにそぐわないほどに強い、けれどどこか醒めた輝きが、ロ−イの心を掴んで放さない。そのまなざしの中に、ときおり、何千年ものあいだ遥かな高みから人間の営みを見つめ続けてきたもののような、哀れみにも似た英知が宿る瞬間があるような気がするのだ。 (でも、アルファードのような男は、あの輝きを力でねじ伏せてしまうだろう。リ−ナをだめにしてしまうだろう。なんでリーナは、そこんとこ、わかんないんだろうな。アルファードなんかにあんなに惚れて……。リーナがやつを見上げるときの、あの様子といったら……。リーナにあんなふうに見てもらえるなら、俺は、死んだっていいね。なのに、どうせアルファードのやつは、その有難みが半分もわかっちゃいないんだ。ヤツは、リーナのあの黒い瞳の本当の値打ちだけじゃなく、あの、ピンクの薄い貝殻みたいな耳たぶや、小さな白い手や、バラのつぼみみたいな唇のかわいらしさなんかにさえ、ろくに気がついていないにちがいない。でなきゃ、あんなふうに、いかにも『何にもありません』ってな涼しい顔して一緒に住んでなんかいるもんか) このことを思うとき、ローイは、むらむらと腹が立ってくるのだが、それはただ嫉妬というのとは少し違う、義憤に近い感情である。一言で言えば「もったいない!」のだ。 例えていえば、『神様のような巨匠の名画が芸術を解さない成金の応接間に飾られているのを知った貧乏画学生』のような気持ちである。 (女の子ってのはな、すべからく、その値打ちの分かる男が、正しく鑑賞してやらなけりゃならないんだよ! それをあんな、風流を解さない、木の股から生まれたような朴念仁野郎が、あんなかわいい娘を、ペットの仔猫かなんぞのように、たいして有難がるでもなく無造作に独り占めして、なんの権利があるんだかしらんが偉そうに後ろに従えて大手を振って歩いているんだぜ。こりゃあ、許し難い犯罪行為だよな! 犬に千ファーリ金貨、羊に黒曜石ってなもんだ。まさに、社会的損失ってやつだ!) そう、彼は常に、あらゆる女の子を正しく鑑賞しているのである。 彼は、里菜のような清純派も好みだが、色っぽい娘も好きだし、勝気な娘もおとなしい娘も、痩せた娘もふくよかな娘も好きである。要するに、どんな女の子でも好きなのだ。単に女好きなのだと言ってしまえばその通りなのでそれまでだが、彼はそれを、『女の子の見どころを心得ている』と称している。彼があちこちの女の子を誉めまくって口説くのは、決して心にもないお世辞を言っているのではなく、多少の誇張は交えていても、それなりに本気で誉めているのだ。 だから彼は、面と向かっては誉めまくった女の子を、後で、男同士の自慢話の中で笑い物にしたり、けなしたりは、絶対しない。彼が、村中の娘を無節操に口説いて回っても娘たちから決して憎まれないのは、そのためもあるだろう。 もっとも彼は、憎まれはしないがあまり相手にもされず、いつも「いいひとね」だの、「お友達」だのと言われるクチだ。それは、もちろん、本人がそう言われやすいタイプだからなのだが、彼が村の娘たちからあまり本気で相手にされないのには、もうひとつ、理由があった。 実は、彼は、もともとはヴィ−レの子供のころからの許婚《いいなづけ》なのである。もと、というのは、今はそれが白紙に帰ってしまっているからなのだが、いくら当事者たちがそう言っても、村の人は、まだ、彼らを許婚同士と見なしている。 幼い頃、ふたりはとても仲が良かった。ふたごのようにいつも一緒に遊び、子供心に、大きくなったら自分たちは結婚するのだと素直に信じ、楽しみにしていた。ふたりの婚約は、結局は、ローイが次男坊でヴィーレは一人娘であるという両家の事情があっての話とはいえ、幼い二人がもとからいかにも仲が良かったからこそ出た話でもあるのだ。 ロ−イは知らないが、実は、ヴィ−レは、いつか幼いロ−イがお嫁さんごっこの時に指輪にしてくれたスミレの花を押し花にして、今でも、ひそかに持っている。自分が愛しているのはアルファ−ドただ一人だけれど、これはそういうのとは違う、ただの幼い日の思い出のかたみなのだと自分で自分に言い訳しながら、部屋の整理の度に捨てられず、小箱の底にしまい直すのだ。 あの日、風の吹き渡る丘の上で、春の日射しに包まれて白い花の冠をかぶったヴィ−レに、ロ−イは、スミレの指輪と幼いくちづけを贈った。 