〜『イルファーラン物語』番外編〜

つぐみヶ丘の冬





(2)

 五人の会話は、ごく和やかに、親しい仲にも常識的な礼儀をわきまえて進んでいたのだ。
 圭子さんがおっとりぽけぽけした口調で、こう言い放つまでは。
「式は5月だっけ、6月だっけ〜? どっちにしても、だいぶ先よねえ。それまでに出来ちゃったりして〜?」

 出来るって……えーっと、何が?
 あたしは一瞬、意味が分からなくてぽかんとした。

 圭子さんは自分の大きなお腹を得意げにさすりながら、ほんわか笑顔であっけらかんと続けた。
「ほら、あんまりお腹大きくなると、着れるドレスのデザインが限られてくるじゃない? あたしの時はまだ4ヶ月だったからお腹は目立たなかったけど、ちょうど悪阻がつらくてさぁ……。あ、もしかして、もう出来ちゃってるとか?」

 け、圭子さん……。あたしは硬直した。

「ねえ、ねえ、どうなのよ!」
 隣で美紀がここぞとばかりに身を乗り出して、肘であたしをつついた。
 美紀、何か、がぜんイキイキしてるんだけど。目が輝いてるんだけど。やっぱり、そこが訊きたかったのね。どうせそんなことだろうと思った。やめてよ、美紀……。あたしたち二人だけならともかく、圭子さんの旦那さんや竜もいるのに、どう反応していいか分からないじゃない。
 困ったあたしが
「え〜……」ともじもじしていると、圭子ダンナ氏が、
「えっ、そうなの? 竜君、隅におけないねえ」と竜を冷やかし始めた。
 『そうなの?』って……、まだ誰も何も肯定してないじゃない!
 ……どうやらこの人も、ちょっとばかり天然入ってるらしい。それとも、わざと?

 竜、なんて言うかしら。どんな反応するかしら。この人、いろいろと世慣れてなさそうだから、すごく心配……。

 案の定、竜は、硬い表情で、きっぱり断言した。
「まさか。生物学的にありえません」

 みんな一瞬あっけにとられて、それから揃って吹き出した。
「せ、生物学的にって……。竜君……」
 ひいひい笑う圭子ダンナ氏。ひくひくと笑いを堪えてつっぷす美紀。
(あちゃ〜、竜ってば……)
 あたしは真っ赤になって竜の袖をひっぱった。
 竜は、それに構わず、圭子ダンナ氏にひたと挑むような視線を据えて、なおも大真面目に言い募った。これ以上ないほど硬い表情、硬い口調で……。
「当然でしょう。俺たちはまだ結婚していませんから」
 一同、また大ウケ……。
「もしかして、君たち、婚姻届を出すと市役所の方からコウノトリが飛んでくると思ってる?」と圭子ダンナ。
「竜君、今時、別に『出来ちゃった婚』じゃなくても、式の時にはもう出来ちゃってるなんてぜんぜん普通よォ? あたしの友達だって、半分くらいはそうだったわよ〜」と、ころころ笑う圭子さん。
「里菜ぁ。あんたまさかまだ竜兄ちゃんにおあずけ食らわしてんの? 可哀想よ〜」と美紀。
「ち、違ッ! 別にあたしがおあずけ食らわせてるわけじゃ……」
……しまった! ああ、あたしったら、いったい何言ってんの……。
 あわてて口を押さえた時は既に遅く、美紀は鬼の首でも取ったように意気揚々と叫んだ。
「あっはっは〜! じゃあ、里菜的にはOKなわけね?」
「そっ、そんなこと言ってないし!」
「わあ、真っ赤になってるぅ。里菜、可愛い! ねえ、ねえ、竜兄ちゃん、里菜のほうはOKっぽいよ? どうする? どうする?」
「や、やめてよ、美紀!」
「竜君! 君はなんて我慢強いんだ! こんな可愛い婚約者に手を出さずにいられるなんて、同じ男として、ありえないほど尊敬するよ! 凡人にはなかなか出来ないことだよ!」
「そりゃあ、竜兄ちゃんは凡人じゃないもん、変人だもん!」
 あたしたちをサカナに、大いに盛り上がる三人。
 何なのよ、この人たち……。この人たちが集まると普段からこういうノリなのかしら。あたし、この人たちと親戚になるのよね……? なんか眩暈がするかも……。

