長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語 

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 <第五章 水底の夢> 






 ユーリオンの言うところの『何十年も語り継がれるような大宴会』は、十日を待たず、それから一週間後に催された。
 通常なら考えられない実現の早さだが、実は、<賢人>たちは、里菜たちが帰還する前からちゃっかり祝宴を予定して、ひそかに計画を進めていたのだ。もちろん具体的な手配には入っていなかったが、ゴーサインが出しだい、いつでも動き出せるように、詳細に手筈を整えてあったらしい。
 里菜たちが命がけで戦っていたというのにずいぶんと調子のいい話だが、待っている彼らにしても辛かったのだ。災厄の後始末に追われる暗く落ち着かない状況の中で、根本的な解決は自分たちの手ではどうにもならず、ただ里菜たちの首尾を待つしかないという、その辛さ、もどかしさ、いらだちを紛らわせるのには、仮想の祝宴の計画策定という現実逃避的な仕事がうってつけだった。里菜たちの勝利を祝う宴会の準備を進めることで、彼らは、実際には何も出来ずにいる自分たちが二人の戦いに陰ながら何か一役(彼らにとって宴会係というのは立派な大役なのである)買っているような気分になれたし、それに、『遠からず彼らが勝って帰ってきて自分たちは祝宴を開けるのだ』ということを前提にした仕事に、その『前提』に疑問を持たずに本気で取り組んでいれば、彼らの勝利が確実な予定であるようにも錯覚していられた。それがただの錯覚であっても、その錯覚のおかげで、彼らは、希望を捨てずに頑張ることができたのだ。
 もちろん、非常事態のさなかなのだから、しなければならない仕事は他にもたくさんあり、彼らとてそれをさぼっていたわけではないのだが、そういうせっぱつまった仕事で忙しければ忙しいほど、その合間を縫っての、『来たるべき明るい明日の楽しい祝宴の打ち合わせ』という前向きな現実逃避が、彼らには、精神の緩衝剤として、ぜひとも必要だったのである。
 特にタナティエル教団が窓の下に集ってしまった最後の数日は、賢人から事務補助員に至るまで、みな、気が気でなくて仕事がまともに手につかず、結局、どうしていいかわからなくなった彼らは額を集めてひたすら現実逃避に精を出していたから、おかげで祝宴の計画書は、非公式の草案ながらも、必要な食材の見積もりからその発注先の内々のリストアップまで、事細かに出来上がっていた。
 また、いつも能率の悪いイルベッザの役人たちが、いざ里菜たちが戻ってきて計画にゴーサインが出た時に見せた素早い対応とめざましい働きぶりは、普段の彼らからはとても想像もつかないもので、宴会の用意は、実にてきぱきと整えられたのだ。――要するに、ここの人々は、そろいもそろってお調子者なのであった。
 宴会に先だっては、華やかなパレードも行なわれた。
 ユーリオンに言われるままに、眩い光を発しながら薄暮の空を飛び、城のバルコニーに降り立って手を振るという見世物を演じて市民へのサービスに努めたふたりも、さすがに、このパレードだけは勘弁してもらいたかった。何しろ、アルファードは例の鎧に大剣、里菜はユーディードのマントで、正規軍の騎兵隊や軍楽隊を従えて市内を一周しながら、花やリボンで飾り立てた馬車の上から市民たちに手を振ってやってくれというのだから、いくらなんでも付き合いきれない。
 けれども、
「リオン様……。そんな恥ずかしいこと、ほんとにしなくちゃいけないんですか?」という里菜の言葉に、ユーリオンは断固として答えた。
「ああ、これは、どうしてもやってもらわなくちゃならないんだ。あの凱旋の時だって、市民全員が構内に入れたわけじゃないし、君たちも市内をぐるっと飛び回ったわけじゃないんだから、君たちの姿をよく見られなかったものもいるだろう? パレードをやらないと、そういう連中の不満が爆発する」
「でも……」
