長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語

冬木洋子作


 <第二章 シルドーリンの宝玉> 


 冬の午後の儚い薄日に照らされた古い街道の石畳を、鳥影がよぎる。
 街道を行く四人の旅人の足音は、あたりの深閑とした森に吸い込まれ、乾いた灰色の石畳から、微かに埃が舞い上がる。
 そういえば、旅の間、本格的な雨や雪は一度も降らなかったと、里菜はこれまでの旅路を振り返った。
 このあたりは冬至を過ぎると天候が崩れがちなのだと言う。アルファードが冬至前にイルベッザに着くように旅の計画を立てたのは、役所が冬至休みに入ってしまう前に入隊を済ませたいという理由の他に、このためもあるらしい。その甲斐あって道中は天候に恵まれ続け、まもなく旅も終わろうとしている。
 明日の夕方には、イルベッザに入れる見込みである。
 この辺はもうイルベッザの近郊のはずなのだが、どっちを見ても、相変わらずの森が続く。
 この辺までくれば、猟師やきこりが少しは住んでいるはずだとアルファードは言うのだが、彼らの小屋は森の中に点在しているそうで、街道添いには民家も畑も見当たらない。
 イルベッザの北側、カザベル街道方面は防壁を越えてどこまでも都市が続いているのに対し、このエレオドラ街道添いの東側は、防壁のすぐ外まで森が迫っている。防壁から数時間以内のところまでは、たまに市民たちが、ピクニックがてらきのこや木の実を集めたり、狩りをしに来たりするが、それ以上町を離れると、そこはもう、足を踏み入れるものほとんどない、古い神秘の森なのだ。
 その中をつっきって、街道は続く。
 ほの白い冬至前の太陽が、既に西に傾き始めている。そろそろ今夜の野営地を定めなければならない。
 一行が、古代の巡礼のように土と落葉の上で眠るのも、今夜が最後になるはずだ。
 それを考えると里菜は、堅パンや落葉の寝床にもう我慢の限界だと思っていたはずが、なんだか少し名残り惜しく、旅が終るのが寂しいような気がしてくる。
 軍隊の宿舎は男女別だ。もう、この四人で雑魚寝をすることもないだろう。
 キャテルニーカとも、今までのように一緒にいられるかどうかわからない。
 彼女の身の振り方についてはすでに相談してあって、イルベッザ城の構内にある国立治療院に、治療師見習いか、それがだめなら雑用係として働かせて貰えないか当たってみることになっている。
 キャテルニーカはまだ十一才だから、本来なら学校に通わせるべきなのかもしれないが、本人が、治療院で働くことを希望しているのだ。
 もしキャテルニーカが治療院で働けることになったら、同じ敷地内にいるのだから、里菜はいつでも彼女と会えるはずだ。うまくすれば同じ宿舎に入れる可能性もあるらしい。
 けれど、もしそうなっても、イルベッザでの日々は、もう、この旅の続きではない。何もかも、きっと、変わってしまうだろう。あさってからは、それなりに馴染み始めた旅の日々も終り、未知の都での新しい生活が始まるのだ――。
 そのことを想い感傷的な気分になった里菜は、前を行くアルファードの大きな背中を、踊るような足取りで楽しげに歩くキャテルニーカを、それから、なぜかぼんやりと空を見上げて歩いているローイを見やった。
 ローイは、さっきまで里菜と言葉を交わしながら歩いていたのだが、話の途切れ目にふっと黙り込んだまま、ぼんやりしてしまって、返事もしないのだ。
 こんなことが、ここ二、三日、何度もあった。
 ローイはあいかわらず冗談を言ったりキャテルニーカとふざけたりしていて、一見、特に変わったところはない。
 けれども、時々、こんなふうに急に考え込んでしまう。
 そして、そういう時、里菜が心配して様子を窺っていると、ローイが突然ちらりとこちらを見て、ふたりの目が合ってしまったりする。そのとたん、ローイは、決まって、慌てたようについと目を逸らす。
