長編連載ファンタジー
イルファーラン物語
冬木洋子作
一 本当に、たいした荷物でもない。 着替えのワンピース一枚と下着一組、小さな櫛、タオルが二枚と羊毛のショール、お椀がひとつと木のスプーン。これが、今の里菜の、ほぼ全財産なのだ。 あの、あまりにも唐突なアルファードの提案から、今日で六日目――。 明日の朝、ふたりは村を出て、イルベッザの都に向けて旅立つ。 本当のところ、自分たちがどうしても村を出る必要があるとは、里菜には思えなかった。 たしかに、アルファードが言ったようにタナティエル教団はこれからも里菜に付きまとうだろうし、そうすれば一部の村人の間で里菜に対する反感が募るだろう。里菜がここにいることで、村の人に迷惑がかかる可能性も、全くないとは言えない。 けれど、それだけが理由ではないらしい。 アルファードは、村を出たがっている。 いつになく饒舌だったあの夜のアルファードの、あまりの饒舌さゆえにどこか言い訳の匂いのする言葉が、里菜の脳裏によみがえる。 『どのみち俺は、雪が積もると、ここでは仕事がなくなるんだ……。この辺の若い者はたいてい、冬場はルフィメルにある羊毛加工場に働きに行くんだが、そこでの仕事は、魔法が使えなければどうにもならないものだから。……この辺は、この加工場があるおかげて冬でも働き口があるし、もともと畑が豊かだから冬場の食料の蓄えも充分できるが、気候が厳しく土地の痩せた北部では、昔から、冬だけイルベッザやその周辺へ賃仕事に出る者も多いらしい。だから俺たちも、そうしてみてもいいんじゃないか。――いや、春に帰るかどうかは、その時になってから考えよう』 『――羊か。それは大丈夫だ。もともと、俺が羊飼いになる前は、この村じゃ、羊を、夏の間中、よその羊飼いにまとめて預けて、秋に返してもらっていた。――ああ、夏になると低地から大規模な羊飼いが上がって来て、夏の間中、もっと山奥の牧場の小屋に住み込んで羊を放牧し、秋になると山を降りていくんだが、その行き帰りにうちの村によって、羊を預かっていってくれるんだ。だから、夏中預けっぱなしだったんだ。これからは、また、そのようにすればいいだけだ』 『――いや、ミュシカは村に置いていく。あっちじゃ犬は飼えないし、それに、俺は別にここにいなくてもいい人間だが、ミュシカは違う。ミュシカは、ここで、必要とされている。あんな有能な牧羊犬は、ほかにいない。……これまで、学校が休みの時に時々羊の番をかわってくれていたシャーノという少年がいるんだが、この子が将来大規模に羊を飼いたいと言っていて、この春から、見習いのためにしばらく俺と一緒に仕事をすることになっていた。俺が村を出るなら、あの子は、よその村の羊飼いについて修業することになるだろうから、あの子に、ミュシカをつけてやろうと思う。あの子なら、ミュシカをちゃんと扱えるし、ミュシカも、あの子によくなついていた。息の合った優秀な牧羊犬は羊飼いの宝だ。シャーノはミュシカを大切にしてくれるだろう』 『――ああ、それはもちろん、寂しいさ。でも、いいんだ。どこにいても、ミュシカは俺の犬だし、俺はミュシカの人間だ。ミュシカはここで、これからも、シャーノや他の羊飼いたちを助けて良く働き、感謝され、かわいがられるだろう。……あれは、実に賢い犬だ。この辺の羊飼いは、みな、ミュシカを欲しがっている。俺は以前、よその村の羊飼いたちに乞われて、ミュシカに産ませた子犬たちを牧羊犬として訓練して譲ったことがあるが、父親もこの辺じゃ優秀な牧羊犬として名の知れた犬だったし、訓練にもミュシカと同じように力を入れたのに、どの仔もミュシカには及ばなかった。ミュシカほど頭のいい犬はいない。俺は、ミュシカを育てたことを誇りに思っている』 『――ドラゴン? ああ、それも大丈夫だ。うちの自警団には、俺がいなくてもドラゴンを倒せるだけの実力は、十分ある。今は俺がいるからみんな俺を頼っているが、いるから頼るだけで、本当はもう、うちは俺一人の働きでもっているというわけじゃなく、俺が抜けてもちゃんと持ちこたえられるようになっているんだ。俺は、ちゃんと、みんなをそのように鍛えてきた』 『……このあいだの闘いで見極めたことだが、ミナトには、仕留め役が出来る。まだ経験は浅いが、俺が初めての時には他の団員たちが今ほど頼りにならなかったのにくらべて、今は、他の団員たちの援護が、当時とは比べ物にならないほど、あてにできる。団としての全体の技量が高いから、たとえ仕留め手が多少不慣れでも、他のものが十分支えてやれるだろう。そうするうちに、ミナトはどんどん強くなると、俺は思う。腕力は多少劣るが、身のこなしが良く、判断が的確だ。彼女をもっと早く実戦に出して経験を積ませなかったのは、俺の判断ミスだった。秘蔵の愛弟子だったんだが、秘蔵し過ぎたな。彼女は実戦に強いタイプだ。非常に勇敢な心の持ち主だ』 『……なんだ、リーナ、俺がミナトをほめたからといって、なにも、君がいじけることはないじゃないか。君とミナトは全然ちがうんだから、比較したって意味がないだろう。それに、君だって勇敢といえば勇敢だ。いくらまだドラゴンの本当の恐ろしさを現実には知らなかったにしろ、猛り狂うドラゴンの目の前に、何の力も策も持たないまま、いきなり飛び出してくるとは、浅慮、無謀ながらも、常識では考えられないほど勇敢には違いない。……リーナ、もしかして君は、やきもちを妬いてるのか? ――いや、笑ってない。笑わなかった。笑ったりなどするものか』 それからアルファードは、一連の長広舌が全部終わった後で、思い出したように、ついでのように、ぽつりと言った。 『リーナ。ここは古い村だ。そしてここの人たちはみな、多分村がここに出来た時から、先祖代々ここに住んでいるものたちばかりだ。みな、俺たちには親切にしてくれるが、ここでは俺たちは、十年住もうが一生住もうが、永遠によそものなんだ。もし俺が――そんなことができるとして――ここで結婚し、子孫を残し、平穏な一生を終えたとしても、俺は最後まで、よそからきた<マレビト>でありつづけるし、俺の子孫も、何代たっても、<マレビト>の末裔と呼ばれ続けるだろう。……俺は、君に出会うまで、自分の中に村を出たいという気持があることにさえ、気づいていなかった。だが、君を見つけた時、たぶん俺は心のどこかで知ったんだ。