 騒ぎのきっかけを作った当の竜は、途中からはもう我関せずとばかりにむっつり黙り込み、そっぽを向いてお茶を飲んでいて返事もしない。
 もう、竜ってば、何とかしてよ……。自分が騒ぎの原因なんだから、知らんぷりしてないで助けてよ……。
 あたしが困りはてていると、涙が出るほど笑いこけていた圭子さんが、笑いながら助け舟を出してきた。
「美紀、美紀、それくらいにしといてあげなさいよ、里菜ちゃんも竜君も超純情なんだから。あんまりいじると泣いちゃうわよ」

 ここまで大笑いしてくれてからそんなこと言うなら、最初からいじらないでよ。まったくもう、この人たちときたら遠慮がないんだから……。本人たちにとってはデリケートな問題なんだから、そんなに面白がらないで欲しい。別にあたしたちがどうだっていいじゃない。圭子さんも旦那さんも、いい人だけどデリカシーが足りない!



 そんなこんなで、さんざんな目にあった、でもそれなりに楽しかったお茶会からの帰り道。
 美紀たちの街は、あたしの住む『つぐみヶ丘』から電車で数駅しか離れていない。だから、美紀たちの家を訪ねた後、竜はあたしの部屋に寄ることになっていた。滅多にない機会だから、すごく楽しみで、何日も前からずっとそわそわして、いつもより丁寧にお掃除して、さりげなく小さなお花も飾った。ちょうどもうすぐバレンタインデイで、当日は竜の仕事の都合で会えないから、一足早めのプレゼントも用意してあるの。

 なのに、美紀たちのマンションを出て駅に向かう道すがら、竜は、ちょっと不機嫌そうだった。そんなの滅多にないことなんだけど……。
 でも、あたしのほうも、言いたいことが溜まっていたから、竜の様子になんか構っていられなかった。ほんのちょっとくらい機嫌が悪そうって言ったって、いつも穏やかな竜のことだから……と、油断してたというか甘えてたというか、どうせたいしたこともないと思ってた。
 だから、どんどん歩いていく竜の横に追いついて、小さな声で文句を言った。
「竜ってば、なんであんなこと言うのよ! もうっ。恥ずかしいじゃない」
 竜はぶすっと応えた。
「あんなことって何だ」
「生物学的にありえませんっていう、あれ!」
 竜の無愛想な即答。
「それのどこが恥ずかしいんだ。ありうるほうが恥ずかしいだろう」
 ……確かに。あたしはぐっと言葉に詰まった。
「そ、そりゃあそうかもしれないけど……。でも、そんなこと大声で宣言しなくても……」
「確かに他人の前で大っぴらに口にするようなことがらではないと思うが、勝手に誤解されるのは不本意だ。そもそもそんなことを話題にするほうが失礼だ」
「そ、そうだけど……。でも、ああいうのは、いちいち真面目に本当のことを答えなくていいの!」
「じゃあ、どう言えばよかったんだ」
 ……そういわれると、気の効いた切り返し方なんて思いつかない。実際、自分ならどんな反応で返すだろうかと考えてみたら、赤くなって『え〜』とか『やだ〜』とかあいまいに笑いながらモジモジする以外の反応は想像できない。……はっきり言って、我ながらすごくバカっぽい。
「え〜っと、適当に『えへへ……』とか笑ってごまかす……?」
 しかたなくそう答えたら、
「すごくバカっぽいな」
 身も蓋も無く一刀両断された。
 自分でもそう思っていたので、ぐうの音も出なかった。

 それにしても、こんなに機嫌の悪い竜なんて、初めて見た。
 いつも、決してにこやかとは言えないけど、どっしりと落ち着いて穏やかで、あたしが何をしても何を言っても、怒ったためしがないのに。
 もちろん、わざと怒らせるようなことをしたつもりはないし、竜を罵ったり怒りをぶつけたりしたことがあるわけでもないけれど、ちょっとくらいならワガママを言ったこともあるし、うっかり失敗して迷惑をかけたこともある。例えば、竜の家でコップを割っちゃったりとか、竜の家に行くのに電車を間違えて全然違う駅に着いちゃって車で迎えに来てもらったとか、その他いろいろ。
 だけど、竜は、一度も、少しも怒らなかった。

 もしかして、私たち、今、痴話喧嘩っていうのをしてる……?