 最初のうちは、どうしたのかといぶかしみ、心配していた里菜も、そろそろ、そのぎこちない視線の意味がうすうす分かってきている。けれど、その考えを、そんなことはないと否定しようと努力している。
 ローイは、村にいたころから、毎日のように、里菜に一目惚れだのなんだのと言っていたが、それは挨拶がわりの冗談だったはずだ。自分とローイは、いい友達だったはずだ。そうでなくては困るのだ。
 そうは思いながらも、嫌いではない相手から、こんなぎこちない純情のまなざしを向けられれば、女の子としては、気分の悪かろうはずもない。ローイの切なげなまなざしは、里菜を、なにやら居心地の悪いような、気恥かしくも誇らしいような、微妙な心境にさせる。
 けれども里菜は、ローイと目を逸らしあった直後、アルファードが見ていたかと、うしろめたいような気持で、つい、ちらりと彼のほうを窺わずにはいられない。
(あたしは、アルファードのなんでもないんだから、誰とどんなふうに目を見交わそうとアルファードのご機嫌を伺う必要なんか、ないわ)と思うのだが、やっぱり彼が気になるのである。もしかするとアルファードが里菜とローイのそんな様子に嫉妬や焦りを感じ、里菜が自分のものだということをはっきりさせる気になってくれないか、などという密かな期待もある。
 もっとも、彼にそんなことを期待しても無駄なのは、里菜もよくわかっていたのだが。

 この、冬の旅の終りを惜しんでいるのは、里菜だけではなかった。
 ローイもまた、この旅が終る時、ものごとがいままでどおりではなくなることを予想していた。
 旅の中では、すべてが移り変わり続けており、ものごとは流動的だ。何かを変えるなら、今だ。旅が終って、イルベッザで落ち着いてしまったら、自分と里菜の関係も、その時点のままの友達として固定してしまうだろう。
 それにローイは、都についてからの生活について、里菜に、ある提案をしたいと思っていた。
 それをするのは絶対、里菜が軍隊に入ってその仕事や宿舎の暮しに馴染んでしまう前でなければならない。
 里菜が変化を好む性質ではないのに、ローイはもう気がついている。そういう人間がひとつの暮しに馴染んでしまうと、そこから連れ出すのはとても難しいのだ。きっと、里菜は、たとえそれが不本意な辛い生活であろうと、いったん選んだ暮し方を変えるくらいなら、そのままの毎日に甘んじて耐え続けることのほうを選んでしまうだろう。そうなってからでは、遅いのだ。
(あーあ、このままじゃイルベッザに着いちまうぞ。その前になんとかしたいよなあ。それにしても、何て言ったらいいんだろう。いままで、口説き文句に不自由することなんてなかったのに。本気の時には、うまいことなんて何にも言えなくなっちまうんだな)
 ローイは、機械的に足を運びながら、今日も道々、考え込んでいた。
 彼は、三日前の、例の『戦線布告』以来、ずっと告白の機会を窺ってはいたのだが、なかなか里菜とふたりきりになるチャンスもないし、なによりも、自分では認めないだろうが、勇気がなくて思い切れなかったのである。
(俺は、村中の女の子をひとりあたり十回は口説いてきたんだぞ。それなのに、いったい俺は、どうしちまったんだ。ああ、本気だってのは辛いことなんだなあ)などと、あれこれ思案をしながら、時々ちらっと里菜を見ずにはいられない。そのうえ、それで里菜と目が合うと、おもわず横を向いたりしてしまう。
(何やってんだ、俺は……。ガキじゃあるまいし)
 自分のばかげた振る舞いに、自分であきれるローイである。
 いくつもの甘い口説き文句が、ローイの頭の中に浮かんでは消える。
 彼は、これまで、どんな歯の浮くようなセリフでも照れずに言うのが自分の特技だと信じていた。
 だが、里菜の顔を盗み見ては、
(だめだ、リーナの前では、こんなこときっと言えなくなっちまう)と、思う。
