長編連載ファンタジー
イルファーラン物語
13 山の村は、まもなく本格的な冬の季節を迎えようとしている。雪はすでに何度か降ってはいるが、まだ、積もったことはなかった。けれど今朝、アルファードが空を見上げて、今日は雪が積もるかもしれないと言っていた。 里菜は窓辺に立って、曇った窓越しに外を眺めていた。 窓に嵌っている厚手の硝子板は、実は、あちらの世界で言う硝子ではなく、この世界で産する方解石に似た鉱石を魔法で加工・強化したものらしい。厚みがあるせいもあって、やや透明度が低く、本来は硬度の低い鉱石を魔法で強化したものであるためか、実際の硬さのわりに見た目はどことなく柔らかい印象で、里菜はいつも、氷砂糖を連想する。楽しい気分の時には、お菓子の家の窓みたいだとか、なめてみたら甘いかもしれないなどと、つい空想したくなる、独特の表情のある硝子板である。 その、氷砂糖を板にしたような厚手の硝子を通してみる外の世界は、白っぽく霞み、少し歪んだ輪郭が二重三重にぼやけて、夢の中の景色のように曖昧だ。明かり取りの役にはたつが、はっきり言って、外の景色を見る役に立つような窓ではなく、いつまでも眺めていたからといって何が見えてくるわけでもない。 里菜は、暖炉の前に引き返し、敷き物に座って、隣に寝そべっているミュシカの背中をなでた。 しんしんと冷え始めた、灰色の冬の午後。部屋には里菜とミュシカしかいない。 (アルファード……) 里菜は溜息をついた。 (どうか、無事に帰ってきて……) 里菜の心がわかったのか、ミュシカも主人の安否を気遣うように、くぅん、と鳴いた。 アルファードは、イルドの村に、ドラゴン退治に行っているのだ。 今朝、イルドからの救援の依頼を受け取ったアルファードは、ローイを含めて四人の自警団員を選び出し、馬で疾走していった。その中には、誇らしそうなミンの姿もあった。 自警団の用に供される馬は村の共有財産で、乗用にするだけでなく荷車も引くがっちりした馬だ。サラブレッドのようにスマートではないが、それはそれで力強い美しさを持ち、自警団員らによって充分に手入れされている。村にはこうした乗用馬は五頭しかいないので、よその村でのドラゴン退治は、基本的に五人で行なわれるのだ。 ドラゴンの皮で作られた鈍い銀色の防具を身につけ、盾と剣を持った馬上のアルファードの姿は、雄々しかったが、なんだか少し怖くって、里菜はその時、アルファードの近くに行くことすらできなかった。 「じゃあ、行ってくる。心配はいらない。留守を頼む」と、馬上から、まるでどこかの家の薪割りでも手伝いに行くようにあっさりと言うアルファードに、里菜は、両手を固く握り合わせ、少し離れたところから黙って頷くことしか出来なかったのだ。 それが今は、悔やまれる。 本当は、アルファードに駆け寄って、無事を祈る言葉を、何度も何度も言いたかった。 もっとも、アルファードのほうは、そんな大袈裟な見送りかたをされたくはなかっただろう。急いでいたのだし、それに、たぶん、アルファードにとっては、ドラゴン退治は、ありふれた日常の肉体労働なのだ。 ドラゴンの皮で身を鎧ったアルファードの姿を思い出して、里菜は、少し身震いした。 身体だけでなく顔の半ば以上までをマスクのようなもので覆って中の人間の姿を隠してしまうその防具は、何かひどく不吉な印象を里菜に抱かせたのだ。 銀色のドラゴンの鱗に包まれて、アルファードは、まるで彼自身が、一頭の凶々しいドラゴンに変わってしまったかのようだった。近寄ってはいけない、危険で荒々しい、異質な生き物に。 (ドラゴンを倒すには、ドラゴンの力がいるんだわ) 里菜は、漠然とそんなことを思った。 (でも、アルファードには女神様がついているから、ドラゴンの皮を着て、ドラゴンの力を身につけても、心までドラゴンになって飛んでいってしまうことはない。アルファードは、きっと、帰ってくる。ドラゴンなんかに負けない。だって、前に牧場にドラゴンが出た時は、防具もなしに、たった一人で退治したんじゃない。今日は防具も付けているし、ローイや自警団のみんなが一諸なんだから) 自警団員たちの頼もしい姿を思い浮かべて、里菜の心は、ほんの少し落ち着いた。 