「大きくなったら、僕はヴィ−レに、本物の、見たこともないほど大きいシルドライトの指輪をあげる」と言ったロ−イの声は、今でもヴィ−レの耳の奥に残っている。 だが、やがて思春期を迎えたふたりは、おたがいを恋愛の対象として見ることが出来なかった。親の決めた許婚者ということに対する反発も芽ばえていたし、幼い頃からあんまり近くにいすぎて、いまさら恋をするような相手ではなくなってしまっていたのだ。 そんなとき、ヴィーレのそばに、アルファードがいた。ヴィーレはアルファードを恋の対象に選んだ。 ヴィーレはその片思いを誰にも打ち明けはしなかったが、何も言わなくても、人の心の動きに聡いローイには、もちろん分かった。 それで、ローイも意地になって、ヴィーレとだけは絶対結婚しないと言い出した。 その頃にはローイの両親はすでに亡く、ヴィーレの両親は若いふたりの気持を尊重し、婚約の解消を承知した。反対すればローイがますますムキになるのは目に見えていたし、無理強いせずに本人たちに任せてそっと見守っていればいつかはもとのさやに収まるだろうと、内心期待していたのである。 なんといっても、二人はもともとあんなに仲が良かったのだし、婚約解消といっても、別に罵り合ってのけんか別れではない。母性的なヴィーレは、誰が見ても、世話を焼かれることなど必要としそうもない『大人』のアルファードより、根が甘えん坊のローイの方と相性がいいだろうし、ローイのようなだらしない極楽トンボにはヴィーレのようなしっかりものの奥さんがぜひとも必要だというのは、村人共通の見立てだ。 そんなふうにたかをくくって様子を見ているうちに、もう何年もたつが、一向に、ふたりがよりを戻す様子はない。ヴィーレはあいかわらずアルファードに片思いだし、ローイは村中の娘たちを、だれかれ構わず口説いてまわっている。たぶんローイは、ヴィーレ以外なら誰でもいいのだ。 誰もが、ローイとヴィーレは本当はまだ好きあっていると信じている。だが、人の出入りもほとんどない小さな村のなかで、アルファードも含めたこの三人の三角関係は、すっかり膠着状態に陥り、そのまま、生ぬるい友達関係に落ち着いてしまった。もともとローイとヴィーレはけんかのひとつもしたわけではないし、ふたりの婚約解消にアルファードが絡んでいることは、暗黙の了解ではあっても誰も口には出さなかったから、三人三様に口をつぐんでいれば、彼らは、何事もなかったように三人仲良く、友達でいられたのだ。 だから、その真ん中へ里菜が現れた時、ヴィーレの両親や、事情を知る回りの人達は、これはこの困った膠着状態を変えるきっかけになってくれるのでは、と、口には出さず、ひそかに期待したのだ。 実は、里菜がアルファ−ドと一緒に住むことになった時、世話役たちの中では、「まあ<マレビト>どうしだから、よくはわからないが、それが当然なんだろう」という漠然とした肯定の空気の中にも、一応は、「未婚の若い男女が公然と一緒に暮らすのは問題があるのでは」という少数意見も出たのだ。とはいえ、そう言った本人も、内心は、「若い男女などといっても、一方はあのアルファ−ドで、片方は聞くところによるとまだ幼く、彼自身も養女として引き取るという気持ちでいるらしいから、別に、変に勘ぐることもなかろうが」と思いながら年寄りの義務としてとりあえず建前を言ってみたまでなのだが、それを聞いた時に、「いや、でも、もし万一、ふたりの間に、将来、『間違い』でも起こって、そのまま<マレビト>どうしで一緒になってでもくれれば、それはそれで、実は四方八方に都合がいいんじゃないか……」と、ひそかに思ったものもいたのである。 里菜がアルファードの保護下に入ることが村の大人たちの公認を得たのには、そんな思惑も絡んでいたのだ。 が、若者たちの恋愛模様が大人の思惑どおりになどなるわけがなく、今度は、里菜を含めた四人の間に擬似家族的な四角関係が発生して、そのまますっかり安定してしまったわけなのだが、アルファードさえ誰かと片付いてしまえばヴィーレはいつかはローイと一緒になるだろう──そしてアルファ−ドがヴィ−レを選ぶことはいくら待ってもないだろう──と、今でも、誰もが思っているのだ。 そんな事情で、ロ−イは、今だに、村の娘たちからヴィーレの許婚と見なされている。 