『イルファーラン物語』パロディ
『いるふぁーらん学園物語』 作:よもぎの森様



1話   運命の出会い


 六時間目の終業のチャイムがイルファーラン学園のすみずみにまで鳴り響くと、各々の教室からは待ってましたと言わんばかりに生徒達が飛び出してきた。
 部活動を行っている生徒はその活動場所へ、どの部にも所属していない生徒はいそいそと帰宅の途へつき、またそのどちらでもなく、ただ暇を持て余した生徒たちが放課後の教室で取り留めのないお喋りを続けていた。
 いつもと変わらない、いつも通りの放課後の風景。
 イルファーラン学園は今日も平和であった。……かに見えた。

 野球部の部室へと向かっていたアルファードは”それ”を目にした時、三度まばたきを繰り返した。
「あれは……、人か?」
 アルファードの視線の先にはプールがあった。イルファーラン学園のプールは屋外に設置された、どの学校にもあるような、ごく普通のプールである。当然のことながら使用できる期間は、夏真っ盛りの七、八月と短い。たとえ水泳部であろうとも真冬の季節の使用が許可されているはずがなかった。
 プールへの扉にも錠が下りている。とはいえ、有刺鉄線を張って厳重にガードしているわけではないので、フェンスを乗り越えれば誰にでもプールへの進入は可能だったが。
 水には人の心を浄化する作用があると、何かの本で読んだような気もする。友人・家族関係などが上手くいかずに、プールに張られた水を眺めながら物思いに耽《ふけ》る生徒も居るのかもしれない。だが、しかし。
 早朝には薄く氷が張るこの季節に、わざわざ水面に浮かびたくなる生徒なんて居るのだろうか……。
 とっさにアルファードの脳裏に浮かんだものは、最悪の事態であった。そう思った時には、アルファードはフェンスを乗り越えていた。プールサイドに降り立つと、間髪入れずに水の中へと飛び込み、プールのほぼ中央付近に浮いている”それ”に向けて無我夢中で水を掻いた。水温は身を切るほど下がっているはずだったが、思わぬ事態の遭遇で身体が高揚しているせいなのか、冷たいという感覚は全く感じられなかった。
 夏に水を入れたままほったらかしのプールの水は、ひどく濁っている。苔と砂埃とで緑がかった水面に浮かんだ枯葉もほとんどが朽ちかけていた。
 寒空の下で、プールのほぼ中央に浮いていたもの、それはやはり人であった。間違いなくイルファーラン学園の制服を着た、しかも女子生徒である。
「おい、君、大丈夫か?」
 女子生徒の側まで泳ぎ着いたアルファードは、何よりもまず声をかけてみた。返事はなかった。
 とにかく水から上がろうと判断したアルファードは、水面下で少女の体を横抱きにした。浮力が加わっている少女の体に重みというものはなく、身体の半分を水面に出して横たわっている少女の体勢を崩さないように、アルファードは静かにゆっくりと歩いてプールサイドへと引き返していった。
 水面をなるべく波立てないようにした理由は、胸の辺りで組まれた少女の手の中に、大事そうにクラリネットが握られていたからだ。察するにこの少女は吹奏楽部に所属しているのだろう。小、中、高と野球に打ち込んできたアルファードではあったが、楽器類が水に濡れてはいけないことくらいの判断は出来た。