俺はいつか、この子を連れて村を出ることになるだろうと……』 たぶん、これがアルファードの本音だったのだろう。 彼は、村を出たがっていたのだ。 里菜が、自分のせいでアルファードが村にいられなくなったのだなどと済まなく思う必要は、どうやら、なかったらしい。里菜のことはただ、彼が村を出るためのきっかけ――もっと悪く言えばダシにしかすぎないのであって、要するにアルファードは、おおらかな気風とはいえやはり閉鎖的なこの狭い村で、<マレビト>でありつづけ、<女神のおさな子>であり続けることから、きっと、逃げ出したかったのだ。あんなにかわいがっているミュシカと別れることになってさえ。 それなら里菜は、アルファードと一緒に、どこへでも逃げようと思った。 けれど、いくらなんでも、いきなり軍隊とは、めんくらった。 里菜はそれまで、この国に軍隊があるという話さえ聞いていなかったのだ。いや、そういえば聞いたことはあったかも知れないが、自分に関係があるとは思わなかったので忘れてしまったのかもしれない。 里菜は、あの夜、初めて、軍隊について詳しく説明してもらった。 それは、こんな話だった。 軍隊には、正規軍と『特殊部隊』があり、アルファードが入ろうと思っているのは、その特殊部隊のほうだ。 正規軍は、市中の治安維持を主な仕事にしていて、この国が統一されてから出来たものだから、軍という名はついていても、内乱の鎮圧はともかく本当の戦争をしたことは未だかつてなく、里菜の感覚で言えば、つまりは、警察プラス自衛隊プラス消防署に当たるようなものらしい。泥棒も捕まえれば催し物の警備もするし、災害救助もするし、必要があれば地方にドラゴン退治にも行くし、災害後の復旧作業に派遣されたりもするそうだ。 これに対して、特殊部隊は、魔物退治を専門に行なう部隊だ。もともとは、昔から正規軍の中に目的別に存在してきた、文字どおり特殊な任務を帯びた少数精鋭の集団だったらしいが、そのうちの対魔物部門が、ここ数年でにわかにふくれあがって、今では正規軍より数が多いとさえ言われている。ここ数年の魔物の横行に、これまでの人数では対抗しきれなくなった軍が民間人を大量に臨時採用した結果である。 したがって今の特殊部隊は、名前は同じでも、かつてのそれとはまったく性質の違うものになっている。今の特殊部隊は、ようするに、組織化された賞金稼ぎの集団だ。 <賢人の塔>では、昔から、魔物のマントを持参したものに報奨金を出していたし、賞金稼ぎをなりわいとする人間は、いつの時代にもいた。といっても、昔は魔物の出現自体が少なかったので魔物退治で食っていくなどということはできなかったし、ほかのどんな種類の賞金を稼ぐにしろ、賞金稼ぎなどという商売は、まともな市民の仕事とは思われていなかった。 しかし、この、特殊部隊の増員政策によって、魔物退治は、危険ではあるが、それだけで食べていける堅実でまっとうな仕事のひとつとして市民権を得た。 正規軍の兵士が、厳しい試験ときちんとした審査の手続きを経て採用された正式の公務員で、安定した身分を持ち、多くは定年まで務めあげるのに対し、今の特殊部隊は、本当に臨時雇いの集団で、まず誰でも簡単な登録だけで入隊でき、いつでもやめられる。出稼ぎ者が冬だけ務めて帰ることもあるらしい。つても元手も住むあてもなくイルベッザで働こうとする地方出身者には、一番簡単にありつけて、一番都合のいい勤め口なのだ。 もちろん危険できつい仕事ではあるが、正規軍のような厳しい訓練はないし、軍律も緩く、そのうえ、雇主は『国』だ。なんといっても、無料の宿舎とただ同然の食堂があって、正規軍のように制服の支給はないが、希望者には武器、防具が貸与されるのがありがたい点で、どんな食いつめ者でも、多少経歴に後ろ暗いところのある者でも、それこそ体ひとつで軍に入ればとりあえずは食いつなげるし、業績によっては、それなりの蓄えも築けるのである。 そこでは、入隊者は、それぞれ個人、またはグループごとに登録をし、それぞれ勝手に好きな時に働く。グループで動く場合、基本給は各自が貰えるが報奨金は山分けになる。人数が多ければ多いほど一人当たりの取り分は減るわけだが、危険も減るし、倒せる魔物の数は増えるので、一匹狼は、ごく少ない。個人で入隊した場合も、本人が希望すれば、使う武器や得意とする魔法のバランスなどを考えて適当と思われるパートナーを軍のほうで紹介してくれるのだ。仕事も訓練もすべてこのグループ単位で好きなようにして、それを申請するだけでよく、軍としての集団行動は一切ない。日常生活もかなり自由だ。 『――そういうわけだから、俺と組んで登録すれば、君はそんなふうに、自分に体力がないとか、武器が扱えないとか、そんなことを心配しなくてもいいんだ。実際に剣を振るって魔物を倒すのは俺で、君は、俺の後ろで魔物の使う魔法を消しているだけでいいんだから。……だから、リーナ、俺と一緒に、軍に入ってみないか。やってみていやだったら、いつでもやめられるんだから』 そう言ったアルファードの口調は、日頃は何に対しても熱くなるところなどあまり見せない彼にしては妙に熱がこもっていて、里菜は、その熱心な勧誘を拒めなくなってしまった。 ほんとうは里菜は、同じイルベッザに行くにしても、軍隊などではなく何かほかの仕事をみつければいいのに、と思う。たとえ危険がなくても、アルファードが魔物を『消す』――魔物のことは『殺す』とは言わないのだという――ところなど、里菜は、やっぱり見たくない。いくら魔物は人間ではなく、一体二体と数えられるようなものであるとはいえ、やはり、一応は人間の形をしたものが『消される』のを見るのは、あまり気分の良いこととは思えない。 それでも里菜が軍隊入りを承知したのは、アルファードはなぜだか知らないが軍隊に入りたいのだと感じたからだった。それは別に愛国心だの『世のため人のため』などという正義感からでも、かといって功名心とか出世欲からでもないようで、里菜にはさっぱり彼の心境が理解できない。が、ただ、彼は里菜と一緒にでなければ軍に入れないらしいということはわかっていた。いくら強くても、魔法が使えないアルファードは、魔法を消すことのできる里菜と組まなくては、その力を魔物相手に役立てられないのだから。 