どうせ誰も彼を本当に手に入れることはできないのだと。 そのかわり彼は、遊び相手としてキープしておくには、都合のよい男だった。彼は本心ではまだヴィーレを好きなのだから本気で深みにはまる心配はないし、かといって、彼と遊ぶのにヴィーレに遠慮する必要もないというのが、娘たちの計算である。村中の娘たち共有の、手近で安全で気軽な遊び相手、それが彼だったのだ。 彼とて、いつもいつも、いなされてばかりいるわけではなく、よその村に遠征してまでこまめに女の子を口説いている甲斐あって、たまにはそれなりにいい目を見ることもあり、祭りの夜など、顔を売っておいた女の子の中の誰かから、ちょっとした火遊びの相手に選んでもらえることもある。彼はそれを『おっ、ラッキー!』という程度に受け止めて屈託なく楽しみ、後でその娘に対して相手が望む以上の厚かましい態度をとることもない。ただ、変わらずに親切な友達であり続ける。そんなところも、彼のそれなりの人気の理由だろう。彼にとって、恋はいつも、楽しいゲームだったのだ。 それなのに今度は、勝手が違う。楽しいというより、辛いのだ。ただ片思いだからだけではない。自分の中にある、里菜への想い自体が、何か痛みを伴うようなものなのだ。 (そうか、恋ってのは、辛いものだったんだなあ)と、彼は初めて合点がいった。 彼は、あちこちで顔を売った娘たちから、どういうわけか『人生相談』を持ちかけられることが多かった。彼が、意外と口が固く、しかも人畜無害な気のいい若者として知られているためばかりでなく、娘たちは、荒野で水を求める獣のように、本能的に、彼の、距離を保ったやさしさを嗅ぎつけるのだろう。 そして、彼女たちの相談ごとは大抵恋愛に関することで、彼女たちは大抵、その恋に苦しんでいるのである。 (それなら、やめちまえばいいのに)と、彼は思うのだが、彼女たちがそんな回答を期待していないのはわかっている。いや、そもそも、答など、求めてはいないのだろう。だから彼は、「やめちまえ」とは言わない。ただ、黙って話を聴いてやる。 彼女たちがローイのところに来るのは、解決を求めてではなく、ただ、自分の苦しみを語りたいだけなのだ。ローイに悩みを打ち明けた娘たちは、彼の、熱を持たない、水のようなやさしさに触れて、さらなる苦痛に耐える力を取り戻し、辛い恋のただなかに帰っていくのである。 けれど彼自身は、これまで、なぜ、多くの娘たちが、まるで苦しむのが好きだといわんばかりに、わざわざ辛い恋を選ぶのか、理解できなかった。それが、今、わかった。 彼女たちは、別に辛い恋を選んでいたのではなく、たぶん、本当に恋をすると、それはしばしば、辛いものになってしまうのだ。 (俺は、色恋にかけちゃ、ちょっと詳しいつもりでいたが、なんにもわかっちゃいなかったんだな。もしかして、これが、『本気』ってやつなのか……? ああ、なんてこった。いや、こんな顔してちゃダメだ。おい、エルドローイ、こんなシケた顔でリーナの前に出ちゃいけないぞ) 彼は、里菜の前では、相変わらず、常に陽気におちゃらけ続けているのだ。それは何も、素顔を偽って演技をしているわけではなく、彼はもともと陽気なお道化者で、それが彼の素顔なのだが、最近、彼は、里菜といると、時々、ガラにもなく妙に真面目な顔をしそうになってしまうのである。 (変だよなあ。俺って、全然そんなヤツじゃなかったはずなのに。本当に好きな相手の前では、自分が自分でなくなっちまうんだろうか。それが恋ってものなのか。だから辛いんだろうか……。あーあ、俺はどうしちまったんだ。ようし、いっちょ、景気づけに、歌でも歌って行くか! それ!) ローイは突然大声をはりあげて歌い出した。 「おーれーはァ、村中でェーいっちばぁ……あ、ああ?」 歌声は、ふいにとぎれた。大口を開けたまま空を見上げたローイの目の中を、黒い影が通りすぎた。その後を追うように荒々しい風が地上を駆け抜けて、ロ−イの髪が舞った。 「う、うわあッ! 出た! ドラゴンだ。……こりゃあ、ヤバい。あっちは牧場だ。さて、どうする? 村に戻って自警団の連中を集めるが先か、とにかく山へ向かうが先か? この場所からなら、やっぱ、山だろうな。よし、いくぜ!」 山腹に向けて飛んで行くドラゴンの姿を追って、ローイは、その長い足で、脱兎のように駆け出した。 (── 続く ──) |