 水から上がったアルファードは、コンクリート打ちのプールサイドに少女を横たえると、口元に手をあててみた。かすかではあるが、少女の呼吸を確認することができた。
「おい、おい、君、しっかりしろ」
 アルファードは少女の頬を軽く叩きながら、改めて呼びかけてみた。何度目かのそれで少女の瞼《まぶた》が軽い痙攣《けいれん》を起こし、眉間に小さな皺が寄り、そして蕾がほぐれるように、ゆっくりと瞼は開かれた。
 図らずとも至近距離で見つめ合う形となった二人。アルファードは、はっとなった。
 見開かれた少女の大きな瞳に、吸い込まれたように目が離せなくなってしまったのだ。黒い瞳は日本人なら当たり前の色なのだが、少女の瞳の漆黒は見る者をはっとさせる、例えるなら、どこまでも澄んだ水の中へと沈めた黒真珠のような美しさを秘めていたのだ。
 アルファードはその瞳を見ながら考えていた。
(将来、こんな娘がほしいかも)
 …………。
 こんなに見つめていては相手に失礼だ、ということにアルファードが気付くまで、どれくらいの時間が経過していただろうか。我に返ったアルファードは慌てて少女から視線をそらし、
「あー、失礼、君、身体の方はなんともないのか? いつから、その……、こんな寒い日にプールでなんか浮いていたんだ?」
 誰もが疑問にするであろうことを、単刀直入に少女に訊ねた。が、その質問に対する少女の返答は待てど暮らせど返ってくることはなかった。不審に思ったアルファードは再び少女に視線を戻し、そして少女が先ほどと寸分たがわぬ状態で自分のことを見つめていたことに気付き、ぎょっとなった。
 こんなに見つめられなければならない理由も見あたらず、多少の気まずさも手伝って、アルファードは大きく咳払いをした。少女の肩がピクンと跳ね、そこで初めて少女は我に返った様子だった。
「あ……、あたし、なんでこんな所にいるの? ……あなたは誰?」
 ようやく言葉を発してくれたことにアルファードはホッと胸をなでおろした。
「俺はアルファード。野球部のキャプテンをしている。ポジションはピッチャー。銀のグローブを愛用していることから、一部の人達の間では『銀のドラゴン』と呼ばれているらしい。」
 堅苦しい口調はアルファードの特徴である。実直かつ簡潔な自己紹介の後、アルファードは少女に同じことを訊ね返した。
「君は? 自分の名前は覚えているのか?」
 こういうシチュエーションの場合、ドラマや映画などでは記憶喪失であることが多い。まさかとは思ったが念のため訊いてみた。といっても本当に記憶喪失になっていたらまずいのだが。
「あたしは……、里菜。一年E組の……」
 自分でも確かめながら言っているような様子が頼りなげではあったが、覚えているのならそれでいい。ともあれ記憶喪失の線が消えたのだ。アルファードは安堵せずにはいられなかった。
「……そうだ、あたし部活に出ていたはずなのに」
「部活って、吹奏楽部か」
「え、なんで知ってるんですか?」
「君が大事そうにそれを握り締めていたから」
 と言って、アルファードは里菜の傍らに置いたクラリネットを指差した。
「安心しろ。水には濡れていないはずだから。」
「はあ……」
 少女、里菜は気のない返事をした。クラリネットは里菜にとって、それほど大事なものではなかったのだろうか?


