(1)
葉を落とした街路樹が寒そうに立ち並ぶ、真冬の住宅街。
あたしは、歩きながら、かじかんだ指先に息を吹きかけた。
二月といえばもう春も近いはずなのに、一年で一番寒い季節のような気がする。白うさぎになった気分がお気に入りの真っ白ふわふわフェイクファー付きコートは暖かいけれど、むき出しの手は冷たい。
(やっぱり手袋をしてくればよかったかな……)と、ちらっと思ってから、
(でも……)と、思い直す。
寒がりなのに手袋をしてこなかったのは、左手の薬指に嵌めた婚約指輪を隠したくなかったからだ。
指輪をした手を、自分でいつも見ていたかったから。
だから、今日は意地でも手袋をしないのだ。
ちょっと恨みがましく、前を行く大きな背中を見る。
(竜ってば、手くらい繋いでくれたっていいのに……)
婚約者の竜は、五歳年上。小柄なあたしより40センチ近く背が高い。友達の美紀に言わせれば、極端なデコボコぶりがまるで漫才コンビだそうだ。
「こういう場合、ちっちゃいほうがツッコミをやるべきなんだけど、里菜と竜兄ちゃんは両方ボケだもんねえ」と、美紀は笑うけど、どちらがボケかツッコミかなんていう以前に、竜はものすごく真面目で、漫才どころか冗談の一つも言わないような人だ。冗談を言うどころか、そもそも、最初はほとんど口も利かない人で、無口さと愛想の無さにびっくりした。今ではそれなりにしゃべってくれるけど、最初の数回のデートでの、話の弾まなかったことといったら……。
今にして思えば、よくあれで毎回次のデートがあったものだ。
それを思い返すと、
(あたしたち、よく婚約に漕ぎつけたなあ……)と、しみじみ思う。
竜と初めて会ったのは、高校時代からの親友、美紀の結婚式の時だった。
竜は美紀の従兄で、美紀は、どういうわけか最初から竜とあたしを引き合わせることを勝手に画策していたのだ。
その時は、なぜそんな余計なおせっかいを……と思ったけれど、あたしたち二人はきっと気が合うだろうという美紀の読みは、なぜか当たっていた。
結婚式場のロビーで竜と向かい合ったその瞬間、別に見た目が好みのタイプなわけでもない彼を『ずっと探していた運命の人だ』と確信したのはなぜなのか、今もって分からない。
それは分からないけれど、その時の確信は間違っていなかったということは、よく分かる。
現に、今、あたしたちは、こうして並んで歩いている――。
そのことの幸せを思うと、指先が冷たいことくらい、朴念仁の竜が並んで歩いてくれず手も繋いでくれないことくらい、不満のうちに入らなくなる。
なにしろ、竜は、特に見てくれが悪いわけでもないのに、三十二歳であたしと出会うまで一度も女性と付き合ったことが無かったという、天然記念物級の堅物なのだ。
産婦人科医院の跡取り息子だった竜は、小さい頃から成績優秀・スポーツ万能の優等生だったのに、せっかく入った医学部をある日突然中退したあげくお父さんに勘当されて家を飛び出し、その後、なぜか犬の訓練士になってしまったという、ちょっと変った経歴の持ち主だ。
変っているのは経歴だけじゃなく、本人の性格も、筋金入りで変ってる。美紀に言わせれば、『ヘンの帝王』だって。
そんな彼は、千葉の山奥の今にも傾きそうなボロ屋に住んでいて、結婚したら、あたしも、とりあえずそのボロ屋に一緒に住むことになっている。
普通なら、そこを引き払って、狭くても新築のマンションとかに住めないかと考えるところだけど、竜が犬を飼っているから、そういうわけにはいかない。いくらペット可のマンションでも大型犬が何頭もいては無理だし、どっちみち、わんちゃんたちには今のまま広い運動場を自由に駆け回らせてあげたいもの。
それに、あたしは、家がボロなのはともかく、竜の家のある、あの日当たりの悪い小さな谷間が、すごく気に入っている。竜も、きっとそうだと思う。
借地に借家だけど、家はボロだから好きに改装してもいいし建て替えてもいってと言われているから、あの場所に住んで、二人で一生懸命働いて、いつかは、建物だけ、小さくても小奇麗な可愛いお家に建て替えたいというのが、今のあたしの夢。
竜からプロポーズされたのも、あの、谷間のボロ家でだった。
まだ何回も会ってもいなくて、ろくに話をしたこともないっていうのに、いきなりプロポーズされて驚いた。竜と結婚することはあたしだって初めて会った時から密かに心に決めていたけれど、だからといって、これはいくら何でも唐突すぎ、性急すぎだと思った。
