長編連載ファンタジー
イルファーラン物語
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三 忘れかけていたあの頃――世界が毎朝新しく珍しかった子供の頃の、その中でも特に目新しい楽しみが待っているはずだった日曜日の朝のような、新鮮な期待に満ちた気分で、里菜は目を覚ました。 目を閉じたままベッドのぬくもりを楽しむ里菜の耳に、静かな雨音が聞こえてきた。 (なあんだ、せっかくの日曜日に雨か……。今日はどこかに遊びに行く予定だったんだっけ? だって、あたし、こんなに何か楽しいことがありそうな気持ちで目が覚めたんだから、そうだったはずよね……) そこまで考えてから、里菜は、自分がもう小さな子供ではないこと、そこが自分の子供部屋のベッドではないことに、やっと気がついた。 (そうだ、ここ、どこ!?) 里菜は羊毛の匂いのする灰色の掛け布をあわててはね除け、硬いベッドの上に身を起こして、あたりを見回した。 (やっぱり、夢じゃなかったんだ……。あたしは、知らない世界に来たんだわ) そこは、薄暗い、小さな部屋だった。なんの飾りけもない、殺風景な部屋だ。 長いこと使っていない部屋に特有の、胸の奥がしんと寂しくなるような、どこか懐かしく、少し湿っぽい匂いがした。 壁は漆喰のようなもので、床は灰色のレンガのような石を平らに敷きつめてあり、今、寝ている簡素なベッドのほかには、そのかたわらに木の小卓と小さな椅子がひとつ、それに、隅の方に木の箱のような家具が置いてあるだけだ。 高いところにひとつだけある明かり取りの小窓からちらりと見える空は、雨に煙って、淡くやわらかな銀ねず色を帯びていた。 天気が悪いので薄暗いが、ぼんやり差し込む光の加減からして、今はたぶん、まだ午前中だろう。 ベッドの頭が接している壁には小さな扉があって、半開きになったその扉の隙間から、暖かにゆらめく橙色の光と一緒に、鍋がぐつぐつ煮えるような静かな音と、ほのかに甘い匂いが忍び込んでくる。 自分の姿を見下ろす。 着ているのは、男ものらしい、ゆったりした生成りの長袖シャツである。 が、里菜の知っているような、普通の、いわゆるワイシャツだのポロシャツだのとは違う。形もちょっと変わっているが、もっと風変わりなのはその生地で、片腕を目の前に持ち上げてよくよく観察すると、厚手の不織布というか薄手のフェルトというか、ざっくりした風合いなのに織り目のない、不思議な布でできているのだ。 腕を持ち上げたついでに、なんとなく袖の布地に鼻を埋めて匂いを嗅いでみると、何かのハーブのような、石鹸のような、洗いあがりらしい清潔な香りに混じって、微かに、嗅ぎ覚えのある汗の匂がした。 (あの人の匂いだ……。これ、あの人の服なんだわ。じゃあ、ここはやっぱり、あの人の家かしら。隣の部屋で料理をしているのは、昨日の女の人かな。もしかして、あの人の奥さんなのかな……) 里菜は、思い切って寝台をすべり降りようとした。 と同時に、いつものくせで、ベッドサイドテ−ブルのあるはずの位置に片手を伸ばそうとして、はっと気がついた。もちろん、ここに、自分の部屋のいつものベッドサイドテ−ブルがあるわけがないのだ。当然、寝る時はいつもそこに置いておくはずの眼鏡も。 (眼鏡を忘れてきちゃった……) 里菜は、ちょっと困惑して、何度か目を瞬いた。 それから、すぐに気を取り直した。考えてみれば、眼鏡がなくても別に困らないのだ。 里菜は、普段、外出する時には必ず眼鏡をかけているが、本当は、日常生活で不自由するほど視力が悪いわけではない。眼鏡の度も、ごく弱い。普通なら、そんなに度の弱い眼鏡で済むくらいなら眼鏡なしで済ませてしまうだろうという程度だ。 