アルファードに必要とされ、彼の役に立てる――。そして、仕事の時も家で留守番ではなく、アルファードのそばで一緒に働ける――。 それは里菜にとって、多少の不安や怖さは忘れさせるほど魅力的なことだった。 けれど今、新たな旅立ちを前にした高揚感と、新しい生活への不安と緊張や村を出る寂しさが里菜の心を交互に捕え、簡単なはずの荷造りは、なかなか進まない。 背負い袋の底に衣類を詰め込んだ里菜は、続いて、アルファードが用意してくれた携帯食料を半分に分けて油紙に包み始めた。 いざという時のための薬草や、水入れ、火を起こす道具、これまでにたくわえたわずかな現金などは、アルファードが持ってくれることになっている。 油紙に包んだ山のような堅焼きパンは、村のパン屋からの餞別がわりの差し入れだ。 あの翌朝、アルファードは一人で、世話役であるヴィーレの父のところに、旅立ちの意志を伝えに出掛けた。その時にはすでにアルファードは、旅立ちの日を、一週間後と決めていた。 『いろいろと買い整えなければならないものもあるし、俺がいなくなった後のことで、いろいろと相談して決めておかなければならないこともある。そういった準備に、そのくらいはかかるだろう。それさえ済めば、なるべく早く出掛けたほうがいい。そうすれば、冬至前にはイルベッザにつける。イルベッザまで――そうだな、君の足に合せると、十日はかかるだろう。――そう、もちろん歩いていくんだ。だって君は、馬に乗れないだろう? それに、どっちにしても、武術大会の時のようにすぐ帰ってくるわけじゃないから、村の共有の馬車や馬を借りていくわけにもいかないし。――いや、山を降りれば、まず雪が積もることはないから大丈夫だ。とにかく雪が深く積もる前に、この山さえ降りてしまえばいいんだ。そのために、準備を急ぐ』と、アルファードは里菜に言い渡した。 また、冬至になると役所が冬至休みに入るために入隊受付も休止されてしまうというのも、自分たちが出発を急がねばならない理由だという。 ふたりが村を出ることは、その日の午後、ヴィーレの父を通じて村中に知らされた。 村はずれのアルファードの家まで、パン屋のおかみさんがわざわざ訪ねてきたのは、その数日後のことだ。 両手いっぱいにパンの入った袋を抱えたパン屋は、ドアを開けた里菜を見るなり、まくしたてた。 『リーナ、あんた、行っちまうんだって? 寂しくなるよ。いえね、なにもあんたたちがお得意さんだからってだけじゃないのよ。あたしはあんたにお菓子のおまけをよろこんでもらうのが、ほんとうに楽しみだったのよ。それでね、これ……。堅焼きパンだよ。持っていっておくれ。もちろん、お代はいいよ。あたしからの餞別だ。堅く焼いたし、うんと念入りに保存の魔法をかけておいたから、いつまでだってカビないからね。……あたしはね、リーナ……。ほら、以前あんたがローイとうちに来て騒ぎになった時……あん時すぐにあんたをかばってやれなかったのを、ずっと後悔していたのよ。なんだか自分が恥ずかしくてねえ。許しておくれよ。必ず帰ってきておくれ。いつでも、あんたが帰ってきてうちにパンを買いにきてくれたら、あたしは山ほどお菓子をつけてあげるからね……』 そう言うと、小太りのおかみさんは、手渡したパンの袋ごと、里菜をふわりと抱き締めてくれたのだった。 そのことを思い出すと、里菜の心がぽっと暖まる。けれど同時に、寂しくなる。 (あたしは、村を出るんだ……。明日、本当に……) 里菜は、荷物を詰め終った背負い袋を、畳んだマントと並べて置いた。道中での寝袋代わりにもなるという、フード付きの旅行用マントである。 この世界の冬用の羊毛製衣類は、見かけ以上に暖かい。冬の旅でも、防寒用下着と丈の長い厚手の旅行用マントさえ着用すれば、あとは普通の服装で充分で、夜には、火を焚けばマントにくるまって野宿が出来るのだという。 この旅行用のマントは、脱脂していない羊毛を非常に密に加工した上で防水の魔法が特に念入りにかけてあり、多少の雨なら濡れることもないし、風も防いで埃もつきにくいというすぐれものだ。なんと言っても、服作りの名人、ヴィーレが、心を込めて作ってくれた品である。特別の最上級品なのだ。 アルファードがヴィーレの父に村を出る決心を告げた時、ヴィーレは、その場にいたらしい。里菜は、ヴィーレがその時、どんな反応をしたのか知らない。アルファードは、何も話してはくれなかったのだ。 たぶん、ヴィーレは、アルファードを引き止めるようなことは言わなかったのだろう。世話役でさえ、アルファードの決意の堅さを知って、引き止めるのを諦めたくらいだから。 ヴィーレはきっと、ただ黙って悲しそうに話を聞いていたのだろうと、里菜は想像する。そしてたぶん、その夜は泣き明したのだろうと。 その証拠に、翌日会ったヴィーレの目は、赤かった。 けれど、赤い目をしたヴィーレは、けなげにも、笑顔でこう言った。 「リーナ、あたし、あなたたちに旅行用マントを作ってあげることにしたの。実はね、もう、昨日のうちに材料を用意して、ゆうべから作り始めたのよ。ついつい夜中までやっちゃって、こんなに目が赤くなっちゃったんだけど、かならず間にあうように大急ぎで作るから、買わずに待っててね」 そして、ついさっき、ヴィーレは出来上がったマントを持ってきてくれた。 里菜には鮮やかな青、アルファードには、少しくすんだ赤錆色。国土の大半を覆う森や山の中を通って旅する時に、狩人に獣と見間違えられないよう、旅装にはよく目立つ色を選ぶのがこの国の習わしだという。 そのあと、ヴィーレとアルファードは、最後の打ち合わせのためにヴィーレの家に行った。アルファードは、自分はこの村にとって、いなくてもいい人間だというようなことを言っているが、実際のところ、彼は村中の羊の見張りをしてきたのだし、自警団長でもあり、いろいろと人に後を託さねばならない事もあるのだ。 ヴィーレのくれたマントをきれいに畳んだ上に、里菜は、こんどは皮製のベルトを置いた。腰に短剣を吊すために、アルファードが買ってきてくれたものだ。 里菜は、枕の下に手をいれて、短剣を取り出した。 鞘にも柄にも刀身にも様々の精緻な装飾を施された、目の眩むほど豪奢な、美しい品である。 黄金の柄には、猫の目玉ほどもある黄緑色の宝石が嵌めこまれている。