長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語


冬木洋子作



 <第一章 エレオドラの虹> 

 昨夜(ゆうべ)、村の、女神の司祭が死んだ。
 司祭の死は、村人たちにとってかなり衝撃的な出来事だった。彼女はすでに老齢だったが、昨日の夕方まではいたって元気そうだったし、なんといっても彼女の死は、よりにもよって彼女が司るべき祭りの真っ最中のできごとだったのだ。
 そのために、秋分の日の今日行なわれる予定だった祭りの儀式は中止された。
 秋の村祭りは、秋分の前夜とその当日の二日間に渡って行なわれる。一日目は村の広場にかがり火を焚いての夜宴だ。<女神のお迎え>と称して、一年の労働を慰労するべく陽気などんちゃん騒ぎが繰り広げられ、元気のよい若者たちなどは夜を徹して酒を呑み、歌い、踊り、笑いさざめき、あるいは恋をする。そうして、例年ならその翌朝、気持ちも新たに女神の淵の祠(ほこら)の前で女神を讃える厳(おごそ)かな儀式を執り行ない、その後は、<女神の見送り>と称して、もう一度宴を催す。今度は山のまきばに酒やごちそうを運び上げ、村中総出で秋の一日を野に遊ぶのだ。
 司祭が死んだのは、その、祭りの一日目、<女神のお迎え>の宴会のさ中であったらしい。らしい、というのは、誰もその死に立ち会ったものがいないからだ。
 その夜、司祭は、夜更けに宴席から立ち去った。高齢の彼女が徹夜の宴会に最後までつきあわないのは別に不思議なことではないから、誰もそれを気にしなかった。そして、翌朝、彼女を起こしに家人が部屋を訪れた時には、司祭は、自室に設けた祭壇の前で、祈りの姿勢のまま、すでに冷たくなっていたという。
 司祭の後継ぎは彼女の幼い孫娘だったが、本当にまだ、ほんの子供で、正式な祭りの儀式を取り仕切れるとはとても思えなかった。儀式は中止され、司祭の野辺送りの葬列が、祭りの行列に取って代わった。
 祭りは中止になったが、昼からの宴会のために用意されたごちそうは、無駄にはならなかった。村では、葬式の時も、祭りや結婚式と同様に、賑やかな宴会を催すのだ。祭りのごちそうは、そのまま、送別の宴のごちそうになった。
 その宴会で、祭りでも葬式でも酒さえ呑めればそれでいいとばかりにご機嫌で騒いでいた不信心で考えなしの若者の一人が、
「祭りが葬式に化けた、か……。こりゃ、まるで、何だか女神様その人の葬式みたいだなあ!」と大声で言って、周囲の大人たちから、いっせいに、どこかうろたえたような低い叱声を浴びた。
 調子に乗った若者が不用意に口にしたその言葉は、しかし、それから後、宴会を続ける村人たちの心に、不吉な陰を落し続けた。彼は、深い考えもないまま、村人たちが漠然と抱いていた恐れを的確に言葉にしてしまったのだ。
(――世界に実りをもたらす豊穣の女神の御魂が衰えている――) 
 それは、誰もが口に出さずにいた、秘かな不安だった。
 気候がよく地味も肥えたこのエレオドラ地方は、古くからこの国で最も豊かな地方であり、ここ数年続く全国的な不作にもかかわらず、収穫も、普段よりは減っているがまだ十分にあって、村人たちが飢えることもなく、宴の卓には食べ切れないほどの料理が並んでいる。それでも、いつの頃からか国全体を覆い始めた暗い影は、時の流れに取り残されたようなこの村にもじわじわと忍び寄りつつあり、そのことに、誰もが本当は、気づいていた。そんな時、女神を祀(まつ)る祭りのさなかに女神の司祭が原因不明の急死を遂げ、祭りが葬式に成り変った。村人たちは皆、口には出さなくとも、そこにまごうかたなき凶兆を感じ取っていたのだ。
 胸の底に淀む、そんな不安を追い払おうとするように、村人たちは、ますます大声で歌い、ひっきりなしに冗談を言っては笑い合い、浴びるように酒を飲み、宴は、いつにもまして賑やかに盛り上がった。
 アルファ−ドは、酒はあまり飲まない。無口で、気の利いた冗談も言えなければ、歌や踊りを楽しむような遊び心もなく、入れ替わり立ち替わりしなだれかかってくる娘たちにも、とりたてて関心はない。ひととおり腹を満たした後は、ただ黙然と座って、飲むでもなく飲まぬでもなく手にした酒杯を、時々思い出したように口元に運ぶふりをするばかりだ。
 けれど、いつも、そんな彼の回りに、いつのまにか、若者たちは集まってくる。
 無口で、どこか打ち解けない一面もあるが、道理をわきまえた温厚誠実な好青年。謙虚で思慮深く公明正大、常に理性的でどんな時にも合理的な判断を下し、滅多なことでは腹を立てない人格者。年齢に似合わぬほどの落ち着きと統率力を備えて自警団の若者たちの尊敬と信頼を一身に集める大人物。それが、村でのアルファードの評判だ。
 若者たちは、母犬の回りで遊ぶ子犬のように、寡黙なアルファ−ドの回りで互いにじゃれあい、彼の堅物ぶり、朴念仁(ぼくねんじん)ぶりを親しみを込めてネタにした軽口を飛ばし合っては、彼を肴(さかな)に勝手に盛り上がる。
 そんな様子を眺めて、年寄りたちは満足気に頷(うなづ)き合う。
――アルファ−ドは、実に感心な若者だ。不平も言わず贅沢も求めず、血のつながらぬ育ての親を孝養を尽くして看取った後は自警団長として命を賭して村のために尽力し、『イルゼ−ルに勇者アルファ−ドあり』と近隣中に名を轟かせながら、その働きを誇ることもなく、剣術の全国チャンピオンにまでなっても、驕(おご)りたかぶることもない――
 アルファ−ドは、こうしてただの羊飼いをしてはいるが、実は、イルベッザの都で四年に一度開かれる武術大会の一昨年の大会での、剣技の部の全国チャンピオンなのだ。