 結局、彼の頭に最後に残った言葉は、ごくごくありきたりの、『一緒に暮らそう』というひとことだけだった。
(だめだ、だめだ、いきなりそれはないだろう。最初はもっと気軽な交際から始めるのがセオリーってもんだ。いきなりプロポーズなんかしたら、うまくいくものもいかなくなっちまう。でも、アルファードっていう強力なライバルがいるんだから、悠長なことも言ってられないな。なにしろあいつらは、いかに『なにもなかった』とはいえ、とっくに一緒に暮らしていたんだから。それにしても、いくらなんでも、あたりまえすぎるセリフじゃないか。だめだ、だめだ、ああ、どうすりゃいいんだ……)
 最後の一言を思わず声に出して言いそうになって、あわてて口をおさえたローイを、キャテルニーカが、不思議そうに見上げていた。
 アルファードは、もちろん、この微妙な雰囲気に気付いていないわけはないのだが、黙ってそれを目の隅に納めて、注意深く無視している。
(あいつ、俺がリーナを不幸にするのが心配だ、なんて言って、結局傍観してるのは、どうせ俺に勝ち目はないと踏んでるからだな。ちくしょうめ)と、ローイは、悔しがる。
 そんな三人の様子にはまるで頓着しないように、あいかわらず里菜とローイにかわるがわる纏わり付きながら跳びはねていたキャテルニーカが、その時、ローイにつと擦り寄ってきて、真下から顔を覗き込み、
「お兄ちゃん、がんばってね!」とにっこり笑った。
 ぎょっとしたローイが、自分は声に出して考え事をしていたのかと焦って回りを見す姿を見て、キャテルニーカはおかしそうにクスクス笑いながら猫のようなしなやかさで身を翻し、今度は里菜のそばへ駆けていった。
 結局、ローイが、なんというべきか考えあぐねているうちに、もう逃すわけにいかない最後のチャンスが先にやってきてしまった。
 その夕方、いつものように、手分けして野営の夕食の材料を調達していたときである。
 運よく、いつもより早く兎を仕留めたローイが野営地に帰る途中、やはり運よくいつもより早く香草を見つけてきたらしい里菜と、はちあわせしたのだ。しかも、普段なら里菜と一緒にいるはずの、キャテルニーカもいない。
「リーナ、もう帰るところ? ニーカは?」
「なんか、薬草を探しに行くって、途中で別れたの。もう帰ってるんじゃない?」
「そうか……」と言って、黙って下を向いてしまったローイの様子に、なにかいつもと違うものを感じ、里菜は立ち止まってローイを見上げた。
 おずおずと、ローイが言った。
「じつは、その、あんたに、話があるんだけど……。立ち話もなんだから、ちょっと、その辺に、座らないか?」
「うん……」
 緊張したローイの様子につられて緊張しながら、里菜は、ローイが示した手近な倒木の脇に香草の束を置くと、ローイの隣に、少し離れて腰をおろした。
 何の話かは、もちろん里菜にはだいたい見当がついた。
 きっと彼は、あたしに告白するつもりだ、と、里菜は考える。どうしていいか、わからない。この場から、走って逃げてしまいたい。
 ローイの気持は、うれしい。ローイはいい人だ。嫌いでない相手からなら、好意を寄せられて嬉しくないわけはない。そのうえ、今、自分が想っているアルファードは、自分のことを妹のようにしか扱ってくれない。自分には、そんなにも魅力が無いのだろうか――。
 そんな自分を想ってくれるひとがいるというのは、すごく魅力的な状況だ。もし、そうなら、はっきり言葉にして告げて欲しい。
 けれども、それは、自分勝手な欲望だ。自分は他の人を愛していてローイの想いに応えることはできないのだ。それなのに、自己満足のために、ローイに想いを口に出させるのは、残酷だ。それが真剣な想いであれば、なおさらだ。
 ローイを友達として大切に思うのなら、絶対、今、彼に話をさせてはならない。