こうして日中の光で見る時にはペリドットによく似た明るい黄緑色だが、夜、ランプの明りや暖炉の炎にかざして見ると、底のほうからちらちらと赫くきらめく、不思議な石だ。シルドライトと呼ばれる、神代の宝玉である。 神代の昔に妖精たちの手によって北の聖地シルドーリンで採掘されたと伝えられるシルドライトは、その神秘的な美しさと、すでに産出が絶えて久しいという稀少さで珍重されるだけでなく、聖地の地下から産出した神聖な石として古来から尊ばれてきた、大変貴重な宝石なのだという。 むろん、そんな貴重な宝石のついた豪華な短剣が、しがない羊飼いのアルファードに買えるわけがない。もし買えたとしても、質実剛健なアルファードは、こんな装飾的な華美な品物ではなく、実用一辺倒のシンプルなものを選んだだろう。 この短剣は、女神の司祭である少女ティーティが里菜にと持ってきたものなのだ。 それは、里菜とアルファードが旅立ちを決めた、その翌朝のこと。まだ、ヴィーレの家にも行く前の、誰にも旅立ちを知らせていなかった時だ。 まず、やって来たのは、ローイだった。 アルファードと里菜は、前夜のごたごたで寝るのが遅くなって、普段より遅めの朝食をとり終えたところだった。 例によって能天気な歌声とともに朝の新雪を踏んできたローイは、ドアを開けるなり、マントを取ってずかずかと暖炉の前に近寄りながら、大声でしゃべりちらした。 「よっ、リーナちゃん、おはよ! あんた昨日、大変な目にあったんだってな。なんでもドロボーに入られたって? よりによって、こんなあばら屋になあ。しかも、自警団長の家に入っちまうなんて、まぬけなドロボーだよな。ま、幸いこうして無事だったからには、そんなことはさっさと忘れて楽しくやるに限るぜ。 なんだあ、まだ朝飯食ってたのか? さっさと片付けちまえよ。俺、せっかくはりきって、早く来たのに。よお、雪合戦しようぜ! 子供たち、誘ってさ。あんた、こないだ言ってたろ、雪が珍しいって。その雪がせっかく積もったんだ、パーッと遊ぼうぜ。雪だるまもいいし、ソリでビュンビュンぶっ飛ばせば、もうサイコー!」 その時、遠慮がちにノックをしてドアを開けたのが、ここしばらく姿を見せなかったティーティだった。 「ありゃ、ティーティじゃんか。なんだ、お前もリーナを雪合戦に誘いに来たのか?」と言うローイを無視して、ティーティは、まじめくさった顔で里菜の前に進み出ると、何か布にくるんだ細長い物をマントの下から取り出して、厳かに差し出した。 「これ、お姉ちゃんに」 「あら、何? またプレゼント?」と言いながら布を開けた里菜は、目を丸くした。 横から覗き込んだローイが、目を丸くして、ヒュウ、と口笛を吹いた。 「おい、こいつぁ、すげえぞ! ティーティ、お前、これいったいどうしたんだ! なんでお前が、こんなすげえお宝持ってるんだよ」 「あのね、女神様の祠から持ってきたの」 「……ってえと、ご神体か! へええ……。ご神体が短剣だってことは聞いてたが、見るのは初めてだ。まさかこんなすげえもんだったとはな……。いや、これはほんと、すげえぞ。リーナ、あんた、知ってるか? この、ここに嵌ってる、キレイな石。これ、シルドライトだろ、ティーティ」 「そう」 「こりゃあ、値打ちもんどころじゃないぜ。これひとつで、村中の人間が一生遊んで暮せらあ。……あのオンボロ祠に、こんなお宝がしまってあったなんてなあ。しかし、相当古いもんだろうに、曇りひとつないな。そういう魔法もかかってるんだろうが、お前の家のもんが代々手入れしてきてたんだろうな」 「うん」 アルファードが里菜の手からそっと短剣を取り、重みを確かめるように掌に乗せながらティーティに尋ねた。 「それで、ティーティ、これを、リーナにくれるのか?」 「そう、それ、もともとお姉ちゃんのだから。……防御の魔法がかかってるのよ」 ローイが、また目を丸くして呟いた。 「ひええ……。防御の魔法だって? ほんとかよ。そんなの、あり?」 「もともとあたしのって、どういうこと? これ、あたしのじゃないわ。見たこともないもん」と言う里菜に、アルファードが短剣を手渡して尋ねた。 「リーナ、これは、重いか?」 「え? ……ううん、ぜんぜん。これ、本物よね? 何で出来てるの?」 確かに、その美しい短剣は、豪華な見かけのわりに、不思議と重くなかった。非力な里菜が、まるで重さを感じないほどだ。まるで紙で出来ているかと思うような軽さなのである。 それを聞いたアルファードは、妙に得心が行ったような顔で、意外なことを言いだした。 「そうか……。リーナ、これは君が受け取っておけ」 「ええっ、だって……。こんな高そうなもの、貰えないわ」 「貰うのがいやなら、借りていると思えばいい。これは、たぶん、誰かがずっと昔に、君のために用意してくれていたものだ」 「えっ、どうして?」 「剣を使うものが、その時その時で自分の持っている剣に魔法の力を込めることは普通の魔法だが、剣自体に、他人が使っても効力を発揮するような防御の魔法を込めておくというのは、<本当の魔法>なんだ。それも、かなり特殊なもので、そういう魔法ができる魔法使いは、もう数百年のあいだ、この国には現われていないはずだ。……そして、これは、俺には結構、重く――見かけ相応の重さに感じられた。これは、おそらく、妖精の手になる神代《かみよ》の品物であり、君がこれを軽いというなら、きっと、神代から君のものになるべく定められていたものだ」 里菜がアルファードのことを、やはり別世界の人間なのだと思うのは、こういう時だ。普段、合理主義者で現実的で、特に信心深いとも見えないアルファードが、たまに突然こういう不思議なことを真顔で言うので、里菜はとまどう。 「でも、アルファード……」 ここでアルファードは、やっと里菜にも納得出来る現実的な理由をつけてくれた。 「それに、リーナ、どっちみち君には短剣がいるって言っただろう。これを断わって他のを買うより、これを借りたほうが、買いに行く手間も金も節約できるじゃないか」 「そ、そうよね。じゃあ、ティーティ、これ、貸してね。……でもこれ、ご神体なんでしょ。そんなもの借り出しちゃって、いいの?」 「リーナ、ティーティは司祭だ。司祭がいいと言うんだから、いいのさ。……しかし、ティーティ、なぜ、今になって急にこんなものを持って来た?」 