「いや、君たちが少しでも、私が火あぶりになるのを哀れに思ってくれるなら、どうしてもパレードをやってくれなくちゃいけないよ」 
「えっ、火あぶり?」
「そう。パレードをやらないと暴動が起こって、私は火あぶりにされるんだ。だからどうか、私を火あぶりから救うと思って……。君たちは、私が殺されても、同情してくれないのかね? 私のことを、ほんの少しでも、友達だと思ってくれてはいないのかね?」
 この、強引な泣き落としにあって、ついにふたりは、派手派手しくパレードをやらされたのである。
 そうして、宴会はさらに派手だった。何しろ、イルベッザ城構内は、<賢人の塔>の正面広場を始め、いたるところにテーブルとごちそうが並べられ、市内に居合わせた避難民や出稼ぎ者たちも含めたイルベッザの全市民――どころか、建前上は全国民に参加の権利があって、実際、近隣の町からも街道沿いにぞろぞろ人が流れ込んできた――が、この立食式のパーティーに招かれたのだ。
 といっても、もちろん市民全員がいっぺんに構内に入るのはもちろん無理だから、<賢人会議>は市内のあちこちに屋台を出して、構内に入りきれない市民に、お菓子や軽食や飲み物を無料で振る舞った。もう、街ひとつがまるごと巨大な宴会場と化したのである。
 いつも予算がないと言ってばかりの<賢人会議>がいったいどこからこんな費用を捻り出したのかと、里菜は、あきれつつも心配になってしまった。貴重な予算を、こんな、たった一日の飲み食いなどに浪費しないで、地震で壊れた建物を直すとか、市民に復興資金を低利で貸しつけるとか、もっと建設的で後に成果の残る、実際の役に立つことに使うべきではないかと思ったのだ。
 だが、それをアルファードに言うと、彼はこう答えた。
「リーナ。君は、『明日からのパンより今夜の酒』ということわざを知っているかい?」
「なに、それ……。知らない」
「イルベッザ気質を現わすことわざだ。こういう有名な例え話もあるぞ。その日の食べ物にも事欠くような貧しい男が三人いた。ひとりは北部の農村の、ひとりはカザベルの、ひとりはイルベッザの住民だ。彼らがそれぞれ、切りつめれば一週間は食い繋げる程度の金を、偶然、手に入れた。北部の村の男は、その金で一番安い黒パンを買って、一週間食い繋いだ。カザベルの男は何も食べずに我慢して、その金で安いりんごを一山仕入れて、道端で言葉巧みに高く売りつけ、その売り上げを元手に商売をはじめて、やがて大金持ちになった。そしてイルベッザの男は、最初の晩に豪勢に飲み食いしてその金を使いきり、あとの六日間は、それまでと同じように腹を空かせていた……」
「なんか、イルベッザの人って、とんでもない言われようね……」
「ああ、だけど、そういう気質なんだから、しかたない。だいたい、この話は、当のイルベッザで自嘲的に語られているものだ」
「でも、この宴会を税金の無駄使いだとか思う人、いないの?」
「それは、たまにはいるかもしれないが、思っても、それを口に出すと、まわりの人間から、そんなヤボを言ってと白い目で見られるから、まず、口には出さないだろうな。そして、どっちみち金が使われてしまったからには、楽しまなければ余計にその金が無駄になると、宴会の時には自分が率先して力一杯楽しむだろう」
(はあ……。イルベッザ市民って、いったい……)と、里菜はあきれ返ったが、<賢人>たちからして、そろってこのイルベッザ気質丸出しなので、どうしようもない。
 また、<賢人>たちには<賢人>たちなりの考えもあって、同じ予算を使うなら、直接地道な復興策に使うより、人心を鼓舞することに金をかけて市民の復興への意欲を掻き立てたほうが最終的には投資効果が高くなるというのが、彼らの、一致した見解であるらしい。一見、無駄に見える金を使っても、それで市民の労働意欲が増せば、その分、経済に活気が出て、税金も、やがては使った分以上に入ってきて、元が取れるという計算だ。また、こういう大規模な公的行事をやれば、大量の食材や物資の民間への発注がカンフル剤となって停滞していた流通経路にも活が入るだろうし、一時的に大量の人手を雇ったりもするので、そうしたことが民間に与える経済効果は計り知れないほど高いはずだという。実際にそう上手くいくものかどうかは別として、これが彼らの流儀であるなら、里菜がとやかく言ってもしかたがない。郷に入っては郷に従えというし、やっぱりここは、税金を無駄にしないためには自分も全力で宴会を楽しむべきだろう。
