長編連載ファンタジー
イルファーラン物語
冬木洋子作
四 青白い光に照らし出されて、誰もが一瞬、動きを止めた。催眠術にでもかかったかのように、みな、頭上に光を頂いたキャテルニーカに目を吸い寄せられて立ち尽くす。 やがて、山賊の一人がキャテルニーカの前におずおずと進みでて、呆然と呟いた。 「……御使い様!」 山賊たちは、振りあげたままだった剣や槍を降ろして、ざわめき出した。 「御使い様だ……。あの、耳飾り!」 「本物だ! 本山のキャテルニーカ様だ」 「おお……。まさか……」 最初に進み出たリーダー格らしい男が、いきなりキャテルニーカの前に膝をついてひれ伏した。残りの山賊たちも我がちにキャテルニーカの前に殺到して跪く。 「おお、御使い様、癒し手様……。なぜ、このようなところに……」 キャテルニーカは、ひれ伏している最初の男の前に一歩進み出て、彼を見下ろしながら静かに言った。 「顔を上げて。……あなた、覚えているわ。イリューニンのビエルでしょ。むかし、シルドーリンで会った」 「おお……。そうです。以前、御使い様がまだお小さかったころ、私はシルドーリンにおりまして、幾度か拝謁賜ったことがございます。それを覚えていて下さったとは……」 「あたしは、誰も忘れないわ。一度でもあたしに会いに来てくれた人は、みんな、覚えてる。顔も名前も、その苦しみや絶望も。みんなも顔を上げて。……そう、あなたと、あなた。あなたも知っているわ」 キャテルニーカに指された人たちは、それぞれに驚愕と感動の声を上げて再び頭を下げた。彼らはそれぞれ、以前シルドーリンにいたり、シルドーリンに巡礼に行ったことのあるものたちだった。 キャテルニーカは、見るからに荒くれた山賊たちを恐れる様子もなく、彼らの間に進み出た。そして、跪く人々の間をゆっくりと歩き回りながら、ひとりひとりの頭や肩に軽く手を触れていった。 その小さな姿から滲み出る威厳は、アルファードをすらたじろがせるほどで、里菜たちは唖然として、その様子をただ眺めていた。 やがてキャテルニーカは、元のところに戻って、リーダーらしい男に問いかけた。 「あなたたちがここに来たこと、アムリードは知ってるの?」 「いいえ。その……。こういう小人数の旅人を、その……、襲う時は、いちいち許可を得ないのです。私たちが勝手にしたことです。御使い様がこんなところにいらっしゃるとはつゆしらず、無礼なことをしました。お許し下さい。昼間、この一行を遠くから見かけました時は、私たちは、御使い様のお姿に気付かなかったのです。ただ、その……、ボロをきた子供がひとり、いるようにしか……」 キャテルニーカは、くすっと笑った。 「わかったわ。もう、山賊の真似は、おやめなさい。アムリードにも、そう、言っておいて。あと、この人たちに手出しをしてはいけないわ。今も、これから先も、ずっとよ。アムリードに言って、他の人たちにもそう命じさせて。でも、あたしとここで会ったことはアムリード以外には話しちゃだめ。アムリードにも、内緒だって言っておいてね。それから、これもアムリードに言って欲しいんだけど、あなたたちが捕えているゼルクィールたちを解放しなさい。そしてね、あたしが言ったことをアムリードに伝えた後は、あなたたちみんな、ここであったことを全部忘れちゃってね。わかった? それじゃみんな、元気でね。みんなに心の平安を」 キャテルニーカが軽く手を振ると、憑き物が落ちたようにおとなしくなった山賊たちは、残り惜しそうに振り返り振り返りしながら、素直に立ち去っていった。何人かは、悪い夢から覚めたばかりとでも言うような呆然とした様子でそっと首を振ったり、自分は今まで何をしていたのだろうかというようにしきりと首をかしげているものもある。 あっけに取られてその後姿を見送っていたローイが、我に帰ってキャテルニーカに駆け寄った。 「おい、何だ何だ、今の! 御使い様って、お前、それはどういうことだ」 「あたし、あの人たちには、そう呼ばれてるの」 「いや、それはわかったけどさ。その、御使い様ってのは、あの、タナティエル教徒があがめている生き神様か」 「神なんかじゃないわ。ただの『御使い』よ。みんな、そう言ってるでしょ」 「お前が、そうなのか?」 「そうよ。そう言ったじゃない」 「どうりでいいもの着てるわけだぜ。なんで今まで隠してた」 「隠してないわ。忘れてたのよ」 「忘れてたぁ? 何だ、そりゃあ」 「あたし、時々、いろんなこと忘れるの。必要になれば思い出すから、大丈夫」 「大丈夫って、お前なあ……。そんな大事なこと、忘れてたじゃすまないぜ。なんでそんなお姫様が、ひとりでこんなとこにいたんだよ。逃げてきたのか? シルドーリンの連中は、それ、知ってるのか? お前を連れているために、俺たちがやつらに人さらい扱いされて追い回されるなんてこと、ないだろうな」 「平気。みんなは知らないけど、ギルデジードは知ってるから。