長編連載ファンタジー
イルファーラン物語
冬木洋子作
12 「おーれーはァ村中でェいっちばァん……。おーい、リーナちゃん! おっはよー!」例によって妙な歌を歌いながらやってきたローイが、いきおいよくアルファードの家のドアを開け、能天気な大声を上げた。 背中に赤ん坊を背負い幼児の手を引いているローイの後ろには、さらに数人の子供たちが並んでいる。 「リーナお姉ちゃん、おっはよー!」 まわらぬ舌でローイのまねして元気に挨拶しながらわらわらと入ってくる子供たちを、里菜は笑顔で迎えた。 「おはよう、ローイ! おはよう、みんな!」 「さあ、今日も元気に『タクジショ』とやらを始めようぜ!」と、言いながら入ってきたローイは、そこで露骨に顔をしかめて立ち止まった。 「なんだ、アルファード、まだいたのかよ!」 「居て悪いか。ここは、俺の家だ」 アルファードはぶっきらぼうに言ったが、目は笑っている。 「別に、悪かないけどよ。今日は、仕事、無いのかよ?」 「いや、今から出かけるところだ」 「今日はどこの仕事だ?」 「ドリーの家で頼まれ仕事だ。裏の木がでかくなりすぎて家が日陰になったから、枝を切りたいんだそうだ」 「ああ、そうか、あそこは男手がないからな。まあ、がんばって働いてきてくれや!」 「ああ。じゃあ、リーナ、行ってくる。ローイ、あんまり家の中で暴れるなよ」 こう言い置いて、アルファードが出ていくなり、ローイが叫んだ。 「さあ、ガキども、家の中じゃ暴れちゃいけないってから外で暴れるぞお! ガオー!」 ローイはわけのわからない吠え声をあげ、いつのまにか両腕に一人ずつブラ下げていた子供たちを、腕を振って揺らしてやりながら庭に出ていった。残りの子供たちも、ローイの奇声を真似ながら、ころげるように飛び出していった。 里菜もそのあとに続きながら、こう考えて微笑んだ。 (ローイって、保父さんが天職かもしんない……) あのドラゴン退治からしばらくの後、例年より早めに山のまきばでの羊の放牧が打ち切られ、それまで規則正しく続いてきたアルファードと里菜の日課は、がらっと変わった。それは、一日中まきばで一緒に過ごした、あの蜜月のような日々が永遠に続くかのように感じていた里菜にとっては、少しばかりさみしいことだった。何しろ、里菜にとって一番重大な変化は、アルファードと一緒にいる時間が減ったということなのだ。 羊飼いといっても自分の羊を持たないアルファードは、毎年、冬場には、自警団の訓練や村の共同作業に出るほかに、あちこちの家で力仕事を手伝ってわずかな報酬を得て生活している。 が、放牧が終わって雪が降る前のこの時期は、彼もけっこう忙しい。 雪が深くなるとそれぞれの持ち主の家畜小屋に閉じ込められる羊たちも、まだ雪がない今のうちは、取り入れの済んだ畑の一角に作られた共同の冬用家畜囲いに放されている。そこはだいたい常に誰かしらの目が届く場所なので、山の牧場《まきば》でのようにアルファードが日がな一日羊たちを見張っている必要はなく、アルファードは、朝、囲いの餌場に飼料を補給したあとは、ミュシカをそこに残して、干し草作りや積雪対策対など、雪が来る前の今ならいくらでもある村の共同作業を手伝いに行く。この時期には、アルファードも労働力として結構あてにされていて、のんびり羊の番などさせておいてはもったいないと思われているのだ。 アルファードが村人たちと一緒に野良で働くのは、一年のうちで、春先に山の雪解けを待ちながら村で出産期の羊の世話をする短い時期と、この冬支度の時期だけだ。 ところが、アルファードは、この仕事に、里菜を連れていってくれないのだ。魔法が使えない上に家事にも不慣れで力仕事の役にも立たない里菜が手伝えることなど、どうせほとんどないし、その上、里菜には、例の、魔法を消すという変な力がある。いくら里菜が自分のその力を抑えられるようになったとはいえ、いつなんどき何かの拍子で魔法を消してしまって人の作業の邪魔をしないとも限らないというのが、アルファードの言い分だった。 里菜の魔法の訓練は、いまも続いていた。 いったん魔法を受け入れた里菜は、魔法を見慣れるにつれて、一時は逆に、魔法を消す力を失ってしまったかに見えた。里菜は、それでも別にかまわなかったのだが、アルファードは、こう主張した。 「君には、その力のほかに、身を守るものがないんだ。その力を自在に操れるようになるまで練習を続けるべきだ」 それからふたりは、また試行錯誤を繰り返した。やがて里菜は、だいたい自分の思うとおりに、魔法を消したり消さなかったりといった使い分けができるようになっていった。魔法を消したくないときは、そのまま、その魔法のことを気にしないでいればいい。魔法を消す時には、その魔法に意識を集中し、それが不自然なものであることを思い出す。 その時に、「嘘!」だの「消えろ!」だのと、まず口に出して言ってみることで自分の精神をコントロールするという、ちょっとしたコツを里菜は身につけた。 だが、里菜にそういう訓練をさせた当のアルファードは、里菜の自己制御を、まだ、完全には信用していないのだ。アルファードは、慎重にも、今だに里菜を村の中に連れていくことを出来るかぎり避けていたし、里菜にも、『家のまわりで子供たちと遊ぶのは構わないが、勝手に村へは行くな』と厳しく言いつけていた。そんなわけで、里菜は日中、家に残されることになった。 最初の何日かは、里菜はそれなりに張り切った。アルファードのそばにいられないのは悲しいが、それなら、居候なんだから、せめて家事一切を引き受けるくらいのことはしてアルファードの役に立ってみせようと思ったのである。それまでも里菜は、アルファードに教わりながら一通りの家事を手伝っていたのだが、一日中家にいるなら、もっといろいろ出来そうな気がしたのだ。 だが、その熱意は、すぐに冷めてしまった。 なにしろ、手のこんだ料理を作ろうにも、この国の料理で里菜が知っているのは、いつもアルファードと一緒に作っていた、日によって材料が少し違うだけの単純なごった煮かスープだけだし、それなら何か『あちら』の料理を、と思っても、家庭科で習った通りに作ろうと思ったら材料も道具も調味料も揃わず、何も教科書通りじゃなくても自分で工夫すればいいじゃないかと気づきはしたが、よく考えてみれば、そもそも里菜は『あちら』でだって料理なんてろくにしたことがなくて、何をどうしていいのか、さっぱり見当がつかない。それに、肝心のアルファードも、どうやら、自分が十年来、日々作り続けていたような変わり映えしないごった煮以外のものが食べたいとは、別段、思っていないらしい。食べ物は、ありあわせの材料で手早く出来て腹が膨れて栄養になりさえすればいいのであって、味など、とりあえず不味くなければそれで十分という、美食とは一切無縁の人なのだ。 掃除にしたって、家がこんなに古くて、しかも家の中で出入り自由の大型犬を飼っているとなるとそんなにピカピカにしようがないし、第一、こう薄暗くては、少しくらいきれいにしても目立たないし、逆に、多少汚れていてもあまり気にならない。それに、アルファードは最初から散らかすほどの家財も持っていないし、几帳面な性格もあって家の中はそれなりに整っていたから、今さら里菜が一人で張り切って整頓するまでもない。 独り者の上に魔法が使えないアルファードは、ずっと、パンはパン屋で買い、チーズや薫製といった保存食は他の家から分けてもらったりしていたので、あとは、手のかかる家事といえば洗濯くらいだが、ここでは毎日着替える訳ではないから、それも週一回で充分だ。 こうなると、里菜には、たいしてやることもない。と言うより、もともと『あちら』の世界でも家事などあまりやったことがない上にこの国の暮らしに慣れない里菜に一人で出来ることなど、たかが知れている。アルファードのほうも、里菜に、手の込んだ料理を作ることとか家をピカピカに磨き立てることなど別に期待してもいないようだし、一人暮しの長い彼は自分の今までの生活に満足していて、里菜がそれをすっかり変えようとなどしたら、かえって嫌がられそうだ。 だいたい彼は、相手が里菜であれ誰であれ、また、それがドラゴン退治であれ炊事洗濯であれ、何かを人に任せるということが、実は苦手らしい。責任感が強過ぎるのと完全主義者なのとで、ものごとを人任せにできないのだろう。しかも、もともとそういう性格である上に、更に家事については、魔法が使えないことの劣等感から、すべて自分でこなしてみせたいという頑固な意地があるようだ。 