 いや、実のところ、そのクラリネットは里菜の大切なものだった。少なくとも、目を覚ます前までは。
 十歳の時に学校のクラブでクラリネットを習ったのをきっかけに、里菜は取り付かれたようにクラリネットに夢中になり、親にねだってようやく買ってもらったものだった。以来六年間、そのクラリネットは、何よりも大事な里菜の宝物であった。それが、どういうわけか今の里菜には、どうでもいい物のように見えて仕方がないのだ。
 そんなことよりも――……と里菜は考える。

 
「――とにかく、いつまでも濡れた制服を着ていては風邪を引く。えー、君は学校にジャージを置いてあるのか?」
 二人ともプールに入ったのだから当たり前のことだが、アルファードの制服も、里菜の制服も、これ以上水分が吸えないほどに濡れ、裾や袖口からは水が滴り落ちていた。普通なら手足の感覚は無くなり、歯の根も合わなくなり、会話など交わせないほど、身体は芯まで冷えきっているはずなのだが。
 不思議なことだが、二人はそれほどまでの冷えを感じてはいなかった。もちろん、暖かいわけではなかったが。
「ジャージは昨日家に持って帰っちゃって、今日は置いていないんですけど……」
「そうか。それなら仕方がない。とりあえず野球部の部室に行こうか。部員の誰かしら予備のジャージを持ってきているだろうから、それを借りて着替えたほうがいい。ヴィーレが持っていれば一番都合がいいんだが……、この際贅沢は言ってられまい。最悪の場合は、野球のユニフォームでもいいだろう。」
「え、ユニフォーム!」
「なにか、問題でもあるのか?」
「いえ、何も……」
(野球のユニフォーム……、汚そう。)
 などと里菜が思ったことは、アルファードの知るところではない。
 里菜は極度の潔癖症なのである。誰が触れたかわからない電車のつり革や公衆電話など、死んでも触りたくないと思っている人間だ。どうしても触らなければならない事態に陥った時のために、ウェットティッシュは肌身離さず持ち歩いていたりする。
 汗臭いのなんて大嫌い。たとえ洗ったものだとしても、男の汗を一度でも吸ったユニフォームやジャージを着なければいけない自分を想像するだけで鳥肌が立った。
(あ、でもアルファードのだったら、何を着てもいいかも♪)
 そう考え直した途端に、波が引くように鳥肌が落ち着いてくのが自分でも感じられた。 
(お願いだから、誰も予備のジャージなんか持ってきていないでね。)
(もしアルファード以外の人のユニフォームを着ることになったら、濡れた制服のまま逃げ出そう――)
 などと、かなり恩知らずなことを考えながら、里菜は野球部の部室へと向かうアルファードの後について歩いた。
 ……ここまで書けば既にお気付きだろうが、里菜はアルファードを目にしたその瞬間に、激しく恋に落ちていたのだ。
 アルファードは、一瞬で人の心を奪ってしまうほどの器量を持っている男ではない。しかし里菜は一目でアルファードに心を奪われてしまった。
 アルファードの何に惹かれたのかを訊ねても、多分里菜は答えられないだろう。
 ただ言えることは、理屈では言い表せない何かが、目を開いた瞬間に里菜の中に流れ込んできたということ。
 もしかしたら里菜は魔法にかけられていたのかもしれない。目を開けて最初に見た人間を好きになるというシルグリーテの魔法を。
 実際、今回のこの出来事には不思議な点が多すぎる。真冬のプールに入りながら二人が凍えなかったというのもそうだが、なぜ里菜がプールの真ん中に浮かんでいたのかが第一の、そして最大の謎なのである。
 里菜自身、どういう経緯でそんなことになってしまったのかが全くわからないと言う。そして、そのことに対して深く考えようという気は起きなかった。だからこそ余計に運命を感じずには入られない里菜であった。
 そう、これは自分とアルファードが巡り合うために、神様が用意してくれたものなのだ。と――


 激しく恋に目覚めた乙女は、すこぶる行動的だった。
 里菜は翌日、十歳の頃から続けていたクラリネットをあっさりと捨て、吹奏楽部に退部届を出したその足で、マネージャーになるべく野球部に入部届を出しに行ったのである
「汗臭い、泥臭い世界でも、あの人が居れば生きていけそうな気がする。そうよ。あたしが生きる場所、それはアルファードのいる野球の世界だったのよ。」
 