 今は廃れた冬至の火祭りの奉納試合の流れをくむイルベッザの武術大会は、戦乱の世から遠く隔たったこの時代、その起源にふさわしく国を挙げての一種の祭りとなっており、各地で開かれる予選も含めて、退屈な冬ごもりの季節を彩る国民的な娯楽として親しまれていた。その武術大会の、それも花形である剣技の部の優勝者といえば、少なくとも次の大会が開かれる四年後までは国民的英雄であり、その出身地であるということは、村にとって非常な栄誉だ。アルファ−ドの優勝に、村は沸いた。凱旋してきたアルファ−ドは熱狂的に迎えられ、村を上げての祝賀会では村の誇りと讚えられ、少年たちの尊敬のまなざしや娘たちの熱い視線を一身に集めたものだ。
 けれど、当のアルファ−ドはとりたてて嬉しそうな顔もせずに、威張るでもなく浮かれるでもなく、次々かけられる祝福の言葉に辛抱強く淡々と応え続けただけで、翌日からまた、何事もなかったように黙々と日々の勤めに戻った。人々は彼のそうした振る舞いに謙虚、地道、平常心と言った美徳を見いだして、自分たちの英雄はただ強いだけでなくこんなにも立派な人物なのだとますます満足しただけで、あの日のアルファ−ドの静かな瞳の奥に、何か諦念めいたものが注意深く隠されていたことに気づいたものはいなかった。
 彼は、あの日、気づいてしまったのだ。自分が、ただの『魔法の使えない羊飼い』から、『剣のチャンピオンで魔法の使えない羊飼い』になっただけなのだということに。
 過ぎ去った戦乱の時代ならともかく、今の時代に、この平和な村で、剣の腕が立つからといってそれが何になるというのだろう。彼にできることは、せいぜい、それまでと同じように自警団長として村を襲う山賊を追い返し、ドラゴンを退治することだけだ。
 自分がそれまで何のために強くなろうとしていたのか、その時、彼には、わからなくなってしまった。彼は、賞賛や名声を求めていたわけではなかったのだ。
 彼はただ、ひたすらに、力そのものを求め続けてきた。強くなりさえすれば、何かが変わるような気がしていた。あるいは、自分を励ますためにそう信じ込もうとしてきただけかもしれないが、それにしても、その漠然とした思いこみがそれなりに彼を支えてきたことは事実だった。けれど、もはや力の時代ではなかったのだ。いくら強くなっても、結局は、なにも変わらない。彼は相変わらず、彼のままだ。
 その後彼が以前ほど武芸に精を出さなくなったことに薄々気づいているものもいないではないが、それを怠慢だの慢心だのと責めるものはない。それで彼の剣の腕や体力が少しでも衰えたとは誰にも思えないし、彼の場合、それまでの熱心さが人並みはずれていただけで、今が人並みに劣るというわけではないのは誰が見ても明らかなのだ。以前のような異様なほどの精進ぶりがいつまでも続いたとしたらそのほうがよほど問題で、むしろ彼はそろそろ武芸以外の他のことにももっと関心を向けるべきではないかなどと、わけ知り顔で主張する者も多い。
 彼らの言う『他のこと』というのは、つまり、例えば娘たち――ひいては家庭を築くことを指している。二十二歳といえば、この村では、そろそろ身を固めているか、少なくとも婚約くらいはしていてしかるべき年頃なのである。それなのに、いまだに恋人の一人も作らず、娘たちに興味を示すそぶりさえまったく見せないアルファ−ドは、そういう点では、そろそろ少々困り者と見なされ始めているのだ。
 公正だが厳格な死者の王タナ−トを主に崇めてきた北部の村々と比べ、出産と豊饒を司る生命の女神エレオドリ−ナのお膝元である南部の村は、日頃から若者たちの恋愛に対しては比較的寛容であり、少々の戯れは見て見ぬふりで黙認される。そんなおおらかな気風の村で、決まった恋人もいないのに適当に遊ぶということもないアルファ−ドの堅物ぶりはむしろ不自然に思われているほどで、若者たちの間では格好の笑い話の種になっているほどだ。
 アルファ−ドは、別に、モテないわけではない。何と言っても彼は、村の誇るチャンピオンであり、ドラゴン退治の英雄だ。貧しくはあるが、逞しく頑健な働き者の若者だし、見目麗しいとは言えないまでも、凛々しく引き締まったなかなかの男ぶりで、姿も悪くない。そして何よりも、その、誠実で落ち着いた頼もしい人柄は、誰知らぬものもない。魔法が使えないという決定的なハンディがあってさえ彼と一緒になってもいいと本気で考えている娘はいくらもいるし、もっと軽い気持ちで彼の気を引いてみようと試みたことのある娘なら、更に多い。
 けれども彼は、これまで、どんな娘にも、ほんのかりそめにさえ靡(なび)いたためしがない。村の娘たちはみな、青年たちがそうであるのと同じように彼にとっては幼なじみだから、彼とてそんな娘たちを冷たくあしらうということはしないが、ただそれだけで、幼なじみとして以上の特別な関心は、誰に対しても見せたことがないのだ。
 今日も娘たちの何人かは、祭りに事寄せて、他の若者たちと一緒に彼の回りで騒ぎながら抜け目なく機会を伺い、何かにつけて、ものは試しとばかりにアルファ−ドにすり寄って見るのだが、アルファ−ドのほうは、祭りだろうと何だろうと普段より気安く振る舞うこともなく、いつも通りの堅物ぶりで、知らんぷりを決めこむばかりだ。
「そういえばこの前、インマ婆さんが、また、彼のところへ縁談を持っていったが、やっぱり見向きもされなかったそうだよ」
「婆さんも懲りないなあ。これでもう何回目だろうかね」
「しかし、アルファ−ドにも困ったものだな。浮いたうわさひとつ立てないまじめな若者だと感心していられたうちはいいが、いつのまにやらあの歳だ。身持ちの堅いのは良いことだが、だからといってどんな娘にもまるで興味を示さないというのも、それはそれで考えものだ。だいたい彼には、いつかはちゃんと家庭を持とうという気はあるのかね」
「まあ、いいじゃないか、あれには、あれが身を固めないからといって嘆く親もないんだから」