こうした、彼のプライドに関わる事がらには、とにかく何も口を出さないのが得策だということを、里菜はもう学んでいた。 里菜は、しばらくアルファードと生活を共にするうちに、彼が、最初に思ったような――そして村の人たちの多くがずっとそう思ってきているらしいような――、すっかり人間のでき上がった、超然と悟り切った聖人君子などではないことに、いやおうなしに気づいていた。彼は彼で、実はそれなりに、けっこう難しい人なのだ。 一度、里菜は、ささいなことで、魔法を使えないことへの劣等感という、彼の『竜の逆鱗』に触れてしまったことがある。重い桶を担いで水汲みに往復し、汗水たらしているアルファードに向かって、何の気なしにこう言ってしまったのだ。 「魔法を使える奥さんをもらったら、こんな苦労は、いらなくなるね」 そのとたん、アルファードは、振り返りざまに里菜をキッと見すえて、吐き捨てるように言った。 「そして、一生、赤ん坊のように女に世話されろというのか」 その、普段温和で冷静な彼にはあるまじき刺のある口調に、里菜は、兎のようにビクッっとすくみあがった。 あれはまだ、あの牧場《まきば》でのドラゴン退治より前のことで、里菜はその時、アルファードの怒った顔を初めて見たのだ。怒った顔といっても、たいして表情が変わるわけではなく、普段よりほんのちょっと目つきが険しくなるだけなのだが、もともとが精悍な顔立ちなので、それだけで印象が一変して、はっきり言って、結構怖い。 怖いといっても、別に怒鳴るわけでも暴力を振るうわけでも物に当たるわけでもなく、また、いつまでも怒っていて口もきいてくれないというわけでもないのだが、いつも、普通なら怒られて当然の失言や失敗を何でも優しく許してくれる彼がほんの一瞬垣間見せた暗い激情は、里菜にとって、ちょっとした衝撃だった。 彼は、あまり表に出さないが、実は非常にプライドが高く、しかもそれは、どうやら、魔法が使えないことへの強い劣等感の裏返しであるらしい。そのため、彼のプライドは、非常に脆く、傷つきやすいのだ。 そんなアルファードにとって、自分と同様に魔法の使えない里菜は、この世でただ一人劣等感を刺激されずに一緒にいられる相手であり、里菜が彼のそばにおいてもらえるのも、もとはといえば、たぶん、そのためだ。 里菜はそのことを、ちゃんとわきまえていた。 きっとアルファードは、この世界のことをまだよく知らない上に魔法も使えない里菜のことを、何もできなくて何も知らなくて決して自分の優位を脅かさない都合の良い相手、おとなしく従順で扱いやすいペットのように思っているのだろう。 あまり嬉しい思われようでもないが、たとえどんな理由からでもアルファードが自分をそばに置いてくれるなら、里菜はそれで良かった。そのポジションに収まっているかぎりアルファードはいくらでも優しく寛大で、頼もしいアルファードにすべてを任せきっておんぶにだっこで暮らすのはそれは居心地が良かったから、里菜はなおさら、そのポジションに馴染んでしまった。 里菜は、アルファードのヴィーレに対する微妙な劣等感と、それゆえの敬遠も見抜いていた。 アルファードは、自分でも気が付いてはいないかも知れないが、たぶん、ヴィーレの焼き菓子が実は苦手なのと同様、ある意味でヴィーレが苦手なのだろう。 ヴィーレは、母親のように彼の世話を焼くことで、彼のものやわらかさの下にあるプライドを傷つけてしまう。彼らの関係は、一見、ヴィーレがアルファードに一方的に献身を捧げているように見えるが、実はアルファードは、ヴィーレの、ままごとの母親めいたやさしさに逆らえないのだ。彼はヴィーレを大切に思ってはいるが、一方で、彼女の献身を、どこか息苦しくも感じているのではないだろうか。 だから里菜は、ヴィーレのように、アルファードが自分の仕事だと思っている領分にむやみに手出しはするまい、しかもヴィーレのようにそれをいとも易々とアルファードより格段にうまくやって見せたりは、なおさらするまいと――といっても、里菜にはどうせ、やろうと思っても本当にできないのだが――いつのまにか心のどこかで自戒していた。 そういうわけで、家事について、アルファードが、あくまで自分が責任者で里菜はせいぜい助手として指示通りの手伝いをしてくれればいいという程度に思っているらしい以上は、里菜は、あえて出しゃばる気はなかった。 里菜としても、まあ、本当に家事が好きでぜひやりたかったというわけではなし、不慣れな別世界で、もともとろくにやったこともない家事を、ただ女だからというだけで生まれつき出来るように思われ、当然のように一任されてもそれはそれで困っただろうから、楽といえば楽、得といえば得だが、どうせ家にいるのに何の役にも立たないのも、さすがに気が引ける。いくらなんでも、これではあんまり役立たずすぎて、子供のお留守番と変わらないではないか。 考えてみれば、自分はもともと、あちらにいた時から役立たずだったのだと、里菜は、ここへ来て初めて気づいていた。 あちらにいる時は、里菜は、親掛かりの学生であり、ただ勉強だけをしていれば良かった。たまたま勉強は嫌いではなく、わりと適性もあったようで、それほど苦労しなくてもそこそこの成績をとれ、夜遊びだの喫煙だのは別にしたいとも思わなかったので、学校では、多少引っ込み思案ではあっても真面目な優等生として評価されてきたし、そのことで親の期待にもそれなりに応えていると思っていた。そのために、自分が本当は一人では何ひとつできない子供だということに、あまり気付かずに済んでいて、何となく、自分がもう一人前であるかのように錯覚していた。 でも、よく考えてみれば、自分は、これまでも、今も、自力で生きていく術を、何ひとつ持っていないのだ。 今はアルファードに頼り切って生活しているけれど、あちらでも、里菜は、ずっと、父母に、社会に守られ、養われている子供に過ぎなかった。そして、あちらにいたころは、そのことを意識することさえ、ろくになかったのである。 でも、いくらこれまで、常に誰かに守られることを当然の権利と信じて生きてきた里菜でも、その相手が実の親ではなく、赤の他人であるアルファードとなれば、いつまでも、養ってくれて当たり前と思っているほどずうずうしくはない。 一応、やはり少しは何か恩返しをすべきなのだろうと思う。 それなのに、仕事を手伝えないだけでなく家事ひとつ満足に出来ないのでは、他に何をしていいか分からない。 だが、里菜にも、すぐに新しい仕事がころがりこんだ。それが、ローイとの『託児所』だ。 このへんの農村では、学校は、主に、農閑期である冬に集中して授業をする。新学期が始まり、幼い弟妹の世話をする年かさの子供がいなくなった今、あいかわらずろくに働かずヒマそうにブラブラしているローイのところに、学令前の子供たちがまとめて押しつけられた。その子供たちを連れてローイが毎日のように里菜のもとに訪れるうちに、自然と里菜も子守りを手伝うようになったのだ。 ローイと里菜がアルファードの家で子供たちを預かって、よく面倒を見てくれるということが知れ渡ると、そこに集まる子供はますます増え、子供たちは、バターだのチーズだの、アルファードが自分で作れないような食べ物を、子守りのお礼として親からことずかってくるようになった。それは里菜に、自分が村の一員として認められ、少しは人の役に立っているのだという気持を抱かせたし、居候としてアルファードの乏しい食べ物を食い潰すだけだった自分が少しでも食いぶちを稼いだということが嬉しかった。 一人っ子の里菜は子供の世話などしたことがなかったが、そこはローイが子守りの先輩としていろいろ教えてくれ、子供たちも里菜に懐き、里菜も心から子供たちをかわいく思うようになっていた。 「ねえ、あたしたち、託児所やってるみたいね」 あるとき里菜がそう言うと、ローイはけげんな顔をした。 「なんだ、そのタクジショっていうのは?」 どういう仕組みかしらないが、どうも、ここでは、里菜の言葉は、どこかで自動的に翻訳されて相手に伝わっているらしい。その『翻訳』が伝達の過程のどこで起こっているのか――自分の口からは日本語が出ていて、それが相手の頭の中で『翻訳』されるのか、それとも、自分の口から出る段階ですでに『翻訳』されているのか――は、どうにも確認のしようがないのだが、いずれにしても、最初から、互いに別の言葉を話しているという違和感を感じることなく、普通に会話ができている。