だから、
「もっと良く知り合ってからOKしたい。きっと『はい』というから、もう少し待っていて」と、承諾を前提に返事を保留した。
ところが、そんなに性急に、まだ手さえ握ったこともないうちにプロポーズしてきたくせに、その後、竜は、全く向こうから押してこなかった。
竜の家に泊りに行った時には、泊める部屋はあるが鍵はないからこれを襖に立てかけるように、と、真顔でつっかい棒を手渡されて、目が点になった。
しかなく受け取って、おざなりに襖に立てかけた。
適当に立てかけただけだから、ちゃんとつっかい棒の役目を果たしていたかは分からないけれど、つっかい棒があろうとなかろうと、竜が襖を開けようとすることは無かった。
だったら最初から、つっかい棒なんかいらないのに。ヘンな人……。
何度かは、外でデートもした。
竜のポンコツ軽自動車でドライブもしたし、動物園にも行った。行き先は、いつもあたしがリクエストした。楽しかったけれど、常に完璧で合理的な計画を立ててあたしを希望の場所に連れて行ってくれる竜は、恋人というより、旅行代理店のツアコンか、どっちかっていうと遠足の引率の先生のようだった。あたしをスケジュールどおりに予定の場所に連れて行き、効率よく遊ばせて無事に連れ帰ることに心を砕いてくれるばかりで、デートといっても、キスひとつしないのだ。まるで中学生並み――ううん、今どき中学生だって、もっと進んでるだろう。
竜が犬を飼っているから泊りがけの旅行は出来なかったけれど、もし泊りがけで出かけとしたら、彼は、きっと、当たり前のように部屋を二つ取ったに違いない。
何度デートしてもその調子だから、いくらそういう方面にはあんまり積極的なほうじゃないあたしでも、
(別にぜひとも今すぐにそれ以上をというわけでもないけど、キスくらいは、してくれたっていいのに。たまに優しく抱き寄せてくれたりしたっていいのに。ちょっとドキドキしたいのに……)と、ひそかにむくれたこともある。
(この人、ほんとにあたしのこと好きなの?)と、不安になったこともある。
だって、二人ともいい大人なのに――竜なんか三十過ぎてるのに、ここまでキヨラカって、さすがにちょっと異常じゃない?
そんなこんなでじりじりした挙句、自分からは何も働きかけずにむくれているだけじゃいけないと、一大決心をして、人気のない海辺の展望台で、柵にもたれて立っている彼にそっと寄り添って、訴える目線(の、つもり)で顔を見上げてみた。そういうの慣れないから恥ずかしくて、おそるおそるで、ぎこちなくなっちゃったと思うけど、せいいっぱい思いを込めたつもりだった。
竜は目元を和ませて優しく見下ろしてくれたけど、それだけだった。
これじゃ、まるで、幼児とお父さん。
(えっと、あたし、今、『もう一歩先に進んでもいいよ』オーラ出してみたつもりなんだけど……ぜんぜん伝わってない……? こういうときはどうするものなの? だめだ、どうすればいいか分からない……)
あたしだって、一応、今まで何回か、男の人と付き合ったことはある。でも、みんな、付き合ってしばらくすると、遅かれ早かれ向こうから押してきたから、あたしはいつでも防戦一方だった。自分から押したことはないから、向こうがアクションを起こしてくれない時にどうすればいいか、ぜんぜん分からない。
(困った……。防御力は高いけど攻撃力はゼロって感じ?)
あたしは途方にくれた。演技じゃなしに目が潤んだ。
きっと、心細そうな顔をしていたと思う。
そうしたら、竜ときたら、まるで幼児に言うみたいに、
「どうした? トイレに行きたいのか?」だって。
情けなさと恥ずかしさのあまり、その場から消えてなくなりたくなった。
そんな日々が、数ヶ月。竜は、あたしの返事を、『マテ』を言いつけられた犬のようにひたすら待っているばかりだった。
確かに『待っていて』とは言ったけど、いつまでもただ待っていられても、こっちは、いつどうやって『マテ』を解除していいか分からない。
向こうは、『マテ』の期限が切れたら、こっちからそれを宣言してくれると思っているんだろうか。
『もう十分知り合ったから、そろそろ、例の件、お返事します。OKですよ』とか、『そろそろ頃合ですのでもう一度プロポーズしてみてください』とか、こっちから言えとでも? ……そんなの、様子で察して欲しい。
そもそも、この人は、まだあたしにプロポーズする気があるんだろうか。まさか、もしかして、気が変ったとか――?