2話   ヴィーレのお菓子


「みんな、今日の練習はきつかったからお腹減ってるでしょう。たくさんクッキー焼いてきたの。帰る前に食べていってね♪」
 夕日が空を真っ赤に染める時刻、本日の練習を終えた野球部の部員達が、ぞろぞろと部室に戻ってきた。泥と汗で汚れたユニフォームからは異様な臭いが放たれ、小さな窓が一つしかない部室はたちまち独特の熱気で包まれた。
 試合が近付き、肉体の限界ギリギリまで酷使する練習メニューをこなした部員達は、みなヘトヘトに疲れていた。そこへマネージャーのヴィーレが、部室に戻ってきた一人一人に「お疲れさま!」と声をかけてくれる。それがまた、部員達にとって、たまらない励みになっていた。
 今日はそれに加えて、ヴィーレの手作りクッキーが用意されていた。みな一様に目を輝かせ、先ほどまでの疲れも吹っ飛んで、クッキーが山と盛られた皿に突進した。 
「あ、そうだ。いっぱい食べてもいいけど、ちゃんとファードの分も残しておいてね。」
「ファードって、キャプテンのことっすか?」
 一人の部員が不意に言うと、
「そういえば、ヴィーレ先輩って、キャプテンのこと、たまにそう呼んでますよね。怪しいっス。」
 別の一人も、クッキーを頬張りながら、いぶかしげな視線をヴィーレに送り、冷やかすように言い出した。
「や、や〜ね。ファ……、アルファードとは幼なじみで、小さい頃からずっとそう呼んでたから、つい言っちゃうだけよ。特別な意味なんてないわ。」
「ほんと〜ですかねぇ〜」
「ほら、ぐずぐずしてると無くなっちゃうわよ。」
 ヴィーレは適当なことを言って、話をはぐらかした。しかし部員の半分以上は、ヴィーレがアルファードにほのかな恋心を抱いていることに感づいていた。本人は気が付いていないようだが、なんというか、ヴィーレの態度は見え見えなのである。
 今更アルファードのことでヴィーレを冷やかそうなどと考えていない部員達の手は、止まることを知らずにクッキーを摘んでは口に放り投げていく。山ほど盛られたクッキーは、怒涛の勢いで男衆の胃袋の中へ消えていった。
”ぐずぐずしていると無くなる”は、どうやら本当のことになりそうだった。
 ヴィーレは、育ち盛りの底なしの胃袋を甘く見すぎていたのだ。とうとう皿の底が見えはじめ、さすがのヴィーレも焦りを感じた。
「ああ! それ以上は食べちゃダメ。ファードが来る前に無くなっちゃう!」
 ちょうどその時、部室のドアが開いて、アルファードがグランドから戻ってきた。
 我先にクッキーに手を伸ばす部員たちと、それをハラハラしながら見つめていたヴィーレを見て、一瞬で事態を把握したアルファードは、 
「俺の分は気にしないでいいぞ。おまえ等全部食べていいから。」と言い、クッキー争奪戦に参加する素振りも見せずに自分のロッカーに直行すると、早々に着替え始めてしまった。
「いいんスか、キャプテン!」
 アルファードの号令(?)と共に、残り少ないクッキーの皿に再び部員達が群がった。さながら、ゴミを漁る都会のカラスのようであった。
 最後の一つを奪い合う部員達の姿を見て、実は甘い物が苦手だったりするアルファードは内心ホッとしていた。
(ヴィーレには悪いが、俺は中学に上がった辺りから、急に甘い物が苦手になってしまったんだ。これまで事実を伝える機会は何度かあったんだが、ヴィーレの顔を見ると、つい言い出せなくなってしまって……。俺はヴィーレが苦手なのかもしれない。困ったものだ。) 
「……しょうがないわねえ。みんな食いしん坊なんだから。」
 ヴィーレは、世話のかかる子供達を見つめる母親のように、腕を組んで溜息をついた。微笑んではいたが、その表情はどこか淋しげだった。
 というのも、自分の手作りクッキーを食べて欲しかったのは、誰でもないアルファードだったからだ。
 先程ヴィーレも言ったとおり、アルファードとヴィーレは幼なじみなのである。小さい頃からお菓子作りが好きだったヴィーレは、事あるごとにケーキやクッキーを焼いてはアルファードに食べてもらうのが嬉しかった。そしてアルファードもまた、ヴィーレのお菓子を喜んで食べていた過去があるのである。
 というわけで、アルファードが甘い物が苦手などとは露ほども疑っていはいないヴィーレであった。
「ま、いいわ。教室に行けば予備のクッキーが残ってるから。」
「え!」
 ヴィーレの言葉で、腹をすかせた部員達が一斉にヴィーレを振り返った。もちろんアルファードも、みんなとは全く別の意味で声を上げてヴィーレを見た。
「今回は本当にたくさん焼きすぎちゃったのよ。みんながこんなに食べてくれるとは思ってなくて、半分は明日の分にしようと思っていたんだけど、この際だから全部食べちゃいましょう。ちょっと待ってて。直ぐに取ってくるから。」
「ヴィ、ヴィーレ!」
 予備のクッキーを取りに教室に戻ろうとするヴィーレに、アルファードは慌てて声をかけた。その声に、ヴィーレはとびっきりの笑顔で振り返った。
「ファードも遠慮しないでたくさん食べてね♪」



2話  おわり


相互リンク先よもぎの森のよもぎの森さんからの頂きものです。よもぎの森さん、ありがとうございました!

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