追っては来ない約束よ。ね、だから一緒に連れていって。あたし、役に立ったでしょ? あたしは、このお姉ちゃんのそばにいるために、お姉ちゃんを手伝うために、シルドーリンを出てきたの」 「リーナを? ……さっきの山賊、本当にもう、来ないんだろうな?」 「山賊って?」 「へ? 今の、タナティエル教団の連中だよ。ヴェズワルの」 「その人たちが、どうしたの?」 「だから、今、お前が追い払っただろ?」 「そう?」 「そうって、まさか、忘れたなんて言うんじゃないだろうな」 「うん、なんだか知らないけど、忘れたみたい」 「はああ?」 ローイは呆れて肩をすくめてから、まだキャテルニーカに頭上にあった青い光球を指さした。この光球は、さっきから、まるで、糸に繋がれた風船か良く馴れたおとなしいペットのように、キャテルニーカが歩く上を従順について回っていたのだ。 「ニーカ、これ、なに?」 「あれ? ああ、これはね、明りよ。あたし、これ、出したの? しまうの、忘れてたわ。もういらないわよね。焚火があるもん」 そう言うと、キャテルニーカは、さっと手をふって、まるで蝋燭を吹き消すような気軽さで光球をあっけなく消してしまった。 「ああーっ、もったいねえ! そんな珍しいもん、消すなよ」 「大丈夫よ。あたし、いつでも出せるもん。あたし、前は暗いところに住んでたから、いつもこれ、使ってたのよ。あたしは暗くても目が見えるんだけど、世話をしてくれる人とかは、暗いと困るらしいから」 「暗いところって、シルドーリンの洞窟か?」 「え? 何が?」 「何がって……。今、自分で言ったこと、もう忘れたのかよ。ああ、もういい、もういいよ。お前、いくらなんでも、物忘れ、ひどいぜ。なあ、あの光の玉、出し方教えてくんねえか。俺、たいていの魔法は人より得意なんだけど、あんなの見たことも聞いたこともねえ。練習すればできるようにならねえかなあ」 キャテルニーカはしばらく値踏みするようにローイを眺めて言った。 「お兄ちゃんには、できないわ」 「ああ、やっぱ、無理か。やっぱり、そういう特別な才能の有る無しってのは、お前なんかから見れば一目でわかるわけ?」 「才能とか、そういうんじゃないの。これは、普通の人にはできないの。赤っぽい小さな明かりなら、普通の人でも、才能があればできるかも知れないけど……。あの青いのは、火じゃないから」 「それ、本物の魔法か?」 「うん、ちょっと違うけど、そんなようなもの。ロ−イお兄ちゃんはタダの人だから、だめだけど……」と言って、キャテルニーカは、アルファードのほうを示した。「あっちのお兄ちゃんは、できるかもしれない」 突然話をふられたアルファードは、おもしろくもなさそうに言った。 「キャテルニーカ。俺は、魔法がまったく使えないんだ。一番簡単な魔法でさえ」 「いや、アルファード、わかんねえぞ。痩せても枯れても、あんたは<マレビト>だ。やっぱり、本物の魔法の素質が眠っているのかもしれねえ」というロ−イの言葉を小首をかしげて聞いていたキャテルニ−カが、突然、一人言のように、さらりと言った。 「<マレビト>は、この世界の人じゃないから、この世界のものごとの法則に縛られないの。だから<マレビト>にだけ、<本物の魔法>が使えるのよ」 みんな、驚いてキャテルニ−カを見た。が、彼女は、自分が何を言ったかをもう忘れてしまったらしく、みんな何を驚いているのかという顔で、キョトンとしている。 一瞬、しんとした後で、ロ−イは、やれやれというふうに首を振った。 「やっぱりなあ。なんだかわからないけど、やっぱ、あんたらは特別なんだろうな。そこいくと、俺なんか、結局は『タダの人』か。あんたらみたいに特別な人間でいるのも辛いものらしいが、そういうあんたらと一緒にいて、一言で『タダの人』と言われちまう俺ってのも、なんか、つまんねえよな」 ローイが心なしかしょげたのを見て、キャテルニーカは慰めるつもりか、付け足した。 「あ、ロ−イお兄ちゃんは、『タダの人』じゃなかったわ。『いい人』よ!」 「……なんか、よけい、つまんなくなってきた。まあ、いいや、ニーカ、もう寝ろや。そんな大あくびしちゃ、せっかくのべっぴんさんがだいなしだぜ」 眦に涙が滲むほど大あくびをしていたキャテルニーカは、目をこすりながら頷いて、枯れ葉の上に、ころんと横になってしまった。 「俺たちも寝よう。山賊はもう来ない」というアルファードに、里菜はびっくりして尋ねた。 「え、いいの? この子にもっといろいろ聞いてみなくて」 「もう寝ているんだ、聞きようがない。それに、聞いたってどうせ無駄だ。もう、今の出来事さえ忘れてしまったようだからな。なに、追手がかからないことさえわかれば、とりあえずそれでいいだろう」 「ねえ、『御使い様』って、なに? そういえば、前にうちに来たあのおじいさんたちが『御使い様さまの御言葉』がどうとかって言ってなかった?」 