「おばあちゃんが亡くなる前に言ったの……。女神様が村から旅立つ時に、これを渡せって。きっと、これが必要になる時があるからって。お姉ちゃん、行ってしまうんでしょ? どこにいても、これがお姉ちゃんを守ってくれるから」 里菜は驚いて叫んだ。 「ティーティ、あなた、どうしてそのこと知ってるの? まだ誰にも話してないのに!」 里菜の手から短剣を取ってしげしげと眺めたり重さを計ったりしていたローイが、この会話を聞いて目を剥いた。 「お、おい、そりゃ、どういうことだ? 旅立つって……。リーナ、あんた、どっか行くのか」 里菜は、話していいものかとアルファードを見た。 アルファードが、里菜に代わって答えた。 「ああ。ゆうべ決めたばかりで、まだ誰にも話していないことなんだが、俺たちは、村を出る。イルベッザに行って軍隊に入ろうと思う」 「な、なんだ、なんだ、そりゃまたずいぶん急な話じゃないか! 俺は聞いてねえぞ!」 「だから言ったじゃないか、決めたばかりで、まだ誰にも話してないと。お前には、もちろん、まっさきに話すつもりだったんだ」 「だからさ、決める前に、話して欲しかったんだよ! ……で、帰ってくるつもりは、あるのか?」 「それは、わからない。とりあえず冬場の出稼ぎということで、その後のことはその時に考えるつもりだ」 「……てぇことは、帰ってこないつもりだな。おい、アルファード。俺はちょっと、あんたと話したいことがある。顔、貸せよ。外で話そうぜ」 そういうとローイは、アルファードの肩にわざとらしい親しさで腕を回して、マントも羽織らずに、ふたりで雪の積もる前庭に出ていってしまった。 ふたりは外で何か言い争っているらしく、時折ローイの声が高くなって、ヴィーレとかリーナとか言っているのが聞き取れる。 気にはなるが、わざわざ里菜を残して寒い外に出て行った二人の話に聞き耳を立てるわけにもいかない。 所在なくなった里菜は、まだそこにいた小さなティーティに声を掛けた。 「ティーティ、朝ご飯は食べてきたんでしょ。お茶、飲んでかない? 焼き菓子、あるわよ」 「ううん、いい。もう帰る。お姉ちゃん、元気でね。……ミタマのフユをイヤマスマスにカガフラシメタマエ」 ティーティは厳かに胸に手を当て、まじめくさってお祈りを唱えると、さっさと帰っていってしまった。 ほどなくローイがドアをバタンと開けて、喚きながら飛び込んできた。 「ああ、分かったよ! 俺はあんたとは友達だと思ってたのに、そう思ってたのは俺だけだったんだってことが、よぉく、分かった! じゃあな!」 そう言いながら、椅子に掛けてあった自分のマントをひっつかんだローイは、入れ違いに入って来ようとしたアルファードを睨みつけ、ぎゅっと口を結んで、再び外に飛びだしていった。 ローイの後ろ姿を振り返り、肩を落してドアを閉めたアルファードに、里菜は、おそるおそる声をかけた。 「アルファード。ローイ、怒っちゃったの?」 「ああ……。どうやら、へそを曲げられてしまった。あいつはあれで、いったんへそを曲げると、なかなかやっかいなんだ」 そう言って、アルファードは、溜息をついた。 アルファードの言ったとおり、ローイは、それからずっと、へそを曲げ続けているらしい。 あれ以来、ローイはふっつりと、アルファードの家に訪ねて来ることを止め、やむを得ぬ用事でアルファードと顔を合せた時も、必要以外には口もきいてくれないと言う。 ゆうべは、ここで、自警団がアルファードのための送別会をしてくれた。 ヴィーレの父が村を挙げての壮行会を開くと言った時には固辞したアルファードも、気ごころの知れた自警団の連中が送別の宴会をしたいというのまでは断わらなかったのだ。 その時は、さすがにローイも参加したが、アルファードをまるっきり無視して、ただ、手当りしだいに手近の娘たちをからかっていた。 里菜が、ハラハラしながらローイとアルファードの様子を見ていると、アルファードが自分からローイのそばに近付いて、里菜にとっては信じられないことに、まるで機嫌を取るような様子でローイになにやら話しかけようとした。ローイは、返事もせずにプイと席を立ってしまった。 それからローイは、里菜のそばに来て、こう言った。 「よお、リーナちゃん、考え直せよ、な? アルファードのやつが行っちまうのは、ま、しょうがないが、あんたまで行くこたあねえだろう。軍隊なんてちっとも面白くないぜ。飯はまずいし、宿舎はおんぼろでぎゅうづめだし、仕事はきつい・危険・気分悪いの三拍子揃った重労働だぞ。……いや俺が実際に見たわけじゃねえけど、どうせそうに決まってる。 だいたい、あんたさあ、本当に軍隊に入りたいわけ? そうじゃねえだろう? アルファードのやつが強引に誘っただけだろうが。どう考えても、あんたには軍は向かねえよ。アルファードのやつに子守りが似合わねえのと同じくらい、あんたに軍は似合わねえ。やめとけよ、な? あんたはこのまま、この村にいればいいじゃん。ひとりでここに住んでもいいし、ヴィーレのとこでも、あんたさえよければ俺のとこでも……。 あんた、もう魔法を消さないでいられるようになったんだから、アルファードとでなくても住めるんだぜ。そのこと、わかってる? あんたは、だから、アルファードの気まぐれに付き合うこたぁねえんだ。あんたが自分の力を制御できるようにしてやったのはアルファードかも知れねえが、だからと言って、お礼奉公なんかすることはねえぞ。アルファードは、ただ自分が軍隊で名を上げるために、あんたの力を利用しようとしているのさ」 「違う!」 里菜は思わず叫んだ。 「いくらローイだって、アルファードの悪口言わないで!」 「……そうか、そうかよ。わかったよ。もう言わねえよ! 勝手にアルファードにしっぽ振ってついていきな!」 そう言い捨てると、ローイは席を立って、主役であるはずのアルファードそっちのけで勝手に盛り上がっている真ん中のテーブルの一団に加わりに行ってしまった。 そこでローイは、浴びるように酒をあおっていたのだが、それでもその日は、誰かに肩を借りて、ちゃんと家に帰ったらしい。今朝、床に転がっていた若者たちの中にも、もちろんアルファードの寝台の中にも、ローイはいなかった。 (ローイは、結局、あたしたちのこと、最後まで許してくれないのかしら……) 里菜は短剣を手にしたまま溜息をついた。 