あの宴会の時の彼らしか知らなければ、彼らが一緒だからと言って安心することは出来なかったかも知れないが、里菜は、一度だけ、自警団の訓練の見学に連れていってもらったことがあったのだ。 その時の彼らは、あの酔っ払いと同じ連中とは思えないほど機敏で真剣で、実に頼もしそうに見えたし、アルファードが彼らをリーダーとして実によくまとめ上げているのは、素人目にも一目瞭然だった。 アルファードは、特に威張るでも怒鳴るでもなく淡々と指揮を取っているし、団員たちもアルファードに特別丁寧な口をきくわけでもないのだが、それでもアルファードがみんなから尊敬され、信頼されていることが、自然と伝わってくるのだ。あのチームワークがあれば、ドラゴンなんか、怖くないに違いない。 里菜は、『自分の』アルファードの、板についた指導者ぶりが誇らしかった。 が、二度目からは、もう、アルファードは、里菜を連れていってくれなかった。 ただ女の子が見ているというだけで、それが別に気のある娘でなくても、意味もなく妙に張り切ってしまったりするのが、若者の習性である。 「君が悪いわけじゃないんだが、女の子が見ていると、雰囲気が浮ついて、やりにくい」と言うアルファードに、里菜は口を尖らせて抗議した。 「だって、自警団には、女の子もいたじゃない」 自警団には、ミンのほかにも何人か娘たちがいて、アルファードは、彼女らに、ほかの団員に対するのと全く変わらない態度で稽古をつけてやっていたのである。 だが、アルファードは頑として譲らなかった。 「それはそうだが、彼女らは、同じ団員だ。訓練の時は、みな、いちいち彼女らを、女だからどうだなどと、思っていない。だが、見物人となると、話が違う」 というわけで、里菜はしぶしぶ、見学を諦めた。 アルファードはそれから何回も、自警団の訓練に出ている。イルゼールの自警団は、どこよりも訓練が行き届いているのだ。 それでも、いざアルファードがドラゴン退治に行ったとなると、不安が募らないわけはない。 (女神さま、あなたのおさな子を、守ってください) 目を閉じて、里菜は祈った。 それから里菜は、いきなり立ち上がった。 「おそうじ、しよう!」 ミュシカが薄目を開けて里菜を見上げ、そのまま、また目を閉じる。 里菜は、水滴のついた窓を、ごしごしと布で拭き始めた。実は、さっきも窓を拭いたばかりである。 ローイもいないし、ドラゴンがこっちへ飛んでこないとも限らないので子供たちは家に閉じ込められていて、今日は『タクジショ』もお休みだ。里菜は朝から、家事もろくに手に付かず、かといって、落ち着いて座ってもいられず、こんなふうに意味のない動作を繰り返しているのである。 窓を拭いていたはずが、里菜はまた、もしやアルファードが帰ってはこないかと、細い指を硝子板に当てて窓の向こうを透かし見る。半透明の窓越しの景色はぼんやりと霞んでいるし、家に向かってくる道は、こちらから見ると緩い下り坂で、遠くまでは見えない。とうとうがまんできなくなった里菜は、窓拭きの布を放り出した。 「たきぎ、持ってこよう!」 里菜は、ショールを羽織ってドアを出た。ミュシカが、寝そべったまま首だけ回して里菜の後ろ姿を目で追い、軽く尾を振りながら見送った。 外に出ると、里菜はまず、坂の上から道の向こうを見渡した。やはりアルファードの姿はなかった。 里菜は溜息をついて裏庭に回り、納屋から一抱えのたきぎを持って、家の正面にもどって来た。 そこに――さっきまで誰もいなかったところに、黒いマントを纏った人影があった。 大きなフードが、顔をすっぽりと覆い隠している。 里菜は、立ちすくんだ。その目が、大きく見開かれ、抱えていたたきぎが、腕からすべり落ちた。 フードの下の暗がりの奥から、声がした。 「やっと、見つけた……。お前が、そうか」 里菜は、声も出せずに立ち尽くした。 これは自分の悪夢から出てきた影ではないか。悪夢の中の黒い影が、現実の世界に、いつのまにかするりと紛れ込んできていたのではないか。