〜『イルファーラン物語』番外編〜

『さよなら、つっかい棒』

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本作は異世界ファンタジー『イルファーラン物語』の後日譚シリーズ第三弾です。
シリーズ前作『エゴノキ平の春』『つぐみヶ丘の冬』を読んでいれば、
『イルファーラン物語』未読でも、独立した現代もの恋愛小説として読めます。
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(1)


 結婚式まで、あと一ヶ月ちょっと。
 今日は、朝から千葉の竜の家に来ている。
 ゴールデンウィークの連休で、今日から三日間、竜の家に泊まりこんで、新生活の準備とか結婚式の打ち合わせをする予定。
 だから、時間はいっぱいあるんだけど、やることもいっぱいあるし、少しでも長く竜と一緒にいたいから、頑張って、とっても早起きしたの。

 このところ、あたしはお休みのたびに竜の家に来て、竜と二人で新居の準備をしてる。
 お部屋をいろいろ改装したり、カーテンとか家具を買ったり、ホームセンターに日用品の買出しに行ったり。
 二人とも一人暮らしが長かったから、二人の家財道具を持ち寄れば家具でも家電でもだいたい一通り揃うんだけど、やっぱり新婚家庭なんだから新しく買いたいものも少しはあるじゃない。

 今まで竜が一人で住んでた家は、環境は申し分ないんだけど、とにかくボロで、あちこちガタが来てる。
 あんまりひどいから、あたしが、『家がボロだとお嫁に来ない』って脅したら、竜は慌てて、あちこち修繕しはじめた。
 竜は器用で力持ちだから日曜大工はお手のものみたいで、たいていのところは自分で直しちゃう。だったらあんなにあちこち傷むまで放っとかないで、普段からちゃんと手入れしてればよかったのに、本人は、別に家が少しくらいボロくても住めさえすれば気にならないから放置していたらしい。ほんとにもう、しょうがないんだから。

 竜が日曜大工をする時に、あたしも少しは手伝うこともある。物を運んだり、ペンキを塗ったり。日曜大工なんか別に好きじゃないけど、竜と一緒なら、何をしても楽しい。
 竜が外回りの手入れをしてるあいだに、あたしは家の中の掃除や模様替えをしたり、二人分のお昼を作ったりすることもある。
 夕ご飯は、二人で一緒に作って食べる。竜、あたしより料理の手際がいいの。大雑把なものしか作らないけど。

 そんなわけで、お休みのたびに忙しくて、外でデートはめっきりしなくなったけど、今は、こんなデートがとっても幸せ。

 あたしのお休みはだいたいカレンダー通りだけど、竜には決まったお休みがない。その代わり、ある程度自分で日程のやりくりができるから、なるべくあたしの休みに合わせて都合を付けてくれるんだけど、どうしても調整が付かない日もある。
 それでも、新居の準備を進めたいし、なにより少しでも竜に会いたいから、竜にお仕事入ってる日にも竜の家に行ったこともあった。丸一日出かけるお仕事じゃなくて、近場で二時間くらいのお仕事が一件だけ入ってて半日で帰って来るような時に。
 そんな時、竜をお仕事に送り出した後、一人で竜の家にいて、お掃除や模様替えをしながらご飯を作って竜の帰りを待ってると、まるでもうお嫁さんみたいで、何か嬉しい。

 夕方、竜の車が帰ってきた音が聞こえてくる瞬間が好きなの。
 最初にミュシカが気付いて、耳をぴくっと立てる。それから、あたしにも竜の車のエンジンの音が聞こえてくる。そのときにはもうミュシカは玄関にすっ飛んでいって、引き戸の前にお座りしてる。その後に続いて、あたしと猫たちが玄関に集合すると、竜が、がらっと戸をあけて入ってくる。
 その瞬間、あんまり嬉しくて、あたしにもミュシカみたいにしっぽがあったらいいのにと思う。きっと、ミュシカと同じくらい、ぶんぶん振るから。
 だって、この嬉しさ、この幸せ、言葉じゃ表現できないよ。まるで一年ぶりに帰ってきた人を迎えるみたいに大きな声で『おかえり!』って叫んで首に飛びつきたいくらいの気分なんだけど、恥ずかしくて出来ないし。