里菜の眼鏡は、『学校で黒板の字が見えにくい』と親に言い張って連れていってもらった、街の眼鏡屋の視力検査で本当は見える文字をひとつだけ見えないフリをして、やっと手に入れたものである。黒板の文字が見えにくいというのは実は嘘で、里菜はただ、眼鏡をかけたかったのだ。たぶん、自分を世界から遮断し、隔離するために。 里菜の眼鏡は、自分と世界を隔てるガラスの壁であり、外の世界から自分を守る鎧だった。 ガラス越しにしか世界を見ないため、そして自分の素顔を不用意に他人に見られないために、里菜は眼鏡をかけてきたのだ。 でも、ここでは、この世界では、きっと、眼鏡は要らない──。 わけもなく高揚した気持ちでそう思って、里菜は果敢に床に降り立った。 きっと、ここの人たちは家の中でも靴を履いて暮らしているのだろう。石の床は冷たくざらざらして、立ち上がると、足の裏が少し痛かった。 まだ少し身体がだるく、軽い頭痛があるが、特に身体に異常はないようだ。 着ているシャツの丈はたっぷりしていて、小柄な里菜の膝のあたりまであった。 そっと半開きの扉に近寄って隣室を覗くと、その向こうは、こっちよりは大分広い部屋だった。やはり質素で、飾り気はないが、こちらの部屋よりはずっと生活感があり、居心地がよさそうだ。がっしりした木の食卓や椅子、戸棚など、いくつかの素朴な家具もあって、台所から寝室までを兼ねているらしく部屋の一隅には木製の流し台のようなものが並び、別の一方の壁際には寝棚といった方がいいような簡素な寝台が据え付けられていて、その上には里菜が掛けていたのと同じ灰色っぽい分厚い毛布がきちんと畳んで積まれている。里菜が、自分が毛布をはね除けたまま起きてきたのを思い出して落ち着かない気持ちになったほど、几帳面な畳み方である。 正面の壁際には武骨な石積みの暖炉があかあかと燃えていて、その、暖炉の前に、火の上に釣った鍋の上に広い背中を丸めるようにして屈み込んでいる、昨日の若者らしい後ろ姿があった。 なんだか大きな人だな、と、里菜は思った。 たしかに、身体は大きかった。今は屈み込んでいるが、それでもかなり背が高いのはわかるし、見るからに逞しい、がっしりした体格で、横幅も厚みもある。 けれど、里菜が彼を大きいと思ったのは、そうした見た目のことだけではなかった。若者の後ろ姿は、そのたたずまいの静かさにもかかわらず、ほととんど圧迫感として感じられるほどの圧倒的な存在感を、抑えようもなく周囲に漂わせていたのだ。 普段なら、そうした威圧的なまでの大きさ、力強さは、ただそれだけで里菜のような人見知りがちな少女を訳もなく威嚇し、相手を敬遠させるのに十分だっただろう。 けれど、暖炉で暖かな炎が静かに踊り、鍋がぐつぐつといい匂いをさせている、この穏やかな光景の中では、若者の大きな背中は、どっしりと落ち着いて、いかにも頼もしそうに見えた。ふいに、ちょっと後ろからおぶさって甘えてみたくなるような慕わしさが胸に沸き上がってきて、里菜は自分の感情に戸惑った。もちろん、実際には、口をきいたこともない男性を相手に、いきなりそんなことを出来るわけがない。が、それ以前に、内気な自分が見知らぬ男性に対して恐怖や警戒心のかわりにそんな甘えた感情を抱くということ自体が、里菜には信じられないことだったのだ。 里菜がそっと扉を押し開けると、若者の足元に寝そべってさっきから横目でこちらを見ていた大きな茶色い犬が、ちょっとだけ頭を上げ、里菜に向かって、挨拶するようにゆったりと尾を振ってみせた。 若者が、ゆっくりと振り返った。 たぶん彼は、足元の犬と同様、里菜が扉の陰にいることに最初から気付いていたのだろう。そしてきっと、里菜に自分や部屋の様子を観察する猶予を与えるために、わざと素知らぬ振りでじっとしていてくれたのだ。ちょうど、拾ったばかりの臆病な仔猫にするような、細やかな心遣いでもって……。 