あのフ−ドの下に、人間の顔はなく、ただ一面の闇だけがあって、その闇を入口として、この、昼間の世界に、悪夢の中から無限の闇が流れ込み、世界中を黒く塗り込めて、すべてを悪夢に変えてしまうのではないか――。 混乱した頭の中で、とっさに、そんな思いが揺らめいた。 「死ね!」 マントが翻り、短剣が閃いた。人影が、倒れ掛るように、里菜にぶつかって来た。 その瞬間、フードが飛び、顔があらわになった。 それは人間の女、おそらくは中年の女の顔だった。 相手が肉体を備えた現実の人間であると分かったとたん、それまで悪夢めいた恐怖に絡み取られてすくんでいた里菜の身体が、ふっと、動くようになった。 悲鳴を上げて飛び退いた里菜のショールの裾を、短剣が掠めた。女の肩が里菜にぶつかり、女は短剣を構えたままよろめいて、里菜の脇を擦り抜け、地面に膝をついた。 里菜の悲鳴を聞いたミュシカが、異変を察して、激しく吠えながら、内側からドアに飛びついた。ドアがガタガタと揺れている。 だが、ドアは内開きだから、ミュシカが内側から体当たりしても開かないはずだ。 家に駆け込もうと思ったら、ドアを開ける一瞬のあいだ、黒衣の女に至近距離で背を向けることになる。かといって、反対に村への道を駆け降りても、一番近いヴィーレの家にたどり着くまで、多分、助けを求める相手はいないだろう。 (納屋に逃げ込むしかない!) とっさにそう判断した里菜は、女がゆらりと起き上がるよりさきに、裏庭に向かって駆け出していた。 逃げながら、里菜は不思議に思っていた。なぜ、自分の方が足が早いのだろう。なぜ、自分に短剣がよけられたのだろう。自分は決して運動神経がいいほうではないのに。 肩越しに振り向いて、追い掛けてくる女を見た里菜は、女が息をきらし、よろめくように走っているのに気がついた。まるで、弱りきった病人だ。 (逃げきれるかもしれない……。納屋に逃げ込んで内側からドアを抑えれば……。それにあそこには、武器になる鋤《すき》も入っている!) だが、その時、里菜は、女が走りながら左手を上げるのを見た。ローイが火の玉を作り出す時にいつもする、お馴染みのポーズだ。 里菜は足を止め、女に向き直った。わざわざ向き直ったのは、里菜がまだ、相手に背中を向けたままで魔法を消すことができるかどうかを試したことがなかったからだ。 女の手の中に炎が浮かびかけた瞬間、里菜は叫んだ。 「消えろ!」 足を止めた女は、信じられないように自分の手を見た。そして、もう一度手を上げた。こんどは最初から、炎が生まれなかった。 「バケモノめ!」 混乱と怒りに上ずった声で叫ぶなり、女は、狂ったように短剣を振りかざして里菜に向かってきた。 その形相に、里菜は背筋が寒くなるのを覚えた。 女は、確かに狂っていた。 病的に黄ばんだ肌、こけた頬、すべてに生気が感じられない中で、黄色く濁った白目の中の焦点の定まらない虚ろな瞳だけが、熱に浮かされたような異様な輝きを帯びている。おそらくは、その目に宿る狂気だけが、抜け殻のような肉体を支え、動かす力になっているのだ。 覚つかない足取りで迫ってくる女は、グロテスクな操り人形を思わせた。 女が纏っている絶望の気配には、どこか、あのガイルと通じるものがあったが、ガイルには、同時に、透き通るような悲しみが感じられたのに対し、この女から感じられるのは、狂った憎悪と殺意、醜い妄念だった。 おぞましさに悲鳴を上げ、くるりと女に背を向けてふたたび走りだそうとした里菜は、地面に足を取られて転倒した。起き上がる余裕もなく、身体を捻って振り向いた里菜の目に、覆い被さるように間近に迫った女の黒衣が映った。 女はマントを翻し、ひきつった笑いとともに、里菜の上に短剣を振りあげて叫んだ。 「わが王よ、あなたの僕《しもべ》の、永遠の忠誠の証《あかし》、御覧あれ!」 里菜は、目を見開いて震えながら、手でいざって下がろうとしたが、身体が動かない。 「悪魔め! 死ね!」 叫びと同時に、女は短剣を、里菜の上に振り降ろそうとした。 その瞬間。 「ビュン!」と風を切る音がして、里菜の目の前を何かが過《よぎ》った。 それは短剣にぶつかり、女の手から短剣を弾き飛ばしていった。 短剣とともにカランと地面に落ちたのは、一本の薪だった。 