「そもそも、アルファ−ドは、ほれ、あれだ……。日頃ああして我々と同じように振る舞ってはいても、なにしろ、<女神のおさな子>だからな。普通の男とは違う。女神の御子ともなれば、そこらのありふれた若者たちのようにそこらの娘を娶って普通に家庭を築き子孫を残すなどということはしないものなのかもしれん……」
 そんなうわさ話が宴席を駆けめぐり、言い古された冗談やおなじみの笑い話が飽きもせず大声で繰り返される一方、そこここで、ひそやかな、あるいはこれ見よがしな恋のさや当てがいくつも繰り広げられ、宴に華を添えるちょっとした喧嘩も始まって、それににぎやかな声援が飛んでいるうちはいいが、しまいにはつかみ合いになって仲裁がはいり、そのうちに、そんな騒ぎもよそに昼間から酔いつぶれていびきをかくものもあらわれる。最後のころにはもう、これが葬式だということなど、誰もがほとんど忘れている。どっちみち、これは祭りだ。司祭はその人生の最後に、やはりみんなに祭りをプレゼントしてくれたのだ。日頃は質素で堅実な働き者の村人たちが、このときとばかりハメをはずして、年に一度の乱痴気騒ぎが延々と繰り広げられる。
 やがて太陽が西に傾き、長い喧騒の宴もついに果てようとする頃、一瞬の通り雨が山並みを駆け抜け、水滴で清められた東の空に、アルファ−ドは、虹を見たのだ。
 そして、今。
 アルファードは、女神の淵の浅い澱みに立ちつくし、横たわる少女を魅入られたように見つめていた。
 鳥の声も途絶え、木々の間に静まり返る窪地の底の翠(みどり)の淵に、黄昏の薄闇がわだかまり始めている。夕映えの幽かな名残りを映す水の中、夢のようにひっそりと、少女は眠る。
 アルファ−ドの脳裏に、さっき聞いたばかりの、『女神の葬式』という言葉が、ふいに蘇った。
 その昔、北方の漁り人、<風使い>たちの間には、水葬という神秘な奇習があったという。彼が少年だった頃、北部から来た旅芸人に聞いた、見知らぬ土地の謎めいた風俗のひとつだ。
 イリュ−ニンの北、ビュ−ランの浜辺には、沖へ向かう海流が断崖を抉(えぐ)るように流れてゆく場所があり、その断崖の裂け目の下に、<風使い>たちだけが秘密の隘路(あいろ)を通って降りて行くことができる、隠された小さな砂浜がある。弔いの夜、花で飾られた海人のなきがらは、形ばかりの筏(いかだ)のような死出の小舟に乗せられて、仲間たちの手でその秘密の入江に運び込まれ、しめやかな哀悼の調べとともに静かに海に押し出される。この葬送の浜辺から、夜の引き潮に乗って世界の果ての西の大洋へと旅立ったものはすべて、いかなる力の働きによってか、二度と此岸(しがん)に戻ることはないという――。
 花に囲まれて水の中に横たわる少女の姿は、遠い異郷のそんな神秘な伝説を、彼に思い出させたのだ。
 眠っているだけのような外見にもかかわらず、少女が弔いの場面を連想させたのは、弔花めいてその身を飾る青い花のためばかりではなく、たぶんその、痛ましいほどに清らかで、どこか生命感の希薄な、透き通るような気配のせいだろう。
 水葬に付された女神のようだと、アルファ−ドは思った。稚(おさな)い女神が殺害されて水葬に付されているこの光景は、なんと美しく魅惑的なのだろう、と。
 思ってから、その考えの、あまりに不吉で冒涜的なことに驚いて、アルファ−ドは呆然とした。
 いつのまにか隣にやって来て、少女に鼻面を寄せて匂いを嗅いでいたミュシカが、その時、アルファードを見上げ、促すように、くぅん、と鼻を鳴らした。
 我にかえったアルファードは、浅い川床に片膝をついておそるおそる身を屈め、少女をのぞき込んだ。
 よく見れば、少女の青い服の胸のあたりは、微かにではあるが、規則正しく上下している。ためらいながら顔の上にかざした掌には、弱々しい呼吸が、確かに感じられた。
 アルファ−ドが思いきって少女のほうに腕を伸ばしかけた、その、伸ばした手の指先が水面に触れたとたん、それで生じた波紋のためだろうか、少女を守るように周囲を漂っていた青い花たちが、まるで、これで役目を果たした、というかのように、いっせいに、ついっとその場を離れて、ゆらゆらと流れ去っていった。
 川面を流れて行く花たちを唖然(あぜん)として見送ってから、アルファ−ドは、壊れ物を扱うようにそっと、少女を抱き上げた。その衣服から、ざっとばかりに水がしたたり、アルファ−ドを濡らした。
 少女は、ひどく軽かった。掌の上で死んだ小鳥のように儚く脆い感触が、痛々しい。
 けれどその、さっきまで熱を持たない水晶細工のように見えていた小さな身体からは、すっかり水を吸った布地を通して、やはりほのかな温もりが伝わってきた。
 川の中にいたのは、そう長い時間ではなかったのだろうか。冷たい水に浸っていたわりに、身体が冷えていないようだ。あるいはそれは、この少女が何か常ならぬ力で守られていた証拠なのかもしれないと、アルファ−ドは、ふと思った。
 普通なら濡れた服はすぐに脱がせて自分の上着ででもくるんでやったほうがいいのだろうとは思ったが、そうすることは、かえって、今もわずかに残って彼女を守り続けているのかもしれない神秘の力の残滓(ざんし)を払い散らしてしまうことになるような、よけいなことをせずにこのまま抱いて帰れば家に着くまで女神が少女を守り続けてくれそうな、そんな気がして、アルファ−ドは、そのまま、少女を抱えて立ち上がろうとした。
 その時、腕の中で、少女がわずかに身じろぎした。
 アルファードは息を呑み、我知らず、呪縛されたように動きを止めた。
 少女は、水滴に縁取られた清らかな睫毛をそっと震わせたかと思うと、ふいに、漆黒の瞳を見開いた。
 目覚めたばかりで焦点の定まらない双眸が、ゆっくりとアルファードの顔を捕らえ、そして……。
「キャーッ!」
 かん高い悲鳴とともに、小さな白い手がアルファードの頬に向かって飛んだ。