ただ、固有名詞や、お互いの世界にない事物を指す言葉などは、『翻訳』されずに、そのまま伝わってしまうらしいのだ。 里菜が託児所について説明すると、ローイは、大喜びで叫んだ。 「なあるほど! そういや、そういうものがありゃあ便利だよな。なあ、リーナ、俺と一緒に都へ出て、都でタクジショ始めないか? 都では、外で働いている母親はいっぱいいるんだが、ばあさんなんかが一緒に住んでないうちでは、いろいろ苦労してるらしいぜ。そういう家の子を、金とって預かる。まずは小さな家を借りて二人で始めてさ、うまくいくようなら、だんだん手を広げて、何軒も家を借り、人も雇って、大々的にやるんだ。そうなったら俺たちはもう金持ちだから、父親のいない子供とか母親が病気して困ってるうちの子なんかは、うんと安く預かってやったっていいよな。毎日ガキどもと楽しく遊んで金を儲け、人の役にも立つ。これはすばらしいぞ!」 まさか本気ではないだろうとあいまいに笑って済ませた里菜だが、確かに彼は、託児所経営に向くかどうかはともかく、保父さんには向いていると思ったのだ。 ローイが器用に作ってやったおもちゃで、子供たちがおとなしく遊んでいるときは、里菜とローイは、あれこれとおしゃべりをした。ローイは、子供たちに歌をうたったり、お話をしてやるだけでなく、里菜にも、名調子で、この国の伝説や、歴史を題材にした物語を語ってくれた。それは里菜にとって、面白いだけでなく、とても勉強になったが、もっともローイの語るのは、伝説であるから、必ずしも史実どおりでないのだろう。 一度、里菜は、ローイに聞いてみたことがある。 「ねえ、ローイ、ラドジール王って、本当にいた人なんでしょ?」 「ああ、そうだぜ。ちゃんと、学校の歴史の時間でも教えている、有名な昔の王様だ。でも、ラドジールが本当に伝説で言われているような食人王だったかどうかは、俺は知らねえよ。まあ、戦乱の世に平民から王様にのし上がったなんて男が、人を山ほど殺してないわけはないし、そのなかには当然、女も大勢いただろうし、彼の言動に少々常軌を逸したところがあったとか、お妃が次々早死にして、十三年の在位の間に結局十二人の妃を娶ったとか、最後は城の物見の塔から落ちて死んだとかいうのは史実らしいぜ。でも、一年に一人づつお妃を迎えて、それをみんな婚礼の晩に殺して食っちまったとか、死んだ恋人が彼の腹の中で予言をし続けてたなんていうのは、いくらなんでも、作り話だろうさ。だいたい、負けた国の王様なんて、ろくなこと言われるわけねえんだ」 「ラドジールの国は、負けたの?」 「そうさ、だから今、カザベルじゃなくてイルベッザがこの国の首都なんじゃないか。でも、負けたのはラドジールが死んでからだよ。彼が生きているうちは、連戦連勝、負け知らずだったってさ。だから今でも北部、特にカザベルじゃあ、ラドジールは英雄なんだ。もしあんたが、ラドジールって名前のやつに会ったら、まずまちがいなく、そいつはカザベルの出身だぜ。北部のやつの前で、あの物語をするなよ。絶対、怒るからな」 「北部の人は、この辺にもいるの? 会ったら、わかるの?」 「この村には、いないよ。でも、プルメールあたりまで出れば、いろんなところの出身の人がいる。そうそう、ヴェズワルの山賊も、大半が北部からの流れものらしいぜ。北部のやつは、言葉がなまってるし――もっとも、あっちに言わせりゃ、俺たちのほうがなまってるんだそうだが――、なんとなく貧乏臭くて服装もダサイから、すぐ分かる。北部は気候が厳しいし、土地も痩せてるから、昔から貧しいんだ」 やっぱり、ローイの話は、ためになる。これで里菜は、南部と北部の間に歴史的ないきさつからくる微妙な反目が残っているらしいことも、知ることができたわけだ。 こうして里菜は、ほんの数日の内に、この国について、無口なアルファードが一月半のあいだに話してくれたよりも多くのことを、ローイから教わっていった。 今日も、里菜とローイは、子供たちを見守りながら、おしゃべりに興じていた。 ローイとひとしきり乱暴な遊びに興じた子供たちは、いまはおとなしく、家の中で積み木遊びをしている。ローイの背中では、さっきまでぐずっていた赤ん坊が、いつのまにかぐっすり眠っている。 たあいないおしゃべりをしながら、夕食の材料を物色しはじめた里菜が、つぶやいた。 「あ、いけない。パンが、もう無いわ。アルファードに買ってきてくれるように頼んどけばよかった」 「なに、パンが無い? なら、買いに行けばいいじゃないか。一緒に行こうぜ」 「ううん、だめなの。アルファードに買って来てもらうことになってるの」 「なんで? まさか、あいつ、仕事にいく時、家に金を置いとかないで、全財産持ってっちまうわけ?」 「ううん、そうじゃないけど、アルファードが、勝手に外に出るなって……」 「なにい? 外に出るなぁ? なんでまた、そんな無体なことを」 「ほら、あたし、変な力があるじゃない。それで、人に迷惑をかけると困るから……。家のまわりはいいんだけど、村の、ほかの人がいるようなとこへは、一人で行くなって」 「だって、あんた、もう、その力、抑えられるようになったんじゃねえの?」 「うん。でも、アルファード、慎重だから。それに、山賊が出ると怖いし」 「山賊だあ? 何も俺は、あんたを寂しい山道に引っ張り出そうってんじゃないんだぜ。パン屋は村のど真ん中だよ。そんなとこに白昼堂々と山賊が出るとしたら、それはよっぽどの大襲撃で、そんなのにまきこまれたら、その時はその時で、そりゃもう、しかたないだろうさ。アルファードになんと言って脅かされたか知らねえが、まっ昼間っから山賊が怖くて買い物に行けないなんていったら、誰もこの村で暮していかれないじゃないか」 そう言いながら、ローイはあきれて、まじまじと里菜を眺めた。 (バカか? そんなの、口実に決まってるじゃないか。アルファードは、ただ単に、あんたを閉じ込めておきたいんだよ。あいつはそういうやつなんだ。まったく、この仔猫ちゃんときたら、アルファードがどんな無体なこと言っても、露ほども疑問を持たないんだからな。恋は盲目というが、こりゃ、重症だな) そのときローイは、よっぽど里菜にこう言ってやろうかと思ったのだ。 『あんた、自分の置かれてる状況ってもん、分かってる? そういうのを、軟禁状態、もっと言っちまえば、飼い殺しっていうんだぜ』 が、さすがに、その言葉はあやういところで呑み込んだ。里菜の前でアルファードの悪口と取られるようなことを言ったら、自分がのほうが憎まれかねないのは分かっているのだ。 こうなると、ローイは意地でも里菜を連れ出したくなる。 「な、行こうぜ。アルファードは、一人で村に行くなって言ったんだろ。俺と一緒ならいいじゃないか」 「うん、でも……」 「大丈夫だって。俺だって自警団の副団長だぜ。いざとなったら、あんたの一人くらい、守れる。山賊くらい、おっぱらってやるさ」 「だって……」 「ああーッ、じれってえなあ! その、『でも……』とか、『だって……』とかいうの、頼むから、やめてくんない? あんた、一生ここに閉じこもって過ごしたいわけ?」 「そんな、一生だなんて。ただ、しばらくの間、あたしがもっと魔法に慣れるまでだけよ」 「バカか、あんた。アルファードが『もう大丈夫』というころには、あんた、ばあさんになってるぜ。だいたい、やつは心配症なんだ。いいから来いよ。俺が責任持つって。もし後でアルファードのやつが何か文句言うようなら、俺んとこへ言いに来さしてくれ。おーい、ガキども、買い物に行くぜ! ついて来い! さあ、リーナ、あんたも、来な」 そう言うなり、ローイは本当に、子供たちを引き連れて出ていってしまった。 里菜はあわてて戸口から叫んだ。 「待ってよ、ローイ! 行くから、ちょっと待って。お金、持っていかなきゃ」 「そうだろ? やっぱり来るんだろ? たかがパン買いに行くぐらいで、ぐだぐだ言わずにさっさと来りゃあいいんだよ」 満足気にそう言ってゆっくりと歩き出したローイの後ろを、小銭を握った里菜が、小走りに追いかけていった。 アルファードの家は、村の中心部から少し離れている。 遠足にでも行くようにはしゃいでいる子どもたちを引き連れたローイと里菜は、広場へ向かって、並んで歩いていった。 里菜が広場へいくのは、別に初めてというわけではない。牧場《まきば》へ行っていたころは、夕方、ここで羊たちを持ち主に引き渡していたし、その時ついでにパンや雑貨を買ったりもしていたのだ。