 自分がいま大急ぎでしなければならないのは、何か、ローイがこれから言おうとしていることを言えないようにすることだ。それがお互いのためだ。そうしなければ、大切な友達を、傷つけるだけでなく、失うことさえありうるのだ。
 一番いいのは、たぶん、ここで先手を打って、ローイに、自分とアルファードの恋について友達として相談に乗ってもらうことだろう。それだって残酷なことには違いないが、すくなくとも、あとでお互い何もなかったことにして、友達のままでいられる。それに、どうせローイは、里菜のアルファードへの想いは知っているのだ。
(そう、今、言わなくちゃ。大急ぎで……。『あたしも、あなたに相談に乗ってほしいことがあって、なかなか機会がなくて……。先に聞いてくれる?』って。ローイが、まだ、なんにも言わないうちに! 今なら、間に合う……)
 決心して里菜が口を開こうとした刹那、ローイが、里菜の顔を、真近に覗き込んだ。
 ローイの顔をこんなに近くで見ることは、あまりない。立っている時は、あんまり背が高すぎて顔はずっと上のほうにあるし、座る時は、そういえば、里菜は必ずアルファードのとなりに座っていて、ローイはたいてい焚火の向う側などにいた。里菜がローイと並んで座るのは、村で子守りをしていた時以来かもしれない。
 こうしてあらためて近くで見ると、ローイは、なかなか整った、綺麗な顔をしているのだ。それは、前からわかっていたのだが、あんまり背が高すぎてなんだかヘンなことと、服装がキテレツなこと、そしてなによりも、表情に愛敬がありすぎ、言動がひょうきんすぎることで、普段は、彼がハンサムだというのを忘れているのである。
 そのローイに間近に見つめられ、里菜は、頬が熱くなるのを止められなかった。
(何でいまさら、ローイの顔なんか見て赤くならなきゃならないの。ローイが誤解するじゃない)と思いつつ、その茶色い瞳を見ていられなくなって、目を伏せてしまう。
(やだ、これじゃますます、誤解されちゃうじゃない……)
 里菜は、決して面食いではないつもりだ。でも、こういうときのハンサムな顔というのは、なかなか強引な作用を発揮するらしい。
 ローイが里菜を見つめたのは、ほんの一瞬だったのだろう。だが、その一瞬のうちに、里菜の頭のなかでは、様々な思いが吹き荒れた。
 このままローイに見つめられて愛を告げられてみたいという、甘美にして身勝手な誘惑と、早くさっきのセリフをいわなければとせっつく理性の声がせめぎあう。
 一方ローイのほうも、落ち着いて効果を計算しつつ里菜を見つめたわけではなく、どうしてよいかわからなくなって、それしかできることがなかったのである。
 が、頬を染めて目を伏せた里菜の仕草は、里菜が恐れたとおり、彼にわずかに勇気をあたえた。
「リーナ、その……」
 ローイは意を決して口を開いたが、そこまで言うと目を伏せて、ひととき、ためらった。
 里菜は目を上げて、おそるおそる、そんなローイを見た。
 うつむいたローイは、まるで幼い少年のように頼りなげに見えた。いつもの軽薄さやガサツさ、押しの強さはすっかり影をひそめ、透きとおるような繊細さと純粋さが、その下から現われたようだった。
 長い睫毛が、やわらかな茶色の瞳に影を落している。
 リーナのなかで、ほんの一瞬、理性が、圧倒的な誘惑の前に屈した。
 そういえばローイは、声もいいのである。やわらかなテノールが耳に響いたとき、その声で愛を告げてほしいという欲望は、抑えがたくなってしまったのだ。
 その、一瞬の誘惑の勝利のあいだに、とうとうローイは、さえぎらなければならなかったはずの言葉を、口にしてしまっていた。
「……イルベッザについたら、俺と、一緒に暮らさないか」
(う、うそ! これって、どう考えてもプロポーズじゃない! なんでローイは、こんなに唐突にプロポーズなんてするの! やっぱりさっき逃げ出せばよかった。もっと順序のわかった人かと思ってたのに、まさか、そんな……)
 里菜の頭の中は、たちまちパニック状態になった。