 が、目を丸くしてあっけにとられるアルファードの頬に、少女の手は届かなかった。その急激な動作のためか、少女はそのまま、再び気を失ってしまったのだ。
 腕の中でぐったりと力を失った少女の小造りなおさな顔を、アルファードは呆然と見下ろし、やがてくつくつと笑いだした。
(ああ、やっぱりこれは人間の女の子だ。おどかしてしまったんだな。かわいそうなことをした。でも、よかった、元気そうだ……)
 さっきまで少女を包んでいたどこか現実離れした神秘的な気配は消えて、腕の中にいるのは、風変わりな服を着ていて目と髪がこの地方には珍しい色をしているというだけの、ただの人間の少女だった。清楚で愛らしくはあるが、別に人並み外れて美貌というわけでもなく、気の毒なほどに痩せこけて、まだほんの子供だ。
 たぶん十才ちょっと、いってせいぜい十二、三だろうと、アルファードは考えた。額が広く鼻筋が短い顔つき、あまり高いとは言えないその鼻の、ちょっと上を向いた鼻先があどけない丸みを帯びているところなどいかにも幼く、それでも顔立ちだけならもう少し上に見えなくもないが、背丈も小さいし、胸の膨らみもまだ目立たない硬い身体つき、雛鳥のように頼りなく細い首や棒切れのような手足などは、どう見ても子供のものだ。さっき一瞬だけ見た黒曜石のような瞳には、思いがけず、顔立ちの幼さに似合わぬ何か強い輝きが宿っていたような気がするが、それも、年令の割に大人びた利発な子供なのだろうと思えば納得がいく――。
(じいさんが俺を拾って育ててくれたように、今度は俺が、この子を引き取って育ててやろう。いくら俺が貧乏でも、なに、こんな痩せっぽちの女の子の一人くらい、きっとなんとかなるさ。それにしても、本当に痩せっぽちだ。滋養のある物を食べさせてやらないといけないな。そうだ、戸棚にまだ、ハチミツがあったはずだ。ハチミツ入りの温かい粥なら、消化もいいから身体が弱っていても食べさせられるだろうし、それに、子供、ことに女の子ともなれば、きっと甘いものを好むだろう……)
 そんなことを考えると、アルファ−ドの胸に、思いがけず、ふんわりと温かいものが流れた。
 アルファ−ドは、どちらかというと、子供は苦手だ。別に嫌いということはないが、自身に幼い頃の記憶がないせいか、それともただ単に不器用であるせいか、子供にどう接していいのか分からないのだ。しかも、それが女の子ともなればなおさらだ。
 けれど、この時、自分がこのいとけない少女を引き取って育てるのだという思いつきは、彼の心に、意外なほど甘美な温もりをもたらした。
 同じこの場所で、同じ孤独な<おさな子>としてこの世に生まれ出たもの同士、自分とこの子は、きっと、寄り添って暮らせるだろう。そう、自分は、守り育てるべき子供を──『家族』を持つのだ。もしかすると、自分がこれまでずっと満たされることなく求め続けてきたものは、結局は、そんなささやかな、ありふれたものだったのかもしれないと思うと、なぜかおかしくなって、少し笑いたくなった。ずっと、自分は孤独が好きなのだと思っていた。家族など、欲しいと思っていないと信じていた。が、どうやら、そうでもなかったらしい──。
(……俺は、このいたいけな子供を、全力で守ろう。そうすることで俺は初めて、自分がこの世にあることを許してやれるような気がする。初めて自分の存在に意味を見出せるような気がする。きっとこの子は、女神が俺に与えてくれた、初めての贈り物なんだ……)
 アルファードはそっと微笑み、少女を抱いて歩き出した。

 ……あれはいつのことだっただろう。もうずいぶんと昔のことのように思える。そう、まるで、生まれる前のできごとのように。
 あたしは、制服を着て、電車に乗って、毎日学校に通っていた。
 電車はいつも混んでいて、夏でも冬でも、人いきれでむっとしていた。
 前後左右からいやおうなしに押しつけられる見知らぬ他人の身体の不快な温もり。暑い時期には、誰かの汗ばんだ腕が直接肌に触れて、死ぬほどの嫌悪を感じることもあった。それは本当に悪寒がするほどの不快さで、ほとんど恐怖にも近い感覚だった。それであたしは、夏でもなるべく長袖を着ていた。
 そして、狭い車内にこもる、汗やタバコや脂っぽい頭髪の嫌な臭い。
 温くて臭い空気をうっかり深く吸い込むと、吐き気がした。できることなら、息をしたくなかった。こんなにも臭くて汚い空気を吸ったら、身体の中まで、心の中まで穢れるような気がした。自分がどんどん汚れていくような気がした。
 ああ、人間はみんな、臭くて汚い。醜悪で猥雑で、気持ち悪い。なかでも男はみんな、特に臭くて汚らしいし、太った中年の女たちは、特に醜く無様(ぶざま)だ。どうしてあたしは、こんなところにいるんだろう。いつまで、ここにいなければならないんだろう。いっそ今、この瞬間に全人類が滅びてしまえば、地球の上は、よっぽどきれいになるだろうに……。
 あのころは、世界のすべてがあたしを脅かした。周り中から汚いものが襲いかかってくるような気がした。なにもかもが、汚らわしく厭(いと)わしかった。
 でも、あれはみんな、過ぎたこと。今はもう、あんな思いをする必要はない。
 そう、あれはきっと、生まれる前の、悲しい前世のできごと。今、あたしは、無垢な赤んぼうとして、新しい世界に新しい生を受けた。きっとこれから、暖かい家族の愛に包まれて健やかに育まれ、もう一度、幸せな子供時代を迎えるのだ。
 ああ、なんて気持ち良く揺れるんだろう。ゆるやかな川を、小舟に乗って下っているみたい。せっかく目が覚めたのに、また、眠くなりそう……。
 そうだ、あたしは赤ん坊だから、きっと今、小舟じゃなくて、揺りかごに揺られているんだ。ううん、揺りかごじゃなくて、お母さんの腕の中にいるのかしら。
 違う。お母さんの腕じゃない。お母さんのよりももっと太くて逞しい、この腕は……?