でも、そのときは必ずアルファードと一緒だった。アルファードと一緒にではなく村の中心部に行くのは、初めてだ。 そう思った里菜は、ほんの少し緊張しながら、あらためてあたりを見回した。 最後にこの道を通ってから、半月ほどたっている。その間に、道沿いの畑も木立も、すっかり冬めいてしまったように感じられる。冷たく澄んだ空気と、金色の午後の日差しが心地よい。子供たちの元気な声を聞きながら歩くうちに、アルファードの言いつけを破った後ろめたさで強張っていた里菜の気持ちも、のびやかにほぐれてきた。牧場《まきば》に行かなくなってから、里菜はずっと、アルファードの家とその庭を離れたことがなかったのだ。解放感が、緊張と後ろめたさに取ってかわり、里菜は大きく伸びをして、空を見上げた。 そんな里菜の様子を横目で見ながら、道中のあれこれを面白おかしく解説していたローイが、ふいに真顔になって、こう言った。 「あんた、アルファードに、惚れてんだろ。なんでまた、あんな堅物に。あんた、あいつにゃ、勿体ないよ」 突然の言葉に、里菜は真っ赤になった。 「な、なんでわかるの?」 「なんでって、あんたまさか本当に、わからないつもりだったのかよ。そんなの、誰が見たってわかるさ。今だって、そんなに真っ赤になってさ。あんたがアルファードのあとをついて歩いてるとこは、まるでアヒルのヒナみたいだぜ。……でも、けちをつけるつもりはないけどよ、あんたのそれはさ、恋っていうより、ほら、アヒルのヒナが最初に見たものを親だと思ってくっついて歩く、あれとおんなじなんじゃねえの? あんた、この国に来て目を開けて初めて見たのがアルファードだったろう。そんでアルファードのこと、親鳥だと思いこんじまったとかさ。いや、気に障ったら許してくれよ。俺、思ったことは、すぐみんな言っちまうからさ」 里菜は、ちょっと驚いて、それから考え込んだ。 言われてみれば、自分のアルファードへの想いは、たしかに、それに近いものかもしれないという気がしてくる。もとより里菜は、どういうのが恋でどういうのがそうでないかなど自分に区別できるとは思っていないが、それにしても、自分はただアルファードに頼り切っていて、いつも甘えていたいだけで、それは、恋愛感情というのとは、さすがにちょっと違うような気もするのだ。なるほど、親鳥を慕うヒナと変わりない。 だいたい、よく考えてみれば――よく考えてみるまでもなく――、アルファードは、もともと、里菜の好みのタイプというわけでもないのである。極端にオクテであまり恋愛に興味のなかった里菜に、それほどはっきりした異性の好みというのがあったわけでもないのだが、少なくとも彼のようなやたらと男っぽいタイプは絶対に好みでなかったことだけは確かだ。好みであるとかないとか考える以前に、そもそも、まるっきり対象外で、視野にも入って来なかっただろう。 だから、例えば、里菜がアルファードと『あちら』の世界の日常生活の中でたまたま普通に行き合っていても、彼に特別な関心を持つことは、まず無かっただろうと思う。 まあ、タイプとして好みであろうとなかろうと、人柄を知ってみたら実は良い人だったというなら好きになっても不思議はないが、あんなふうに、ほとんど一目で彼に恋に落ちてしまったというのは、確かに、なんだか不自然だ。 いや、そう言えば里菜は、一目惚れどころか、顔もろくに見ないうちから、すでに彼に恋していたような気がする。恋をしていたというより、はっきりした根拠は何もないのに最初から彼を信じ切っていて、川から抱き上げられて運ばれて行く時も、その腕の中であんなに安心しきって、うっとりと眠りかけたりしていたのだ。 顔もよく見ず、人柄も知らないうちに、恋ができるものだろうか。 だいたい、いくらまだ意識が朦朧としていたからといって、自分が見知らぬ男の腕の中であんなふうに安心して眠り込むなんて、よく考えてみれば、確かに変だ。『刷り込み現象』のなせるわざとしか考えられない。 今まで、自分では一人前に彼に恋をしているつもりでいたが、もしかすると、これは、ただ、『刷り込み現象』を恋と錯覚しているだけなのだろうか。 ローイは、一生懸命考え込んでいる里菜を覗き込んで、ふいにおどけた調子で言い出した。 「でも、もったいねえよなあ。あんた、大損してるぜ」 「え? 損って、何が?」 「だってよ、この国に、男はごまんといるのに、たまたま最初に見たのがアルファードだったからって、あんたみたいなかわい子ちゃんが、あんな朴念仁に惚れちまうなんてよ」 「別に、最初に見たから好きになったなんてわけじゃ……」 「いいや、そうだ。そうに決まってる。あんたの国には、こういう話はないのか。ほら、小箱の中に、親指くらいのきれいなお姫様が閉じ込められてて、たまたまその箱の蓋をあけた貧しい若者のお嫁さんになる、みたいな話」 「うーん、もしかするとどこかにあるかも知れないけど、あたしは聞いたことないわ。壷とか瓶とかランプとかに閉じ込められていた魔神が、蓋を開けて出してくれた人の願いをかなえてくれるって話なら知ってるけど」 「あははは、壷の魔物か。そういう話なら、この国にもあるよ。壷から出してもらった魔物は、助けてもらった恩のために、出してくれた人の言うことは何でも聞かなきゃならなくなるんだ。こりゃあ、いいや。あんた、まさに、それを地でいってるよ」と、ローイがあまり大笑いするので、里菜は思わず、むっとした。 「なによ。どういう意味?」 「まあ、怒るなよ。だってあんた、アルファードのいいなりじゃん」 「そんなことないわ!」 「まあまあ、怒るなって。でも、あんたじゃ、壷の魔物の役は、ちっと無理だなあ。たしかに不思議な力があるっちゃあ、あるかもしれないが、それで何が出来るってわけでもないしな。やっぱ、どっちかっつうとシルグリーデ姫だよな。あ、その、箱の中のお姫様、シルグリーデ姫っていうんだよ。 で、さ。彼女は、実は、悪い魔物に、誰でも最初に箱を開けたものに恋をしてしまうって呪いをかけられてたのさ。魔物は、その美しい姫に惚れて結婚を申し込んだんだが、ふられちまったんだ。その腹いせに妖術で姫を小さくして箱に閉じ込め、そんな呪いまでかけて、姫がどんなに愛しても決して振り向いてくれないような男に箱を開けさせようと企んだんだ。ところが魔物は、そういう男を探して世界中を飛び回っているうちに、空の上から、箱を落してしまった。きっと、ちょっとマヌケな魔物だったんだなあ。それから何百年もたって、貧しいけれど心のきれいな若者が箱を見付け、箱から出してもらった姫はもとの大きさに戻って、ふたりは結ばれ、めでたしめでたしってわけ。 それでだな、俺が言いたいのは、あんたにもシルグリーデ姫みたいに何かの呪いがかけられていたんじゃないかってことだ。それであんた、アルファードに惚れちまったわけ。そして、それが大損だっていうのさ。だって、あんたがもしも呪いから解き放たれ、目をさましてあたりを見回してみれば、あんたが恋するのにもっとふさわしい相手が、すぐそばにいることに気がつくはずだぜ。そう、今、ここに、あんたの隣にだよ!」 そう言ってローイはケタケタと笑い出したので、からかわれたと思った里菜は、つん、と、横を向いた。 ローイは笑いを収めて、唇を尖らせた里菜の様子を眩しげに横目で見やって、言葉を続けた。 「でもよ、なんであんたがアルファードに惚れるのか、わかんないんだよな。いや、アルファードが怪物みたいに不細工だとか、ひどく意地が悪いとか、そういうことはないんだが、ただ、俺から見ると、あんたとアルファードって、相性はあんまりよくないように見えるんだ。……ていうか、まあ、割れ鍋に綴じ蓋で、それなりに相性はいいのかもしれねえが、でも、それに安住してると、あんた、ダメになると思う。あいつは、あんたをダメにする。あっちこっちへ伸びあがろうとするあんたの心を力で押えつけて、あんたの魂を矯めてしまうだろう。 ……アルファードはな、普段、あんまり温厚でおとなしいから、誰も気付いていないと思うが、あれは、なんていうか、人を支配するタチの男なんだ。そして、あんたは、あんな野郎におとなしく支配されてるような女じゃないはずだ。俺、人間を見る目には、ちょっと自信があるんだぜ。あんたは、ヒナ鳥か飼犬のようにアルファードの後をついてまわっているが、もともと、あんたは、男の後を黙ってついていくってタイプじゃねえだろう。