 まだ十七才、しかも、かなりオクテだった里菜にとって、今まで、結婚など、遠い世界の話だった。まだ、恋愛と結婚を結びつけて考えるような年令ではなかったのだ。この間は、もののはずみで、タナティエル教団の導師たちに向かって『アルファードのお嫁さんになる』などと宣言したが、それも里菜の中では、遠い未来の夢――それこそ、『大きくなったら』の話に過ぎなかった。
 けれど、よく考えて見れば、この世界では、十七とか十九とかいうのは、もうそろそろ平均的な結婚適齢期に差し掛かろうという年令だったのだ。里菜にとって、恋とは、『手をつないでデートすること』だったが、ローイにとっては、そうではなかったのだ。
 里菜は、そのことを忘れていた自分の迂闊さ、幼稚さを悔いながら、ものも言えずに、ただ、目を丸くしていた。
 ローイは、そんな里菜から目をそらし、遮られることを恐れているような早口になって続けた。
「ああ、もちろん、その、あんたとアルファードが一緒に住んでたみたいに、ただ、同居しようっていうんじゃなくて、その、俺と夫婦にならないかって意味なんだけど……。それでさ、小さな家でも借りて、例のタクジショをやらないか。俺とふたりでさ……」
 里菜の心に、激しい後悔と自己嫌悪が沸き起った。
(聞いてはいけなかった。あたしは、残酷なことをした。自分の一時の満足のために、ローイの心を弄んでしまった)
 ローイが、思い切ったように、それまで伏せたままだった目を上げた。その瞳のなかに怯えに似たものが揺れているのを、里菜は見た。
(このひとは怯えている。捨てられる子供のように、拒絶されることを恐れている……)
 里菜の心に、痛みが走る。
(このひとを、傷つけたくない。手を、差しのべたい。その肩に腕をかけて、あなたは絶対、拒絶されることはないんだと、抱き寄せてあげたい)
 そう思う一方で、もう一つの圧倒的な声が告げる。
(でも、出来ない。あたしはアルファードが好き。たとえ、彼があたしを妹のようにしか見てくれなくても。ローイ、ごめんなさい、ローイ……)
「ローイ、あたし……」
 言いかけた里菜の唇に、ローイが、自分の人差し指を押し当てた。
「ストップ。言わなくていい。その顔を見れば答えはわかるさ。いいよ、気にするなよ。俺もどうせ、承知してもらえると思ってた訳じゃないんだ……。でも、じゃあさ、もうひとつだけ言わせてくれよ。俺と一緒になってくれなくていいから、アルファードと住んでてもいいから、俺とタクジショだけやるってのはどうかな。……俺はあんたが、いやいや魔物退治に引っ張り出されるところじゃなくて、自分に向いた仕事をしていきいきと楽しそうにしているところを見ていたいんだ。……いや、だめだよな、やっぱり……。顔に、だめって書いてある。あんた、正直者だもんな」
 指先で唇を封じられていなくても、里菜は何も言えなかっただろう。
 ローイはふたたび目を伏せた。その様子は、ひどく痛々しく見えて、里菜はまた胸を衝かれた。
 けれども、ローイはすぐに顔を上げて言った。
「リーナちゃん、ごめんな。いきなりこんなこと言って驚かして。やっぱり、ちょっと唐突だったよなあ。うん、今の今までただの友達だったのが途中の段階全部すっ飛ばしていきなりプロポーズってのは、いくらなんでも無理があるよ。俺としたことが、どうかしてたよ。反省してる。今度誰かにプロポーズするときにゃ、これを教訓にして、もっとうまくやるよ。だからあんたは、このことはもう気にしないで、いままでどおり軽口の言いあえる仲でいてくれよな」
 そういって笑ったローイは、もう、いつもの顔に戻っていた。
 里菜は、ローイの指に唇を押えられたまま、口を開きかけたが、やはり何も言えなかった。
 何か言いたいけれど、何と言っていいかもわからないし、ローイは里菜に何も言わないで欲しくてこうしているのだからと思うと、それを無視してはいけないとも思う。