 うっとりとそこまで考えた里菜は、ふいに我に返って、ぎょっとした。
(何、これ? どういうこと? あたしは赤ん坊じゃないし、夢を見ているわけでもないわ。じゃあ、今、あたしは、何がどうして誰に抱かれているの?) 
 混乱した里菜は、あわてて記憶をたどった。
 しだいに頭がはっきりしてくると、少し前の記憶が蘇った。
 どうやら自分は、さっき誰かを――たぶん、今、自分を抱いて運んでいるこの人を――ひっぱたいたらしい……。
 その時にちらりと見た見知らぬ若者の、あっけにとられた顔を思い出して、里菜は申し訳なさと恥ずかしさに、目を閉じたまま赤面した。
(いやだ、あたし、なんであんなことしたんだろう。きっとあの人、倒れてたあたしを助けてくれようとしてたに違いないのに……。あの人、とてもやさしい目をしていた……)
 あの時、若者の顔を見たのはほんの一瞬で、顔立ちなどはそんなにはっきりと見たわけではなかったのに、そのまなざしが暖かく真摯(しんし)で害意を感じさせないものだったことだけは、不思議と一瞬で見てとれたのだ。里菜は薄目を開けて、自分を抱いているのがさっきの若者であるらしいことを確かめると、ほっとして再び目を閉じた。意識を取り戻したとはいえ、まだ中ばもうろうとした状態で、とても歩けそうにはなかったのだ。
(どうせ歩けないなら、この人には重くて悪いけど、まだ気を失ったままのふりしてよう……。そうでもしなきゃ、とてもじゃないけど、恥ずかしくていられないもの……。一度この人と口きいちゃったら、その後ずっと、どんな顔してこんなふうに抱かれていればいいか分からないじゃない)
 若者からは、いきものの匂いがした。
 たぶん衣服の素材なのだろう濡れた羊毛と革の匂い、衣服にしみついた何か獣くさい匂い、その中でもはっきりと嗅ぎ分けられる懐かしい犬の匂い、それから、若者自身の汗の匂い。
 どれも決していい匂いとは言えないが、不思議と不快には感じられなかった。
 それは、大地に生きるいのちの匂いだった。
 若者のぬくもりが、里菜を包んでいる。
 もう、何も不安は感じなかった。この、見知らぬ若者の腕の中が、世界で一番安心な場所のように思えた。小さな子供の時代を過ぎて以来、人の身体のぬくもりがこんなにも心をくつろがせるものだということを、そういえばもう長いこと忘れていた気がする。胸いっぱいに広がる甘やかな安堵感に、なぜだか涙ぐみたいような気分になった。
(あったかい……。さっきまで、あたし、もしかしたら自分は天国にいるんじゃないかと思ってたけど、そうじゃなかったんだ。だって、この人はこんなに温かくて、ちゃんと手で触ることができて、たしかに生きている人だもの。……そう、ここは天国じゃなくて、きっと、別の世界――どこか素晴らしい、まるで物語のような別世界に違いないわ。そしてここでなら、生きるのは、きっとそんなに辛くない。だって、ここでなら、あたしはこうして、『向こう』ではあんなに厭わしく感じていたひとの身体のぬくもりを、生命の匂いを、こんなにもやさしく、懐かしいものに感じることができるのだから……。きっとこここそがあたしの、ずっと忘れていた本当のふるさと。あたしの、本来の在るべき場所。だからあたしは『向こう』では、いつも自分が本当にはその場所に属していないような違和感を抱いて生きてきたんだ。でも、もう大丈夫。あたしは今、遠いふるさとに、やっと帰り着いた……)
 若者の腕の中で、夢うつつにそんなことを思いながら、里菜はいつしか、ふたたび眠りの淵に引き込まれていった。

 アルファ−ドは、かつてレグル老のものだった小さな家に、今は一人で住んでいる。灰色の石積みの、質素な家である。歴史の古いこの村で、そっけないたたずまいのその家は特別古いわけではないのだが、村の他の家々と違って魔法による手入れが行き届いていないので、ひときわ古びて、少しばかりみすぼらしく見える。部屋は二部屋。台所と居間と食堂を兼ねた中央の広い部屋と、その横につけたしのようについている小さな寝室だが、かつてレグル老が使っていたその寝室は、今は全く使われていない。アルファ−ドは、今でも、子供の頃にレグル老が居間の壁際に作りつけてくれた簡単な寝台で寝起きしているのだ。
 独り暮らしでも、特に寂しいとは思ったことはない。調理用と暖房を兼ねた武骨な石積みの暖炉の前には、いつも、忠実なミュシカが寝そべっていて、アルファ−ドと目が合うと、必ず軽く尾を振って応えてくれる。
 男の独り暮らし、しかも魔法が使えないとあって、家事のことを心配をするものもいるが、彼は、努力と工夫と体力で、大抵のことは自分でこなしてきた。そのことには、いささかの自負がある。
 魔法を使えるものたちは、魔法が日常生活に必要不可欠なものであると、あらためて考えるまでもなく無条件に信じているが、その実、たいがいのことは魔法なしでも、多少の手間ひまはかかるがそれなりになんとかなるものだというのが、彼がこれまでに探り当てた、世界の隠された真相だ。ただ、人より余計に頭を働かせ、あとは身体を惜しまずに汗を流せばいいのである。
 幸い、体力は人一倍ある。だから、たとえば水なら、ただ、何回でも桶を持って坂を上り下りして川から汲んでくれば済むまでのことだ。
 根気強く几帳面な性格ゆえに細かい手作業も別に苦にならないし、魔法に代わるちょっとした工夫を思いつく才気も豊かで、数々の小発明を、ひそかに誇りにしてもいる。