若者は、扱い慣れない子供を前にして相手を怯えさせぬよう精一杯気を遣っている不慣れな大人のような、どこかぎこちない、遠慮がちな笑みを浮かべた。 「ああ、目が覚めたね。おはよう。気分は?」 安心させてくれようとしているのがすぐわかる、慎重な、やさしい口調だった。 彼の声を聞くのは初めてだ。やや低めの、深く暖かい、穏やかな声。 初めて聞いたその声が、なんだかとても懐かしいような気がした。 そういえば、ちゃんと言葉が通じる。今の今まで、言葉が通じないかもしれないとことには、なぜかまったく想い至らなかったのだ。 初めてまともに向かい合った若者は、里菜より頭二つ分近く背が高かった。と言ってもそれは里菜が人よりかなり小柄なほう──というか、はっきりいうとチビで、身長は百四十五センチしかない──だからで、彼がそれほど人並みはずれて長身だというわけではないのだろう。が、姿勢が良いので、その分よけいに背が高く見える。 部屋の印象同様に飾りけのない、質実剛健そのものといった様子の武骨な若者で、茶系を中心とした地味な色の、どこか古風で風変わりな素朴な服を着て、革の長靴を履いている。 その服装は、質素というよりむしろ粗末といった方がいいほどだったが、着こなし方がきちんとしているためか、ただむやみと逞しいだけでなく無駄なく引き締まってきれいに均整が取れた体格や、人柄の折り目正しさを暗示するかのように自然にすっと背筋が伸びた堂々たる立ち姿のためか、粗末な服を着ていてもだらしない感じやみすぼらしい感じはしないし、洗濯も行き届いているらしく、こざっぱりしていて、不潔な感じもない。 日に焼けた顔は、特にハンサムというほどでもないが、男らしく引き締まって意志の強さと思慮深さを感じさせ、きりっとした眉の下で、暖かな暗褐色の目がやさしい。 無造作に掻き分けた、やや固そうな髪は、茶色がかった黒だ。 そういえば、昨日の女の子は青い目をしていて外国人のようだったが、髪も目も黒に近い焦げ茶色で肌も小麦色に日焼けした彼は、顔つきもどことなく日本人っぽくて、言葉が通じることに妙に違和感がない。 全体に質素で飾り気のない服装の中で、どういうわけか、袖をまくりあげた左手首に鈍い銀色の幅広の腕輪が覗いているのが不思議だが、どう見てもおしゃれに特別気を遣うような人には見えないから、この世界では、それが普通の一般的な風俗なのか、あるいは、おしゃれのためのアクセサリ−というより、何か別の意味なり用途なりがあってつけているものなのかもしれない。 そして、右手には、木製の杓子を握っている……。彼は、火の上に釣り下げた鍋の中身を杓子で掻き回していたのだ。 (このひとがお料理してたんだ。独身なのかなあ……。そういえば、昨日の女の子は?)と、思ったとたん、里菜は、質問を発していた。 「あのう……。奥さんは?」 若者は、思いっきり意表を突かれた様子で、 「えっ?」と言ったきり絶句し、質問の意図を測りかねるという風に怪訝そうに眉をひそめて里菜を見返した。 二人の間に、一瞬、まぬけな沈黙が流れた。 それから、若者は、気を取り直したように口を開き直して、ぼそりと答えた。 「……いや、そんなものはいない。俺は独身だ」 とりあえず律儀に答えてはくれたが思いっきり不審そうな若者の反応に、 (いやだ、あたしったら、何をすっとんきょうなこと尋いちゃったのかしら……。こういうときはまず『ここはどこ、あなたは誰』とか尋くものと相場は決まっているのに……)と、真っ赤になった時にはもう遅い。これが里菜の、新しい世界での第一声であった。 火の上の鍋の中身は、何かどろどろした穀物のお粥だった。里菜はそれを、なぜか、さっき抜け出したばかりの寝台の上で食べるはめになったのだ。 「あの……。ここは?」