大好きな友達と、このままで別れたくはない。明日の朝、ローイは見送りに来てくれるだろうか。 明日の朝、里菜たちは、村の広場でみんなに挨拶をし、村はずれで見送りを受けることになっている。 今夜はきっと、よく眠れないだろう。 里菜は短剣をマントの上に置こうとして、少し考え、また枕の下に戻した。 貴重なものは枕の下に隠すのが一番だと考えたのだが、頭の中でそう言っている声の下で、もうひとつの声が何か別の言葉を囁いていることに、里菜は気付かなかった。 これを枕の下に入れて寝た最初の晩、里菜は、また、夢を見たのだ。魔王の夢を。 夢の中で、魔王は、闇に降りしきる雪の中に、ふわりと浮かんでいた。 今度は、馬には乗っていなかった。すらりとした長身の足元で、マントがかすかに揺れていた。 彼が手にした大鎌を、里菜は見ないようにしようとした。この間はきっと、魔王がこれを振るところを見たから、変になってしまったのだ。 けれど、その輝きはあまりに魅惑的で、里菜の目はいつのまにかそこに吸い寄せられそうになる。その度に里菜は、頭を振って、視界から大鎌と魔王を追い払った。目をつぶると、そのあいだに魔王がふっと自分の目の前に近付いていそうな気がして、目をつぶるのは怖かったのだ。 けれど魔王は、その夜は、大鎌を振らなかった。魔王の声なき言葉が胸に響いた。 『エレオドリーナ。その短剣は、気にいったか? 美しかろう。それは、シルドーリンの妖精の手になる神代の宝剣だ。今では、そのような精巧な細工が出来るものは、もういない。大切に持っておるがよい。かつてそなたの手にあったものが、再びそなたと巡り合ったのだから……』 それだけ言うと、魔王の姿は消えていた。 里菜の全身から力が抜け、深い吐息が漏れた。それは安堵の溜息であると同時に、自分でも気付かぬほどの、かすかな落胆をも秘めてもいた。 里菜の胸の奥の、どこか一番奥深いところが、魔王の指が自分に触れた時の激しい陶酔を覚えている――そして、ふたたび魔王に触れられるのを、恐れながらも待ち焦がれている。 里菜はそれに気付いていなかったけれども、次の晩からも、短剣を枕の下にいれるのをやめなかった。そのたびに、頭の中で、 (別に、この短剣とあの夢を見たことと、関係があるわけじゃないわ。そりゃあ、頭の下がごつごつして落ち着かないと悪い夢を見やすいのかもしれないけど、あれはただの夢とは違うんだから、そんな単純な理由で見たり見なかったりするものじゃないはずよ)と、自分にむけて無用な言い訳をしていたのも、実は心のどこかで、この短剣とあの夢を見たことのあいだに何かつながりがありそうなのを漠然と感じていたからなのだ。 けれど、それから後は、もう、魔王の夢は見ていない――。 荷造りを終えた里菜は、夕食の支度のために立ち上がった。もうすぐアルファードも帰ってくるだろう。 * その夜、里菜は、三度目に魔王の夢を見た。 闇の中、黒衣を纏った全身から微かに青白い燐光を放って、魔王は中空に浮かんでいた。 『エレオドリーナ……。わが妻よ』 魂を掴み取るような、深い響きが胸を満たす。 『ついに旅立つ時が来たか。しかし、そなたは道を誤っている。そなたの行くべき道は、その、壁の向こうで眠っているつまらん男などの示すところではない。イルベッザには、そなたがなすべきことなど、何もない。そなたは今すぐにでも、この世界全土の女王となれるというのに、何を好きこのんで、下らぬ軍隊などで埃にまみれて、人間どもの下賎な食い物を食おうとするのだろう。魔物など、少々消したところで、どうなるものでもないぞ。無駄なことだ。 ……その男は、ただ、逃げたがっておるのだ。村から逃げ、自分から逃げ、自分の戦いから逃げ続ける――それが、その男のしようとしていることだ。逃げ続ける限り、どこにも安住の地はないというのに、その男には、それもわかっていない。愚かな負け犬だ。単なるクズだ。そのような無用な人間にかかずらわっていても、どうにもならんぞ。エレオドリーナ。北へ、来い。北の荒野へ……』 それだけ言うと、魔王の姿は、笑いながら薄れて消えていった。 その後の暗闇に向かって、魔王があまりにあっさりと消えてしまうことへの自分でも認めたくない微かな落胆を押し隠すように、里菜は叫んだ。 「違う、違うわ! アルファ−ドは、逃げるんじゃない。戦いに行くのよ。新しい世界に挑むのよ!」 『いいや、あいつは逃げるのだ。逃げるのだよ……』 もう姿の見えなくなった魔王の、声無き声だけが、遠い谺のように里菜の周りを取り巻いて、ざわざわと嘲笑い、里菜を脅かした。 ふと気がつくと、里菜は、真っ暗な部屋の自分の寝台に横たわったまま、ぼんやりと目を開けていた。 夢の中でおぞましい愛撫のように谺していた嘲笑の余韻が、目覚めた今も肌に纏わりついているような気がして、里菜は寝台の上に身を起こし、我が身を掻き抱いた。とたんに袖口や襟元から忍び込む夜明け前の冷気に触れて、やわらかな夜着の下で肌が粟立った。 そのまま、何も見えない闇に目を凝らしながら、里菜は思いを巡らせた。 (違う。アルファードは、逃げるんじゃない。だって、アルファードは、ここでなら、自分を息子のように思ってくれるやさしい人たちに見守られ、魔法が使えなくても、<女神のおさな子>として、ドラゴン退治の英雄として、一目置かれていられるけど、都では、そうじゃない。それが分かっていて、アルファードは、今よりもっとずっと辛いかもしれない新しい生活に飛び込もうとしているのよ) (……それを、それでも逃げてるというのなら、逃げたって、別にいいじゃない。逃げることは、負けることじゃないもの。退く勇気を持たない強さは脆いものだって、前にアルファードが自警団の人たちに訓示を垂れてたけど、それって本当だと思う。例えば敵があまりに強大で、今はまだ勝算がない時、それでもやみくもに立ち向かうだけが勇気じゃない、死ぬのがわかっていて戦うより、逃げることで生き残れるなら、その時は逃げるのが正しいんだって――生きてさえいれば、いつか、きっと、もう一度、立ち向かえるからって、アルファードは言ってたわ。逃げるのは、生きるのをあきらめないことなんだって。