 とはいえ、そんな彼の生活が他の村人たちの暮らしぶりと比べてひどく不便で少々非文明的なものであることは否めなかったが、彼にとって、なるべく人手を頼らず家事をこなすことが、自分は魔法が使えなくてもちゃんと一人前にやっているのだというひそかな自負心の拠り所になっているのだ。
 そんなささやかな独り住まいの、質素な住み処に帰り着いたアルファ−ドは、暖炉の前の敷物の上に横たえた少女を見下ろして、我にもなく困惑していた。
 手には、洗い上りの自分のシャツを持っている。少女に着せるつもりで、一番マシそうなものを探し出してきたのだ。
 そこまではよかったのだが、その先が困った。
 いくら子供とはいえ、女性は女性だ。気を失っている間に断りもなく服を脱がせたりしたら、非常な失礼にあたるのではないか……。
 もちろん、この際、そんなことを言っている場合ではない。
 九月とはいえ、高原の夜は冷える。このままでは確実に風邪をひく。肺炎でもおこしたら、命にかかわりかねないのだ。どう考えても、濡れた衣服は早急に脱がせるのが適切なのである。何もやましいことはない、理にかなった当然の処置だ。──それは、分かっている。
 分かっては、いるのだが……。
 アルファ−ドは途方に暮れた。

 亜麻色のお下げ髪を背中に垂らした若い娘が一人、焼き菓子の包みと角灯を手に、宵闇に閉ざされかけた村の小道を急いでいた。
 ふくらはぎまでしっかり隠す落ち着いた色合いのスカートに洗いざらしの清潔な前掛けを重ね、きちんとした未婚女性の手本のように慎しみ深く装ったこの娘は、村中でしっかり者と評判の、ヴィーレことマルヴィーレ。アルファードが子供の頃から何かと世話になってきた隣人一家の、十九才になる一人娘である。
 ふくよかな身体付き、豊かな胸の、母性的な雰囲気の娘だ。
 同じ年ごろの娘たちの中でも、背は、わりと高い方。
 落ち着いた性格の、分別のある娘で、病気がちな母親に代わってほんの子供の頃から有能な主婦の役をこなしてはきたが、長いお下げが一足ごとに背中で弾むその様には、夢見る少女の面影が隠し切れずに顔を出す。つつましいその装いに、バラ色の頬が娘らしい華やぎを添える。どんな慎みも、恋する乙女の輝きを封じ込めてはおけないのだ。彼女の足取りが軽く、頬がバラ色に輝いているのは、恋しい人に会いに行く、胸のときめきのためだから。
 ヴィーレの父は、寄り合いで選ばれた村の世話役である。そのこともあってヴィーレの両親は、変り者の隣家の老人に引き取られた幼い<マレビト>のことをずっと心にかけ、半分は自分たちの息子のように思ってなにくれとなく援助してきたし、レグル老の死後は進んでアルファードの後見人を買って出もした。だからヴィーレは、アルファードとは名実ともに兄妹同然の仲だ。レグル老が死んでアルファードが一人暮しになった当初など、ヴィーレは、母親から託された差し入れを持って毎日のようにアルファードの家に通い、アルファードが遠慮するのも構わず、せっせと身辺の世話を焼いたものだ。
 そのアルファードを、いつから兄としてではなく意識するようになったのか、ヴィーレは覚えていない。幼い胸の奥に自分でも気付かぬうちに芽ばえていた密かな思慕は、いつしか切なく胸を焦がしていたのだ。
 たぶんアルファードも、ヴィーレの気持ちに気付いているだろう。けれど、気付いても応えられないから、気付かないふりをしてくれているのだと、ヴィ−レは知っている。だからヴィーレは、自分の想いを決して口に出さない。口に出せば、自分が兄としてのアルファードをさえ失ってしまうことが、ヴィ−レにはわかっているのだ。
 それでもヴィーレは、今日もこうして、アルファードの元へ急ぐ。しっかりと胸に抱えた包みの中の焼き菓子は、秋祭りの二日目の夜に食べる伝統の行事菓子だ。今ではこの村でも自分の家でこれを焼くところは減ってしまったのだが、ヴィ−レは毎年、余るほど焼く。そうして、必ずアルファ−ドのところに持って行く。表向きは『たくさん焼きすぎたからおすそ分け』だが、本当は最初から、アルファードのために焼いているのだ。祭りに限らず、彼女は年中、焼き菓子を焼いてはアルファ−ドのところへ持っていく。子どもの頃、アルファードは、甘い焼き菓子が好きだった。今はアルファードは、菓子などあまり食べないのだが、せっせと焼いて持ってきてくれるヴィーレにはそのことを言えずにいるので、ヴィーレはいまだに、彼はそれが好きだと信じている。
(いそがなくちゃ。あんまり暗くなってから行くと、ファードにまた叱られるわ)
 瞬き始めた一番星を見上げて、ヴィーレは足を早める。アルファ−ドの家は、村の中心部から少し離れた丘の上にぽつんと建っているので、一応は隣家であるヴィーレの家からでも、少々時間がかかるのだ。
 アルファードはいつも、ヴィーレに、夜道のひとり歩きは物騒だと注意している。でもヴィーレは、しばしば、暗くなる頃アルファードを訪ねる。そうすると、帰る時はアルファードが家まで送ってくれる。
 無口なアルファードと、ただ黙って肩を並べて家までの短い道のりを歩くのが、ヴィーレは好きだ。
(あたしたち、恋人どうしみたいに見えるかしら)などと思いながら、宵闇の中で頬を赤らめることもある。