と、二言めでやっとまともな質問をした里菜に、若者は、あきらかにほっとした様子を見せ、 「俺の家だ。イルファーラン国のイルゼール村にある。君は、昨日、気を失って、この近くの川の中に倒れていたんだ。俺はアルファード。この村で羊飼いをしている。怖がらないでくれ。君の力になりたいと思っているんだ」と答えた。その淀みない口調といい、必要なことを無駄なく伝える簡潔にして的確な内容といい、これはたぶん、里菜が起きてくる前に彼がよく吟味して用意していた、予測される質問に対する模範解答のひとつだったのだろう。 それから若者──アルファ−ド──は、幼児をあやすような微笑みを浮かべて、いきなり、この上なくやさしく、 「ところで、君、御不浄に行きたくはないか?」と尋ねてきた。 里菜は、とっさに意味がわからず、ぽかんとしてから、一瞬後に赤くなった。赤くなりながらも自分の身体の声に耳を傾けてみたが、別段『御不浄』に行きたい状態ではなさそうだったので、小さな声で、 「い、いいえ」と答えた。 ちょっとデリカシ−に欠ける人だなと思ったが、もし本当に行きたかったら、こうしてむこうから尋ねてくれなかったらすごくもじもじしなければならないところだっただろうから、そう思うと、配慮の行き届いた、心づかいの細やかな人だと、ありがたく思うべきだったかもしれない。 アルファ−ドは鷹揚に頷き、 「そうか、それじゃ、今、寝床に食事を運んであげるら、まだ寝ておいで。何も心配はいらない。このとおりのあばらやだが、好きなだけここにいてくれていいから、ともかく温かいものでも食べて、ゆっくり休むといい。ああ、御不浄に行きたくなったら、遠慮しないですぐに言うんだよ」と言いながら、慎重に里菜に歩み寄ると、そっと肩にかけた手で有無を言わさず里菜をくるりと後ろ向きにした。 そうして里菜は、わけがわからないまま、さっき出てきたばかりの部屋へ押し戻され、いきなり幼児のようにひょいと持ち上げられて寝台の端に座らされた。 アルファ−ドは、シャツの裾から覗いた里菜のひざ小僧にチラリと向けた目を困惑したようにそらし、とってつけたように難しい顔をして里菜の額に手を当てながら「熱がある」というようなことをぼそぼそ言うと、掛け布を引っぱってきて足元を厳重にくるみ込んでしまった。そうしておいて、これでやっと安心だというように破顔し、木の椀によそったお粥と、消化を助ける香草のお茶だという熱い飲み物のお盆を、寝台の脇の小卓に置いてくれたのだ。 この、病気の子供のような扱いには少々異議を述べたかったが、子供の頃からあまり身体が丈夫でなく、一人娘の上に病弱ということで少しばかり過保護に育てられた里菜は、こういう病人扱いには、実は慣れていた。 お椀の中身を見やった里菜は、最初、朝からこんなどろどろしたものを食べる気にはとてもなれないと密かに躊躇した。食が細いのは子供の頃からだが、特に最近は食べることに全く興味を持てなくなった気がして、朝などはいつも紅茶一杯で済ませていたのだ。けれど、気を励まして最初の一匙を口に運んだとたん、里菜は自分がとても空腹だったことに気がついた。ハチミツ入りの粥はほんのりと甘く、お茶は爽やかで、香ばしい匂いがして、どちらもとてもおいしかった。食べ物がこんなにおいしいなんて何年ぶりだろうと思うと、なんだかすごく幸せな気分だった。 食事の後、寝台の脇に椅子を寄せて一緒にお茶を飲みながら、アルファードは、慎重に言葉を選んで、里菜にいくつかの質問をし、自分も別の世界から来た人間であるらしいこと、これまでもこの村ではそういうことが時々あって、そういう客人は<マレビト>と呼ばれ古来暖かく受け入れられてきたこと、自分にはこの世界に現われる前の記憶がないことなどを話してくれた。 