 そういうわけで、里菜もせいぜい、ごちそうや余興を楽しんだのだった。


 そして今、遅くまで賑った大宴会の夜が明けて、イルベッザの街全体が宴会の後のごみや食べかすとうらさびしい気配に埋もれ、市民たちがけだるい二日酔いの眠りをむさぼる中、里菜とアルファードの一行は、イルゼールに向けて旅立とうとしている。
 それは、ひっそりとした旅立ちだった。
 ふたりが村に帰るということは宴会の席で市民たちに発表されていたが、それが今朝だということは、公表されていないのだ。
 彼らが別の世界へ戻っていってしまうということは、市民たちには伏せられているが、今、ここにいるものは、みんなすでに知っている。
 旅の一行は、里菜とアルファードとローイにキャテルニーカ、そしてもうひとり、ユーリオンが一緒だ。
 見送りは、<賢人>たちと、ごく少数の高位の役人たち、後はリューリやティーオなどのごく親しい友人が数人だけである。
 一行のうち、キャテルニーカとユーリオンは、里菜たちを見送った後、再びここに帰ってくる予定だ。
 ユーリオンがイルゼールに行くのは、<長老>として里菜たちを見送るためだけではない。数週間前、村が、神話学者としての彼に、手紙で助けを求めてきたのである。
 村では、先代の司祭の急死に伴い、村祭りの儀式の作法が分からなくなって困っていたのだ。何しろ新しい司祭はまだ幼くて充分な引き継ぎを受けていないし、村人は、司祭もいつかは死ぬのが当然で、しかも彼女がすでに高齢だということくらい分かってはいたのだが、その日がこんなに突然やってくるなどとは夢想だにしていなかったから、誰も彼女から祭祀の進め方を真面目に聞きとっておこうなどとは思わなかったのだ。そもそも、司祭以外の村人は、普段はもうそんな古い儀式のことなど気にも止めておらず、祭りの時の女神の祠の前での儀式を、ただ、形式的な宴会の開会宣言くらいにしか受け止めていなかったのである。
 それでも、実際にまた、祭りの季節が近付いて、そういえば祭祀のしきたりを誰も詳しく知らないとなったら、やはり、それはまずいということになった。それでみんなが困っている時に、昔、ユーリオンを家に泊めた当時の世話役が、「たしか、あの時の学者先生が、ばあさんから儀式の次第を聞いて書きとっていったはずだ」と言い出した。
 ユーリオンも、<長老>として多忙な身であるため、本当ならそのようなことのために遠いイルゼールくんだりまで出向くわけにもいかず、手紙くらいで話を済ませるつもりでいたのだが、ちょうどいいことに里菜とアルファードの見送りという口実ができたので、実はずっと前からもう一度行きたいと願っていたあの村に、自ら出向くことにしたのである。
 村人は今でも、彼が長老になっていることを知らず、ただ、『あの時の若い学者先生』に手紙を出したつもりでいるから、その彼が<長老>として現われたら、さぞや驚くことだろう。
 キャテルニーカが一緒にいるのは、里菜とアルファードを見送った後、帰り道にヴェズワルに立ち寄るためだ。彼女の、癒しの旅の、最初の地である。
 アムリードを始めとするヴェズワル派の信徒たちは、タナティエル教団が<賢人の塔>の前に集結したあのときにも、姿を見せなかった。キャテルニーカは、今、自分を一番必要としているのは彼らだと――心をかたくなにした彼らにこそ、一刻も早い癒しが必要なのだと考えている。
 その後、彼女は、いったんイルベッザに戻った後に、ふたたび、今度は、自ら彼女の護衛と身辺の世話を申し出たタナティエル教団のものたちをお共に、全国行脚の旅に出るつもりだという。全国で、<刻印>を持つ人を癒し終って帰ってくるには、きっと一年はかかるだろう。その間、初級学校は休学だ。 そして、キャテルニーカのその長い旅が終わる日を、イルベッザで待つ人がいる。