「ああ、そのことは、あした歩きながら話そう。とにかく、少しでも寝ておくことだ」 そう言って、アルファードもローイも横になってしまった。 あんなことがあった直後に、みんなよく眠れるものだと思いながら、しかたなく横になった里菜も、そのうちに眠りについた。 翌朝、目を覚ましたキャテルニーカは、前夜の出来事をまったく覚えていなかった。山賊のことはもとより、自分が<御使い様>であることも、青い光の玉のことも。 とぼけているのではなく、本当に忘れてしまうらしい。 道々、ローイが、里菜に<御使い様>のことを教えてくれた。 と、言っても、実はローイも、そのことについては、正確なことは、ほとんど何も知らなかった。彼が知っているのは、<御使い様>についての噂のあれこれだったのだ。 そもそも、<御使い様>の件に限らず、タナティエル教団というのは、名前や、その黒マント姿が有名なわりに、その正確な実情はあまり外部に知られていない謎の集団だ。彼らは人里離れた山の中などで閉鎖的な共同体をつくって暮しており、来るものは拒まないが、入って出てくるものはほとんどいないのだ。 タナティエル教団の起源は古い。 彼らが今のように大きな組織になったのは、その長い歴史の中でもごく最近のことで、もともと、いつとも知れぬほど遠い昔からシルドーリンの山奥でひっそりと独自の信仰を貫いてきた、ごく小さな世捨人の集団だったのだ。 その長い歴史は、聖地シルドーリンに数人の隠者たちが住み着いた時に始まった。彼らはそこで、坑道跡の洞窟に住み、ぼろを纏い野草を食べて、禁欲的な瞑想生活を送った。 今では彼らも、山中に建てた粗末な小屋に住むようになっていて、幾度か落盤事故があった坑道は、安全な場所が厳選されて礼拝所や地下墓地といった宗教的な用途に使われるだけになり、シルドーリンの丘陵地帯には彼らの掘っ建て小屋が集まった集落がそこここにある。それにもかかわらず、一般には、彼らは今だに洞穴に住んで原始的な生活をしていると思われているが、そういう誤解も、彼らが外部との接触を嫌うために生れたものだ。 山中の共同体の中で、畑を耕し子供を育て、禁欲清貧を旨とする質素な自給自足生活を送りながら信仰を貫いている彼らは、このように、一般の人たちからいろいろと誤解を受ながらも、最近になるまでは、決して悪くは思われていなかった。むしろ、一般の人たちからみて自分たちにはとてもまねできないような厳格で求道的な信仰生活を送る彼らは、特別信心深い、信念を持った立派な人たちとして、それなりに尊敬されていたのだ。 魔王の刻印を受けて絶望に取りつかれたものや死病に侵されたもの、身よりをなくしたものなどを、わけへだてなく無条件で受け入れ、心穏やかに死ねる時まで世話をし続けてきたということも、彼らが尊敬されてきた理由のひとつだろう。 だいたい彼らは、もともと、異教徒ではないし――地域的な差異が多少あるだけで基本的に同じひとつの神話体系を信じる人々だけから成っているこの世界には、異教という概念さえ、はなから存在しないのだ――、ある意味では異端ですらないのである。 確かに彼らはこの国の大多数の人たちとはかなり異なった思想を持ってはいるが、それでも異端と呼ばれないのは、この国に、彼らを異端と呼んで排斥するような『正統』の宗教勢力がないからだ。 この世界にも、もちろん信仰はあるのだが、それは、多くの人にとって、宗教というより単なる習慣的な生活儀礼に近いもので、それさえも今では、特に都会ではどんどん忘れられつつある。それでもたまには、思い出したように新興宗教的な集団が発生してくることもあって、中には一時的にかなりの勢力を誇って政治的な野心を抱くものが出たりもするが、たいてい、最初のカリスマ的な指導者を失ったあとは泡のように消えてしまう。また、特定の地域、血族、職能集団などに結びついた伝統的な信仰にはかなり強固なものもあるが、それらはその狭い集団の求心力に基づくものだから、そもそもが排他的で、集団の外に拡散してゆくことはない。 そんなぐあいで、ここでは、一度も、政治権力と結びついた組織的体系的な宗教勢力というものが存在したためしがないのだ。そういう国には、異端も存在しようがない。異端は、『正統』勢力に排斥されることで、初めて異端になれるのだから。タナティエル教団は、少数派でありながら、今も昔も、この国で、永続的な全国規模のものとしてはほとんど唯一の、まとまった宗教団体なのである。 そんな彼らの評判が悪化の一途をたどりはじめたのは、ここ四、五年のことだ。 それはちょうど、この世界が天候不順や不作に襲われ始め、魔物がひそかに数を増やしはじめた時期と、ほぼ一致していた。まだはっきりと目に見える形になっていなかったそういう変化の兆しを、人々の心がおぼろげながら敏感に察し、世の中に不安がじわじわと広がってきたそのころから、タナティエル教団は入信者の急増でにわかに膨れ上り始めたのだ。 