女は、手首を押えて顔を歪めながら、憎悪に満ちた視線で、薪が飛んで来たほうを振り向いた。 その視線を追った里菜は、地面にへたりこんだまま、呟いた。 「アルファード……!」 腰に剣を帯び、家の横に仁王立ちになったアルファードの頼もしい姿が、安堵の涙に滲んで見えた。 ドラゴンを退治し、詰め所に盾と防具を置いて帰ってきたアルファードは、家の前の坂の途中で、めったに吠えないミュシカの尋常ではない吠え声を聞きつけ、坂を駆け上ると、全速力で、喚き声の聞こえる裏庭に回りこんだのだ。 女が、短剣を拾って、アルファードに向けて構えながら叫んだ。 「邪魔を、するなァーッ!」 アルファードは、剣を抜きすらしなかった。 女の威嚇を無視して猛然と突っ込んできたかと思うと、左腕を前にかざしながら、ふっと身体を沈め、躊躇なく女に体当たりしたのだ。 女が構えていた短剣は、アルファードの左手首の幅広の腕輪に受け止められ、腕の一振りで弾き飛ばされた。 アルファードにあっさりと取り押えられ、両手をまとめて捻り上げられた女は、つやのない白髪混じりの髪を振り乱しながら絶叫した。 「離せ! 離せェーッ! わたしは使命を、使命を……!」 女が喚きながら暴れるのを、まるで気にするふうもなく一見無造作に押え込みながら、アルファードは、まだへたりこんだままの里菜に、落ち着いた声をかけた。 「リーナ、怪我はないようだな。立てるか?」 「うん……」 「それじゃあ、悪いが、納屋に縄があるから、捜して持ってきてくれないか」 「え? う、うん……」 里菜はあわてて、ふらふらと立ち上がると、納屋に入っていった。 すぐにアルファードは、女の腕を後ろ手に捻ったまま、抑えた声で尋ねた。 「お前はタナティエル教団のものだな? これはアムリードの命令か?」 アムリードというのは、ヴェズワルに住み着いたタナティエル教団の一派――都ではタナティエル教団ヴェズワル派と呼ばれ、このあたりではヴェズワルの山賊と呼ばれている――の指導者である。この辺では、宗教団体の指導者というより山賊の主領として、誰でもその名を知っている。 女はアルファードのほうを振り向くと、唐突に笑いだした。笑いながら、女は喚いた。 「アムリードごときの命令じゃない! 神が自ら私に使命を与えたんだ! わたしは選ばれた! 選ばれたんだ! あの、バケモノめ、バケモノめ、殺してやる……。あの娘は、わが王の復活を妨げるために、この世界に侵入してきたんだ!」 もし手荒な尋問をしなければならないようなら里菜が見ていないうちに素早くすませたいと思っていたアルファードは、この女を問い詰めるのに手荒なまねをする必要はないらしいと、少しばかりほっとしたが、同時に、何を聞いても無駄だということも理解した。 (完全に狂っている……。ジレンの麻薬だな) ジレンは、もともとはこの国の北部特有の植物で、その葉からは、強い幻覚作用がある麻薬の一種が取れる。無論、禁制の品だが、ヴェズワルのタナティエル教徒たちが、北部から持ち込んだジレンを森の奥で密かに大量栽培しているらしいということは、この辺では子供でも知っている。標高の高いこのあたりでは、北部原産の植物も、よく育つのだろう。事実、彼らのほとんどはこの麻薬に侵されていて、アルファードは自警団長として、山賊との攻防の中でそういう連中を大勢見てきた。 もっとも、こんなにひどい状態のものが山賊行為に加わっていたことはないが、この症状は間違いようもない。精神を蝕むだけでなく、他の麻薬類と比べても肉体の消耗が特に激しいのが、ジレンの特長だ。一種独特の甘ったるいような体臭も、この麻薬に蝕まれたものに共通の特徴として、アルファ−ドにとっては馴染み深い。 女は、口の端から泡を吹き、半ば死人を思わせるやせ衰えた顔の中で目だけを異常にぎらつかせて、うつろな笑いを響かせ続ける。 アルファードは、嫌悪と哀れみにかすかに顔を曇らせて、正視に耐えぬ女の狂態から、思わず目を反らした。 この時、アルファードは、彼らしくもなく、ほんの少しだけ油断した。相手は麻薬に蝕まれ、痩せさらばえた非力な中年女であり、すっかり狂って判断力も失っているはずだったのだ。 