長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語 

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 <第四章 荒野の幻影> 

(第三章までのあらすじはこちらから


七(中)



 アルファードは駆けた。もはや迷うことなく全速力で地下迷宮を駆け抜け、果てしなく続くかのような暗いらせん階段を、休むことなく駆け上った。汚れたぼろ布を纏ってはいても、アルファードの身体には、今や、活力が漲り、どこまででも駆け続けられるような気がしていた。
 里菜のもとに一刻も早く駆けつけたいという、その思いだけに衝き動かされ、他のすべてを忘れて長いらせん階段を登りつめたアルファードは、たどり着いた頂上の扉の前で、一瞬、立ち止まった。取っ手に伸ばされた手が、ぴくりと震えて、途中で止まった。
(扉ヲ、開ケテハ、イケナイ――)
 どこかで、そんな声がしたような気がした。
(そう、扉を開けては、いけないんだ……)と、彼はふいに思った。
(この扉を開けたら、何か、取り返しがつかないことがおこる。……そうだ、きっと――、知ってはならないことを知ってしまう。見てはならないものを、見てしまう!)
 再び、どこかで――たぶん、頭の奥で――、呪文のように、声が囁いた。
(ソウ――扉ヲ開ケテハ、イケナイノダ。ソウシタラ、オ前ハ、禁忌ヲ侵シタ罰トシテ、何カヲ――カケガエノナイ何カヲ、失ウダロウ、永遠ニ、失ウダロウ――)
 気がつくと、彼の前にあるのは、幼いあの日の、母の寝室のドアだった。絶対に開けてはいけない、禁断の扉。決して触れてはならない禁忌の領域。このドアの向こうに待つものは、喪失。取り返しのつかない、永遠の喪失。そして、痛み。終わりのない苦悩――。
 が、彼が立ちすくんだのは、一瞬のことだった。
(違う!)と、彼は心の中で叫んで、古い幻影を追い払った。あの悪夢が彼を呪縛することは、もう、ないのだ。
 目の前にあるのは、再び、もとの、古ぼけた木の扉だった。
(そういえば、これまでも俺は、幾度か、見知らぬ扉を開けようとする時、こんなふうに一瞬、戸惑うことがあった)と、彼は思い出した。
 その時は、自分が何を恐れているのかわからなかったし、何かを恐れているとさえ気づかず、自分の理由のない一瞬の躊躇を深く意識することもなく、その都度、そのまま忘れてきた。けれど、今、彼は、その時自分が恐れていたものを知っている。
 今はもう、そんな古い悪夢に怯える必要は無いのだ。なぜなら、自分はもう、自分が誰かから愛されていることを知っているのだから――。
 彼は、もう、ためらうことなく扉に手をかけ、力一杯、一気に押し開いた。
「リーナ!」
 叫びながら部屋に飛び込んだアルファードが見たものは、丈高い魔王に背後から肩を抱かれてひっそりと立つ、純白の花嫁衣装の里菜の姿だった。
 駆け寄りかけた足を止めて、アルファードは立ちすくんだ。
 今、その部屋は、里菜が足を踏み入れた時のような宇宙空間でも、その後で里菜が見たようながらんとした石の小部屋でもなく、古代の遺跡が真新しく蘇ったかのような、荘厳にして清洌な神殿だった。
 花に飾られた祭壇を背にして、たおやかな純白の花嫁が黒衣の死神の腕に抱かれているその光景は、不吉なほどに清らかで、妖しいまでに美しく、何か非常に神聖で厳かな気配を漂わせていて、その前に立ったアルファードは、自分がいかに不恰好で薄汚れた、無様な生き物であるかを、ふいに思い知らされたように感じた。
 傷は治り、身体に浴びたドラゴンの血は消えていたとはいえ、長い階段を駆け上がってきた彼は、汗と埃にまみれていた。その上、半裸で、辛うじて身につけている衣服もボロ布同然、乾いた血と土がこびりつき、あちこちが裂け、破れて、ほとんど着ているともいえないようなみすぼらしい状態だ。魔王の姿を目にしたとたん反射的に抜き放った剣も、ぼろぼろに刃毀れして、拭っても拭い切れなかったドラゴンの血脂で曇っている。
 さっきまで何とも思わなかったそんな姿が、急に、眉を顰められ後ろ指を指されて当然の、野蛮で見苦しく冒涜的な、恥ずべきもののように思えた。