 あたしは、あまり感情を表現するのが上手くない。自分の気持ちをストレートに表に出すのが何か恥ずかしくて、つい抑えちゃう。
 なんていうか、自分をさらけだすこと、感情を解放することが苦手なんだ。
 そして、今はもう大人だから普段はそれなりに上手く繕っているつもりだけど、本当は、人と打ち解けることが、すごく苦手。

 そういえば、竜もたぶん同じだよね。
 もしかすると、竜とあたしは、美紀にしょっちゅう言われてる通り、実は少し似てるのかもしれない。……あ、でも、あたしは竜ほど極端にひどくなくて、竜よりは、いろんな面でずっと普通だと思うけど。
 それでも、本当に親しい友達は滅多に出来ないし、彼氏が出来ても、何となく心からは打ち解けられずにいた。

 あたしの表面には、いつも、薄いけど硬い透き通った殻があって、あたしは、そこから出てゆけないの。だから世界はいつもあたしと薄皮一枚隔てたところにあって、少し遠くて、なんだか知らない場所みたいで、あたしはたまに、自分が半分しかこの世界の人間じゃないような気がすることもある。

 でも、竜の前でなら、いつかその殻から抜け出せる気がするの。
 竜の側にいる時は、なんだか、世界を近く感じるもの。今までよそよそしかった世界があたしに微笑みかけてくれそうな気がするもの。



 それにしても、いいお天気。
 五月の風光る田んぼ道。
 朝から一働きした後の気分転換に、二人でミュシカとお散歩なの。
 あぜ道にはタンポポにシロツメクサ、ハルジオン。あの小さな朱色の花は、野生のケシかしら。田んぼには、行儀良く並んだ黄緑色の苗の列。苗と苗の間では、水が青空を映してキラキラ光ってる。
 周りをぐるりと取り巻くなだらかな雑木山に目をやれば、色とりどりの新緑のところどころに薄紫の藤の花。
 山の縁には、この辺の通称の由来になってるエゴノキの花も咲いていた。清楚な白い小花が、とっても可愛い。あたし、この花が大好き。この花が咲く、この谷間も。

 あ、ウグイス。
 ウグイスって春先の鳥のイメージがあるけど、今頃も啼くんだ。
 いいなあ、のどかだなあ。
 デートといえばテーマパークや映画に行ったりお洒落なレストランで食事をしたりすることだと思ってたけど、こんなに何もしないで、ただ犬を連れて歩くだけで、こんなに幸せ。
 ミュシカも尻尾ふりふり、嬉しそう。

「おててつないで のみちをゆけば……」
 元気な歌声が聞こえて、田んぼ道の向こうから、幼児の列がやってきた。
 おてて繋いで二列縦隊。
 幼稚園のお散歩かしら。ずいぶん小さい子も混ざってるし、制服着てないから、保育園かな? そういえば今日は、うちの会社は休みだけどカレンダーでは平日だったっけ。

「あ、ミュシカだ!」
「ミュシカのおじちゃんだ!」

 列を乱して駆け寄ってくる子供たち。
 『ミュシカのおじちゃん』って竜のこと……?

「タカシ君、おじちゃんじゃなくてお兄ちゃんでしょ!」
 引率の保母さんが後ろで言ってるのなんか聞きもしないで、子供たちはミュシカの周りにわらわらと寄ってくる。
 竜がミュシカに小さく声をかけて、ミュシカは伏せをした。しっぽがゆさゆさ揺れてる。竜もミュシカも、子供たちとは顔見知りらしい。
 子供たちは、しゃがみこんで、ミュシカを撫で始める。

「すみませ〜ん」「こんにちは〜」と元気に挨拶しながら、引率の保母さんたちも追いついてきた。
 黙って目礼する竜。保母さんたちとも顔見知りみたい。

「ミュシカちゃん、本当にお利口ですねえ。子供たち、こっちのほうにお散歩に来るたびに、今日はミュシカちゃんに会えるかなあって楽しみにしてるんですよ」

 なるほど、そういうことね。お散歩のときに良く行き会うんだ。
 あたしのほうにもにっこりして軽く会釈する保母さんたち。
 あたしもあいまいに笑って会釈を返す。
 ただ散歩の途中でよく会う人というだけで、「ところで、こちらはどなた?」なんて尋ねるほどの知り合いでもないんだろうな。もしかすると、ミュシカの名前は知っていても、竜の名前は知らないのかも。