……だから、アルファードが逃げるなら、それはきっと、今は逃げる必要があるからなのよ) (でも、あたしみたいに誰が見てもちっぽけで、自分でも無力で臆病なことがわかっているものには、逃げるのはあたりまえの、簡単なことだけど、アルファ−ドのように強くて大きくて勇敢な人にとっては、逃げるのは、とても勇気がいる、難しいことなのかもしれない。まわりの人も逃げることを認めてくれないし、自分の心も、逃げている自分を許さないから。……だから、あたしが、代わりに許してあげるの。ずっとそばについていて、アルファードの代わりに、アルファードを許してあげるのよ。アルファ−ドが逃げるなら、あたしは一緒に逃げてあげる。どこへでも……) 最後は自分に言い聞かせるように胸のうちで呟かれたこの言葉が、それまで実は里菜の中にあった、逃げるように村を出ることへの釈然としない思いを、溶かしてくれた気がした。 それから、里菜は、明け方の闇の中で、こんどは夢のない眠りに落ちた。 * 旅立ちの朝は、この季節にはめずらしい快晴だった。 青く澄み渡った冬空の下で、数日前に再び積もった雪が、朝日を浴びて白く輝いている。 黙々と朝食をとった里菜とアルファードは、なんとなく黙ったまま食器を洗い、これから持っていく食器は荷物につめた。残りは、いつものように流し台に置きっぱなしにはせずに、丁寧に水気を拭いて、扉のついた戸棚にしまいこんだ。 もう、この戸棚を開けることはないかも知れない。たった二月ちょっとしか住んでいないこの家が、なにかとてもなつかしく、幼い頃から育った家のように感じられる。 留守の間の家の管理は世話役に頼んである。もちろん実際に足を運んでくれるのは、ヴィーレだろう。 アルファードは、ミュシカの食器と敷き物を袋に詰めた。ミュシカはこれから、通りがかりにシャーノ少年の家に預けていくことになっている。里菜はゆうべから、名残惜しくて、何度もミュシカをなでたり、話しかけたりしているのだが、アルファードのほうは、あっさりしたものだ。けれど、内心ではきっと、言葉にも態度にも表わせないほど深く寂しがっているのだろうと、里菜は想像している。 里菜はワンピースの腰にベルトをつけて短剣を吊った上から、しっかりとマントを着込んだ。足にはブーツを履く。天気はいいが、足もとは雪道だ。 身支度を終えたふたりは、ミュシカをつれて家を出た。雪の反射がまぶしくて、里菜は何度も目をしばたたいた。そうしていないと、涙が出そうだった。 ふたりはヴィーレの家に寄ってから、世話役と一緒に広場に行った。 ヴィーレは広場についてこなかった。ここで別れるから、と言って、家に残ったのだ。きっと、見送りに出てもよけい悲しくなるだけだと思ったのだろう。 広場には、大勢の村人がふたりを見送るために集まっていた。自警団のみんなもいる。宴会で会った娘たちもいる。パン屋のおかみさんもいる。里菜があまり知らない大人や老人もいる。なんであれ変わったことが大好きな子供たちは、はしゃぎながらこの集会を楽しんでいる。この村では、人の出入りは、めったにない大事件なのだ。 そこで世話役が、アルファードの活躍と無事な帰郷を祈る、短く月並みな演説をし、アルファードがそれに応えて簡単な別れの挨拶をしているあいだ、里菜はアルファードの横できょろきょろと広場を見渡していた。ローイの姿を探していたのだ。 アルファードは、ここ数日、もうローイのことをまったく口にしなかったが、彼がほんとうはローイのことをとても気にかけているのを、里菜は知っていた。 なかなか人に心を開かないアルファードにとって、ローイはきっと、一番の、そしてたぶん、唯一の友達だったのだ。ほかの、自警団の若者たちは、アルファードにとって、信頼出来る仲間であり、かわいい部下ではあっても、腹を割って話せる本当の友達ではなかったのだろうと、里菜は思っている。 けれど人混みの中に、誰よりも背が高く、誰よりも派手な服を着たローイの、よく目立つ姿は見当たらなかった。 かわりに里菜は、広場の隅に、あいかわらず無関心そうに座っているガイルの姿を見つけた。 その時、里菜は、自分でもよくわからない衝動に突き動かされて、ガイルに駆け寄り、その手を取って言った。 「おじさん、待っててね。あたし、あなたを見捨てないから」 自分でもなぜそんなことを言ったのかわからなかった。広場の人々が一瞬、しん、となった。ガイルが、遠い目をしたまま、かすかに頷いた。 この広場は、この国の二大街道のひとつ、エレオドラ街道の起点である。この村は、今でこそありふれた田舎の小さな村だが、古代の聖地の玄関口であり女神の司祭を擁する地として、また、この国で唯一魔法使いを輩出する地として有名なところだったのだ。古い街道がこの村の広場に端を発しているのも、この村が古代に栄えていた名残である。もっとも、この辺ではまだ、街道といってもただの山道にすぎないのだが。 広場での挨拶を終えたふたりは、そのエレオドラ街道を西に向けて歩き出した。広場にいた村人の多くが後に続き、途中の家からも人が出てきて、行列に加わる。 子供たちは口々に、アルファードが魔物を何十体、いや何百体やっつけてくるだろうかと言いあって、はしゃいでいる。アルファードは、村の少年たちの憧れの的だったのだ。 子供たちは、アルファードがたくさんの魔物を退治して村の名を上げ、金持ちになって帰ってくると信じて疑わない。あのガイルが、かつておなじように子供たちの期待のまなざしに見送られて村を出たことを、彼らは知らない。彼らはその時、まだ生まれていなかったか、あるいは赤ん坊だったのだ。 ガイルは、昔、アルファードとおなじように少年たちの偶像だった。誰よりも強かったガイルは、ある日、村を出て軍隊に入った。そして、数年後、魔王の刻印を受けて帰ってきた。 それ以来、ガイルは広場にぼんやりと座り続けている。 大人たちは、自分の子供らにガイルのことを語りたがらなかった。大人たちはただ、子供たちに、ガイルのことをバカにしたりからかったりしないようにと、きつく言いつけるだけだった。 その後、今まで、この村から軍隊に入ったものはいない。 アルファードやローイの年代の若者たちは、ガイルが村を出た日や、帰ってきた日のことを覚えている。里菜は、軍隊に入ると決めたあの夜、アルファードにガイルの過去を聞かされていた。 シャーノ少年の家は、村の西のはずれに近い街道ぞいにあった。