それなのに、アルファードの前では、あんたは、ついていく女になっちまう。それが恋だと言われればそれまでだが、アルファードの前では、あんたは本当のあんたじゃなくなっちまうんだ。今はそれでよくても、そのうち、ムリがでてくるぜ」 たしかに、彼の、ひとを見る目は確かだ。一見軽薄なだけに見えるローイが、繊細で鋭い感覚も持ちあわせているのを、里菜はもう、知っている。 アルファードの前で、里菜が自分を失っているというのは、たぶんそのとおりだろう。里菜はそれを、ただ、恋をしているせいだと思っていた。恋をした女の子は、みんな変わってしまうんだと思っていた。だが、ローイにこんなふうに指摘されると、それが不自然なことにも思えてくる。里菜は、なぜだか言い訳する口調になって言った。 「でもローイ、アルファードは、そんな人じゃないわ。絶対いばったりしないし、それにやさしいし……」 里菜のよわよわしい反論を、ローイが、彼にしては強い口調で遮った。 「やさしいから支配しないってものじゃないんだ。冷酷な暴君も、思いやり深い明君も、支配者には違いないだろう。あいつは、あの、父親みたいなやさしさで、保護者づらして人を支配しようとするんだ。だから俺は、あいつとは友達だし、いいやつだと思っているが、時々あいつに我慢がならねえ時もあるんだ。俺は、たいして年上でもねえ赤の他人に父親面されるのはごめんだからな」 それからローイは、一転して、茶化すような軽い調子になって付け加えた。 「ま、色恋ってのは理不尽なもんで、どういうものか、一緒にいて幸せになれるやつを好きになるとは限らないんだよな。わざわざ、つらくなるようなやつを選んで恋をしてみたりする。そこが色恋の、奥の深いところってもんだ。だからあんたが、それでもアルファードがいいってんなら俺は止めねえよ。まあ、いつまでもつことやら、せいぜい頑張ってみな。何事も経験ってやつさ。実は俺のほうがあんたにふさわしいってことに気付くのはそれからでも遅くないぜ。いや、そのほうが、俺の有難みがよくわかろうってもんだ。そうさ、そういう遠回りが、いっそうふたりの愛を燃え上がらせるのだ!」 ローイは、芝居がかったしぐさで両手を広げて叫んだ。ただでさえ滑稽なしぐさが、赤ん坊をおぶっているので、よけいおかしい。 里菜はローイを睨んで見せたが、彼の愛敬につりこまれて、つい笑い出してしまった。 「もう、何よ、ローイってば! 何が、『ふたりの愛』よ! ふたりって、誰と誰?」 「わかってるくせに! 照れるなよ」 慣れ慣れしく里菜の肩を叩いて、ローイは大笑いを始めた。 ひとしきり笑いころげたローイは、また急に真摯な声音で言った。 「でも、ほんと、冗談抜きでさ、アルファードといるのがつらくなって、やめたくなったら、いつでも俺のとこへ来いよ。俺、ずっと……待ってるから」 それはまるで、突然仮面がはずれたような、素直な言葉だった。少なくとも、そう、聞こえた。 里菜は、不意打ちをくらった思いで、少しうろたえて、目をそらした。 が、ローイは、すぐに、いつものおどけた顔に戻って、ケラケラ笑いながらつけくわえた。 「……なーんてね!」 「ふんだ、ローイのバカ! 何があったって、あなたのとこへなんかだけは、絶対行かないもん!」 里菜は、かすかに頬が赤くなってしまったのをごまかすために横を向いて、ひときわツンツンして叫んだ。一瞬でも、ドキッとしてしまった自分が悔しかったのだ。 「おお、おお、元気、元気。いいことだ! さすが、素手でドラゴンに立ち向かった女の子だけのことはあらあ。あんた、俺の前では、随分威勢がいいよな。アルファードの前じゃ、まるでしおらしいくせしてよ。でも、俺、こういうあんたの方が好きだよ」 この、最後の一言は、里菜に聞こえないように、口の中でそっと呟かれたのだった。 後ろでは、子供たちが、ふたりの会話など気にも留めずに騒いでいる。 幾度か、道沿いの畑や庭で、急がしそうに働く人影が見えた。彼らは、一行が通り過ぎるのを、めずらしそうに手を止めてながめ、何人かは遠くから里菜に手を振り、声をかけてくれた。里菜は笑顔で小さく手を上げて、あいさつを返した。 このあたりでは、冬はどんより曇って小雪が舞っていることが多い。だが、本格的な雪の季節の訪れを前にして、毎年必ず、今日のようなよく晴れた日がしばらく続く。その、冬の初めの短い黄金の日々を、村人は<女神の贈り物>と呼んで、季節に追い立てられるように忙しく冬支度に精を出すのだ。道すがら見掛ける誰もがせわしなげに働いている。働き者の村人は、いつでも忙しいのだ。 「おや、リーナ、今日はローイと一緒かい? あんたがアルファードと一緒じゃないとこを見るのは、初めてだよ。でも、そういえば最近あんたを見掛けなかったね」 広場に面したパン屋のおかみさんは、里菜とはすっかり顔馴染みだ。自分でパンを焼くことができないアルファードは、この店の上得意なのである。 広場では、何人もの老人たちが、椅子を持ちだしたり縁石に腰掛けたりして、日向ぼっこをしながら世間話をしたり、何やら細かい手作業をしたりしていた。広場の近くに住む年寄りたちは、天気がいい日はいつもこうして広場に座っているのだが、今まで里菜は、夕方、老人たちがもう家に引っ込んだあとに来ることが多く、こんな早い時間の広場の賑いを見るのは初めてだ。 里菜はおかみさんに笑顔を返して答えた。 「うん。ずっと家にいたから」 「あら、そう? どこか悪かったの?」 「ううん、そうじゃないんだけど、出掛ける用事、無かったし。それに、うちで子守りしてたから」 「ああ、そうよねえ。今日も大勢引き連れて。みんな、有難がってるわよ、ほんと助かるって。<女神のおさな子>に子守りをしてもらうなんて、もったいないことだよ。だいたい、この時期、毎年、子守りに困ってたのよ。ローイだって、ぜんぜんあてにならなかったし。ローイ、あんた、今年はずいぶんと落ち着いて村にいるじゃないの。去年はすぐ、よその村の娘っ子にちょっかい出しに、子守りを放り出して、ふらふら行っちまってたのにさ」 「やだあ、ローイってば。よその村までナンパしに行ってたの?」 里菜に横目で見られて、ローイは頭を掻いた。 「おばさん、それ、言うなよ。今年の俺は、もう、去年とは違うんだ。心を入れ替えたんだよ! こんなに毎日毎日、真面目に子守りに精出す俺なんて、見たことないだろ」 「どうせなら、子守りだけじゃなくて、ほかの仕事もやっとくれよ。あんたの義姉さん、昨日もこぼしてたよ! なんのために、そんなでっかい図体してるのさ。まったく、いい若い衆がぶらぶらして……」 「説教はいいから、パンくれよ、パン。アルファードがいつも買ってるやつ」 「はいよ、どうぞ。これ、おまけ。リーナの好きなお菓子だよ。じゃあリーナ、またね」 「うん、おばさん、ありがと。またね」 里菜がパンを買っているあいだに、老人たちの何人かがこそこそと立ち上がって家に入っていったことに、広場に背を向けていた里菜たちは気づかなかった。 パンを抱えた里菜とローイが広場を後にしようとした時、誰かが背後から、しわがれた声で叫んだ。 「二度と来るな! この悪霊め」 その、悪意に満ちたざらついた声に、里菜の足はすくんだ。冷たい手で、首ねっこを掴まれたような気がした。 (悪霊って……。あたしの、こと?) 怯えた里菜を後ろにかばうようにして、ローイは振り返って仁王立ちになった。 「今の言葉、誰に向かって言ったんだ? え?」 ローイは、すごみを効かせて広場を睨めまわした。 「聞きずてならねえなあ。来るなとは、どういうことだ。リーナは、この村の住人だぜ。村の住人が、村の共同の広場に来て、何が悪い!」 ただならぬ空気に怯えた子供たちが、不安げにローイの足元に寄り集まって、広場に目をやった。広場にいる老人たちや、回りの店の主人や客は、しん、と静まりかえって成り行きを見守っている。 「今の声は、オードのくそじじいだな。何、こそこそ隠れてやがる。言いたいことがあったら出てきて言えよ! 何でリーナがここへ来ちゃいけねえんだ!」 ローイの目が、広場に面した一軒の家のドアに止まった。 ドアが、細く開いている。その向こうに、人の気配があった。 ドアの隙間から、さっきのしわがれた大声が響いた。 「その娘は、村に災いを呼び込む不吉な悪霊だ。ローイ、お前もそんな娘にかかわりあうんじゃない!」 「なんだよ、どんな訳があってそんなひどいこと言うんだよ! リーナが、何か、悪いことしたっていうのかよ!」 