 数少ない見送りの人の中にいる、少年学者ティーオである。
 里菜は、小さなキャテルニーカとティーオが手を取りあって別れを惜しむ愛らしい光景を眺めながら、思わず溜息をついた。
「はあ……。まだ、信じらんない。ニーカが婚約だなんて……」
 横でローイが笑う。
「女の子ってのは、男の子より早く育つんだよ。村でだって、つい昨日まで俺たち男の子と一緒に木登りなんかしていた女の子が、ある日突然いつもの集合場所にこなくなったと思っていたら、次に会った時は、いきなり、きれいな花嫁さんだったりしたもんさ」
「だって、だって……。ニーカは、まだ十二よ。結婚なんて、いくらなんでも、早すぎるわ!」
「そりゃあ、まだ、ちと、早いけどさ。何も、すぐ結婚するわけじゃないだろ。あの子が旅から帰ってきて、初級学校を、たぶん一年か二年遅れで卒業してからだって話じゃねえか。三年たてば、あの子も、もう、十五。ティーオの坊やは、十八か? それなら、ちょっと早目じゃあるが、別にそうおかしくはねえさ」
「そりゃあ、この国ではそうなのかもしれないけど……。でも、ニーカだけは……。だって、あの子、年のわりに幼いし……。まだまだ子供よ!」
「親はたいてい、自分の子のことをそう思ってるんだよな。同じ年でも、自分の子だけはいつまでも子供だってな。あんたのそれも、そういうのと一緒だぜ。いいかげん、あきらめな」
「あきらめろって、別にあたし、反対してるわけじゃ……。でも……」
 里菜はまた、溜息をついた。
 キャテルニーカとティーオの婚約が発表されたのは、里菜たちの帰還の翌々日の夕方、ユーリオンがイルベッザ城内で開いてくれた内輪の夕食会の席でのことだった。
 里菜とアルファードは、結局、イルベッザへ帰還して以来、もう宿舎に帰ることを許されず、城内にそれぞれあてがわれた部屋に泊まるように言い渡されてしまった。そうすると友人たちと自由に会う事もできないと苦情を言うと、ユーリオンが、内輪のものを招いての夕食会を整えてくれたのだ。ずっと国賓扱いで、いやおうなしにほとんどの時間を公人として振る舞う他なかった里菜たちにとって、この夜は、親しいものと内輪で語り合える貴重なひとときだった。
 普段、小宴会や食事付きの会議に使われる城内の小さな広間には、里菜とアルファードの他に、ユーリオンとローイとキャテルニーカ、それにティーオとフェルドリーンが集まって、なごやかに語りあった。
 その時に、里菜とも顔見知りの女性治療師の結婚が決まったというリューリの報告をきっかけに女性陣一同が花嫁衣裳の話題で盛り上がっていたところ、小さなニーカもいっぱしに自分がどんなデザインの花嫁衣裳を着たいかを一生懸命主張しはじめた。
 その微笑ましさ、愛らしさに、ユーリオンが、にこにこと目尻を下げて、
「しかし、君のような絶世の美少女をお嫁さんにするのは、どんな男だろうね。君の夫になる人は、きっと、国中の男たちから羨ましがられて、さぞ大変だろうね。夜道を歩く時には、背中に気を付けないといけなかったりするかもしれないぞ。まあ、そんなことはずっと先のことだろうが……」などとお愛想を言ったところ、キャテルニーカはいきなり、きっぱりと、こう宣言したのだ。
「そんなに先じゃないわ。あと、二、三年よ。あたし、初級学校を出たら、すぐ結婚するの」
 ぶっ、と、ユーリオンがお茶にむせた。みんなも、ぽかんとキャテルニーカを見た。
 気を取り直したユーリオンは、ハンカチで口元をぬぐいながら、取り繕うような猫なで声を出した。
「あ、ああ……、そう。そうだね、早くきれいな花嫁さんになりたいんだよね。し、しかしね、キャテルニーカ君、相手がいないと結婚式はできないんだよねえ。まあ、君ほどの美人なら、あと何年かすれば、お相手候補は、さぞかし殺到するだろうけどね……」と言いながら、ユーリオンは、はっと、それまでほとんど話さずに端っこの席でおとなしくしていたティーオに目を止めて、どういうわけか咎めるように叫んだ。