 こんな、汗と埃と泥と血に汚れきった卑俗で粗野な人間などが、この清浄な祭祀の空間に暴力的に足を踏み入れること自体、すでに途方もない冒涜行為なのではないだろうか。この、美しく神聖な神々の抱擁を妨げようとするなど、死すべき人間の身には到底許されぬ、ひどく不遜な罪なのではないだろうか――。
 そんな思いが、彼に襲い掛った。
 その圧倒的な卑小感、罪悪感に打ちのめされそうになりながらも、アルファードは、もう一度、ためらいがちに里菜に呼びかけた。
「リーナ……?」
 里菜はアルファードの呼びかけに応えず、縛られているわけでも押えつけられているわけでもないのに、魔王の腕を振り払ってこちらに駆け寄ってこようともしなかった。
 アルファードは、里菜がすでに魔王に呪縛されて、完全に捕らわれていることを見て取った。アルファードの迷いは消え、魔王をまっすぐに睨みつけながら、再び足を踏み出した。
「よく来た、羊飼いよ……。我等の婚礼の客として歓迎しよう」
 美しい死神が、優雅な弧を描く眉をわずかに上げ、端正な唇の端に蔑みの薄笑いを浮かべて言った。
 死神は、本当に美しかった。人間では考えられぬ、その、完成された冷たい美貌は限りなく優美で雅やかで、けれどもどこにも脆弱さや女々しさは感じさせず、力強く誇り高い王者の威厳に満ちていた。着ているものは、何の飾りもない、ただの黒い長衣とマントだったが、その黒でさえ、星々の煌きを深く抱いた宇宙の闇のような、重厚にして絢爛たる漆黒であり、身を飾る装飾品といえば中央にシルドライトを嵌めこんだ黄金の額冠だけなのに、どんなに大仰に全身を宝石で埋め尽くしても、これ以上豪華に、高貴に、蠱惑的に見えることはないだろうと思われた。
 そして、魔王の黒衣に包み込まれるように立つ花嫁姿の里菜もまた、この世のものとも思われず美しかった。白い肌も黒い髪も、大きな瞳も、あどけないバラ色の唇も、あまりにも可憐で愛らしく、アルファードは胸が苦しくなったくらいだが、それはただ、里菜が愛らしすぎるからだけではなかった。この時の里菜の清らかさ美しさは、生身の人間の少女にはとうていありえないようなもので、アルファードは、里菜がもう、何か自分とは別の世界のものに――遠い存在になってしまったような気がして、胸が、締めつけられるように痛んだのだ。
 里菜の瞳は、もう、こちらを向いていても、アルファードを映していなかった。その、うつろな瞳の中には、ただ、永遠の虚無の深淵だけが映し出されていた。
「死神め、リーナに何をした!」
 絞り出すように、アルファードは叫んだ。
「何も危害は加えておらぬよ」と、魔王は薄く笑って応えた。
「私の大切な花嫁だ。手荒な扱いなどは、しておらん。ただ、真心を込めて、誓いのくちづけを捧げただけだ。むろん、嫌がったりはしなかったぞ。ほれ、この通り、私の花嫁は、様々な苦難を乗り越えてやっとたどり着いた花婿の腕の中で、こんなにうっとりと幸せそうにしておるのだ」
 人間ならざる完璧な美貌の死神が、くつくつと笑いながら、これみよがしに少女を引き寄せ、背後から包み込むように抱き締めた。何の抵抗もなく、なすがままに抱き寄せられている里菜の無表情な瞳に、確かに陶酔の色が浮かんでいるのを、アルファードは見て取った。
 アルファードは歯を食いしばって剣を構えた。
「きさま、リーナに、何かよこしまな魔法をかけたんだろう。卑劣なやつめ。魔法の力を借りないとリーナに言うことを聞かせられないのを、きさまは自分で認めているんだ」
「何とでも言うがいい。どのような手段であれ、手に入れたものの勝ちだ。それに、羊飼いよ、私がこの娘に魔法をかけたというが、そなたはこの娘があらゆる魔法を消す力を持っているのを知っておるはずだ。この娘が魔法にかかるということは、それを望んでいるからなのだよ。この娘は、そもそもの最初から、私に強く惹かれておるのだ」
「嘘だ! リーナはきさまのことなんか……!」
 苦しげに叫ぶアルファードを眺めて、魔王は、満足げな薄笑いを浮かべていた。
 魔王は、アルファードを苦しめるためだけに、こうして、戯れに、人間の目に見える完璧な美青年の姿――それは、かつて彼が神として人間たちに崇《あがめ》られていた頃の、彼自身も忘れかけていた古い姿だった――をとって見せたのだ。