「その娘が、毎日のようにこの広場へ来てた頃、わしの家ではチーズに悪いカビが生えたし、ミルクもすぐにすっぱくなった! 言っておくが、そんなことは今までにはなかったぞ! その悪霊めが、邪眼で保存の魔法を消しくさったに違いない」 「なんだ、そりゃあ? オードじじい、あんた、ボケちまったんじゃねえの? あんたんとこのミルクが腐ったのは、本当だろうさ。でもそれは、保存の魔法のかけかたがいいかげんだったか、あんたがモウロクしちまって魔法の力が弱くなっちまったからだろうよ。リーナは、保存の魔法は、消せないんだ。そんなバカげた理由で他人を中傷しないでくれよな!」 そう、確かに里菜は、保存の魔法のようにあらかじめ物にかけてある目に見えない魔法は、最初から、消すことが無かった。里菜が消すのは、目の前で使われる目に見える魔法だけなのだ。それを、ローイは、よく知っている。 が、老人は、そんな言葉には耳を貸さなかった。 「わしらが女神から授かった魔法を消してしまうなどという、世のことわりに背く力を持つものが、女神の御子でなぞあるわけがない。その娘は魔性の者だ。わしらの魔法の力を消して、ふぬけにしておいてから、魔物たちと魔王の灰色の軍勢を村に導く算段に違いない。ええ、そうだろう? 親切ぶって子守りなどしているのも、そうやって子供たちを手なずけておいて、いつかまとめて力を奪い、村を乗っ取るために決まっておる。だからわしは、口をすっぱくして、みんなに言っておるのだ。自分の子供をかわいいと思うなら、あんな、どこから来たかもわからぬ怪しげな娘に触れさせるなと!」 その声に含まれた、激しい憎悪と恐れ、そして見知らぬ者に対する警戒の念が、ほとんど物理的な暴力のように里菜を打ちのめした。里菜は、我しらず一歩よろめいて、ローイの腕にすがった。 「おい、いいかげんにしろ、このモウロクじじい! あんた本当にボケてるぜ。いいか、リーナはな、魔法の力そのものを消しちまうわけじゃないんだ。その時々で使われる魔法を消すだけだ。それだって、今は、消さないことだって出来るようになったんだ。もう、誰にも迷惑はかけないはずだ。それなのに、そんな訳のわからんたわごとを抜かしやがって! いくら年寄りは敬わなけりゃならないったって、そこまで言われて黙ってなきゃいけねえって法はないぜ。リーナのことをそんなふうに言うやつは、たとえ年寄りでも許せねえ! 出て来いよ、この卑怯者!」 「誰がそんな挑発に乗って、おめおめと邪眼の前に姿をさらすものか。わしは知っておるぞ! その娘の黒い目で睨まれると、魔法の力が吸い取られてしまうのだ!」 広場の老人たちの幾人かが、もごもごと口の中で賛同の言葉をつぶやいて里菜から目をそらしたのが、いっそうローイを逆上させた。 ローイは、ことさら大声を張り上げた。 「ははあ、じいさん、怖いんだな。こんなちっぽけな、年端もいかない女の子が。ハ! こいつはおかしいや!」 「ふん、どうせその姿は、人を油断させるための見せかけだ。その目を見れば、その娘が見かけどおりのものではないのがわかろうに! その悪霊めは、そんなふうに、いかにも罪のない無力な小娘を装ってわしらを油断させ、村に災いを引き込むころあいを計っておるのだ! ローイ、お前はその小娘にたぶらかされておる。その娘の本当の齢など、わかったものじゃないぞ!」 そこで老人は、ふいに思い出したように矛先をローイに向け、日常的な説教の口調になって続けた。 「ローイ、お前もお前だ。いい若い者がろくに仕事もせんで、そんな破廉恥ななりをして子供と一緒になって遊び回っているとは、世も末だ。それだけでも嘆かわしいのに、その上、そんな得体の知れぬよそものの娘といちゃつきおって。村中の娘っ子に色目を使うだけじゃ、まだ足りんのか。まったくもって浅ましい。恥を知れ、恥を!」 ローイは気色ばんで叫んだ。 「なんだって! 誰が、リーナといちゃついてるって! 確かに俺は、村中の女の子全員に分け隔てなく色目をつかっているが、リーナにだけは、まだ、なんにもしてねえぞ!」 ローイは大真面目に自己弁護のつもりで叫んだのだが、これには、誰もが思わず失笑した。張り詰めていたその場の雰囲気が、ふっと緩んだ。 それまで息を詰めるようにしていた人々が、ざわざわと騒ぎ始めた。 「オード、いくらあんたがその子を気にくわないにしたって、そりゃあ言いすぎじゃないか?」 「そうそう。ローイの言うとおり、ここは村の共同の広場なんだから、あんたが気にくわないからって、人に来るなとは言えないわよ。かわいそうに、リーナは怯えてるじゃないの。この子が何をしたっていうのかね。あんた、最近、偏屈が過ぎるよ」 「いや、オードの言うことはもっともだ。普通の魔法が使えないばかりか魔法を消してしまう<マレビト>など、どう考えても正しいものじゃない」 「ジグ、およし! どんな力があろうとなかろうと、<マレビト>は<マレビト>だよ。めったなことを言うもんじゃない。アルファードだって、魔法は使えないけど、ちゃんとドラゴンから村を守って村に女神の恵みを運んでくれてるじゃないの。この子が魔法を消すのにも、ちゃんと何か女神の御意志が働いているのさ。女神の御配慮はとても深遠だから、時に、わたしら人間には推し測れないこともある。それでも必ず、女神のなさることには理由があるんだ」 ローイが、あたりをぐるりと睨みまわして言った。 「おい、みんな。女神がどうの、悪霊がどうのと言うのは、もうやめてくんな。リーナはただの女の子なんだ。ただ、よその国から来た子で、目や髪の色が人とちょっと違って、少しだけ人と違う力を持っているってだけのことなんだ! それを、本人を前にしてああだこうだと、あんたらには、大人のくせに思い遣りってもんがないのか! オードじいさん、いいかげん、出てこいよ! このいたいけなリーナちゃんが、あんたに悪さをするように見えるかよ。出て来ないなら、俺が迎えに行くぜ。このままじゃ、気がすまねえんだよ!」 ローイが本当にオード老の家に向かって一歩足を踏み出したので、それまでショックのあまり黙って立ち尽くしていた里菜は、あわててローイの腕をひっぱった。 「ローイ、やめて! もういいの、あたし、もう、ここへ来ないから。パンはアルファードに買ってきてもらえばいいんだし」 「でもよ、リーナ……」 「ね、お願い。もう止めて。パンも買ったし、もう帰ろ、ね?」 里菜は、ぶら下がるようにして必死でローイの腕を引いた。 自分を見上げて懇願する里菜の、青ざめながらも平静を取り戻したらしい表情を見て、ローイは、ふと、気を抜かれ、とりあえず矛を収めた。 「わかった。リーナ、あんた、気丈だな。さすがは素手でドラゴンに立ち向かった……」 「もう、ローイ、それ言わないでよ、恥ずかしい。あたし、無茶なことしたって反省してるんだから……。さ、行こ」 ローイは、オード老の家のドアにじろりと一瞥をくれると、里菜に引かれるようにして広場から立ち去ろうとした。 そのとき、広場の片隅で、それまで無関心そうに座っていた一人の男が、ゆらりと立ち上がり、まっすぐに里菜を見つめて、どこか弱々しい、うつろな声で言った。 「待ってくれ……」 そのとたん、広場の雰囲気が再び一変した。みな、ギョッとしたように一瞬黙り込み、それから、どこか不自然な、取り繕うようなざわめきが起こった。 「ガイル、どうしたんだい、立ち上がったりして大丈夫かい」 「なんでもないんだよ、なんでも。その娘のことは、気にしなくていいんだ。オードじいさんが何だか言っていたが、じいさんの勘ちがいなんだから」 「魔物は来ないよ、来ない。大丈夫だから」 誰かが舌打ちして、小声で言った。 「オードのやつ、ガイルの前で魔物の話なぞ持ち出しおって!」 子供をあやすように、周囲の老人たちが彼を再び椅子に腰掛けさせようとした。だが彼は、老人たちの腕を無言で振りほどき、里菜を見つめて立ち尽くした。 里菜はまたローイの腕にしがみついた。 (何? 今度は何が起こったの?) ローイを見上げると、彼も表情を強張らせている。 「リーナ、いいか、あんたは何も言うなよ。みんなが何とか収めてくれるから」 「収めるって? あれは誰?」 里菜はそれ以上、ローイに質問することは出来なかった。 男が、ゆらゆらとこちらへ歩いて来たのだ。 それは、壮年と見られる男だった。だが、もっと年を取っているようにも見え、実際の年齢がまるでわからない。 