 そんなことを思ったら、何か、人並みのカップルらしいことをしている気がして、ちょっと嬉しくなった。
 思わず、うふふ、と、笑いが漏れた。

「何を笑ってるんだ?」
「何でもない。ナイショ」

 竜は怪訝そうな顔をしたけど、何も言わなかった。そのまま、ずんずん歩いていく。
 いつもの竜だったら、先に立って歩いている時でも常にこっちの様子に気を配って、歩調に気を遣ってくれてるのに、今日は、本当に、どんどん先に行ってしまう。
 ……置いてかないでよ。ほんとに怒ってるの? それは困る……。これからせっかく、あたしの部屋で二人きりで話せるのに。機嫌を直してもらわなくちゃ、貴重なお部屋デートの機会が台無しになっちゃう。なんとかしなくちゃ。

 だから、急いで追いついて尋ねた。
「ねえ、なんでそんなに怒ってるの?」
「別に怒ってはいない」
「うそ」
「少なくとも、君に怒ってるんじゃない。怒っているとしたら、興味本位で他人のプライバシーに踏み込む連中に怒ってるんだ」
「怒るほどのことじゃないよ。みんな、新婚さんとか婚約中の人とか見ると、ちょっとからかって見たくなるのよ。適当に受け流しておけばいいの」
「悪趣味だ」

 竜は、どうやら本気で圭子さんたちのことを怒っているらしい。『圭子さんたち』というか、あの時の様子からすると、主に圭子ダンナ氏のことを、かな? 何か、勝手に敵愾心燃やしてたっぽかったから。普段、愛想は多少悪いけど、人につっかかるような人じゃないのに。

「……竜が怒るとこ、初めて見た」
 びっくりして呟くと、竜は、あたしに八つ当たりしたのを後悔してか、少し歩調を緩めて、口調も和らげてくれた。
「俺だって、怒る時は怒る」
「あたし、一度も怒られたことないよ?」
「それは……。君は一度も悪いことなんかしていないじゃないか。怒る理由なんか何もなかっただろう」
「じゃあ、理由があれば怒るの?」
「ああ、たぶん」
「例えば、どんな?」
「……」
 竜は驚いたように黙り込んでしまった。自分が、どんな理由があれば怒るか、考えているらしい。
 延々と考え込む竜。……ものすごく一生懸命考えている。だんだん顔が険しくなってくる……。

 何を考えてるんだろう。竜の頭の中で、あたしは今、どんなひどいこと、とんでもないことを、言ったりしたりしているんだろう。
 真剣に考えすぎて、あたしが本当にそんなことをしたような気になられたら困るな。

 心配になって、竜の長考を遮ってみた。
「いいよ、そんなに考えこまなくて……。そんなの、怒らせてみればわかるから」
 冗談だよという印にくすっと笑ってみせたのに、竜は大真面目に応えた。
「いや、出来れば怒らせないでくれ。なるべくなら君を怒りたくない」
 あんまり真面目に言うので、思わず、また笑ってしまった。
「竜ってヘン!」
 あんまり可笑しいから、ちょっとからかってみたくなった。
 下から顔を覗き込んで、わざと軽い調子で尋ねてみる。
「例えば、浮気したら怒る?」
「当然だ。やめてくれ。そんなことになったら、俺は何をするか分からない。君にひどいことはしたくないから、もし浮気をして、それが俺にバレたら、すぐに俺の前から逃げてくれ。絶対に俺に見つからないくらい遠くまで。そうしたら、俺が苦しむだけで済む」
 あたしの顔は見ずに、正面を向いて、何かわりとすごいことを真顔で言う竜。……うわ、目がマジだ。淡々としているだけに、ちょっと怖いかも……。
 慌ててフォローした。
「大丈夫よ、浮気なんかしないから。今のは冗談」
「良かった」
 口調は棒読みだし、顔も無表情だけど、本気で安堵しているらしい。
 ……あたしが浮気するって想像しただけで、そんなに本気で動揺してくれたの?
「本気で心配した?」
「いや……」
 竜、とぼけてみせてるけど、目が泳いでる。なんとなく、ちょっと嬉しい。
「じゃあ、何かドジ踏んで、すっごい迷惑かけたら怒られる?」
「まさか。わざとやったのでないのに怒るものか」
「じゃあ、わざと迷惑かけたら怒る?」
「理由にもよるだろう。……君は俺を怒らせたいのか?」