彼が、それらのことを話すのに里菜に衝撃を与えないようにと細心の注意を払ってくれているのはあきらかで、その気遣いは嬉しかったが、里菜自身は、やはりここは別の世界で元の世界に戻る方法は全く分からないのだということがはっきりしても、自分でも不思議なほど平静だった。ただ、こうなることが唯一の正しい運命だったのだという気がした。 ――そう、こここそが、本当の、自分が在るべき世界なのだ。今まで自分が『あちら』の世界にいたのは、ずっと漠然と感じていた通りやはり何かの間違いで、だから自分は、『あちら』ではいつも、自分が本当はその世界に属していないとでもいうような違和感を抱き続けて、中途半端に生きて来たのだ。だからあんなに生きるのが辛かったのだ――。 そんなふうに、里菜は思った。 (『あちら』の世界では自分の存在はどうなっているのだろう、両親はどうしているだろうか)などと考えてみないでもなかったが、それらの想像は今やまるで現実味を伴わず、里菜の注意は、すぐに、目の前の新しい現実に立ち戻ってしまう。 無理にでも『あちら』の世界のことをきちんと考えようと心を集中してみても、『あちら』にまつわる事柄はみな、近付こうとすればするほど遠ざかって逃げ水のように捉えどころなく、里菜の心は、どうしてもそこに焦点を結ぶことができない。 『あちら』の世界の記憶がないわけではないが、それらすべては目が覚めてから思い出そうとする夢のようにぼんやり霞んで、里菜の心に強い感情を呼び起すことができないのだ。 何か、自分の心の中に、自分の意識が『あちら』に向くことを阻む見えない障壁があるような、そんな奇妙な感覚だった。 が、そのことすら、特に気にする必要があると思えなかった。 それよりも、今ここに、目の前にあるこの世界、目の前にいるアルファ−ドこそが、今の里菜の『現実』だったのだ。 アルファードは、里菜のことを、リーナ、と呼んだ。耳慣れぬ別世界の名前を、自分に馴染みやすい音に――たぶんこの世界にある名前に――置き換えて聞き取ったらしい。 里菜はそれを、訂正しなかった。 この人がリーナと呼んでくれるなら、自分はリーナになろう。自分はもう、この世界の人間になるのだから、『あちら』での名前なんか、いらない。この世界の人に分かりやすい名前のほうがいい――。 アルファードが、リーナ、と、名を呼んでくれるたび、里菜はうれしくなった。何度でも呼んで欲しかった。深く暖かなその声を、いつまでも聞いていたかった。 アルファードは、里菜の質問に答えて、この世界のこと、この村のこと、自分のことなどをいろいろと話してくれた。 里菜が驚いたことに、この世界は、群立する都市国家同士の戦乱の時代を経てのち、百六十年以上も前にひとつのイルファーランという国家として統一され、<賢人会議>と呼ばれる合議制の組織によって治められているという。 アルファ−ドのどこか古風な服装といい、部屋の調度から窺われるほとんど博物館モノの素朴な暮らしぶりといい、『あちら』の世界とくらべるとかなり『遅れて』いるらしいこの国を、里菜は何となく、王様やお姫様が住んでいる、おとぎ話のような昔風の世界かと思いこんでいたのだが、聞いてみればなんのことはない、ただの近代国家らしい。 が、世界がひとつに統一されて百何十年も大きな戦さを知らず、しかも専制国家ではなく、よくはわからないがそれなりに民主的であるらしい議会制度があるというこの国は、それはそれで、別の意味でおとぎ話めいた、夢のような世界かもしれない。 ただ、これは里菜が何度も聞き質してやっと理解したことなのだが、どうやら、彼のいう『この世界』というのは、四方を海や山などの天然の国境で囲われた一続きの陸地に過ぎないらしい。 