おそらくかつては筋骨逞しかったろうと思わせる体格をしているが、今、その身体にはどこか病み衰えた気配が漂い、顔付きもやつれて表情に乏しく、生気が感じられない。それが彼を老人のようにも見せているのだ。 そういえば里菜は、彼をこの広場で幾度か見かけたことがあるのを思い出した。村の大人たちの誰もがいつも働いている中、さほどの年寄りには見えない彼がただ座っているのを見て、里菜は、病人か、一見したところ分からないがどこか身体が不自由な人かと思っていたのだ。 ガイルと呼ばれたその男は、里菜の前でぴたりと立ちどまって、うつろな目で里菜の瞳を覗き込んだ。 子供たちは、里菜とローイの後ろに寄り集まった。 男は、里菜を後ろにかばおうとするローイを無視して、無言で里菜の左手を取った。 里菜はぞっとして手を振りほどこうとしたが、病人めいた男の力は意外と強かった。 男は、里菜の腕を裏返して掌を上向かせ、手首の内側を見つめた。 白く細い手首には、魔王の夢を見た朝に突然姿を現した傷跡が、今も消えずに浮かび上がっていた。 男が、ふいに目を上げて、言葉を発した。 「あんたは、俺を救ってくれるか……?」 奇妙に無感情で、まるで遠いところから聞こえて来るようなその声の響きに、里菜は慄然として思った。 (こんな響きを、どこかで聞いた……。そう、あの、悪夢の中の魔王に似ている!) 声自体が、似ているわけではない。魔王の言葉は、耳に聞こえる音を持たなかった。 似ているのは、その声の底に重く淀んだ、絶望の気配だった。 男は突然、里菜の腕を離すと、声も出せずに立っている里菜の目の前に、どこからか素早く取り出したらしい剥き出しの小刀を、柄のほうを向けて差し出した。 「これを、取ってくれ。そして、これで俺の心臓を刺してくれ。俺はもう、こんなに弱くなってしまって、自分で自分を刺すことが出来ない。あんたこそ、俺が待っていた人だ。俺を助けてくれ」 目の前の男の後ろに、夢の中の魔王の黒い姿が見えたような気がして、里菜は眩暈を覚えた。刃物の輝きが、心の底に眠る忌まわしい記憶を呼び覚ますような不吉さで、里菜を脅かした。 「いや……。いやァーッ!」 訳がわからぬまま叫んだ里菜は、気がつくと、ローイが横から手を出して小刀を取り上げるより早く、いきなりそれを目の前からはたき落していた。 小刀は、初冬の光を跳ね返しながら、くるくると舞って地に落ちた。子供たちが目を丸くして、それを眺めた。 男は、がっくりと膝をついた。 「あんたも、俺を見捨てるのか……」 ローイが黙って小刀を拾った。 そこへ、さっき、ガイルが立ち上がったとたん広場から駆け出していった雑貨屋の主人が、息を切らして駆け戻ってきた。もうひとり、別の男が一緒だ。 新しくやってきたその男は、屈み込んでガイルの肩を抱くようにして彼を立たせながら言った。 「ガイル、そろそろ寒くなってきた。家に帰ろう」 それから里菜に向かって軽く頭を下げた。 「お嬢さん、びっくりさせてすまなかったね。弟に、あんたを傷付ける気は、なかったんだ。許してやってくれ」 「は、はい……」 里菜があっけにとられたまま頷くと、男は、こんどは広場を見渡して頭を下げた。 「みんなにも、面倒かけてすまなかった」 みんなを代表するように、一人の老婆が進み出て、男の腕の手をかけて静かに言った。 「いいんだよ、ファール。ガイルのことは、あんただけの責任じゃない。村のみんなで、気をつけてやらなきゃならないことなんだ」 広場の老人たちが、賛同を示して頷く。 ガイルはもう、あたりのことに一切の関心を失ったように、兄のファールに支えられてぼんやりと立っていた。 ローイはファールに小刀を手渡した。 「はい、これ。おじさんも大変だよな。でも、刃物だけはしっかり隠しとけよ」 「ああ、ローイ、ありがとう。いや、隠しておいたつもりだったんだがね。どうやって見付け出してしまったものだか。じゃあな。さあ、行こう、ガイル」 「さあ、俺たちも行くぜ、リーナ。今のおっさんのことは、もう心配しなくて大丈夫だ。兄貴がついてりゃ、もう心配ないから。怪我、してないよな?」 熱しやすく冷めやすいローイは、今のごたごたですっかり気勢をそがれて、里菜をつれておとなしく立ち去った。広場の老人たちも、ドアを半分開けて首を出していたオード老も、何も言わずにふたりを見送ってから、今の出来事についてがやがやと話し始めた。 その時、里菜は再び、背後で声を聞いた。今度の声は、オードの怒鳴り声ではなく、パン屋のおかみさんの、オードに向けた叱声だった。それは、広場のざわめきに紛れそうな抑えた声だったのだが、里菜の耳には、その声だけが、はっきりと届いた。 「オードじいさん! なんてことを……。<マレビト>に失礼なことを言うと、崇りがあるよ! それこそ、村に災いが降りかかるよ! どうしてくれるんだい」 里菜の足が止まった。ローイが怪訝そうに里菜を見下ろした。 「どうしたい、リーナちゃん」 「ううん、なんでもない」 里菜は唇を噛んでうつむいたまま、歩き出した。そんな里菜を見て、ローイはやさしく言った。 「もう、後ろの連中には見えないから、泣いたっていいんだぜ。あんた、偉かったな」 「ローイ……。ありがとう。あたしの味方してくれて。うれしかったわ」 「そんなの、あたりまえじゃん! ほかのやつらがおかしいんだよ! リーナ、その……ごめんな、俺があんたを無理に連れ出したから、こんなことになって」 「ローイが悪いんじゃないわ」 「リーナ、あんなクソじじいの言うことなんか、気にするなよ。あのじじいは、村中で有名な気難し屋なんだ。あいつが気に入らないのは何もあんただけじゃなくて、村の人間の半分は気に入らねえんだ。そしてやっぱり、村の人間の半分は、あいつを嫌いだ。そういう、嫌われものの偏屈じじいなんだよ。まともに相手にすることねえんだ」 「うん。気にしないことにする。あたしはよその世界の人間だし、変な力があるし、いくらこの村の人が<マレビト>に慣れてるからって、中にはあたしを怖がる人がいるのは仕方がないわ。でもみんな、きっといつかは、あたしのこと、村の人間として受け入れてくれるよね?」 「今だって、みんなは受け入れているさ! どっちかって言うと、あんたは人気者だぜ。ただ、中に何人か、わからんちんがいるだけさ。年寄りは迷信深くて困るよな。だいたい、ほら、閉鎖的っていうの? 田舎だからさ。これだから、俺は田舎はいやだね。だいたい、俺が何着ようと、誰と一緒に歩こうと、俺の勝手だろ。そんなことまで、うるさいじじいどもにとやかく言われたかねえやな。この村じゃみんな、俺の最先端ファッションについて、何にもわかってくれねえんだ。ああ、いやだ、いやだ! な、リーナちゃんは俺のこのファッション、分かってくれるだろ?」 「え? うーん……。ごめんね、あたしにも、ちょっと……」 「あ、冷てえなあ。嘘でもいいから、ええ、すてきだわ、くらい言ってくれよ!」 思わず笑った里菜を見て、ローイは嬉しそうに言った。 「うん、それでこそ、素手でドラゴンに立ち向かった女の子だ!」 「それ、言わないでってば!」 里菜はローイの脇腹を――背中には赤ん坊がいたので――両手で張り飛ばしてから尋ねた。 「ところで、ねえ、ローイ。あのガイルって男の人、何? どこか悪いの? そのう……頭がおかしいとか?」 ローイは、彼には珍しく、少し顔を曇らせて言い淀んだ。 「ああ、あれか……。びっくりしたろう。でも、あのおっさんを悪く思わないでやってくれよな。あの人は、別にどこが悪いってんでもないんだが、まあ、その、最近ちょっと身体が弱っちまって、それで働けなくなったんだ。でも、あの人は、立派な人なんだぜ。だから、あんた、他の人の前で、あの人のこと、頭がおかしいとか言わないでやってくれな。たまに、さっきみたいに変なことを口走ることもあるが、普段はいたってまともなんだからさ」 普段、一を聞けば十を教えてくれる話し好きのローイにしては、妙に歯切れが悪い説明だった。ローイはきっと、このことをあまり話したくないのだ。 そういうことは、アルファードにはよくあることだが、おしゃべりで開けっ広げなローイからこんな拒絶の気配を感じたのは、里菜は初めてだった。 「ふうん、そうなんだ……」 うなずきながら、里菜は思った。――たぶん、あの男は、本当は少々頭がおかしいのだろう。そしてたぶん、ローイを含めた村人は、そういう彼の存在を、外部の人間にはあまり知られたくないのだ――。 (そう、あたしは結局、この村の人々にとって、マレビト――かりそめの客人なんだわ。