そこで、ミュシカの愛用の敷き物と食器が、アルファードからシャーノに手渡された。 アルファードはミュシカに淡々と何か語りかけた。何と言ったのかは里菜には聞こえなかったが、ミュシカはそれを間違いなく理解した様子で、哀しげな瞳でじっとアルファ−ドを見上げ、尾を足の間に巻き込みながら後退って、おとなしくシャーノの足元に座り込んだ。ミュシカは絶対にアルファードの言葉が全部分かるのだと、里菜は前から思っていたのだが、どう見ても、そのとおりに違いない。 アルファードは、ミュシカの傍らに膝を付いて、その首を抱き、何か――たぶん、短いが愛情のこもった別れの言葉を――囁くと、茶色い頭を二、三度、ぽんぽんと軽く叩いた。そしてそのまま、何も変わった事は起こっておらぬのだというように、あっさりと立ち上がった。 ミュシカは、立ち去っていくアルファードの後を追わなかった。その様子は、まるで、ほんのしばらくの『待て』を言い付けられたかのようだった。彼らの結び付きは離れていても変わらないほど強いのかもしれないと、ふと思った里菜は、寂しさと共にかすかな羨望を覚えた。 しばらく行くと家並みがとぎれ、街道の両脇にケルンのように石が積まれたところに出る。 石積みのてっぺんに先が二又になった木の枝を突き立てたそれは、魔除を兼ねた村の境界標識だ。この地方の古い習慣である。 そこで行列は立ち止まり、アルファードは振り向いて、ついてきた世話役や村人たちと最後の挨拶を交わした。里菜はもう一度ローイの姿を探したが、やはりローイは見送りに来てはくれなかったようだ。 溜息をついた里菜は、行列の後ろから駆けてくる人影を見付けた。 ローイではない。 それは、長いお下げをなびかせ、はためくショールを手で抑えたヴィーレだった。 行列に追い付いたヴィーレは、人垣をかき分けてアルファードに駆け寄り、いきなりその胸に飛び込んだ。 アルファードは、とっさにヴィーレを抱きとめたが、どうしていいかわからないという顔で、そのまま黙って突っ立っていた。 「ファード! アルファード……」 息を切らしながらそれだけ言うと、ヴィーレは、しばらく、何も言えずにアルファードの胸に顔を埋めていた。 アルファードは困惑して目を泳がせながらも、ヴィーレの肩に、そっと手をかけた。 パン屋のおかみさんが、その様子を見て目頭を抑えている。 ヴィーレがずっとアルファードを想い続けていたことを、誰もが知っているのだ。 やがて口を開いたヴィーレの声は、かすかに震えていた。 「アルファード……。どうか、無事でいて。イルベッザにいっても、あたしのこと、忘れないで……」 ヴィーレは、ほんとうは、こう言いたかったのだ。 (絶対に、帰ってきて。帰ってくるって、約束して。あたし、ずっと、待ってるから) けれども、それは口にしてはいけない言葉だと、ヴィーレは知っている。約束を求めれば、アルファードは、約束は出来ないと言うだろう。待つと言えば、待つなと言われてしまうだろう。だから、本当の気持は、言えない。 アルファードは、ふいに心を決めたように、うつむいたままのヴィーレをやさしく抱擁した。ちょうど、さっきヴィーレの家を出る前にヴィーレの父と母がそれぞれアルファードを抱きしめたように。 それは、父母と息子、兄と妹が、もしかすると今生の別れになるかもしれないような特別なときにだけ交わす、家族の別れの抱擁だ。 そして、言った。 「ヴィーレ……。もちろん、忘れやしない。俺はずっと君のことを、本当の妹のように思ってきたんだ。どこにいても、君の幸せを祈っている」 ヴィーレは黙って身体を離した。その時彼女が唇を噛み締めていたのを、誰も見ていない。うつむいたまま涙を拭ったヴィーレが次に顔を上げた時には、彼女の顔には、もう、いつもの、少し恥ずかしそうなやさしい微笑みが浮かんでいた。 「ファード、ごめんね。びっくりしたでしょ。ここまで見送りに来るつもり、なかったんだけど……。あの、ちょっと、これを渡すのを忘れたものだから。これ、焼き菓子。そんなにかさばらないし、重くないから、持ってって。日持ちするから。……ファード、リーナ、元気でね。リーナ、ファードがあんまり無茶なことしないように見張ってちょうだい。都には悪い人もいっぱいいるっていうから、あなたも、気をつけてね。じゃあ」 そう言ってアルファードに小さな包みを渡し、人垣の中に下がってきたヴィーレの肩を、そこにいたヴィーレの母がそっと抱いた。 人垣の後ろに、雪をいただいて白く輝く霊峰エレオドラの山頂が、子供たちを背後から抱き締める母親のように、大きくたおやかにそびえている。 女神の聖地にふさわしい、その、整った女性的な山容が、まるで生まれてこのかた眺めて過ごしてきたものであるかのように、無性に慕わしい。 イルベッザからは、エレオドラ山は見えないという。 自分は再びこの山を見ることが出来るのだろうか――。 里菜は、一度も振り返らないアルファードの横で、何度も振り返って、まだ見送ってくれている村人たちに手を振り返しながら、エレオドラ山を仰ぎ見た。 それから一時間ほど、里菜のペースに合せてゆっくりと歩を進めたふたりは、村からずっと続いていた長い下り坂の後で、ちいさな峠をひとつ黙々と上りつめた。 今日のように天気のいい日は、その坂のてっぺんから、ゆるやかな起伏を見せて蛇行しながら山を下る街道がずっと下のほうまで見渡せ、いくつかの村や町も谷あいに遠く見え隠れするのだと、上り坂に息を切らせている里菜を励ましながらアルファードが教えてくれた。 けれど、辿り着いた坂の上からふたりが見たのは、その雄大な景色だけではなかった。 そんなに遠くではなく、すぐ目の下、坂をちょっと下ったところが踊り場のように平坦な道になっていて、そこに、なにやらけばけばしい色彩が見える。これ以上ないほど派手な紫の中にこれまた鮮やかな赤や緑がちらちらまじっているそれは、どうやら、道の真ん中に坐り込んでいる人間のようだ――。 こんな色彩の人間は、絶対に、ひとりしかいない。 里菜がそう確信した瞬間、人影は、ふいに立ち上がって、大きく両手を振って叫んだ。 「おーい、アルファード、遅かったじゃねえか! 待ちくたびれちまったぜ」 里菜はあんぐりと口を開けて叫んだ。 「ロ−イ!」 (── 続く ──) |