「ティーオ君。なんで君が赤くなってるんだね!」
 全員の視線がいっせいに集まって、ティーオはますます真っ赤になった。
「ははあ……、そういうことか」と、ユーリオン。
「まあ、あんたたち、何よ、あたしに一言の相談もなしに! 前からあやしいとは思ってたんだけど、それにしても……」と、リューリ。
 みんなが――アルファードでさえ――納得顔でふたりを見比べるのに、里菜は話の展開についていけず、
「えっ、なに、なに? そういうことって、どういうこと?」と、助けを求めてきょろきょろとみんなを見回して、リューリに呆れられた。
「リーナ。あんたって、前から、こういうことに関しちゃ、ちょっと鈍いんじゃないかと思ってたけど、もしかして、ちょっとどころか、途方もなく鈍いんじゃない? このふたり、ちびすけのくせに、いつのまにかデキてんのよ!」
「えっ……! ええーっ!? 嘘っ!」
「……あなた、驚くのが人よりワンテンポ遅いわよ」
 そこへ、キャテルニーカが誇らしげに発表したのだ。
「あのね、あたしとティーオは、婚約したの! ねっ、ティーオ」
「う、うん、実は……」と、ティーオが小さくなって、消え入りそうな声で答えた。
「まだ、ふたりだけで約束したことなんだけど、ぼくの両親にも、近いうちに手紙を書いて、認めてもらうつもりで……。彼女なら絶対反対される筈ないし……」
 そこでティーオは、ちょっと言葉を切って顔を上げ、小さいながらもきっぱりした声で付け加えた。
「それに、もし反対されても、ぼくは彼女をあきらめません」
「嘘ォ……。いつのまに……」
 里菜がショックで呆然としている間に、ユーリオンが最初に驚きから立ち直った。
「……いや、いや、驚いた。それは素晴らしい。いや、おめでとう。ティーオ君、君は一見おとなしいが、どんな障害にも負けずに自分を貫ける強い意志の持ち主だというのを、私は知っているよ。いやぁ、結婚式が楽しみだ。本当に絵のように愛らしく初々しい新郎新婦が見られるだろうね。もちろん、結婚式には、私も呼んでくれるね? 結婚祝いは、何がいい?」
 浮かれてはしゃいでいるユーリオンの隣で、リューリが笑った。
「リオン様、いくらなんでも気が早いわよ!」
 里菜はもう、みんなのそんな大騒ぎなどほとんど耳に入らずに、なんだかとりのこされたような心境で、ひとりでぼうっとしていた。
(嘘よ、嘘……。信じらんない。だって、まだ、子供じゃない!)
 考えてみれば、たしかに、キャテルニーカだって、小柄なのと普段の言動が幼いのとでまるっきり小さな子供のように錯覚しがちだったが、実際には、もう十二才。そろそろ恋の一つくらいしても当然かもしれない。そういえば、里菜がその位の年だった頃を思い出してみれば、オクテだった里菜自身はともかく、級友たちは、寄るとさわると好きな男の子の噂話や恋のおまじないの話にうつつを抜かしていたものだ。
(でも、だからって……。だからって、いきなり婚約とか結婚とか、そんなこと考えるのは早過ぎるんじゃない? あたしなんか、ついこのあいだまで、そんなの全然自分とは違う世界のお話だと思ってて……っていうか、そんなこと、まだ考えつきもしなかったのに。そりゃあ、あたしが他の人よりオクテなのはわかってたけど、でも、まさか、ニーカに先を越されるなんて……。だって、ついこのあいだ、あたしの膝の上で子守唄をせがんでいたのは誰? ほんっとに、ついこのあいだよ! はぁ〜、子供ってすぐに大きくなっちゃうのね……)
 そんなわけで、今も、里菜は、跳ね橋の前で手を取り合ってしばしの別れを惜しむふたりを眺めながら、何だか取り残されたようなさびしさを味わっていた。
「しっかし、あのティーオの坊やも、あんなおとなしそうな様子をして、なかなかやるよなあ。なんたってニーカちゃんは、今だってかわいいけど、あと数年すれば、間違いなく国一番の美女だぜ。それを、まだ引きあいの少ない今のうちに確保しておくとは、ちくしょう、うまいことやりやがって……」と、ローイが横でぶつぶつ言っている。