 そんな里菜の逡巡を見て取ったローイは、少しばかり名残り惜しそうに唇から指を離して言った。
「もういいよ。俺は、大丈夫だから。言いたいことがあったら、言ってくれ。ただし、ゴメンね、というのと、オトモダチでいてねっていうのだけは、やめてくれよ。あんたがあやまる必要は何ひとつないんだし、それに俺は、そのセリフはもう一生聞きたくないくらい聞き飽きてるんだ」
 里菜は、ローイの、座っていても随分高いところにある顔を見上げて、口を開いた。
「ローイ、あなたって、あなたって……」
 とたんに、再びローイの指が唇に押し当てられた。
「おっと、忘れてた。『いいひとね』っていうのも、やめてくれ。その他大勢の女の子にそれを言われる分には、たしかに俺はいいヤツなんだからしかたがないが、他でもない愛しのリーナちゃんには、もっと思い出に残るような独創的なセリフを言ってもらいたいね」
 里菜は、おもわず、ローイの指を手で振り払って叫んでしまった。
「だって、あたし、あたし、今、本当に、本当に、あなたのことを、いいひとだなって、心の底から思ったんだもの、しかたないじゃない!」
 ローイは、普段見せることの少ない、苦笑いのような表情をうかべた。
「わかったよ。ありがとう。そうなんだよな、俺って、どうしてこんなにいいヤツなんだろうな」
 里菜は、また目を伏せてしまった。涙が滲みそうで怖い。ローイが一生けんめい明るく振るまっているのに、自分が泣いたりしたら、この出来事が深刻なものだったことになってしまう。それにしても、ローイは、なんていいひとなんだろう――。
 ローイの、あまりの『いい人さ』に、里菜は涙が出そうになったのである。
 もう何も言えなくて、でも、何か言いたいことがたくさんあって、どうしようもなくなった里菜は、ただ、複雑な想いを込めてローイの名を呼んだ。
「ローイ……エルドローイ」
 エルドローイという正式名でローイを呼ぶのは初めてだった。なんとなく、今は愛称ではない本当の名前を呼ぶべき時ではないかという気がしたのだ。
 これを聞いたローイは、少しおどけて叫んだ。
「おっ、いいねえ。その名前、立派すぎて自分には似合わない名だと思っていたが、あんたにそういうふうに呼んでもらえると、なんだかすごくいい名に聞こえるなあ。よかったらもう一回言ってみてくれよ」
「……エルドローイ」
 こんどは、やや、そっけなくなってしまう。
「うーん、いいね、いいねえ。できれば、あと十回ほど言って欲しいんだけどな」
 そこまで言われると、からかわれているような気がして、おもわず里菜は、いつもの調子で言い返してしまった。
「バカ!」
 そんな里菜に、ローイは、やさしくほほえんだ。
「その調子だ。その調子でいこうよ。な?」
 ああ、ローイはなんていいひとなんだろう、と、また感動してしまった里菜に、ローイが笑っていう。
「できれば、『バカ』じゃなくて、もっとおもしろい悪態を考えて欲しいもんだけどな。いつも言ってるだろ、創意工夫が大切だって。な? さ、戻ろう。アルファードが変に思わないうちに」



 ふたりが野営地に戻ったとき、アルファードは、もう、焚火の準備を終えていた。
 といっても、ふたりが話していたのは、そんなに長い時間ではなかったはずだから、特にふたりが遅れたというほどではない。
 少し距離を置いて相次いで出てきたふたりを見て、アルファードは何か察した様子だったが、なにも言わなかった。そんな彼を、ローイはむくれたような顔で見やって、黙って兎を捌きはじめた。
 その夜、兎と香草のス−プを食べ終えて、小さくした焚火のまわりでてんでに横になって、ローイは、里菜に声をかけた。
「よお、リーナちゃん、旅の夜も、もう最後だ。今夜こそ俺と一緒に寝ようぜ!」
 以前と少しも変わらない、軽い口調である。
「バカ……」
 里菜も、いつもの返事を返したが、つい、多少元気のない声になってしまう。