 けれど、ヴィーレにとっては少々さみしいことに、ふたりがそんなふうに並んで夜道を歩いていてさえ、村中の誰も、ふたりの間柄を誤解してくれないのである。それも、たぶん村中の人が、ヴィーレの秘めた想いを知っているだろうというのに。
 そもそも、ヴィ−レの両親にしてからが、娘のアルファ−ドへの想いに気付いていながら、彼女がこんな夜分にアルファ−ドのところへ行こうとするのを、止めようともしないのだ。それは、彼らが品行方正なアルファ−ドをそれだけ信用しているということでもあるが、つまりは彼らも、アルファ−ドにとってヴィ−レがあくまで『妹』にしか過ぎないことを、よくよく理解しているのである。
 それでもヴィ−レは幸せだった。
 誰もが認める人格者であり、村中の若者たちから頼られ、慕われている人望厚いアルファードが、本当は孤独を好み、容易には人に心を開かない性質であることを、ヴィ−レは知っている。そのことが、ヴィーレは、心の底では、ほんの少しうれしい。彼と親しく付き合うことが、自分だけの特権のように思えるからだ。
 事実、彼をファードという愛称で呼ぶのはヴィーレだけだ。他の村人は皆互いを短い愛称で呼びあっており、正式名などほとんど忘れられている者も多いというのに、<女神のおさな子>であり、本人は別に特別扱いを求めるわけでなくともどこか常人離れした孤高の印象があるアルファ−ドだけは、普段から正式名を呼ばれているのだ。
 ──そう、自分は誰よりもアルファードの近くにいるのだ。無口なアルファードの内面を、誰よりもよく知っているのだ。感情を表に出さない彼の孤独を、屈託を、誰よりも理解しているのだ。たとえ妹としてでも、こんなにアルファードの近くにいることを許される女の子は自分だけだ――。
 そんなふうに、ヴィーレは、信じていた。
 そう信じることで、それなりに幸せでいられた。
 そう、この夜、アルファードの家の、少しぎいぎい言うお馴染みの扉を押し開けた時までは……。


「ファード、入っていい? お祭りの焼き菓子、持って来たのよ!」
 明るい声とともに扉を開けたヴィーレは、口に手を当てて、その場に立ちすくんだ。
 扉の向こうにヴィーレが見たのは、彼女にとっては、かなり衝撃的な光景だった。
 見慣れたアルファードの部屋の暖炉の前に、見知らぬ少女が横たわっている。しかも、いとしいアルファードは少女のかたわらに膝をつき、あろうことか、手をのばして少女の服を脱がそうとしているらしい……。
 これがヴィーレでなくて、もっと感情的な娘だったら、訳の分からない叫び声を上げてこの場を飛び出してゆき、あとでアルファードが何と言い訳しても一切聞こうとしない、といった展開になるところであるが、ヴィーレは、落ち着いた、実際的な娘だった。頭の回転も悪くない。一瞬のショックの後、ヴィーレは瞬時に状況を把握した。寝ているのがまだ子供のような少女であること、その服が見たことのないような奇妙なものであること、そして、びしょ濡れであること。
 では、もしかすると、この子は……?
「ああ、ヴィーレ、ちょうどいいところへ来てくれた……」
 顔を上げたアルファードは、救いの神を見るような目でヴィーレを見た。そういえばヴィーレは、これまで一度も、アルファードに、こんな有難そうな顔で迎えてもらったことはない。
「ファード、その子……」
「ああ、その……。さっき、見つけたんだ。<女神の淵>で。気を失って、倒れていた」
 ああ、やはりそうなのだ。世界でただ一人の<マレビト>だったアルファ−ドが、ついに、同じ<マレビト>を、自分の同類を、見出したのだ――。
 ヴィ−レは、その時、自分が、『アルファ−ドの一番の理解者』、『アルファ−ドに一番近い女の子』の地位を、確実に失うだろうことを知った。それは、淡い、けれど底知れず深い、喪失の予感だった。
 けれど、やさしいと同時に強い心の持ち主である彼女は、その、足下の大地が揺らぐかのような絶望を、ほとんど顔には出さなかった。出さずに、済んでいたと思う。
 その証拠にアルファ−ドは、ヴィ−レの一瞬の微妙な表情になど気づいた様子もなく、
「それより、ヴィーレ、頼みがあるんだが……。この子の服を、これに着替えさせてやってくれないか。それと、髪の毛や身体も、拭いてやって欲しいんだ。俺は、あっちの部屋で、この子を寝かすように寝台を整えてるから……」と、持っていたシャツをヴィ−レの手に押しつけるなり、ヴィ−レの気持ちを知ってか知らずか、そそくさと部屋を出ていってしまったのだ。
 その、逃げるような後ろ姿を見送って、
(ファ−ドってば、この子を着替えさせようと思って、女の子だからって困ってたんだったのね)と、小さく笑ったヴィ−レは、床の上の少女に目を移した。
 こうしてあらためて見ると、少女は、最初に思ったほど子供ではなかった。小柄で童顔だし、痩せすぎのために身体つきも子供のようだが、たぶん十五、六にはなっているだろうと、女同士ならではのカンでヴィ−レは見当をつけた。それなのに、ドラゴンのことはよく知っていても女の子にはまるきり疎いアルファ−ドは、たぶん、この子を、小柄さに目を欺かれてまるきりの子供だと思っているのだろう。そうでなければ、彼の性格からして、この子を自分の家に運び込んだりせず、最初からヴィ−レの家にでも連れて来ただろうはずだから。
(ファ−ドはこの子を、ここに置くつもりでしょうね。部屋も空いてるし、同じ<マレビト>どうしだもの、みんなもそれが当然だと思うだろうし……)