 ……もしかすると、ちょっと怒らせて見たかったのかもしれない。
 あまり感情を見せない竜の、喜怒哀楽、いろんな感情が見たい、知りたい。それを、自分に向けてみて欲しい。泰然と落ち着き払った竜の、その落ち着きが、自分ゆえに揺らぐところを見てみたい。竜の、いろんなことを知りたい。竜の心に触れてみたい……。

 でも、正直に『怒らせたかった』と言うわけにもいかない。
 それに、本当に本気で怒らせたかったわけでもないし。

「そういうわけじゃないけど。……ごめん。ちょっと聞いてみたかっただけ」
 あたしは肩をすくめて笑った。
「でも、今日、竜が怒るとこはじめて見て、面白かった」
「面白いとはなんだ」
 ちょっとむっとする竜。
「うん……、ごめん」
 本当に怒らせそうな気がして、もしかするとやばいかと思ったので、ちょっとかわいこぶって上目遣いに――竜とあたしはすごく身長が違うから、普通にしててもいつも上目遣いになるんだけど――小首を傾げて微笑んで見せた。
 竜は眩しげに目をそらしてぼそっと呟いた。
「俺にとっては笑い事じゃなかったんだ」
「え? 何が?」
「実を言うと、かなり痛いところを突かれた。ああいう微妙な事柄には気安く触れて欲しくなかった」
「えっ? だから何?」
「だから、その……出来ちゃったとか何とか」

 あたしはびっくりして竜を見た。それから、慌てて周囲を素早く見回した。……誰もいない。良かった。もう、この人は、天下の公道で何を言い出すんだか。

「俺だって、世間ではそういう風潮が一般化しつつあることくらいは知っている。が、他人は他人、俺は俺だ。そう思って、ずっと、死ぬ思いで我慢に我慢を重ねてきたのに。それを、あいつら、人の気も知らないで……」

 ものすごく苦々しげな竜。苦虫を七匹くらい噛み潰してそう。
 ……それはいいけど、今、この人、何て言った?

「……えっ? 竜、我慢してたの?」
「あたりまえだろう。そんなにぽかんとしないでくれ。君は俺を何だと思ってたんだ」
 ちょっと怒った口調の竜。……でも、赤くなっている。
「だって、ぜんぜんそんな様子、見せなかったから」
「それは、多大な努力を払ってそのように心がけていたからだ」
「なんだぁ。そんなの、そんなに頑張って心がけなくたって良かったのに」
 竜は、そっぽを向いて、ぼそっと言った。ちょっと赤くなったままで。
「見栄くらい、好きに張らせてくれ」
「へっ?」

 その瞬間、あたしの頭の中で天使たちがラッパを吹き鳴らし、花を撒き散らして舞い踊った。
(か……可愛い! 竜、可愛いかも……!)

 また歩調を早めてずんずん歩き出した竜を追いかけて、後ろから袖を引っ張って引きとめた。
 立ち止まって振り向いた竜の手の中に、そっと手を滑り込ませて。

「我慢しなくっても、いいよ?」
 そう言って微笑みながらわざと恥ずかしそうに俯いて、握った手に少し力を込めたら、竜は、かちんと硬直した。……お、面白い!

 今まで、友達が男の人をからかったり振り回したりして楽しむ気持ちがさっぱり分からなかった。あたしが恋愛する時って、なぜかいつも受身一方、防戦一方だったし。いつも、こっちが望む以上に接近して来ようとする相手を押し止めるのに精一杯で、相手をからかって楽しむ余裕なんか無かった。今、はじめて、男を翻弄する楽しみが分かったような気がする……。
 何かちょっと、自分が優位に立った気分。今まで、ずっと引率の先生と小学生みたいな立場だったのが逆転したみたいで、気分がいい。

 下を向いたまま、くすくす笑い出すと、頭上で竜が低く言った。
「からかっているのか」
「うん、ごめん」
 首をすくめて謝りながらも、くすくす笑いが止らない。
 竜、怒るかな、笑うかな? それとも……?

 ……竜の反応は、『怒る』でも『笑う』でも『赤くなる』でもなかった。
 ものすごくそっけなく、
「しゃれにならないから止めてくれ」
 それだけ言い捨てると、あたしの手を振り解いて、さっさと歩き出した。
 すごくよそよそしい、冷たい態度。大きな背中が、物言わぬ壁のよう。

 あたしは、しゅんとした。
 やっぱり喧嘩したかも……。調子に乗ってからかいすぎた……。




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