 竜は、ミュシカの後ろに片膝付いてしゃがんで、子供たちの振る舞いを注意深く見守っている。乱暴な触り方をする子がいると、すかさず短く注意してて、何か、動物園の触れ合いコーナーの係の人みたい。ミュシカはおとなしいから子供に尻尾を引っ張られたくらいで怒ったりしないけど、嫌なことされたらかわいそうだもんね。きっと、竜は、いつもこうして、この子たちに、犬と触れ合う時の作法を指導してるのね。
 なぜか、ミュシカのほうじゃなく、しゃがんでいる竜によじ登ろうとしては先生に引き剥がされている子もいて可笑しい。竜、愛想無いわりに、ずいぶん懐かれてるじゃない。……てゆうか、もしかして、竜もミュシカと一まとめで温和な大型犬の一種みたいに思われてる?

 ひとしきりミュシカと遊ぶと、子供たちは、保母さんたちに促されて、また歩き出した。
 ミュシカと竜とあたしに、ばいばい、またねってモミジみたいな手を振って、二人一組でおてて繋いで。
 可愛いなあ……。

 田んぼ道を遠ざかってゆく後姿を見送りながら、
「近所の保育園とか?」って聞くと、竜は
「ああ」と頷いて、山の上を指差した。
「そこの山の上に保育所がある。よく、用水路にザリガニを釣りに来るんだ」

 へえー。ザリガニ釣り。
 そういえば、スルメの足をぶら下げた竹ざお持ってる子がいたわね。ザリガニってスルメで釣るんだ……。
 そこの山の上って、すぐ近くよね。じゃあ、竜とあたしの子供も、少し大きくなったら、その保育所に通うのかしら。当然、当面は共働きの予定だから。
 いいなあ、山の保育園。保母さんたちも優しそうだったし、子供たち、のびのびして楽しそうだった。
 こんな自然の豊かな、のどかなところで、ああいうたくさんのお友達といっしょに、ザリガニを釣ったり野道を駆け回ったりして育つことができるなんて、幸せかも。

 今の仕事は、いろいろ事情があってどっちみち辞めるしかないかと悩んでたところだったから、結婚を機に退職することにした。
 ここから東京まで通って通えないことは無いらしいんだけど、そこまでしてしがみつきたい職場じゃない。……いろいろあったのよ、ほんと。竜と出会った頃は、ちょうどいろいろごたごたしてる時だったの。だから、結婚するしないに関わらず、どっちみち近いうちに辞めるつもりだったんだけど、同じ辞めるのでも寿退社っていう名目があると角が立たないから、ちょうど良かったわ。
 今、四月に配属されてきた後任の人に仕事の引継ぎをしてるところ。五月いっぱいで退職だから、その前に責任持ってきちんと引継ぎをすませなきゃ。
 そしてあたしのほうは、こっちに越してきてから、もう少し近場で、とりあえず派遣の仕事を探すつもり。
 赤ちゃんが出来たらどうするか、それはそのときの状況によるけど、少なくとも、赤ちゃんが少し大きくなったら、また働きに出なくちゃね。

 竜には、将来、ここで、預かり訓練のできる犬の訓練所を始めるっていう夢があるの。
 その夢の為に、あたしもがんばって働かなきゃ。

 そして、その、竜の夢がかなった時に、竜と一緒にそこで働くのが、あたしの夢。
 出来ればトリマーか何かペット関係の資格を取って、犬の世話とか手伝うの。
 そうすれば、毎日ずっと竜といっしょにいられるし、夫婦で働いた方が、他にアルバイトを雇うより経費がかからないでしょ。特に資格取らなくても、犬舎の掃除くらいならあたしにも出来るだろうし。