 里菜を誘惑するためになら、彼は別に、美しい顔を見せる必要などなかった。顔のない死神の姿であるうちに、すでに魔王は、里菜を魅惑し、呪縛していたのだから。里菜に花嫁衣装を着せたのも、こうして里菜をこれみよがしに抱き寄せて、耳たぶに唇が触れそうなほど顔を寄せて見せているのも、なにもかも、アルファードに見せつけるためなのだ。そして、この意地の悪い演出は、まさに狙ったとおりの効果を上げている。
 アルファードに目に浮かんだ苦痛の色が、魔王の強い愉悦となった。思惑通りの反応に、魔王は、ほくそ笑んだ。
「リーナ! 目を覚ませ、リーナ! 君は魔王の罠に陥っているんだ。よこしまな魔法に捕らわれているんだ。リーナ、俺を見てくれ、俺の声を聞いてくれ! 君はどんな魔法でも消せるんだ。魔王の呪縛を破ることができるはずなんだ!」
 アルファードは必死で里菜に呼びかけたが、反応はない。
「羊飼いよ、何をそんなに一人であらけなく喚きたてておるのだ。そなたのその振る舞いは、婚礼の客として、かなり行儀が悪いのではないかな? 私はそなたが我等に祝いの言葉を述べにきたのかと思っていたのだが、そうではなかったのか? もしや、この期に及んで、我等の婚礼に異義を唱えるつもりかな?」
 玲瓏な白い面にうっすらと侮蔑の笑みを湛えたままで、魔王はアルファードを挑発していた。
「無論だ!」
 魔王の神々しさ、美しさに圧倒され、畏縮しそうになる自分を励まして、アルファードは声高く叫んだ。
「きさまなぞに、リーナは渡さない!」 
 魔王は可笑しくてたまらぬという風に哄笑した。
「渡すの、渡さないのと言うが、この娘は、別にそなたの持ち物ではなかろう?」
「そ、それは、そうだが、でも、リーナはきさまの花嫁になることなど、望んでいない。そして俺は、リーナを……、リーナを、愛している。だから俺は、リーナをきさまの手から守る」
「そなたは何か勘違いをしておるのではないかな? 私は別に、この娘をたぶらかして連れてきたわけでも、力づくで攫ってきたわけでもない。この娘は、自分の意志で、自分で歩いて私の許に来たのだ。それに、そなたがこの娘を愛していようといまいと、そんなことには何の意味もない。そなたの気持ちなどには関係なく、私の花嫁は、私の妻になることを心から喜んでおるよ」
「嘘だ! リーナは嫌がっていた。それに、リーナは、リーナは俺を……」
 魔王は、ますます高く笑いだしながら、アルファードの言葉を遮った。
「好いていた、とでも? そのような薄汚れた卑しい羊飼いの分際で、それはまた、よくよく自惚れたものだ。それでは、そなたは今まで、この娘にからかわれておったのだろうよ。人間の娘というのは、たとえ申し分のない婚約者がいても、自分の魅力を確かめるために、あるいはちょっとした思い出のコレクションを嫁入り道具の引き出しに隠して持って来るために、婚礼を挙げる前に少しくらいは他の男の気も引いておいてみたがるものだからな。だから私は、そのくらいのことを咎め立てはしない。気紛れな小娘の、ほんの悪戯心だ。かわいいものだよ……。まあ、そんな戯れを真に受けて、こんなところまでのこのこついて来たそなたにしてみれば、ここでおとなしく引き下がる気にはならぬのだろうがな」
「当り前だ。引き下がってたまるか」
「では、今、私と、ここで戦うか?」
 そう言うと、魔王は、あいかわらず人形のように立っている里菜を背後の祭壇の前に無造作に押しやり、大鎌を構えた。氷のようなその三日月型の刃が、透き通る光の雫を滴らせて、ぎらりと輝く。
 アルファードは、身を低くして、無言で剣を構え直した。
 魔王は、滴るような悪意を滲ませて低く笑った。
「愚かな羊飼いよ。負け犬のままで、おとなしく羊の番でもしておれば見逃してやったものを……。神に挑もうなどとは、よくよく思い上がった、身の程知らずだ。だが、これもまた、面白い余興ではないか? 我が麗しの花嫁も、さぞやこの余興を楽しむことだろうよ」
 魔王の大鎌が、アルファードに向かって無造作に振り下ろされた。


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掲載サイト:カノープス通信
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