『イルファーラン物語』番外編 大宴会! 1ページ目||2ページ目||3ページ目 |
厨房の下働きの少年が、気の利く料理人の指示で、邪魔にならない隅っこの空きテーブルに二人分の紅茶を出してくれた。 厨房備え付けらしい飾り気の無いマグカップにたっぷり注がれた紅茶は、器こそ質素だが、溶かしたガーネットのような深い色あい、すっきりと華やな香りで、品物は良さそうだ。 紅茶を飲むのは、ひさしぶりだ。そういえばイルファーランには紅茶は無いらしい。いや、あるところにはあるのかもしれないが、少なくともイルゼール村には日常的に紅茶を飲む習慣は無いようだ。村では、お茶といえば香草茶だった。 甘い香りの湯気をふうっと吹き散らして、唇を尖らせ、表面の冷めたところだけを注意深く啜り込む。ここの人たちの習慣なのか、最初からたっぷり砂糖が入れてあって、かなり甘い。 村では、香草茶の甘味には砂糖ではなく蜂蜜を使っていたので、紅茶に限らず、砂糖入りのお茶というのも、そういえば久しぶりだ。程よい渋みと調和した砂糖の甘味が嬉しい。 自分の世界にいた頃は、里菜は紅茶には砂糖は入れなかったのだが、久しぶりに飲む砂糖入りの紅茶は、小学生の頃、祖母の家に遊びに行くとお手伝いさんが出してくれた紅茶を思い出させて、なんだかふわっと懐かしい。 里菜の一家は、里菜が小学校に上がる前まで祖母の家に同居していたのだが、当時、祖母の家に通ってくれていた年配のお手伝いさんは、とても甘党で、何にでも砂糖を入れる人だった。彼女が来客に出す紅茶には、レモンの薄切りと一緒に、いつも、溶け残って底に沈むほどの砂糖が最初から入っていた。そういえば、ポテトサラダにも砂糖を入れていたっけ。 里菜は、どこか東北の方の出身だったらしいそのお手伝いさんに、それは可愛がってもらったのだ。 父母が祖父母の家を出てからも、祖母の家は近かったので、里菜の一家は、ひんぱんに祖母の家を訪ねた。そうすると、あのお手伝いさんが、里菜が赤ん坊の頃から祖父母の家にあったスミレの花模様の白い客用ティーカップで、いつもの、砂糖がカップの底に溜まった甘い甘い紅茶を出してくれたものだ。 そのお手伝いさんも、里菜が中学生の時には仕事を辞めて田舎に帰ってしまったが、お砂糖がいっぱい入った甘い甘い紅茶は、今でも、同居の初孫として祖父母に溺愛され、優しいお手伝いさんに可愛がられて育った、甘やかされた幼年時代の幸せな思い出の味だ。 だからこそ、里菜は、紅茶に砂糖を入れなくなったのかもしれない。身裡に残る甘やかな幼年時代の残滓を拒絶するために。 でも、今は、その懐かしい甘味が、素直に嬉しい。 自分があんなにも愛されて育ったのだということを、かつてはなぜあんなに疎ましく感じていたのだろう。我が身に纏いつく温かいものすべてを、自分を縛るものように感じ、嫌悪したのはなぜだろう。 今となっては、そんな自分の頑なさが、不思議に思える。 お砂糖の甘さは、掌で包むカップの温もりは、こんなにも優しいのに。 (そう思えるってことは、あたしも、少しは変れたのかな……)と、里菜は思う。 やがて、お湯が沸騰して、ぐつぐついい出した。鍋の中のスープが、キャベツの青臭い匂いから、おいしそうなスープの匂いに変っていく。 たっぷりのベーコンとキャベツをひたひたの湯で煮込んだ塩味のスープは、アルファードの家で里菜たちが毎日のように食べている、おなじみの料理である。日によって、これに、にんじんや玉ねぎやジャガイモやカブ、茹でた豆などが加わったり、ベーコンがハムや塩漬け肉や兎肉などに変ることもある。 厨房は忙しく働く料理人たちの活気に満ちて賑やかだが、この、隅っこの小さな作業テーブルでアルファードと向かい合って、嗅ぎ慣れたキャベツスープの匂いの中でお茶を飲んでいると、厨房の喧騒は背景に遠のき、まるで、いつもどおり、アルファードの家の暖炉の前にいるような気がしてくる。 鍋のぐつぐつ言う音、スープの湯気、いろんな料理の交じり合ったいい匂い、甘い紅茶、そして、目の前で黙ってお茶を飲むアルファードの、静かな、大きな、どっしりした姿……。 里菜はテーブルに頬杖をついて、惚れ惚れとアルファードを眺めた。 (ああ、なんか、幸せ……。時々、どうせ異世界に来るならこんな普通の田舎じゃなく、ファンタジーの本でよくあるみたいに王様やお姫様がいる世界に来て、実はあたしはその世界のお姫様だったんだなんてことになればよかったのに――なんて想像したこともあるけど、やっぱり、あたし、この時代のあの村に来て、よかったな。だって、アルファードに拾ってもらえたもの。あたしはやっぱり、イルベッザ城の薔薇園で砂糖菓子を食べるより、アルファードのあばら家でアルファードの作った青虫入りのキャベツスープをアルファードと一緒に食べる方がいいわ) そう思って、里菜は、知らず知らずに、ふわっと微笑んだ。 それに気付いたアルファードが、怪訝な顔をした。 「リーナ、何を笑ってるんだ?」 「えっ……。あのね、あたし、アルファードに会えてよかったなと思って」 アルファードが、お茶にむせた。 スープの煮えるのを待って、穏やかな時間がゆっくりと過ぎていく。 なんだか、もう、宴会に出ないでずっとここにいて、キャベツスープを食べて帰ってもいいような気もしてくる。 (でも、宴会のご馳走も、やっぱりちょっと気になるな……)と、思ったとたん、宴会場に通じる通路から、べろんべろんに酔っ払ったローイの顔がひょっこりと現れた。 「お〜い、リーナちゃん、アルファード、早く来いよ〜! 食いモン、なくなっちまうぜ!」 大声で叫ぶローイの背中には、迷惑顔のウェイターがすがり付いている。酔っ払って厨房に乱入しようとする客を制止しようと取りすがったところが、あまりのバカ力に、一緒に引きずられてきてしまったのだろう。 「お〜い、早く来い、来ないなら迎えに行くぜ〜」と、ずかずか入ってこようとするローイの背後で、気の毒なウェイターが慌てている。これ以上ここにいては、従業員の皆さんにとても迷惑がかかりそうだ。 里菜とアルファードは、顔を見合わせて苦笑しながら立ち上がった。 あらゆる世界の料理を取り揃えた宴会場には、いきなり異世界に飛ばされて以来ずっと食べられずにいた、元の世界の食べ物もあるに違いない。大好物のチョコレート、ハンバーガーにカレーライス、向うにいたことは別に好きだとも思わなかったのにやっぱり恋しいお醤油味の和食、ふっくらつやつやの白いご飯と梅干……。あ、ラーメンも食べたいなあ……。そして、見たこともない異世界の料理の数々も楽しみだ! 「行こ、アルファード!」 里菜はアルファードの腕をひっぱって厨房から駆け出した。 (終わり) |
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