新しい信者たちは、やがてシルドーリンの小さな共同体に納まりきらなくなり、あちこちにタナティエル教団の新しい支部のようなものができ始めた。 それでも最初のうちは、そういう支部もシルドーリンの統制の下にあり、支部のものは年に一度は交代でシルドーリンに巡礼に来ていたが、やがて、最初からシルドーリンではなくもよりの支部に入信した新しい信者が支部の中枢を占めるようになると、彼らはシルドーリンから離れていった。 そういった変化は、何年もかからずに急激に起こり、古くからのシルドーリンの幹部たちはその変化に対処できず、教団は分裂していった。 今の彼らの悪評のほとんどは、この、新興の支部のものたちがばらまいたものだ。 例えば、イカサマくさい『魔物除けの護符』とやらを法外な値段で押し売りした、麓の村を略奪した、入信に際して多額の喜捨を強要したなど、きりがない。 ちなみに、この、喜捨を強要されたものというのは、魔王の刻印を受けて軍隊をやめ、教団に身を投じようとした元兵士で、彼は家や土地を含む全財産を処分してこれに充てた。ところが彼には妻子がおり、住んでいた家を追われて路頭に迷った妻が困り果てて<賢人の塔>に訴え出たため、この話が有名になったのだが、こうして表沙汰になった事件は氷山の一角にすぎない。 それにしても、彼らがこうまで短期間のうちにすっかり評判を落し、忌み嫌われるようになったのは、彼らがもともと閉鎖的で、その実態が謎に包まれていたためだろう。 <御使い様>に関しても例外ではなく、誰もそれについて正確なことを知らないのである。 それでも、<御使い様>の存在自体は、古くからの口伝えで国中に知れ渡っており、その謎めいた巫女姫について、さまざまなうわさや憶測が乱れ飛んでいる。その中で、ほぼ共通して言われていることは、<御使い様>が黒い肌の少女であるということ程度で、あとはてんでばらばら、どれが本当か、誰にも分からない。 一説によると、<御使い様>は、妖精の血を引く人間の少女などではなく、タナティエル教団がシルドーリンの山奥で大切に血統を守ってきた本物の妖精の生き残りだと言われている。もっとも、これは、ほとんど信じる人のないおとぎ話のようなものだ。 また、ごく最近の一時期、巷を席巻した噂では、タナティエル教団が妖精の血を引く子供を誘拐したり、人買いから買い取って幽閉し、巫女にしたてていているというものがあったし、そうかと思うと、<御使い様>は、何千年もあどけない美少女の姿で生き続けているという不思議な話もある。 これについては、アルファードが、こう解説してくれた。 「俺が思うに、<御使い様>は、世襲なんじゃないだろうか。君も、もう知っているとおり、妖精の血筋の人はみな小柄で、たいてい、実際の年よりかなり若く見える。特に女性はその傾向が顕著で、子供のいる女性でも、まるで少女のように見えたりする。だから、代々の<御使い様>が比較的若いうちに子供を産み、女の子が生まれてある程度成長したところで引退し、娘に地位を譲るとすれば、<御使い様>は常に少女であるように見える――、そういうことだろう。それに、母娘なら当然顔は似ているだろうし、そうでなくても妖精の美貌は独特だから、他の人たちから見れば、みな似通って見える。同じ少女に見えるかもしれない」 「でもよ、アルファード」と、ローイが反論した。「世襲なら、子供を買う必要はないじゃないか。やつらが人買いから子供を買っているというのは、かなり確かな話だぜ。前に都に行った時に聞いた噂では、人買いに捕まってタナティエル教団に売り飛ばされかけたところを逃げ出したって女の子が、実際にいたってことだ。他にも、いくつか、そういう話があるぞ。少なくとも、ひところ、妖精の血筋の小さな女の子が攫われる事件が相次いだのは、あんたも覚えているだろう」 「だが、それがタナティエル教団に売られたのだという裏付けはないしな。やつらが子供を買うという噂を聞いた人買いが、それをあてにして勝手に子供を持ち込もうとしただけかもしれない」 「うーん、それはあるかもな。何しろ、あの噂は、けっこうパーッと広まったみたいだからな。そういえばさ、昔は、<御使い様>は、シルドーリンにひとりだけいるんだと誰もが思っていたが、ちょうどあの噂と同じころ、あちこちに、どんどんあたらしくやつらの村ができていて、そういう支部みたいなところにも<御使い様>がいるって噂も広まったらしいよな。だからいちいちシルドーリンに巡礼にいかなくてもいいんだって」 「ああ、教団のほうでは否定していたらしいがな」 「そうそう。その、あちこちの<御使い様>ってのが、攫われた子供かもな。もともと一人しかいなかったはずの<御使い様>が急に増えるってのも、変だもんな。でもまあ、要するに、みんな噂だよな。 てなわけでさ、リ−ナちゃん、<御使い様>ってのは、結局、本当のところは誰も知らない、謎の巫女姫なのさ。