長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語 

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 <第四章 荒野の幻影> 

(第三章までのあらすじはこちらから


七(前)



「エレオドリーナ。今、ドラゴンが死んだ。どうやら、そなたの羊飼いが、彼女に勝ったらしい。すぐに、ここまでやってくるだろう」
 魔王が、里菜の耳元で囁いた。
「あやつ、ただの虫けらと思ったが、なかなかに侮れぬ男だ。むろん、そなたの助けがあってこそ勝てたのだろうが……。どうも、私は、今のそなたを、ただの無力な小娘と見くびり過ぎていたらしい。どのような姿と心を持っていようとも、そなたはエレオドリーナであることを、忘れていたわけではないのだが……。私は、あの男へのそなたの想いを軽んじて、油断しておったのだろうよ。
 万一、あやつがドラゴンをうまく出し抜いてここまで登ってきてしまった時のために、ここの扉にちょっとした罠を仕掛けておいたのだが、ドラゴンが死んだとなれば、それもおそらく、無効だろう。あの罠は、あのドラゴンがあやつにかけた術を土台として利用した上に組み立ててあったから、ドラゴンの影響力が消えてしまった今となっては、私の細工だけが残っていても、剣が朽ちてしまった後に鞘だけが残っているようなもので、もはや単なる形骸に過ぎんからな。
 ……しかし、いずれにせよ、もはやそなたは私のもの。それに、我等の婚礼の客には、犬臭い羊飼いなどよりも、竜の血の戦士であり<魔法使い>である男のほうが相応しい。丁重に迎えてやろうではないか。それもまた、婚礼の祝宴に華を添える面白い余興となろう。さあ、花嫁よ、婚礼の身支度を」
 そう言うと、魔王は、その美しい長い指で、里菜の三つ編みの青いリボンを解いた。緩い三つ編みはすぐに解けて、柔らかな黒髪が、はらりと背中に広がる。
 魔王は、その髪を愛しげに撫で付けて整えると、今度は、里菜の青いワンピースの肩のあたりに、祝福を与えるように軽く手を触れた。
 ヴィーレが作ってくれた質素な羊毛製のその服は、魔王の指の触れたところから、細かな真珠や宝石を一面に散りばめた、豪華な純白の花嫁衣装に変わっていった。
 透けるように薄く軽やかなその生地は、幾重にも重なって微妙な陰影を見せながら、月光にも似た淡い輝きを放ち、里菜のほっそりした身体をふわりと包み込んで、さらさらと、やさしく揺れる。三つ編みを解いたばかりでゆるく波打っている黒髪には、夜空にまたたく星のように無数の細かな真珠が散りばめられ、月の光のように透き通るヴェールが、足元まで軽やかに流れ落ちる。
 最後に仕上げに、魔王は、
「女王の冠だ」と囁きながら、青いサファイアを飾った華奢な銀のティアラを祭壇の上から取り上げて、厳かに里菜の頭に戴かせた。
「エレオドリーナ。実に美しいぞ……。人間どもの婚礼の衣装も、悪くない」
 一歩下がって、清楚で可憐な里菜の花嫁姿を眺めながら、魔王は満足げに呟いた。
 実際、この時の里菜は美しかった。
 里菜はもともと、特に人目を引くような美少女というわけではなく、どちらかというと目立たない、おとなしい容姿の持ち主だが、今はその地味ささえ欠点にはならず、かえって彼女の愛らしさ、清楚さを際立たせているし、身体つきの未熟さ、貧弱さも、ふうわりとしたドレスにカバーされて目立たないばかりか、土台の細さと衣装のボリュームがうまく引き立てあって女性らしいたおやかなシルエットを作り出し、やせっぽちの彼女を、いつになく豪華に演出している。顔立ちに残る幼さも、今の彼女を、その気品や美しさが損なわれるほど子供っぽくは見せず、むしろ、年若い花嫁にふさわしい初々しさ、清純さを程よく強調していて、里菜はまるで、世界一の陶工が己の最高傑作とするべく全身全霊で命を吹き込んだ陶磁の花嫁人形のように、愛らしく、美しく、高貴に清らかに見えた。
 けれど、花嫁の黒い瞳はガラス玉のようにうつろで、そのあどけない白い顔には、何の表情も浮かんでいなかった。魔王の呪縛は、さっきよりもずっと強く、里菜の魂を捕らえていたのだ。