ところが女はアルファードのわずかな隙を見逃さず、意外な素早さで行動を起こした。 アルファードが顔を背けた瞬間、女は突然、それまでのまるで手ごたえのないもがきかたが嘘のように、信じられないような力でアルファードを突き飛ばし、かたわらの地面に落ちている短剣に手を伸ばしたのだ。 それは、女の狂気が、その衰弱した肉体から絞り出した最後の力だったのだろう。 アルファードも、同時に短剣に手を伸ばしたが、女の手のほうが一瞬早かった。 「バカなことはよせ!」 女に飛び掛かりながらアルファードが叫ぶのと、 「死者の王よ、御許に!」と叫ぶなり、女が自分の首筋を掻き切ったのが同時だった。鮮血が吹き出した。 アルファードはすばやく女を捕えると、上体を支えて地面に座らせ、首の動脈を押えて止血の処置をとった。女は、神経を病んで痛みすら既に感じないのか、ただうつろな視線を宙に徨わせながら、抵抗もやめて、ぐったりとアルファードにもたれていた。アルファードのシャツが見る間に血に染まっていく。 ちょうど納屋から出て来て、この様子に立ちすくんだ里菜に、アルファードが叫んだ。 「リーナ! 大急ぎで、誰か人を呼んできてくれ!」 「う、うん、分かった!」 里菜はおろおろと駆け出していった。 アルファードは、顔を曇らせて血まみれの女を見下ろした。 女はまだ息をしていたが、息をする度に不吉な音を立てて喉から血泡混じりの空気が漏れ、青ざめたその顔からは、すでに、一切の命の気配が消えかけていた。 ――この女は、助からないだろう―― アルファードは、かすかに溜息をついて、瀕死の狂女から顔を背けた。 * 一番近いヴィーレの家まで、誰にも出会えずに走り通した里菜は、庭先で何か作業をしていたヴィーレの父の姿を認めて、余力を振り絞って叫んだ。 「おじさん、大変! 女の人が、怪我をして……! すぐに来て!」 そしてそのまま庭に駆け込むなり、その場に坐り込んでしまった。 ヴィーレの両親が包帯や薬草の入った袋を手に慌てて飛び出していったあと、ヴィーレが里菜を助け起こし、肩を抱くようにして家の中につれて入った。 ヴィーレは、暖炉の前に座った里菜に、気持が落ち着く薬草のお茶をいれてくれ、まだ震えている背中に後ろから肩掛を着せかけると、その肩掛ごと、里菜の肩を静かに抱いてくれた。その穏やかなぬくもりに、里菜が落ち着きを取り戻したころ、ヴィーレの母が、疲れた様子で一人で帰って来た。 「お母さん、怪我人は?」 ヴィーレの問に、彼女は黙って首を横に振り、里菜に向きなおって言った。 「リーナ、あなたは、もうしばらくここにいなさいね。あの女の人は、村の墓地に埋葬することになったわ。終ったらアルファードが迎えに来るから。それからね、あの人のことは、ただの物盗りってことにしてあるから、そのつもりで。なんだか変なことを口走ってたそうだけど、それを人に話しちゃだめよ。麻薬で頭がおかしくなってたんだから」 里菜は黙って頷いた。 * 共同墓地は、村の北側の小高い丘の上にあった。 土を掘り返した跡も新しい狂女の墓には、仮の墓標として木切れが突き立ててある。 ただでさえショックを受けている里菜に死体を見せたくないというアルファードの配慮で、埋葬は、里菜がヴィーレの家で待っているあいだに済まされていたのだ。 埋葬を手伝った村の男たちには、ヴィーレの父が、この女はアルファードの家に忍び込もうとした物盗りで、里菜に見付かって襲い掛ったところをアルファードに捕えられ、処罰を恐れて自害したのだと説明していた。 暮れかけた曇り空から、ひとひら、ふたひら舞い始めた雪が、盛り土の上でゆっくりと溶けて行く。その様子をぼんやりと眺めて立ち尽くす里菜に、アルファードが静かに言った。 「ここに、埋めた。あの女は、たぶん、ヴェズワルのタナティエル教団のものだが、かといって、山賊どもに遺体を引き取りに来いというわけにもいかない。――それにしても、哀れなことをした……。俺が油断をしたので死なせてしまった。どのみち、早晩死ぬところではあったろうが……。君も、祈ってやってくれ」 「うん……。