それが、あの子ってわけ。 どうも変な子だとは思ってたんだけどな。こりゃあ、とんでもないおヒイ様を拾っちまったもんだ。しかし、こりゃあ、どう見ても、ただ、攫われて無理やり巫女に祭り上げられた普通の女の子だとは思えないな。あの不思議な力といい、威厳といい、この一風変わった様子といい。な、アルファード」 「ああ。この子は、『本山の<御使い様>』と言われていた。よしんば他のところにいるのかもしれない<御使い様>がにせものだとしても、この子は、古くから知られているシルドーリンの<御使い様>で、何かしらの力を持つ本物の巫女姫なんだろう。昨夜のあれを目の当たりにして、信じないわけにはいくまい」 「そんな大事なお姫様が、よくシルドーリンを出て、こんなところをひとりでうろついていられるよなあ。やつらの総大将――ギルデジードって言ったっけ――、そいつは知ってるって言ってたよな。いったいこりゃあ、どういうことだ? リーナちゃんと何か関わりがあるらしいんだがなあ」 「まあ、いいじゃないか。そのうち、必要になれば、この子が事情を思い出して自分から話してくれるだろう。それまでは詮索しても無駄だし、とにかく本人が一緒にイルベッザに行きたいと言っているんだから、まずは連れていってやろう。とりあえず危険はないようだから」 「そうだよな。やっぱ、それしかねえよな。このとおり足も強くて、足手まといにもならねえしな」 その、話題のキャテルニーカは、三人の話の内容など気にも止めずにまわりを跳ね回って、ローイの腕にぶらさがったり、とつぜん里菜に抱き付いてみたりしながら、相手が聞いていようといまいとおかまいなしに、「リスがいた」だの「ナントカ草を見つけた」だのと、たあいのないことを言っては、ひとりではしゃいでいる。 アルファ−ドとロ−イの会話を聞きながら、里菜は、村の幼い司祭、ティーティのことを思い出していた。 里菜は昨日から、ニーカを見て誰かに似ていると思っていたのだが、そういえばティーティと似ていたのだと気づいたのだ。 もちろん、見た目はぜんぜん似ていない。が、どこか相通じるものがあるような気がする。それは、彼女たちは、どちらも一種の巫女であるからだったらしい。 それにしても、小さなティーティが、まじめくさって、年の割にどこかませた様子だったのに比べて、キャテルニーカの、この異常な幼さはなんだろう。まるで幼稚園児なみ、とても十一才とは思えない。ゆうべの毅然とした姿を見ていなければ、どう見ても頭が弱いとしか思えなかっただろう。 けれどもキャテルニーカの無邪気な明るさは、里菜やローイの心を和ませてくれた。 その夜の野営は、楽しかった。ゆうべは、山賊の気配を探るため、あまり騒がず、ずっと緊張していたが、今日はもう山賊の心配はいらない。 兎を狩りに森に入ったローイは、ほんとうに短い時間で、それこそ魔法のように兎をとってきて、器用にさばいてくれた。そのあいだにキャテルニーカが、この冬のさなかに、どこからか青々とした野生の香草や、きのこまでたくさんとってきた。里菜とアルファードが集めたたきぎで、夕食は兎ときのこのスープだ。身体の底から暖かくなる。 夕食の後は、ローイがキャテルニーカにお話をしてやると言いだし、里菜のリクエストで例のシルグリーデ姫の話を語った。短い話だったので、もう一つ、と、ローイは十八番の『カザベルの食人王ラドジール』を始めた。妖精の血を引く美貌の青年王ラドジールが自分の恋人を殺して食ったという有名な伝説を基にした怪談である。 ラドジールは、妖精の血筋でありながら癒しの力を持っていなかったため、優れた癒しの力の持ち主の肉を喰らうことで自らが力を得ようと試みたのだが果たせず、その、食人の罪によって、死後は人の血を啜る魔物となり、今も永遠の闇を彷徨っているのだと言う。 そんな陰惨な物語を、おどろおどろしく語り終えた最後に、「あ! お前の後ろにラドジールが!」と叫んで聴衆に悲鳴を上げさせるのが、ローイのいつものお決まりの得意技なのである。 この日も、ローイは、例によって、最後のところで、 「あ、ニーカ、お前の後ろにラドジールが!」と、いかにも恐ろしげに叫んでみせ、里菜も一緒になって、キャテルニーカを怖がらせてやろうと、ことさら大きな悲鳴を上げてキャテルニーカに抱きついてみせた。 ところが、キャテルニーカは、ただきょとんとして、こう言った。 「え? どこに? いないよ?」 「おい、ニーカ……。お前、ノリが悪いぞ。怪談の時は、ちゃんと怖がってくれなくちゃ話しにくいじゃねえか」と、ローイが文句をいうと、 「え? 今の、怖い話だったの?」と、まるでトンチンカンである。 しかも、そのあと、あたりまえのような顔で、こんなことを言う。 「おもしろかったわ。お兄ちゃん、お話、上手ね。でも、ちょっと違うところがあった。ラドジールが食べたのは、恋人じゃなくて義理の妹よ。