お客は、その家の人が知られたないことを、あれこれ嗅ぎまわっちゃいけないのよ) さっき背後に聞いたパン屋の言葉が耳によみがえる。 あのパン屋は、里菜の数少ない顔馴染みの大人の一人だった。里菜がお菓子を好きなのを知っていて、いつでも割れたお菓子をとっておいては、ニコニコしながら、おまけにつけてくれていたのだ。 そんなパン屋の、あの一言は、里菜にとって、オードの罵りより辛かったのである。 それからふたりは、なんとなく黙りがちに歩いていった。 もう夕方も近い。子供たちは、それぞれの家の近くを通りかかるごとに、一人、二人と手を振って列を離れていった。最後の赤ん坊を母親に手渡したふたりは、足を早めて家路を急いだ。時折ローイが、落ち着かなげにズボンで手をこすったりしながらポツリポツリと冗談を言い、里菜は短く笑って、また黙り込む。 「リーナ! どこへ行っていた?」 家の前のゆるい坂道を上ってきたふたりの姿を、坂の上から見付けたアルファードが、静かだが厳しい声で尋ねながら大股で歩み寄ってきた。 ちょうど今しがた、予定より早く仕事を終えて帰ってきたアルファードは、家に誰もいないのを不審に思い、また家の前に出てきたところだったのだ。 その頼もしい姿を見、力強い声を聞いたとたん、里菜の心をかろうじて支えていたものが崩れた。 「アルファード……!」 里菜は駆け寄って、アルファードのシャツを掴み、その胸に顔を埋めた。顔を隠したとたん、涙があふれ出した。何か言おうとするが、言葉にならない。 「な、何だ、どうしたんだ、リーナ」 アルファードはめんくらって、里菜の細い肩が震えるのを見下ろした。途中まで上がった腕が、里菜の肩のあたりで逡巡《しゅんじゅん》して、また降りた。 それからアルファードは、里菜にしがみつかれたまま、ローイをギロリと睨んだ。 「おい、ローイ……」 ちょうど里菜の後ろから追い付いてきて、バツが悪そうにアルファードと里菜を見やっていたローイは、あわてふためいて、顔の前で左右に大きく両手を振った。 「ち、違う、違う! 俺じゃねえ! 俺は、何にもしてねえよ!」 「ローイ、どういうことだ。どこへ行っていた。何があったんだ」 アルファードに、静かだが妙に迫力のある口調で問い詰められて、ローイはびびりながら、事の次第を白状した。 黙ったまま聞き終えたアルファードは、里菜の肩に手をかけてそっと脇に押しやると、威圧するようにローイの前に進み出た。 「ローイ。なんでリーナを連れ出した。リーナを良く思っていないものがいるのは、お前だって知っていたはずだ。どういうことになるか、分からなかったのか?」 こうして向かい合って立つと、ローイの方が、アルファードより頭半分近く背が高いのだが、それにもかかわらず、アルファードのほうが大きく見える。横幅があるせいもあるが、何といっても、迫力で、断然、アルファードのほうに歩があるのだ。存在感の大きさが、まるで違う。 ローイは思わず一歩後ずさりながら、口だけは負けじと反論した。 「リーナを良く思わないやつがいるからって、それはしょうがないことだろ? 俺のことだって、良く思わないやつは大勢いるが、それでも俺はこうして大手を振って闊歩してるぜ。リーナがほんのちょっと避暑にでも来ただけだってんなら、いいんだぜ。自分のことを良く思わないようなやつらとは、顔を合せないままで済ませることもできるさ。でも、この村でこれからずっと暮していくつもりなら、いつまでもそういうやつを避けて通るわけにはいかねえだろ? まあ、俺だって、いきなりこんなことになるとは思ってなかったけどさ、さっきのは、リーナがほんとうにこの村の住民になるためには、いつかは通らなけりゃならない道だったんだよ。リーナには気の毒だったけど、リーナはあんたが思ってるより、ずっと強いんだ。リーナはこれからもこの村で、嫌なやつとだってそれなりに付き合っていかなくちゃならねえんだ。それが人生ってもんだろうが!」 「ローイ、開き直りはよせ。お前の人生論など、聞くつもりはない。お前が人生についてどう考えていようとかまわないが、その考えをリーナに押し付けて、彼女に辛い思いをさせる権利は、お前にはないだろう」 言いながらアルファードは、さらに一歩、ローイに詰め寄った。ローイは、後ずさりながら喚いた。 「俺は別に、リーナを辛い目に会わせようと思って連れ出したわけじゃないさ。たまたまそういう結果になっちまっただけでさ。俺はただ、リーナも家に閉じこもってないで、たまには外で気分転換したほうがいいと思ったんだ。ずっと前に、村を案内するって言っておいて、まだ、してなかったしさ。……あんた、リーナに、外に出るななんて無体なこと言ったんだってな。リーナはそんな横暴に、おとなしく従ってること無いんだ。それこそ、あんたには、そんな権利は無いんだ!」 「外に出るなといったのには、理由がある! リーナには例の力が……」 「『例の力』ったって、リーナはもう、それはすっかり抑えられるようになったじゃねえか。俺だってずっと訓練に付き合ってたんだから、よく知ってるんだぜ。そんなの、あんたの言い訳だろう! あんた、リーナを、一生ここに閉じ込めておくつもりかよ! そうしてあんたが選んだ無難な人間としか会わせないつもりか? あんたはリーナの、何だ? あんたにそんな権利があるのか? リーナは子供じゃないんだぜ。むろん、あんたのペットじゃない。ちゃんとした人間だぞ。リーナがどこに行って誰と会うかは、リーナの自由だろうが。あんたが決めることじゃないだろ! それを、あんたは……」 アルファードは、無言でローイの胸倉を掴んだ。 それまで呆然と立っていた里菜が叫んだ。 「やめて、アルファード!」 アルファードはローイを突き離して里菜の方に向き直った。里菜を見つめるその目は厳しかった。いつもの里菜なら、目を伏せてしまっただろう。 けれど里菜は、涙に濡れた目をまっすぐに上げて敢然とアルファードを見つめ返した。 瞳はまだ濡れていたが、涙は止まっていた。さっきから、本人をそっちのけで言い合うふたりを見ているうちに、里菜の心はスッと冷静になっていった。霧が晴れるように、物事がよく見えるようになった気がした。 「ローイを責めないで。あたしは、ローイにむりやり引きずっていかれたわけじゃない。自分で歩いていったのよ。何もローイのせいなんかじゃないんだから! あたしは自分で村へ行ったの!」 不動で立っているアルファードの静かな全身から、突然、目に見える閃光であるかのように、激しい怒りが奔った。里菜は、思わず、首をすくめた。 だが、その激情の気配は、燃え盛る炉の扉を一瞬開けてまたすぐに閉めたように、すばやく影を潜めた。それはあまりにも一瞬の出来事だったので、アルファードの背後にいたローイは、気がつかなかったほどだった。 アルファードは、自分の逆上を恥じるように、あるいは自分を落ち着かせるように、静かに目を伏せ、すぐにまた目を上げた。 「リーナ……。ローイをかばっているのか。君は、辛い思いをしたのではないか?」 「そりゃあ、辛かったわ。でも、それはほんとうに、ローイのせいじゃないし。それにあたし、もう、大丈夫だから。さっきは泣いたりして、ごめんなさい。それから、約束破ってごめんなさい」 「……」 「でも、あたし、今日はこんなことがあったけど、村へ行ってよかったと思っているの。ローイの言うとおり、あたしは、ああいう人たちとも、付き合っていかなきゃならないんだもの。……あたし、今まで、あたしのこと、あんなふうに思ってる人がいるって、知らなかった。でも、知ってよかったわ。だって、知らなくちゃ、その人と仲良くなろうと努力することも出来ないじゃない。ね、アルファード。あなた、このあいだ言ったでしょ? あたしが何を知り、何を知らずにいるべきかを、あなたが決めてはいけなかったって」 「ああ。俺はどうやら、また同じ過ちを繰り返していたようだ」 アルファードは、静かに言った。怒りの気配は消えていた。 「アルファード。あたし、いつかはオードおじいさんとも仲良くなれるように、頑張るから」 きっぱりと言う里菜を、アルファードは、初めてみるようにまじまじと見た。 「俺は、本当に考え違いをしていたらしい。……リーナ。君は、強い」 里菜は、涙の名残りを手で拭い去り、アルファードを見上げて微笑んだ。 ローイは、複雑な表情で、一歩下がったところから黙ってふたりを見ていた。 (── 続く ──) |