黄泉《よみ》の大君よ、定めによりて死せる魂を、御許に安らわせ給え」 里菜は、アルファードのまねをして頭を垂れ、教わったとおりの祈りの言葉を、ぎこちなく唱えた。 さっきまで生きていた人間が、今は、死んで、この土の下にいると思うと、何か不思議な気持ちだった。 短い祈りを捧げ終ったふたりは、足早に墓地を後にした。しばらく黙って歩いていた里菜は、ふいに思い切ったように尋ねた。 「ねえ、アルファード。あの人、どうして死んじゃったの? ほんとうに、裁きが怖かったからかしら」 「いや、違うだろう。あの女は、たぶん最初から、死ぬつもりだったんだ。死に場所を求めていたんだと思う。女の手首を見たか? 魔王の刻印があったろう。その絶望を忘れるために麻薬に逃れ、結局は逃れきれずに、絶望の内に自らの命を絶つ――。よくあることだ」 「だって、あの人、自分が死にたいなら、何もあたしを殺そうとすることなかったのに、なんであたしを?」 「わからない。たぶん、君のうわさを聞いて、狂った頭で何か曲解し、誤った思い込みを持ってしまったんだろう。……君は、あの女に、何か言われたか?」 「うん、ええっと、たしか、やっと見つけた、とか、悪魔め、とか……。怖かったから、あんまり覚えてないけど、わけのわからないことばっかり。なぜ、あんなこと……。アルファードは、あの後、あの人から何か聞き出したの?」 「ああ、一応、尋問しようと思ったんだが、すっかり狂っていて話にならなかった。彼女の言っていたことは、どうせ狂人のたわごとだ。気にするな」 「うん、でも……。あの人、ナントカ教団の人でしょ」 「ああ、タナティエル教団だ。君は、あの女が、教団の差し向けた刺客ではないかということを恐れているんだな。だが、多分そうではないだろう。麻薬で繋ぎ止めた人間を暗殺者に仕立てることは、古来、よくあることといわれているが、それが本当だとしても、ジレンは駄目だ。ジレンに蝕まれたものは、使い物にならない。それに、君を油断させて近付いてから殺す気なら、ああいう、いかにも哀れを誘う、無力そうな女を使う意味もあるが、問答無用でいきなり切りつけるなら、教団にも、もっと腕の立つ屈強な男が、いくらでもいるはずだ。だいたい、いくらヴェズワルの連中がいいかげんで統制の取れていない集団だと言っても、教団の上層部が指示して暗殺を企むなら、せめて短剣に毒を塗るくらいのことはするだろう。特に、ああいう非力な女をあえて使う作戦なら、絶対に毒を用いたはずだ」 里菜は、アルファードの上着の裾を握りしめて、すがるようにアルファードを見た。 「でもアルファード、あたし、怖いわ。だって、やつらはもうあの家を知っているのよ」 「リーナ、怖がることはない。これからは、なるべく君を一人にしないようにする。どのみち、雪が積もるようになると、俺はあまり仕事がなくなるんだ。たぶん、ずっと家にいられるだろう」 これを聞いて、里菜は顔を輝かせた。我ながら現金なことに、アルファードがそばにいてくれるという喜びのほうが大きくて、刺客に襲われたショックもほとんど吹き飛び、むしろ刺客に感謝したくなったほどだ。 「ほんと? ほんとに? アルファードがいてくれれば、何にも怖くないわ! アルファードは世界一強いんだもの」 里菜は、うれしさのあまり、アルファードの腕にぶらさがるようにして、いきなり子どものように、ぴょん、と跳ねた。 が、アルファードのほうは、実はそれほど事態を甘く考えてはいなかった。 (あの女が教団上層部が送り込んだ刺客でないにしても、彼らがリーナの存在に、何か勝手な宗教的解釈を与えている可能性は否定できない。あの女も、何かそんなようなことを口走っていた。あるいは、教団自体がリーナの暗殺を計画していて、他のものを寄越そうとしていたのを、あの女が功をあせって勝手に突出した行動を取ったのかもしれない。ああいうやつらは、えてして思い込みが激しいから何をするかわからない。今後は本当に注意が必要だ) 難しい顔で考え込んでしまったアルファ−ドに、里菜は困ってしまった。