でも、ラドジールは、たぶん、その子が好きだったのよ。ラドジールは、そのとき、十四くらいだったわ。 ふたりはね、他の子供たちと一緒にシルドーリンに宝探しにきて、落盤で、ふたりだけ一緒に閉じ込められたの。ラドジールは、岩の下敷きになって死んだ妹の肉を食べて生き延びたのよ。お兄ちゃんが言うように、自分が持っていない癒しの魔法の力を得るために、その力を持つ人を殺して食べたわけじゃないの。 結局、子供たちの中で生き残ったのは、ラドジールだけだった。かわいそうね。そのあと、生き残ったラドジールが何をしたか、あたしは知らなかったけど、王様になってたのね」 「……おい、お前、何だ、そりゃ。ずいぶん妙ちきりんな話だなあ。お前、その話、誰に聞いたんだ? 俺、そんな話、聞いたことねえぞ」 「あたし、見てたの。ラドジールは、ほんと、きれいな子だったわ」 「ラドジールは三百年近く昔の王様だぞ。それを見たって、お前、ほんとに十一才か」 「え? そうよ、十一よ」 「じゃあなんで、そんな昔のことを知ってるんだ?」 「おばあちゃんから聞いたの。それとも、おばあちゃんのおばあちゃんからだったっけ」 「ばあちゃんのかあちゃんなら、まだ生きてるかもしれねえが、ばあちゃんのばあちゃんってのはふつう、もう生きてないよなあ。お前、それに、自分が見たっていったぞ」 「そう?」 「そうって、また、自分が言ったこと、忘れちゃったのか? ……話になんねえや」 「あのね、あたしのおばあちゃんも、おばあちゃんのおばあちゃんも、キャテルニーカって名前だったのよ。お兄ちゃん、あしたもお話してね。ねえ、何か、歌、うたって」 そう言ってキャテルニーカは、無邪気な様子で首をかしげてにっこりした。そのキャテルニーカの緑の瞳が、ときおり焚火の炎を映して、耳元のシルドライトと同じようにちらりと赤く輝くことに気がついた里菜は、この子はまるでシルドライトの精みたいだと思った。そういえば、ローイが、<御使い様>はまた、シルドライトを意味する『シルドーリンの宝玉』という名でも呼ばれることがあると教えてくれた。 キャテルニーカに歌をせがまれたローイは、しっかり持ってきていた、例の小さい楽器――ガドレという名らしい――を取り出し、静かな曲を歌い出した。 彼は酒が入らないと歌わないと言われているが、子供の前でなら歌う。村にいた時も、子供たちにはよく歌ってやっていたのだ。 ローイの歌を聞きながら、キャテルニーカはいつのまにか寝息をたてていた。 翌日も、一行は、ひたすら歩き続けた。痛み出した里菜の足を、キャテルニーカが、森からとって来た薬草と魔法で直してくれた。 妖精の血筋の常として、彼女も治療師の素質があるらしい。特に薬草については、かなり詳しいらしく、時々、「こういうところにはナントカ草があるから」と言って、みなに断わって、ひとりで森の中に入っていく。最初のうちは立ち止まって待っていたのだが、キャテルニーカはいつも、冬だというのに、ちょっとの時間で必ず薬草を見つけて、すぐに戻ってくる。そのうちにみんな、いちいち立ち止まらずにそのまま歩いているようになって、道をそれて森の中を歩いてきたキャテルニーカは、薬草を見つけると森からひょっと街道に出てきて合流するようになった。 しばらく一緒にいてわかったことだが、キャテルニーカは、決して頭が悪くはないらしい。薬草のことなどは本当によく知っているし、やたらに物を忘れるわりに、記憶力も実は悪くない。彼女が忘れるのは、自分の生い立ちや、タナティエル教団に関わることだけらしくて、普通のことはちゃんと覚えているし、ローイが語る物語などは、一度聞けば完璧に丸暗記してしまう。ものごとの呑み込みもいいし、判断も的確らしい。ただ、どうにも子供っぽいだけである。 やはりこの子は、幼いころから巫女姫として隔離され、純粋培養されてきたのだろうと、里菜は思う。その結果が、この、一見頭が弱いようにさえ見えるほどの幼さと、浮世離れした天真爛漫さなのだろうと。彼女ほど『無垢』という言葉が似合う子供はいないだろう。時々、もしかしてこれはみんな演技なのでは、と疑わないでもないのだが、里菜には、どうしてもそうは思えない。 ヴェズワルを過ぎ、あたりはあいかわらず森ばかりだったが、やや、うっそうとした感じが減った。このへんの森は、ヴェズワルほどは古くないのだ。雪は、もう、日陰にもまったく積もっていない。木々の種類も、イルゼール村では、そういえば落葉樹と針葉樹がほとんどだった気がするが、だんだんと常緑の広葉樹も目につくようになってきた。 街道を行くのは、里菜たち一行だけ。一度も他の旅人には出会わない。 雪をかぶったイルシエル山脈を左手に仰ぎ見て歩けば、古い灰色の石畳がどこまでも森を抜けて続く。 その夜も、ローイの狩りは成功し、みんなは暖かいスープをたっぷり食べ、焚火の回りでローイの物語を聞いた。 