 そういえば、すっかり忘れてたけど、あたし、子供の頃は、動物園の飼育係か獣医さんが夢だったのよね。竜に出会ってから思い出した。
 だから、竜の夢を叶えることは、あたしの夢を叶えることにもなるの。
 獣医さんや飼育係そのものじゃないけど、要するに動物が好きで、動物関係の仕事がしたかったんだから。
 動物とはぜんぜん関係ない経緯でたまたま竜と出会ったことで子供の頃の夢が復活するなんて、なんだか不思議。

 遠ざかっていく子供たちの後姿を見送りながら、
「あたしたちの子供も、あの保育所に通うことになるのかなあ?」と呟いたら、竜はちょっとびっくりしたみたいだった。きっと、そこまで考えたことが無かったんだろうな。まあ、男の人は普通そうだろうと思うけど。
 竜は少し考えて答えた。
「ああ、たぶん」
「環境が良くていいよね」
「ああ」
「こういうところで育つ子供って幸せよね」
「ああ、そう思う」
 竜は大きく頷いた。

「ね、あたしたちも手、繋ごう?」
 竜の、ミュシカのリードを持ってないほうの手に、そっと手を握りこませた。
 大丈夫かな、拒否されないかな?
 おそるおそる様子を伺った。
 竜はちょっと困ったように目を泳がせたけど、手を引っ込めたりはしなかった。やったー!
 うーん、背の高さが違いすぎるから、ちょっと繋ぎにくいかも。
 でも、繋いじゃう。大きな手。暖かい手。嬉しい。

 あたしは、本当は、他人に触れるのも、触れられるのも、あんまり好きじゃない。
 別に男の人に限らず、女の子同士でも、みんながするように腕を組んだり肩や腕に手をかけたりという自然なスキンシップに抵抗があって、よそよそしいと思われがちだった。高校生の頃は、満員電車で他人に触れるのが嫌で、夏でも長袖を着ていた。今にして思えば我ながらさすがにちょっとどうかしてたと思うけど、その時は本当に嫌だったんだからしかたがない。
 そんな極端な嫌悪感は大人になるにつれていつのまにか克服したけれど、本当は人に触れられるのがあまり好きじゃないのは、今でも同じ。仕事で握手するとかも、もちろん態度には出さないけど、実はちょっと嫌。

 あたしが手を触れられても平気なのは、好きになった相手だけ。
 その時は好きだと思って付き合い始めた人も、心が冷めたとたんに、指一本――本当に文字通り指一本――触れられたくなくなった。

 でも、竜となら、ずっと手を繋いでいたい。いつでも竜に触れていたい。
 どこまでも、竜と手を繋いで歩いてゆきたい。



 それから、お昼を食べて、ホームセンターに買出しに行って、買ってきたハーブやお花の苗を家の周りに植えた。
 結婚式が終わってあたしがここで暮らし始める時に、新居が花で飾られているように。
 それまで、竜がちゃんとお水を上げておいてね。
 秋になったらあたしが秋撒きの花の種を撒くわ。来年の春には、お庭が花でいっぱいになるように。で、食卓には庭で摘んだ花を飾るのよ。マーガレットとか、いいな。

 そんな計画をとりとめなく竜に語りながら苗を植えて、夜、夕ご飯を食べてお風呂を貸してもらった後は、二人で結婚式の計画を詰めたり、招待状を書いたりした。そんな時間も、夢のように幸せ。

 そうして、寝る時間が来て、いつも竜の家に泊まった時にする通りにおやすみって言って、いつもあたしが泊る部屋――結婚したらあたしの部屋になることになってる――の襖を開けて入ろうとしたら、黙って後から付いてきた竜が、あたしの腕にそっと手をかけて押し止めた。

 あたしは、ちょっと緊張した。竜がどういうつもりか、想像ついたから。
 だって、例の生命保険の受取人云々の約束をしてからもう随分経って、手続きはとっくに終わってるはずだもの。いつ、そのことを切り出してくるかと、ずうっとドキドキしてたんだから。あたしの心臓が悪くなったら、竜のせいよ。

「里菜。その……。実は保険の手続きはもう済んでるんだ。だから……」
 その先は言葉にしなくても、眼差しに宿る熱い渇望が、すべてを告げている。竜がどんなにあたしを求めてくれているか、たじろぐほどに伝わって、胸が熱くなる。
 だから、小さく頷いた。
「……うん。いいよ」
「里菜……」
 『愛してる』とか『好きだ』とか一言も言ってくれないこの人なのに、どうしていつも、声音と眼差しだけが、こんなにも熱いんだろう。溺れてしまいそうなほど深くて熱い想いを湛えたその眼で見つめられると、いつも、ぽうっとなっちゃうの。
 たった二音の囁きが、どんな愛の言葉より優しい熱を孕んでいる。
 やだ、ドキドキする、心臓破裂しそう!