 そんな里菜に、ローイはいつもどおり、やたらに陽気に言い返した。
「おい、返事がワンパターンだぞ。いつも、もっと工夫のある悪態を考えろって指導してるだろう。何か、もうちょっとおもしろいこと言ってみろよ」
「……電信柱」
「何だ、そりゃ……」
 里菜の苦心の切り返しに、ローイは首を捻った。この世界には電信柱はないから、この悪態は通じないのだ。この間、『ウドの大木』と言ってみた時もそうだった。この世界にはウドは生えていないらしい。
「まあ、いいや。なんだかよくわからないが、非常に個性的で、よろしい。じゃ、おやすみ」
 ローイは、そう言うとマントにくるまって横になり、少しやさしい声でつけ足した。
「ぐっすり寝ろよ。よけいなこと、考えずにな」
「ありがとう。あなたもね。……おやすみ、ローイ」
 そう言って、いつもどおりアルファードの近くにマントを広げている里菜に、アルファードが小声で尋ねた。
「なにか、あったのか」
「ううん、別に……」
「そうか」
 ぽつりと言って、アルファードは、それ以上追及しなかった。
 けれど彼は、むろん、何があったのかも、その結末も、見当はついていたのだ。ただ、ローイと里菜が一応表面上は普通に振る舞っている以上、この件に関しては非常に微妙な立場にある自分が下手に口を出して話をこじらせることはないと判断したのである。
 彼は、『別に』という言葉とはうらはらに何か言いたげな里菜の視線を無視してマントにくるまると、いつものように里菜に背を向けた。
 キャテルニーカは、今日はローイのとなりで寝ることにしたらしい。例によって地面に直接横になると、ローイのすぐ近くまでずり寄ってローイの顔を覗きこみ、彼にだけ聞こえるほどの声でたずねた。
「お兄ちゃん、どこか、痛い?」
「ああ、ニーカ。うん、そうだな、胸が痛むんだよ、胸が。怪我でも病気でもないから、治療はいらねえよ」
 ローイは、めんどうくさそうに小声で答えると、反対側に寝返りを打ってキャテルニーカの目を避けた。
 彼女に対してはいつもやさしいローイにしては、めずらしく無愛想な、拒絶的な態度だったが、キャテルニーカはそんな態度に臆したようすもなく、彼をまたぎ越えて反対側にいくと、また、真顔でローイを覗きこんだ。
「ここが、痛いのね」
 そう言って、マントの上から、彼の心臓のあたりに掌を当てた。
 その掌の小ささに、ローイの心が、しだいに和んでゆく。自分を心配してくれる少女の気持が、いじらしく、いとおしい。
「ありがとう、ニーカ。なんだか、少し良くなった気がするよ」
 ローイは、マントの中から手を伸ばして、キャテルニーカの髪を撫でた。
「よかった」
 そう言って、にっこりしたかと思うと、キャテルニーカは、その場にころっと寝そべり、次の瞬間には、健やかな寝息をたてていた。
 ローイは、マントの中に引っ込めた手を胸に抱え込んだ。
 人差し指の先に、里菜のやわらかな唇の感触が残っている。
 そっと開いて自分の名を呼んだ、小さな、ふっくらとした、薔薇色の唇が、閉じた瞼の裏にまざまざと浮かぶ。まるで朝露を帯びてほころび始めた匂やかなつぼみのような、摘み取られるのを待つ愛らしい甘い果実のような――。
 思わず手を伸ばして指先を触れた時の、夢のようなやわらかさ、ひめやかな温かさ。
(あれは俺のものじゃない――。それはわかっている。でも、たったこれだけの思い出を大切にとっておくくらい、俺にだって許されるだろう――)
 ただひとつ自分に許された儚いぬくもりの記憶をひっそりと胸に抱いて、ローイは、いつか眠りに落ちた。


(── 続く ──)



作者 冬木洋子

HP『カノープス通信』
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Akiko/9441/

(この作品の著作権はすべて作者・冬木洋子に帰属しています)