こんな時、里菜はこの旅がいつまでもつづいて欲しいような気がする。歩き慣れず、まして野宿などしたこともなかった里菜にとって、昼間の行程も堅い地面での野宿もつらいが、キャテルニーカの治療の才能のおかげで、それほど足や身体が痛くなることもなくて済み、こんな楽しい団欒の夕べには、すべての辛さを忘れてしまう。 物語の後、キャテルニーカは、今日はローイに歌をせがまずに、なぜか里菜にこう言った。 「お姉ちゃん、何か子守歌、歌って!」 そして、何を考えているのやら、いきなり、里菜の膝に座ってしまった。いくらなんでも、十一才の行動とは思えない。だいたい、いくらキャテルニーカが十一才にしては小柄だとはいえ、里菜も十七才にしては相当、小柄なほうだから、この体制には、かなり無理がある。けれどキャテルニーカの甘えた様子を見ると、里菜は、重いからどけなどとは言えなくなってしまった。 「ね、お姉ちゃん、歌!」と、キャテルニーカが催促する。 「あの、ニーカ、あたし、歌、苦手なんだけど……。あたしがだっこしててあげるから、歌はローイに歌ってもらわない?」 「だめ、お姉ちゃんが歌って!」 命令口調のキャテルニーカに、里菜はしかたなく小さな声で子守歌を歌い始めた。 「ねんねんころりよ おころりよ 坊やはよいこだ ねんねしな……」 里菜が昔、母から歌ってもらった子守歌だ。 「坊やのお守りはどこへ行った あの山越えて里へ行った……」 繰り返し歌ううちに、キャテルニーカは目を閉じて里菜にもたれかかってきた。はっきり言って、重い。寝入ってしまったらすぐにローイに頼んで、抱き上げてそのへんに寝かしてもらおうと考えながら、里菜は、くりかえし同じ子守歌を口ずさみ続けていた。 その時、ふいに、苦しげに絞り出すような叫びに、歌が遮られた。 「リーナ、やめてくれ! その歌を、歌わないでくれ」 里菜はぎょっとして顔を上げ、声の主、アルファードを見た。 倒木に腰掛けたアルファードは、背中を丸め、両膝の上に肘をついて、その手で、うつむいた頭を抱え込むように耳を塞いでいた。 一瞬、里菜は、むっとした。 (もう少しでニーカが寝るところなのに、急に大きな声で邪魔して……。それに、何よ、たしかにあたしはちょっと音痴だけど、そんな、耳を塞いでやめろと叫ぶほどひどくはないと思うわ。失礼ね!) そう言おうとして口を開きかけた里菜は、そのまま黙り込んだ。 うつむいたアルファードの顔から、ぽたりと地面にしたたり落ちたものがあったのだ。 (うそ……。アルファードが、泣いてる?) (俺はいったい、どうしたんだ……) ますます強く耳を塞いで、頭を抱え込みながら、アルファードは唇を噛み締めた。 耳を塞いでも無駄なのはわかっていた。里菜はもう、歌を止めているのに、彼の心の中に、あの歌が流れている。 それは、喪失の響き。 あの歌の最初の一節を聞いた時、雷に打たれたように、アルファードの精神は立ちすくんだ。 (俺は、この歌を知っている……) 遠い昔に聞いた歌。歌ってくれたのは誰だろう。 幼い彼が、誰よりも愛し、信じていた誰か。彼の小さな世界のすべてだった人。温かくやわらかかった――おそらくは、母親。 歌ってくれた母親は、どんな顔をして、どんな服を着ていたのだろう。自分がいたのは、どんな様子の部屋だったのだろう。自分は、どんな名前で呼ばれていたのだろう。――それは、思い出せない。 ただ、記憶の底の母の歌声が蘇る。 ――『坊やのお守りはどこへ行った あの山越えて里へ行った……』―― 歌声と一緒に、幼い自分の心が聴こえる。 暗闇の中で目覚めた、幼い自分。歌をうたって自分を寝かしつけてくれていたはずの母が、そばにいない。暖かい身体を求めて暗闇を探った腕が、冷たい孤独を抱き締める。その、心細さ。そして、不信。 (おかあさんが、行ってしまう。どこか遠くへ。僕を捨てて、二度と帰らない……。そう、こんなふうに何もかもが、僕から失われていく。離れていく。世界は僕を愛さない。すべてが僕を裏切る……) 頭が、割れるように痛い。噛み締めた唇から、血が滲む。 その瞬間、アルファードは、いつのまにか叫んでいたのだ。 ――「リーナ、やめてくれ! その歌を、歌わないでくれ」 里菜は、驚きのあまり何も言えずに、大きな身体を丸めて頭を抱えるアルファードをみつめていた。落ちた涙は一粒だけだったが、そのたくましい肩が、腕が、まだ小刻みに震えている。何だかアルファードが小さく見える。 里菜は、アルファードが泣くことがあるなどとは、想像すらしたことがなかった。 いつかローイも言っていた。 「俺、アルファードが怒るとこも、もう何年も見てなかったが、泣くとこは、ほんとに、ガキのころから一度も見たことがないな。やつは、じいさんが死んだ時でさえ、少なくとも人が見ているところでは、泣かなかったんだ」と。 ローイも、目を丸くしてアルファードを見ている。 アルファードは、黙って頭を抱え続ける。 