 さっきは、魔王には、まだ油断があった。アルファードへの憎しみから、里菜の思考を完全に奪わずにおいて、アルファードが傷つくところを見せつけてやろうとしていた。けれど、もう、魔王は、このちっぽけな少女の持つ思いがけない力を知っている。
 魔王は今一度、里菜を抱き寄せた。魔王の冷たい指が、里菜の細いうなじを滑って、黒髪の中にそっと潜り込む。
 里菜は、人形のようにうつろな表情のまま、ぴくりと身を震わせ、微かに喘いだ。その指の氷のような冷たさが、指の触れたところから、じかに頭の内側に忍び込み、脳髄が痺れていくような気がした。あらゆる意識を凍りつかせるようなその冷たさは、一種、快感に近い、不思議な感覚だった。己の思考が麻痺し、闇に引きずり込まれていく感覚を、里菜はもう抗うこともなく陶然と受け入れた。
「おお、私の花嫁よ、これからやってくる婚礼の客も、そなたのこの姿を見て、さぞや感嘆することであろうよ……」と、魔王は、かすかに意地悪い喜びを潜ませて笑った。
「私の花嫁がこんなにも愛らしいのを知ったら、あやつは、我等を祝福すべき婚礼の客としての礼儀も忘れて、嫉妬に荒れ狂うやもしれぬな。どうせ、たかが薄汚い羊飼いの分際では、そなたを手にいれようなどと考えるだけでも不遜なことだというのに、あれは、身のほどを知らぬ男だからな……」
 魔王のこの言葉を聞いても、里菜はもう、羊飼いというのが誰のことかすら思い出せなくなっていた。それなのに、里菜の胸に、理由も分からない悲しみが淡く広がった。
 ――なぜ、自分は、今、悲しいのだろう。美しい花嫁衣装に身を包み、待ち望んだ婚礼の祭壇の前に立つ、幸福な花嫁であるはずの自分が……。
 里菜のうつろな瞳から、一粒の涙が溢れた。涙は、薔薇の花びらに零れた雨粒のように、柔らかな頬のうぶ毛の上を転がり落ちる。
 頬を滑って落ちてゆく涙を、魔王の美しい指先が、まるで高貴な宝石に触れるかのような恭しげな仕草で、そっと掬い取った。
 そうして、魔王は、楽しげにくつくつと笑いながら囁いた。
「花嫁よ、このめでたい時に、そなたは、なぜ泣くのだ? そうか、あまりにも幸せだからなのだな……。さあ、まもなく、客が到着するぞ。私もそろそろ婚礼の盛装を整えて、客を迎える準備をせねばなるまい」
 魔王は、そう言うと、深々と顔を隠していた黒いフードを後ろにはね除けた。
 フードの下から現われたのは、この世のものとは思われぬ完璧な美貌だった。
 魔王は、里菜が勝手に想像していたような老人ではなかった。といって、若いというわけでもない。あえていえば、それは青年の顔だったが、ただ若いのではなく、それは、老いも若さも全て含んで年令を超越した美貌――年令を持たないものの、人ならざる美貌だった。
 その肌は月光のように白く、長い髪と憂愁を含んだ美しい瞳は星をちりばめた夜のように漆黒に輝き、形よく秀でた高雅な額には黄緑色のシルドライトをはめ込んだ黄金の円環が輝いている。優美で繊細な細面の顔は、一点の瑕疵もなく気高く整い、完璧な唇が冷たく婉然とした微笑みを湛え、そして、その、昏いまなざしには、さっきまでフードの下で渦巻いていた永遠の宇宙の闇が宿っていた。
 魔王は、顎に手を添えて仰向かせた里菜の顔の上に覆い被さるように、その美しい顔を間近に寄せていきながら、笑いを含んで囁いた。
「私の、婚礼の盛装だ。約束どおり、私も人間の姿で、婚礼に臨もう」
 その瞳の中の眩く深い闇が、里菜のうつろな瞳を覗き込んだ。里菜の意識が、果てしない虚無の深淵に吸い寄せられ、止めようもなく闇の底に引き込まれていく。
 魔王は、妖しく冴えた切れ長の目を細めて、ふと微笑むと、身を屈め、人形のように無抵抗な里菜の、あどけない小さな唇にくちづけた。かすかに開いた唇から、身うちに冷たい闇がそそぎ込まれるような、そんな、ひんやりと昏い、死のくちづけだった。


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この作品の著作権は著者冬木洋子(メールはこちらから)に帰属しています。

掲載サイト:カノープス通信
http://www17.plala.or.jp/canopustusin/index.htm