らちがあかないので、考えに考えた末、なけなしの勇気を振り絞って、自分の誕生日のプレゼントに婚約指輪を請求してみた。
小さなのでいいの、そのほうが可愛いから。高いのは要らない、大げさなのは要らない、ほんのファッションリングみたいのでいいの、でも、左手の薬指に嵌める指輪をちょうだい――。
「本当にそんな安いものでいいのか」という竜の言葉や、「いくらなんでもそれは婚約指輪にはカジュアルすぎる、一生に一度のものなんだから小さくてもダイヤにしてはどうか」という店員さんのアドバイスを押し切って、小さなアクアマリンの入った、オモチャのようなファッションリングを買ってもらった。
細くて華奢な銀のリングに、小さな小さな空色のアクアマリン。
(ダイヤモンドとか、本当に、そんなに好きじゃないの。高い指輪なんて、別に欲しくないし。いくら安くたって、小さくたって、あたしは本気でこれが気に入ったの。だって、これが一番可愛かったんだもん)
今日、何度目かに薬指に目をやって、あたしはまた満足感に浸った。
ささやかな式の日取りは、数ヶ月先に決まっている。
竜を勘当したというお父さんとは、もう会った。
竜の両親は、竜が小学生の頃に離婚している。お母さんは男を作ってある日突然家出したきり、二度と帰ってこなかったのだそうだ。それから竜はお父さんと二人で暮らしてきたけれど、その後、竜も、お父さんに猛反発して家を出た。
そんなわけで、竜とお父さんとの確執については竜から少し聞いていたから、どんな怖そうな頑固な人だろうと想像して覚悟して対面してみたら、竜によく似て大きな身体のその人は、意外なほど穏やかで優しそうな、素敵なおじさまだった。優しそうで、落ち着いていて、頼りがいがありそうで、誰だって『こんなお父さんが欲しい』と思うような……。
産婦人科のお医者さんだそうだけど、どんなに怖がりやの初産の妊婦さんも、この大きくて穏やかで誠実そうな先生に『大丈夫。安心して任せてください』と力強く請け合ってもらえば、大船に乗った気持ちになれそうだ。
実際、患者さんたちには、親切で頼れる良い先生として慕われているという話だ。
そんな人が、なんで奥さんや息子とは上手くいかなかったんだろう……と思ったけれど、でも、家族って、そういうものかも。外で他人と接する時と、家の中で家族といる時とでは、モードが違うのかも。うちのお父さんだって、会社では家とぜんぜん違ったらしいし。
竜のお父さんは、大きな身体だけでなく、顔立ちも雰囲気も表情も、何かと竜に似ていて、竜も歳を取ったらあんな感じかな……と思うと、可笑しいような、微笑ましいような、くすぐったいような、不思議な気持ちだった。
互いに似すぎていて上手くいかない父子というのも、あるのかもしれない。
お父さんに会いに行く前は、
(竜と仲が悪かったらしいお父さんが、あたしを認めてくれるかしら。反対されないかしら。怒鳴られたりしたらどうしよう……)と、ちょっと心配だった。
その心配を竜に漏らしたら、竜は、絶対にそんなことはないと笑った。
「会ってくれることになった以上、君はお客様だ。家を訪問してきた客をいきなり怒鳴ったりするはずはない。とりあえず最初は外向きの顔で無難に接するだろうし、どっちみち、あの人は、会えば間違いなくすぐに君を気に入るだろう」と言うのだ。
「なんでそんなこと分かるの?」と聞き返すと、竜は自信ありげに言い切った。
「やっぱり親子だから、好みが分かる。俺が気に入った君のことは、きっと、あの人も気に入る。あの人は、子供が俺一人だったから、ずっと、娘を持つことに憧れていたと思う。そして、あの人が欲しかった娘というのは、きっと、君のような娘だ」
その時は(ほんとかな?)と思ったけど、あたしは本当に竜のお父さんに気に入ってもらえたらしい。
でも、竜のお父さんは、竜と同じで感情をあまり表に出さない人だったから、その時、自分では、まだお父さんに竜の結婚相手として心から認めてもらえたのか自信が無くて、だから、帰り道、気持ちを引き立たせようと思って、
「結婚に反対されてても孫でも生まれれば親の態度が軟化するって、よく聞くよね」と竜に言ったら、
「孫を待つまでも無く、あの人は、既に君の事を目に入れても痛くない孫を見るような目で見ていたよ」と笑われた。あれはもう骨抜きだ、と。
そうだったのかな。よく分からなかったけど。
お父さんは、結婚に反対だとは一言も言わなかったし、あたしに対しては、ずっと穏やかに礼儀正しく好意的に接してくれたけど、その紳士的な態度は、社交辞令かと思ってた。
う〜ん、あれで『骨抜き』なのか……。竜と同じで、分かり難い人だなあ。通り一遍の社交辞令的な好意と『骨抜き』なくらいの好感が、同じ表現でしか表に出せないのね。
『お義父さん』なら別にそれでもいいけど、旦那さんがそんなじゃあ、美人の奥さんが男と逃げちゃったっていうのも、言っちゃ悪いけど、ちょっと分らないでもないような……。
「あの人は、たぶん、君可愛さに、孫を待たずに俺と和解するだろう。一心同体のつもりでいた母や血の繋がった俺とはあまりに距離が近すぎて上手くいかなかったが、『息子の嫁』という適度な距離にある君となら、きっと、上手くやれるんじゃないかな」
珍しく口数多くそう言って、竜は、どこか誇らしそうだった。
竜は、もともと、そろそろお父さんと和解したがっていたのだ。かつて激しく対立して袂を分かった父親だからこそ、その人に自分が選んだ人を認められたことが誇らしかったのかもしれない。きっと、そう……、たぶん、『お父さんと、一人前の大人同士、対等な男同士になれた』、みたいな?