アルファ−ドを含むここの人々にとって、この国の西に広がる大洋や東に広がる太古の樹海、南に聳えるイルシエル山脈とエレオドラ山の向こうというのは、里菜にとっての宇宙の果てのその向こうにも等しい意識の外の領域であるらしく、そこに行こうとも行きたいとも思わないばかりか、里菜に問いただされなければ、その向こうになにがあるかとあらためて考えてみることさえなかったらしい。 当然、そこに人間が住んでいる可能性も考えたことがないらしいが、海の向こうはともかく、陸続きの場所に他の国があって何百年も互いの存在をまったく知らずに過ごすというのも不自然だから、たぶん、そこには人間は住んでいないだろう。 アルファードは、次から次へと浴びせかけられる里菜の質問に、ときおり自分でも考え込みながらどんなことにでも大真面目に答え、様々なことを辛抱強く丁寧に、たぶんとても正確に説明してくれた。 その語り口は生真面目でもの静かで、求めに応じて自分のことをごく簡潔に語った時にもあくまで淡々としていて、その口調にただ一度だけわずかに誇らしさが滲んだのは、愛犬ミュシカについて、 「ミュシカは俺が仕込んだんだ。このあたりで最高の牧羊犬だ」と語った時だけだった。 そんなふうにしばらく会話を交わしていて気づいたのだが、どうやら彼は、あまりにも几帳面で生真面目なために、どんなにズレた質問にでも、脈絡のない意図不明の質問にでも、とりあえず額面通り、いちいち律儀に答えずにいられないようなタイプらしい。真面目も度を過ごすと、時に、とぼけて見えるが、里菜は、そういうタイプが嫌いではない。自分もどちらかといえばそのタイプなので、なんとなく親しみを感じるのだ。 元来どちらかというと無口なほうであるらしい彼が、こうして自分と向き合って話をしてくれることが、里菜はとてもうれしかった。 たぶん彼は里菜が最初に彼を見て悲鳴を上げたことを気にしているのだろう、彼の動きはすべてゆっくりと慎重で、里菜を驚かさぬようにという細心な配慮が感じられたが、同時に、その身のこなしは、ただお茶をいれたり盆を運んだりという何気ない日常の動作をしているだけなのに、妙に正確で無駄がなかった。無駄がないというより、見る目のあるものが見ればこういうのを『隙がない』と評するのではないかというような気がした。 その抑制のきいた物腰が、もの静かな口調とあいまって、体格から受ける一見猛々しそうな印象を打ち消し、彼に、どこか、禁欲的で内省的な、求道者めいた趣を与えている。 この人は武骨な見かけによらず、実はとても頭がいいのに違いないと、里菜は思った。 別に難しいことを話していなくても、その正確で冷静な語り口に思慮深さが滲み出て、なんとなく知的な、思索的な印象を与えるのだ。 最初、里菜はアルファ−ドを、なんとなく自分よりずっと年上の、全くの『大人』だと思い込んでいたのだが、それはその『老成した』と言えるほどの落ち着いた雰囲気と、自分に対する子供扱いのせいで、よく見ると、顔は全然若いのだ。どう見ても、まだ二十代だろう。 しかも、その顔も、最初はうんと年上だと思っていた上に、里菜のような少女が異性として意識するには彼は逆に男っぽすぎて、いわゆる『守備範囲外』だったためにあまり気にとめなかったのだが、よく見ると、地味だがクセのない、そこそこの顔立ちである。あまり整い過ぎていないところが素朴な暖かみを感じさせるし、何といっても凛々しく精悍で、今まで関心を持ったことのないタイプではあるが、見ているうちに、こういうのも案外かっこいいかな、などと思えてくる。 ただ、薄めの唇の端のあたりに、時々ふっと、何か微かな鬱屈、あるいは自嘲の陰のようなものが漂うような気がして気になったが、それも全体の穏やかな印象を損なうほどではなく、何よりも、太陽に暖められた大地のような暗褐色の瞳の深さ、やさしさが、里菜を惹きつける――。 (あたし、眼鏡をかけてこなくてよかった)と、里菜は、アルファ−ドの顔を眺めながらぼんやり考えていた。 