 次の瞬間。竜は、ものすごく思いがけない謎の行動に出た。
 ふっと動いたかと思うと、あたしの横を素通りして、襖の内側に立てかけてあった例のつっかい棒をいきなりむんずと掴み取り、両手でベキっとへし折ったの。
 胸と二の腕の筋肉が、一瞬、ぐわっと盛り上がる。うわ……すご。すごい怪力……。てゆうか、それ以前に、怪行動……。ヘンよ、ヘン! わけわかんない! あまりにも謎すぎ……。

 竜は、真っ二つに折った棒を背後に投げ捨て、どん引きしてるあたしに向かって、今しがたの一瞬の荒事なんか無かったかのように淡々と解説した。
「これはもう、いらないから」
「そ、それはそうかもしれないけど……、だからって、何も折らなくても……」
「いや、俺はこれに恨みがある」

 ……はあ?
 何の冗談かと思ったら、あくまでも大真面目な顔。
 やっぱり、この人、知れば知るほどつくづく変人だわ……。
 恨みって……、だって、竜が自分であたしにこれを渡して、襖につっかい棒をしろって言ったんだよ? この棒は、与えられた役目を果たしただけじゃない! 棒に罪はないよね。それをへし折ったりしちゃ、可哀想そうよ。
 そういえばあたし、この棒とは一年近い付き合いなんだから。初めてここに泊った時にこれを手渡されて以来、竜のところにお泊りするたびに、『何でこんなことを……』と首を傾げながらも、この家独自のちょっと変ったおもてなしの風習だと思うことにして、一応、襖に立て掛け続けて来たんだもん。あたしにとっては、けっこう、交際時代の思い出の品かもしれないんだけど?

 もう折っちゃったんだから今さら言ってもしかたないんだけど、つい、抗議が口をついた。
「でも、かわいそうだし、もったいないじゃない。とっとけば、まだ何かに使えたかもしれないのに。例えば、ええと、少し短いけど洗濯物を干すとか、小物掛けとか、鉢植えの支柱とか、あと、そう、干したお布団を叩……っ!?」

 あたしの言葉は、途中で途切れた。
 竜の唇が、あたしの唇を優しく塞いだから。
 同時に、強い腕で、息が止まるほど抱きしめられた。
 強く、強く、痛いくらいにぎゅっと。

 びっくりして見開いた目を、あたしはそっと閉じて、竜の胸に身を委ねた。
 ……いいよ、ぎゅっと抱いても平気。好きなだけ強く抱きしめていいよ。どんな風にでも、竜が望む通りにしていいよ。竜が与えてくれるものなら、痛みも熱も、すべて愛しいから。すべてを大切に受け止めるから。

 竜の腕の熱さと優しさが、あたしを閉じ込めていた殻を溶かしてゆく。
 そうか、殻は、破らなくても、砕かなくてもよかったんだ。溶かしてしまえばよかったんだ……。

 今まで付き合った人たちは、誰も、あたしに本当に触れることは出来なかった。たとえ抱きしめても、触れていたのは、あたしの表面の冷たい殻にだけだった。
 本当のあたしに触れることができるのは、竜だけ。

 今、あたしは、竜の優しい腕の中で、殻を脱ぎ捨てて、この世界に生まれ出た。
 竜の体温が、鼓動が、吐息が、生まれたての素肌に触れる。
 竜の熱さがゆっくりとあたしに沁み込んで、あたしも熱くなってゆく。


 竜、竜。あたし、この世界に生まれてよかった。だって、ここには、あなたがいるもの――。





……『さよなら、つっかい棒』・完……
(『イルファーラン物語』後日譚シリーズ完結)


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