結局、竜のお父さんは、結婚式にも来てくれることになった。披露宴の費用を一部援助してくれるとまで言ってくれたらしいけど、それは竜が、会費制で地味にやるからと断った。
資金援助を断ったからといってお父さんを拒んだわけではないのは、分かってもらえたらしい。
どうやらあたしは、竜とお父さんの雪解けに一役買えたようだ。
もちろん、あたしの親と竜の引き合わせも済んでいる。必ずしも両親が思い描いていたような結婚ではなかったのかもしれないけど、竜本人の人柄には文句のつけようがないから、親たちだって竜を気に入らないわけにはいかなかったし、あたしだってもう働いて自立している大人なんだから、別に反対はされなかった。ただ、親族を大勢集めた盛大な結婚式が出来ないことが少し寂しそうだったのは、申し訳ないと思う。竜のほうが親族をほとんど呼ばないから、あたしも身内しか呼ばず、あとは少数の友達だけで、ひっそり、質素にやる予定なのだ。
そして、今日、あたしたちは、出会いのきっかけになった美紀の家を訪ねるところだ。
「あたしのお陰で出会えたんだから婚約の報告くらいしに来なさい」と、呼びつけられたんだけど、もちろん、呼ばれなくてもそのうち二人一緒に遊びに行くつもりだった。
遊びに行くのはいいけれど、美紀は、『自分が二人のキューピッドなんだから二人の交際の経過をすべて詳細に知る権利がある』と言い張っている。
「心配してあげてるんだから」というのは嘘ではないと思うけど、きっと、大半はただの野次馬根性だ。今ごろ、好奇心満々で、てぐすね引いて待ってるに違いない。
どうせ根掘り葉掘り、あれこれ聞かれるんだ。竜の前で、あんまり際どいこと聞かないでくれるといいんだけど……美紀のことだから、戦々恐々。
美紀の新居は、この静かな住宅地にあるマンションの一室だった。
美紀の旦那さんは仕事で不在だったけれど、美紀のお姉さんの圭子さんと、その旦那さんも来ている。野次馬しに来たらしい。
竜とあたしが初めて出会った時、その場に立ち会った(……というか、嫌がる竜を無理やりあたしの前まで引きずってきてくれた)のは桂子さんだったし、初めてのデートの時も、美紀が事情を話してテーマパークのチケット取りの世話になったということで、それ以来、圭子さんは、自分も美紀と同様にあたしたちの交際についてすべて報告を聞いたり、あたしたちをからかったりする権利があると思っているらしい。あたしたちの交際の進展具合も、美紀を通して筒抜けのはずだ。
三人目を妊娠中ということで大きなお腹を抱えた圭子さんは、前に会った時よりちょっとふっくらして、もとから優しそうな人だったけど、より優しそうに、そしてのんびりした雰囲気になっていた。可愛いマタニティウェアを着て、まるで『幸せ太り』を絵に描いたような姿。上の子供たちは、今、幼稚園に行っているそうだ。いいなあ。とっても幸せそう。
圭子さんの旦那さんは、なんかのほほんとした、人の好さそうな人だった。
圭子さんや旦那さんもいれば、美紀だけのときより、野次馬根性による際どい追及が避けられそうで、ちょっと安心。
……と思ったのは、大間違いだった。
爆弾は、圭子さんだった。
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