世の中には眼鏡が本当に似合う女の子もいるのだろうが、自分は眼鏡をかけていない方が少しはかわいく見えると、里菜は思っている。 だいたい里菜は、自分でもなぜかわからないけれど、眼鏡を選ぶ時、わざと、なるべく冴えない、なるべく自分がかわいく見えないようなものを選んだのだ。 だから、今は、あのダサい眼鏡をしてなくてよかった──。 とりとめもなくそう思ってから、 (でも、あたし、なんでそんなこと考えてるんだろう)と、はっとして、なぜだか、ちょっと赤くなった。 ふいに、アルファ−ドが、居心地悪そうに咳払いをした。いつのまにか自分がぼんやりとアルファ−ドに見蕩れていたことに気づいた里菜は、我に返って、今度は盛大に真っ赤になった。 アルファ−ドが、不審そうに里菜の顔を覗き込んでいる。 深いところに静かな力を秘めた大地の色の瞳に見つめられて、里菜は、思わず目を伏せた。頬が燃え、耳が熱くなるのが分かる。 アルファ−ドはその様子に困惑したように、かすかに眉をよせた。 「……というわけなんだが、君、今の話、聞いていたか?」 「え? あの、えっと……ごめんなさい」 「いや、別に謝らなくてもいい。まだ疲れているんだろう。話はまた今度にして、とにかくまた一眠りするといい」 「えっ、あのっ、別に、もう全然眠くないから……」 「いや、眠くなくても、横になっていたほうがいい。君、顔が赤いじゃないか。熱が上がってきたのかもしれない」 「え? そ、そう……?」 言い訳に困る赤面ぶりを都合よく誤解してもらえたらしい。そのまま誤解してもらうことにしよう──。里菜はそらっとぼけながら急いで布団にすべり込み、掛け布団を鼻先まで引っ張りあげた。 里菜は、これまで、自分がすぐ赤面するのがとても気になって、それで、もともと苦手な人づきあいにますます臆病になっていたのだが、今は、赤くなっていても、わりと平気でいられる気がする。不思議だった。 里菜が布団に入るのを見届けたアルファ−ドが、「おやすみ」と言い置いて出ていこうとしたので、里菜は思わず呼び止めた。 「あ、あの、アルファ−ド!?」 「なんだ?」と振り向いてくれたアルファ−ドに何を言っていいかわからなくなった里菜は、とっさに、さっきから考えていた疑問を口にしていた。 「えっと、アルファ−ド、歳、いくつ?」 出ていこうとするのを慌てて呼び止めてまで尋ねるほどのことではなかったが、アルファ−ドは、例によって、律儀に即答してくれた。 「二十二だ。もっとも、ここに来た時、自分の齢も知らなかったので、おおよその推定なんだが」 そして、思い出したようにつけ加えた。 「ところで、リ−ナ、君はいくつだ?」 アルファ−ドと自分が思いのほか年が近いことを知って、五歳違いくらいなら恋人に立候補しても全然おかしくないではないかとひそかに胸を弾ませた里菜は、 (わっ、あたしったら何考えてるの!)と、ますます赤くなって、慌てて頭まで掛け布団を引き上げた。 そして、掛け布団の下から答えた。 「……あたし、十七」 「えっ……」 アルファ−ドは口を半開きにしたまま凍りついた。 (── 続く ──) このたびは拙作をダウンロードしていただき、ありがとうございました。 もし少しでも作品が気に入りましたら、 ほんの一言でも感想をいただけるととても嬉しいです。 メール fuyukiyoko@geocities.co.jp HP『カノープス通信』 http://www.geocities.co.jp/Bookend-Akiko/9441/ 冬木洋子拝 ☆この作品の著作権はすべて冬木洋子に帰属しています。 ☆この作品は上記『カノープス通信』で連載中です。 続きは『カノープス通信』でお楽しみください。 ☆この作品は検索サイト『楽園』に登録しています。 お気に召しましたら応援してくださいね。 |