 アルファードが笑って口を挟んだ。
「ローイ。彼らのことはともかく、お前のほうの首尾はどうなんだ。ちゃんと、ヴィーレに土産を買ったか?」
「お、おう! 買ったよ」
「なあに、なに買ったの?」と、里菜はローイの背負い袋にぶらさがるようにして、中を覗きこもうとした。
「よせよ、リーナちゃん、重いだろうが。あのさ、リボンとさ、砂糖菓子とさ……」
「えーっ、ローイってば、そんなものだけ?」
「いや、その……。あと、指輪も買ったよ」
「やったあ、ローイ、どんなの? 見せて、見せて!」
「あとでな。休憩の時に見せるよ。ほら、もう出発だ」
 イルベッザの秋の早朝、馬に乗った一行は、見送りの人々に手を振って、跳ね橋を渡った。来るときは徒歩だったが、帰りは馬だ。ゆっくり行っても、秋分までには、なつかしいイルゼールに帰りつけるだろう。ローイは、そこで、ヴィーレにプロポーズする決心を固めているのだ。
 ふたりがローイからその決心を聞かされたのは、あの夕食会の後だった。
 皆が退出した後、ローイだけが、もうしばらく話がしたいと残って、アルファードと里菜と三人で食後のお茶を飲むことになった。みんな、今日集まった中でもローイだけが里菜たちと特別関わりが深い最初からの仲間なのを知っているし、何か訳ありなのだろうとも察していたから、「じゃあ私も、もうしばらく」などと言い出すものはなく、気を利かせて、彼らを三人きりにしてくれたのだ。
 しばらく、それまでの続きの冗談を言っていたローイは、そのうちにふいに黙り込んで、ぽつりと呟いた。
「あのさあ……。あんたら、やっぱり、くっついちまったんだよな……?」
「く、くっつくって……。まあ……、そういうことかなあ……」と、里菜はあいまいに答えながら、アルファードの顔をちらりと伺った。今だに、もしかするとそう思っているのは自分だけかも知れないという気がして、ちょっと怖かったのだ。
 何しろ、彼らがふたりきりで互いの気持ちを確かめあうことができたのは荒野でのあの短いひとときだけで、それからはずっとあわただしくて、ふたりでゆっくり語り合う機会などなかったし、しかもふたりは、自分たちがこの先、恋人同士として時を重ねて行くことなど出来ないのを、初めて想いを通わせあったその時から、あらかじめ知っているのである。
 それでも里菜は、あの時の、たった一度のくちづけと、そして何より、あの時、確かに通いあった心のゆえに、たとえ将来の約束は許されなくても、これからふたりの想い出を積み重ねてゆくことは出来なくても、今、自分とアルファードは恋人同士なのだと信じている。でも、アルファードのほうは、どう考えているだろうか……。
 里菜の不安気な視線に気付いたアルファードは、照れくさそうに、でも、きっぱりと答えてくれた。
「ああ。まあ、そういうことだ」
「そうか、やっぱりなあ…… 」と、ローイは呟いた。
「うん、見れば分かるよ。よかったな。……うん、今なら、よかったなって、言えるな。あんたらが以前のあんたらのままだったら、俺、リーナちゃんに、そんなやつ止めとけよって言うところだったけどな。いや、やきもちからだけじゃなくて、本当に、アルファードとくっついてもリーナちゃんは幸せにゃなれないだろうと思ってたからさ。でも、今は違う。……あんたらさあ、なんか変わったよな。二人とも」
 そう言って、ローイはしばらく考え込むようにして、また、口を開いた。