もののはずみでアルファ−ドの腕を取ってしまったものの、アルファ−ドがいつものようにすり抜けようともせず、かといって振り向いてくれるでもなく、よそを見て考え込んだまま、まったく反応がないので、どうしていいかわからなくなり、おずおずと手を離した。その時、ふと、彼がいつもつけている銀の腕輪が目に止まった。 そういえば里菜は、アルファードがこれを外しているところを見たことがない。たぶん彼も、寝るときやお湯を使う時にはこれを外すのだろうが、里菜はアルファードが寝ているところを見たことがないし、ましてや湯浴みするところなど、見たことがあろうはずもない。 里菜はずっと、彼が何のためにこんなものをしているのか不思議に思っていた。 アルファードは、どう見ても、わざわざおしゃれのために装身具を身につけるようなタイプとは思えないし、この村では、男性が装身具をつけることは特に奇異なことでもないが、かといって、つけているほうが普通というほどでもないらしい。何か宗教的な意味でもあるのかとも思ったが、別に、そういうわけでもなさそうだ。 ところが、今日、狂女を取り押さえた時に、アルファードはこれを防具がわりに使っていた。そういえば装身具というには武骨なデザインだし、もともと、そういう用途のものなのかもしれない。 そう思った里菜は、アルファ−ドの注意を引きたくて、尋ねてみた。 「ねえ、アルファード。この腕輪、飾りじゃなくて防具だったんだ?」 無難な話題のつもりだったが、アルファードは、なぜか、ふいに顔をこわばらせた。 「いや……。そういう役にも立つが、これは、まあ、その、一種の護符なんだ」 「そうか、お守りなんだ。それでいつも肌身離さずつけているのね。でも、ほかに、こんなお守りつけてる人、いないでしょ。なにか、特別な由緒でもあるの?」 アルファードは、そっけなく答えた。 「ああ。……じいさんの、形見だ」 (そうか、死んだおじいさんのこと、思い出しちゃったんだ。悪いこと聞いちゃったかな……)と思った里菜は、ふうん、と呟いたきり、話を打ち切った。 日頃、どんなにやさしくしてくれても、どうやらアルファ−ドには、里菜に触れられたくない話題が、けっこう多いのだ。彼と、とりあえず友好的につき合って行くには、彼が口を出されたくないことや追求されたくないことを早めに察知して、それ以上踏み込まないのがコツらしいということも、里菜がこれまでに学んだことのひとつだった。 そんな、どこか心を閉ざしたようなところの残る彼の態度が、里菜は少しさびしかったが、自身もそれほど開けっ広げな性格というわけではない里菜には他人に干渉されたがらない彼の気持ち分かる気がするし、なによりも、里菜は、彼の心の中に無理やり踏み込もうとして拒まれるより、とにかくおとなしくして、あえて一歩控えていることで、今まで通り妹のようにかわいがってもらい、身近に置いてもらいたかった。 里菜は、どうしても、アルファ−ドを失うわけにはいかないのだ。彼は里菜にとって初恋の人であると同時に、この見知らぬ世界でただひとりの保護者と信じ切り、頼り切っている相手なのだから。 「リ−ナ、急ごう。早く帰らないと、今夜は雪が積もるぞ」というアルファ−ドの声で、自分がいつのまにか遅れかけていたことに気づいた里菜は、あわてて足を速めてアルファ−ドの背中に追いついた。 日没と共に、ぐんぐん気温が下がりはじめたようだった。昼間、ちょっと薪を取りに行くつもりで軽装で外に出たままの里菜は、小さく身を震わせた。 前を行くアルファ−ドの、毛織のマントの下に潜り込み、大きな身体にそっと身を寄せれば、きっと、暖かいだろう。里菜は、そのぬくもりをぼんやりと夢想したが、もう一度、さっきのようにアルファ−ドの腕に縋ってみる勇気は、もう、無かった。 「リ−ナ、寒くないか?」 まるで里菜が震えたのが見えたかのように、アルファ−ドが振り返り、里菜が寒さに身を縮めていることを一瞥で見てとると、マントを脱いで渡してくれた。 そして、礼を言ってマントを受け取った里菜がそれを頭から被るのを見届けると、身ぶりで里菜を促して、そのまま、また歩き出した。 里菜は黙って後を追った。 暗くなり始めた空から、雪が、しだいに速度を増して降りしきり始めていた。 (── 続く ──) |