 勝手知ったるアルファードの台所をきびきびと動き回ってタオルやタライを用意しながら、ヴィーレは、内心の痛みを押し殺した。
(もう、今までのような、たとえ妹としてでもファードを独占できた日々は、終わるのかもしれない。あたしとファードとのあいだの、中途半端だけど幸せだった関係は変わってしまうのかもしれない。でも、だからって、この子を恨んじゃいけないわ。この子は何も悪くないんだもの。あたしはこの子に、きっと、親切にしてあげよう。うんとやさしくしてあげよう。突然、誰も知っている人のいない別の世界に来てしまったら、それは心細いはずだもの……)
 少女の額に張り付いた髪をそっと払ってやりながら、ヴィーレは寂しい笑みを浮かべ、そしてすぐに、意識のない人を着替えさせるという、女手一つには非常に厳しい実際的な難事業に向けて頭を切り替えた。アルファ−ドに手助けを求めることは、絶対に、したくなかったのだ──少女のためにも、自分のためにも。

 顔を拭かれて、里菜は目を覚ました。薄く目をあけると、自分よりいくつか年上らしい若い娘が目に入った。かたわらに置かれたタライでタオルをゆすいでいる娘は、里菜が目を開けたのに気づかないようだ。何か言おうと思ったが、口を開くのも大儀で、里菜は黙って娘を観察した。
 やさしそうな人だ。どうやら、外国人らしい。一本の緩いお下げに編んで背中にたらした、亜麻色の長い髪。忘れな草のような、春の空のような、やわらかな水色の瞳。クリームのように白い肌に、ふっくらしたバラ色の頬。豊かな胸に、まろやかな肩。特に美人ではないが、人をほっとさせるような素朴な愛らしさの、ややぽっちゃりした大柄な娘だ。
 娘の着ている服は、昔の西洋の田舎といった感じの、質素で古風な長めのワンピースだった。お菓子かなにかの箱に描かれたかわいい田舎娘が絵から抜け出して動き出したみたいだと、里菜は思った。自分は、別の世界ではなく、どういうわけでか、どこか古風な外国の田舎にでも来ているのだろうか……。
 けれど、娘の服には、どこか奇妙な違和感があった。デザイン自体は、たしかに、どことなく少し変わった、見慣れないものではあるが、それでも、違和感を与えるよりは、むしろ、なぜか、懐かしさを感じさせる。それなのにやっぱり、なんだか、どこかが違うのだ。どこが変なんだろう……。
 だが今は、身体がだるくて、やけに眠くて、そのことについて考える気力もなかった。 腕まくりした娘の白い肘に小さなエクボが出来るのがなんとも愛らしく、里菜は、それにうっとりと見とれて、
(かわいい人だな……)などと思いつつ、幸福な気持で、また、まぶたを閉じて、深い眠りにおちた。
 そのまえに、なんだか、その娘がなにも無い空中から水を出してタライに注ぐのを見たような気がするが、眠さにまぎれて深く考えられなかった。きっとなにかの見間違いだったのだろうと里菜は考え、それも、眠りの中で忘れてしまった。 
 眠りの底へと落ちていく途中で、遠い呼び声を、微かに聴いたような気がした。 
 夢の中へと紛れ込む、深く、昏いその声を、意識の届かぬ心の底で、里菜は昔からよく知っていた。
 それは、里菜がよく見る夢の中でいつも聴くのと同じ声だったのだ。
 里菜があの夢を見るようになったのはいつのころからだろう。繰り返し見る夢なのに、いつでも、目が覚めると忘れてしまう。けれど、覚めている時は忘れていても、また同じ夢を見る度に、自分がその同じ景色をもう何度も見ていること、その同じ声をもう何度も聴いていることを思い出すのだ。
 里菜の夢に、いつも繰り返し訪れるのは、全ての命の死に絶えた虚しいまでの清浄の土地のイメ−ジだった。たぶん、それは、人類の滅びたあとの風景なのだ。
 里菜がいるのは、古代の神殿を思わせる白い廃墟だ。きっと、山の上なのだろう。四方には、なにもない。ただ、一面の空。
 そこにあるのは、痛いほどに清らかな風と、ガラスの破片のようにキラキラと空の高みから降り注ぐ、悲しいほどに明るく澄んだ陽光だけだ。
 崩れかけた円柱に身を凭せかけ、里菜は空を見ている。
『これでいいのだ。すべての穢れは払われた……』
 人間ではない誰かの声が、里菜に告げる。
 天上の神殿の廃墟で風と光だけを食べて、里菜の身体は透き通り、いつのまにか肉体は消えて、里菜は虹に変わっている。そして、消える。
(これがきっと、あたしの望んだこと。そうよ、みんな、消えてしまえばいい。滅びてしまえばいい。このあたしも……)
 最後に残った里菜の意識が、そっと呟く。
 それは、寂しく空虚な光景だった。が、なぜか抗いがたい魅力で、里菜の心に、予言のように啓示のように、繰り返し示されるのだった。
 その、廃墟の夢の中で何度も聴いた人間ではないものの声が、今また、眠りに落ちる寸前の里菜の心の奥底に、遠く、幽かに届いたのだ。
 声は、里菜の知らない名前を呼んでいた。
――『……リ−ナ、エレオドリ−ナ。待っている。私は、待っている……』――  

(── 続く ──)



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『カノープス通信』
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冬木洋子




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