「あのさあ……。俺、あんたらと一緒に村に帰って、ヴィーレに結婚を申し込もうと思うんだ……。いや、さ、何も、あんたらがくっついちまったからリーナちゃんを諦めて二番手のヴィーレで手を打とうとか、そういうんじゃないんだぜ。俺だって、あんたらがいない間に、いろいろ考えたんだ。……リーナ、俺、あんたには、俺のところにあんたの偽物が来たってこと、話しただろ? どういうことがあったのか、あの時、詳しくは話さなかったが、実は、あんたの偽物は、俺に、自分と一緒になろうって言ったんだよ。俺、その時、本当のことに気がついたんだ。俺のあんたへの気持ちは決して遊び半分のいいかげんなものじゃあなかったんだが、かといって、本気であんたと所帯を持ちたいとか、そういうのとは違うんだって。うまくいえないけど、リーナ、あんたは、俺にとって、空の虹みたいなものだ。とってもきれいだけど、自分のところに取ってこようなんて思えるはずのないものだったんだ。でも、ヴィーレは、さ……。ヴィーレは、足元に咲く花だ。踏まれないように守ってやらなきゃならない、小さな花だ。ヴィーレは、俺が幸せにしてやらなくちゃならないんだ。俺が守ってやらなくちゃならないんだよ。そして、そう出来て初めて、俺も幸せになれるんだと思う。俺さあ、前に、あんたに言ったことあるだろ? だれでもこの世にいるからには、何か、その人にしかできないことがあるはずだって。俺にとって、それは、ヴィーレを幸せにすることなんだ。そう、俺は、ヴィーレを幸せにするために、この世にいるんだよ!」
 里菜は、恋人とふたりきりの時ならともかく、第三者の前で、よくもぬけぬけとそんな恥ずかしいセリフを口に出せるものだとあっけにとられて、
「……ローイ。あなたって……」と、言いかけ、『詩人ね』という続きの言葉を飲み込んだ。そういえばローイは本当に詩人なのだから、今さらひやかしてもしかたがない。
「ねえ、ローイ。それ……、あたしたちにじゃなくて、ヴィーレの前で、ちゃんとそう言ってあげれば? 女の子なら誰だって感激するわよ」と里菜が言うと、
「そ、それがさあ……。言えればいいけど、やっぱ、俺、たぶん、いざその時になるとさあ……」と、ローイは珍しく気弱な顔をし、アルファードが笑って思い出させた。
「ローイ、女の子にうまいことを言うのはお前の特技じゃなかったのか? どんな甘ったるいセリフでも絶対照れずに言えるって、俺によく自慢してたじゃないか」
「いや、そうだけどさ、そりゃあ、まあ、普段なら、口説き文句なんていくらでも、湯水のように沸いて出るんだけどさ……。でも、リーナちゃん、俺、あんたにプロポーズした時も、何にもうまいことなんか言えなかっただろ? すっげえ陳腐なセリフしかさ……」
「なんだ、ローイ、お前、やっぱりリーナにプロポーズしたんだったのか?」
「えっ、アルファード、あんた、知らなかったのか?」
「ああ、まあそんなところだろうとは思っていたが、ふたりとも俺にそのことを言わなかったからな」
「あのう、アルファード、あたし別に隠してたわけじゃないのよ……」と、里菜はあわてて言い訳したが、アルファードは笑っていた。
 ローイはばつが悪そうに頭を掻いた。
「ちぇっ、何だ、俺、てっきりリーナちゃんがあんたに話したとばっかり思ってたよ。知らなかったんなら、黙ってりゃよかった……。ふたりとも、あのことは、なかったことにしてくれな。俺、あれはあれで本気だったんだけど、とにかく、これからあんたらの邪魔なんかする気はねえからさ。俺、これからはもう、ヴィーレ一筋だぜ! ……でも、俺、こっそり村を出てきちまって、ヴィーレ、怒ってないかなあ……。もう、別のやつと婚約なり結婚なりしちまってたら、どうしよう……。そしたら、俺、俺……。うわァ……」
「ローイ、そんな、今から弱気にならないで。大丈夫よ、ヴィーレは、きっと待ってるわ。もしかするとヴィーレはアルファードを待ってるつもりでいるかもしれないけど、もしヴィーレが自分で気がついていなくても、本当はアルファードをじゃなく、あなたを待ってるのよ。そういうこと、一番分からないのは本人なんだから。ねっ」
「そ、そうかなあ……。まあ、ヴィーレだって、あんたらがデキちまったのを知ったら、アルファードのことはあきらめるだろうしなあ……。あんたら、もちろん、村に帰ったら一緒になるんだろ? うまくいけば、婚礼があいついで二組だ。そうなったらすげえ目出度いよな!」
 ローイの言葉に、里菜とアルファードは顔を見合わせ、里菜はそっと言った。