ふいに、眠ったと思っていたキャテルニーカが、里菜の膝から立ち上がって、とことことアルファードに歩み寄った。 里菜とローイが呆然と見守る中、キャテルニーカは、アルファードの頭を静かに両手で挟み込んだ。 キャテルニーカがアルファードに触れたのは、もしかすると、これが初めてかもしれない。彼女は、ロ−イや里菜には、理由もなく始終ぺたぺた触っていたが、そういえばアルファ−ドには、たぶん一度も触わっていないのだ。 キャテルニーカは、アルファ−ドに触れた瞬間、ぴくりと身体を強張らせ、苦痛をこらえるかのように、かすかに眉を寄せた。 が、すぐに穏やかな表情に戻り、子供をあやすような声音で、歌うように言った。 「お兄ちゃん、かわいそうね。まだ、思い出さなくていいの。まだ、いいのよ」 アルファードの肩の震えが止まり、しばらくして、あいかわらずうつむいて頭を抱えたまま、彼はぼそりと言った。 「キャテルニーカ、ありがとう。楽になった。リーナ、ローイ、驚かしてすまない。ちょっと、頭痛がしたんだ……。俺はこのまま寝るから、みんなも寝てくれ」 そう言ってアルファードは、うつむいたまま立ち上がると、こちらに背を向け、マントにくるまって横になってしまった。 里菜は、アルファードに駆け寄ろうとした。 (アルファード、何か、何か思いだしたの? 子供のころの記憶が戻りそうなの?) 喉元まで出かかったその言葉を、里菜は押し戻した。 キャテルニーカが里菜の腕を引いて引き止め、声を潜めて囁いたのだ。 「お姉ちゃん、かまわないであげて。お兄ちゃんは、まだ思い出しちゃいけないの。今はまだ、きっと耐えられないから」 「ニーカ、それ、どういうこと? あなた、アルファードのこと、何か知ってるの? 知っているなら、あたしに教えて」 声をひそめながら思わずキャテルニーカの肩をゆさぶった里菜は、彼女の返事に、がっくり肩を落した。 「え? なんのこと?」 緑の瞳が無邪気にまばたく。どうやら、また、例の物忘れが始まったらしい。 「ううん、なんでもないわ。寝ましょ」 そう言って里菜は、荷物を抱え、横たわるアルファードのそばに行った。 けれど里菜には、背を向けているアルファードの正面側に回り込むことはできなかった。何も言わない彼の大きな背中から、拒絶の気配がひしひしと伝わってきたからだ。自分の中へ踏み込まれることへの拒絶の気配が。 里菜は顔を曇らせながら、それでもアルファードの背中に寄り添うように、マントにくるまって横になった。 里菜がこんなにアルファードの近くで眠ろうとしたのは、初めてだった。今までふたりは、いつも、なんとなく焚き火のあっちとこっちに離れて横になっていたのだ。 アルファードは、里菜がすぐ隣に横になっても別に文句は言わなかったし、わざと離れたりもしなかった。ただ、無言の背中で、里菜を、そして世界の一切を拒絶していた。 (あたしはアルファードに、何もしてあげられない) 里菜は無力な自分が悲しかった。 アルファードは、里菜に、彼の苦悩を一緒に担うことを許してくれない。 アルファードの苦しみを取り除いたり、代わってあげたりすることはできなくても、せめてそれを一時的にでも紛らわし、慰めることができるなら、里菜はどんなことでもするだろう。けれどアルファードは心を閉ざして背を向ける。里菜にできることは何もない。 手を伸ばせば届くところにあるアルファードの背中が、とても遠く感じられた。 魔王の言葉が心によみがえる。 ――『あれは永遠に、そなたを受け入れることはないだろう』―― キャテルニーカが里菜の傍らにやってきて、黙ってしゃがみこんで里菜の頬に手を触れたかと思うと、すぐにそのへんにころんと横になって、そのまま寝入ってしまった。 ローイは、その間ずっと、焚火の向こうにつったったまま、どう対処していいかわからずに頭や鼻をポリポリ掻いてみたりしていたが、どうしようもないので恒例のおちゃらけで対処することに決め、おずおずと里菜に声をかけた。 「ええと……。リーナちゃん、そんなとこにいないで、俺と一緒に寝ようぜ……なんて」 何も変わったことは無かったふりをして場の空気を変えようと、とりあえずおちゃらけてはみたが、やはり気まずさに耐えかねて、最後は言い訳めいた呟きになってしまった。 「バカ……」と答えた里菜の声にも、力がなかった。 「バカはだめだって、いっただろ。もっと何か面白いこと言えよな……」 ぶつぶつ言いながら、ローイも、マントを敷いて横になった。 眠れないローイが寝返りを打つたびに、そのマントの下で落葉がかすかに乾いた音を立てるのを、里菜は黙って聞いていた。 アルファードも、たぶん起きているのだろうが、ぴくりとも動かずに、皆に背を向けて横たわっている。 冴えざえとした冬の月がゆっくりと傾いていくのが、木の枝の向こうに見える。 寒くて長い夜が、静かに更けていった。 (── 続く ──) |