「あのね、ローイ……。あたしたちふたりとも、お祭りの後で、元いた世界に帰るの。みんなにも、後で話すつもりなんだけど……」
「えっ! 帰るって……。帰れるのか? 帰り方、分かったのか? 元いた世界って、ふたりとも同じところから来たのか? じゃあ、そっちに戻ってから、あんたら、そこで一緒になれるのか?」
「……ううん、同じ世界なんだけど、たぶん、あたしたち、別々になって、お互いのこと、忘れちゃうと思う。きっと、もう、会えないわ……」
 里菜がうつむくと、ローイは強い調子でこう言った。
「いや、大丈夫だ! あんたらがそれぞれ違う世界に行っちまうってんならともかく、同じ世界にいれば、あんたらは絶対、また、巡り合えるさ。そして、巡り合えさえすれば、たとえその時、すべてを忘れていても、必ずもう一度、最初から愛し合えるのさ!」
「……ローイ。あなたって、やっぱり、詩人ね」
「あ、ああ、そうだよ。今さら何だよ。それは前から知ってたろ」
「うん……。ローイ、ありがとう」
 湿っぽくなりかけた空気を変えるように、アルファードがローイに言った。
「ところで、ローイ。俺たちが報奨金を貰ったことは聞いてただろう?」
「ああ。しっかし、ひでェ話だよな。あんたら、よく、あの額で納得したよな。あのいけ好かないスカシた<長老>のおやじ、あんたらに欲がないのをいいことに……」
「いや、俺たちは本当にいいんだ。別の世界にファーリ金貨を持っていくわけにはいかないんだから」
「ああ、そうか、それもそうだな」
「それでだな、この報奨金と、俺たちがこれまで魔物退治で稼いだ金は、村に寄付するつもりなんだが、一部はお前とヴィーレの結婚祝いにやろうと思っているんだ。お前たちが一緒になるなら、あの家は増築したほうがよさそうだからな」
「そりゃあ、ありがとうよ。でもヴィーレが俺と一緒になってくれるかは、まだ、分からないぜ」
 ちょっといじけたローイに、アルファードは当然のようにうけあってみせた。
「いや、お前たちは、結婚するんだ。これは、俺の――本物の魔法使いの予言だ」
 その、自信に満ちた断定口調に、拗ね気味だったローイの表情が変わった。
「……アルファード、それ、本当か?」
「ああ。だから、結婚祝いの金の一部を、今、先に渡しとくから、これでヴィーレに土産を買っていってやれ」
 ローイはたちまち勢いを取り戻して、現金そのものに叫んだ。
「そ、そうか? そりゃあ、ありがたいや! 実は俺さ、歌で稼いだ金、ほとんど使っちまって、残ってなかったんだ。助かるぜ!」
「お前のことだから、どうせそんなことだろうと思ってたんだ」
 アルファードは当然のように答えたが、里菜はびっくりして問い質した。
「ローイ、結構稼いでたんじゃないの? 前にお店で歌ってるのを見た時、一曲歌っただけで、あんなにチップ貰ってたじゃない! あれ全部、何に使っちゃったの? 別にそんな、いい部屋に住んでもいなかったし、服も、派手だけどそんなに上等じゃなさそうだし……」
「いや、その、まあ、いろいろとさ……。えっと……、ばくちをしたりとか、女の子にメシを奢ったりとか……」と、ローイはばつが悪そうに笑い、里菜は、
「これじゃ、ヴィーレは苦労するわね!」と、呆れたのだった。


 一行は、市門を出て、古いエレオドラ街道に立ち込める秋の朝霧の中に馬を進めた。
 古い森は静まり返り、馬のたてがみを霧が濡らしている。
 里菜はアルファードのほうに馬を寄せて小声で囁いた。
「ね、アルファード。そういえばあなた、ローイに予言がどうとか言ってたけど、予言の力なんて手に入れたの?」
「ああ、実は、予言というのはハッタリだ」と、アルファードは笑って答えた。「でも、彼らは絶対、結婚する。何を賭けてもいい」
「だめよ、アルファード。賭けにならないわ。あたしもあのふたり、絶対結婚すると思うもん」
 ふたりはそっと笑いあった。
 霧の向こうに朝日が昇ったらしく、行く手の森を浸す霧が、白くぼんやりと輝やきだした。

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